第023話 人を救うミロ
翌朝、ハトは城門の前で靴紐を結び直した。昨夜は医務室で休ませてもらい、胸に痛みはない。紐を二重に結んでいると、ナユエが作業場の方から小走りで来た。
「ハルトさん、一人で大丈夫ですか? わたし、今日の持ち場を抜けられなくて」
「運ぶのは俺で、心配するのはお前。いつもの分担だろ」
「その分担、今決まったんですか?」
「うん。俺も言ってから知った」
ナユエが笑い、ハトの袖をつまんで引き止める。
「危なくなったら、頑張りすぎず戻ってきてくださいね」
「分かった。昨日みたいに倒れたりしない」
「……ほんとですよ」
ハトが一歩進む。ナユエも袖をつまんだまま一歩進む。
「お前、来ないんだよな?」
「来ません。お見送りです」
「足がついて来てるけど」
「あっ」
ナユエは両足を揃え、袖から指を離した。次の瞬間、また小走りで追いつく。
「ハルトさん、昨日みたいに意識だけ先に帰ってくるのも駄目ですからね!」
「俺だって二度とやりたくねえよ!」
ようやく門で立ち止まり、ナユエは大きく手を振った。ハトが通りの角を曲がるまで振っている。持ち場へ戻るのを忘れていたらしく、遠くで鐘が鳴ると「わっ、休憩終わってる!」と逆方向へ駆けていった。見送られたはずのハトが、その背中を見送ることになった。
*
城下町の端へ延びる通りは、角や尾のある魔族に混じって人間の住人も歩いている。友好区に入ると人間の方が多いが、店の看板も道の石畳も途中で切り替わったりはしない。同じ城下町の続きだ。
連絡所で待っていたシェリザは、銀縁眼鏡の下に三枚の通知書を抱えていた。
「ハト様。お加減はいかがでございますか」
「元気です。昨日はすみません、出かける前に倒れて」
「連絡所は逃げませんから。まず座って、今日の仕事を聞いてくださいまし」
シェリザは小さな地図を広げた。友好区の外塀に赤丸がついている。先日の小さないざこざで欠けた場所を、職人が午後から直すという。
「塀の内側の裏道を、昼の鐘から夕方まで閉じます。その間、裏口を使う三軒に時刻を伝え、通路に積んだ荷物を向かいの空き軒下へ移してください。店を休ませる必要はございませんわ」
「三軒って、どこです?」
「粉屋、鍋直しの店、それから食器を扱う家です。粉袋には雨よけの布を。鍋は持ち主の札を外さずに。皿は、わたくしからもお伝えしますが、一枚ずつお願いいたします」
「力仕事というより、引っ越しの手伝いか」
「半日だけの引っ越しでございます。終わったら同じ場所へ戻しますから、置き先も記しておきます」
「それで、その三枚は?」
「各店へお渡しする正式な通知ですわ。裏道の閉鎖理由から補修終了後の手順まで、漏れなく記しました」
「一軒に一枚か。長いな。俺、まず口で言うよ」
「短くして、誤解が起きませんの?」
「伝わらなかったら、そこで紙を出そう」
シェリザは少し考え、三枚をきちんと揃え直した。
「分かりましたわ。では、ハト様の言葉で先にお願いします」
シェリザはハトに小さな白墨を渡した。運んだ箱の横へ、元の店を一文字で書くのだという。ハトは白墨を持ち、地図の三軒を指でたどった。
「分かった。俺は裏口で声をかけて、箱を運んで、行き先を書く。戻す時も手伝う」
「そうですわ。慌てて怪我をするほどの仕事ではございません」
「その一文、俺の昨日の報告書を見ました?」
「拝見いたしました」
「そこだけ即答か!」
外塀沿いでは、補修用の石を荷車から下ろす職人が働いていた。粉屋の主人は、店先で小麦粉を量っている。
「昼から裏道を閉めるって。粉袋だけ先に向かいへ出しとくよ」
「ああ、助かる。帳場の箱には触らないでくれ」
ハトが頷くと、シェリザは通知書を差し出しかけた手を宙で止めた。
「……本当に、それだけで伝わりますのね」
「相手が今やることを先に言えばな。紙も渡しといて。後で時間を見直せる」
「なるほど。口頭と書面で役割を分けるのですわね」
シェリザは一枚目を主人へ渡し、二軒目の鍋直しの店では自分から声をかけた。
「お鍋を、昼の間だけ向かいへ、でございますわ」
「言い方が途中で迷子になったぞ」とハト。
「短く話す練習中ですわ!」
鍋屋の主人は笑い、「番号札の順に戻してくれりゃいい」と鍋を並べた。三軒目の食器の家では、シェリザは『裏道を昼から閉じます。割れ物はこちらで一枚ずつ運びます』と、紙を見ずに言えた。ハトが親指を立てると、彼女は眼鏡を直しながら小さく胸を張る。
ハトは粉袋に布をかけ、向かいの軒下へ一袋ずつ運んだ。シェリザは鍋の札を読み上げ、ハトは箱の横に白墨で店の印を付ける。指の腹が真っ白になってきた頃、シェリザが鍋と蓋を別々の箱へ入れようとした。
「待った。蓋はその鍋と一緒だろ」
「記録上は別の品でございます」
「夕飯作る時に、蓋だけ帳簿から出てきても困るぞ」
「……それは困りますわね」
シェリザは二つの札を同じ紐に通し直した。手は正確で速い。先ほどの通知書も、鍋の持ち主を迷わせないためのものなのだとハトは分かる。
「この箱は、どちらのお店のものでございます?」とシェリザ。
「鍋屋の三番。……あ、違う、粉屋の三番だ。白墨、手にも書いときゃよかった」
「手は洗えば消えますわ。箱の横の印をご覧くださいまし」
「はい、正解は粉屋!」
力は弱いが、仕事の順番は覚えた。次の箱を取りに行くと、食器の家の女性が笑った。
「兄ちゃん、無理して一度に持たなくていいよ」
彼女が箱から皿を取り出す。ハトはすぐに残りの箱を一つずつ運ぶことにした。
「その方が俺も助かります。中身、割れ物ばっかりだし」
「そうそう。うちの亭主が大事にしてる皿なの」
「先に言って! さっき一回よろけた!」
女性は笑って、皿を布でくるんだ。隣の鍋直しの店から角のある若者が空の荷車を貸してくれ、粉屋の主人はその車輪に挟まった小石を蹴り出す。塀の補修で一時的に裏道が使えなくなっても、店の仕事は止まらない。ハトは箱の横に白墨で『食』と書き足した。
補修用の石を吊った滑車が、短く軋んだ。
「下がって!」
職人の声で、ハトは顔を上げた。石は落ちていない。けれど吊り具の片側が外れ、荷が斜めに揺れている。そのすぐ下で、先ほどの女性が皿を拾おうと身をかがめていた。
「おばさん、こっち!」
ハトは箱を捨てて走った。女性の腕へ手を伸ばすより先に、横から誰かが滑り込む。
白い外套の男が女性を抱えて通りの端へ運び、片手で頭を覆った。石が地面へぶつかる。砕けた破片が跳ねたが、二人には届かなかった。
ハトは遅れて二人の前に立ち、役に立たなかった両腕を広げた。
「大丈夫ですか!」
「ええ。皿も……」
「皿より先に自分の頭!」
女性は顔を上げ、ようやく笑った。外套の男は彼女の手首を確かめ、傷がないと分かるとゆっくり離した。
「よかった。間に合いましたね」
穏やかな声だった。ハトが見たところ、男は女性を庇う時に自分の肩を石の方へ向けていた。外套の袖が少し破れている。
「あんた、平気なのか」
「私なら。この方が無事で何よりです」
男は笑い、女性へ落ち着いた声で水を勧めた。職人たちが滑車を止め、シェリザも駆け寄ってくる。
「ミロ様。お怪我は」
「ありません。こちらの方は少し驚かれたようです。椅子をお借りできますか」
シェリザが連絡所へ目配せし、椅子が運ばれてきた。男は女性が座るまで横に付き添う。
「人間側の救護担当、ミロ様でございます」
シェリザに紹介され、ハトは頭を下げた。
「魔王城への救護報告にも、わたくしから同行をお願いした方ですわ。手当ては確かでいらっしゃいます」
実際、今の救助を見ればその言葉を疑う理由はない。
「佐伯ハトです。城の方から手伝いに来ました。さっきは、助かりました」
「あなたも走っていましたね、ハトさん。声が届いたから、彼女もこちらを向けた」
「いや、実際に助けたのはあんたですよ」
「一人でできたことではありません」
ミロは嫌味なくそう言った。袖の破れを気にする素振りもない。人助けをした本人の前で、ハトはそれを疑う理由を探せなかった。
女性が水を飲み、震えが少し収まる。ミロは安堵したように息を吐いた。それから地面に落ちた髪留めを拾い、女性の髪へ戻す。
「あの、うちの亭主に、裏道を通るなって誰か伝えておくれ」
「ええ。すぐに。……これで髪も元どおりです」
ミロは髪留めの角度を、指で少しだけ直した。女性はまだ胸を押さえている。
「声も、指の動きも、髪の位置も。朝、通りですれ違った時のあなたに戻せましたね」
「そんなところまで見てたのかい。……いや、まだ心臓はばくばくしてるよ」
女性が笑いかけると、ミロは真剣な顔で頷いた。
「それも戻るまで、ここにいます」
言葉どおりミロは椅子のそばに座り、職人へ女性の夫を呼ぶよう頼んだ。その直後、足元に散った皿の破片へ手を伸ばす。
「皿はもういいよ。新しいのを買うから」と女性。
ミロは返事をせず、破片を一つずつ地面に並べ、元の丸い形に合わせた。小さな欠けが一つ見つからない。彼は石の隙間まで指を入れて探す。
「あの皿、欠けたままでも家じゃ使ってたんだよ」と女性が言った。「持つ場所くらい、分かってるから」
ミロは欠けた場所を見つめた。使い続けたという言葉より、空いた形の方が気になるようだった。
「それ、手を切るぞ。もうやめとけって」
「ここだけ足りません。見つければ、事故の前と同じ皿に戻せる」
「いや、割れたことまでなかったことにはできないだろ」
ミロは初めて顔を上げた。怒ってはいない。ただ、ハトの言葉が理解できないという顔だった。
「欠けたままにしておく方が、つらくありませんか」
女性は答えず、水の入った杯を両手で持ち直す。ミロはその震えに気づくと、すぐに破片から手を離し、杯がこぼれないよう横から支えた。助ける動作は迷いがない。
それでもハトには、髪留めの角度と、地面に並べた皿の円が残った。ミロは女性を救ったあとも、壊れる前の形をひとつ残らず取り戻そうとしていた。
「ハト様。そちらの箱は、わたくしと運びましょう」
シェリザに呼ばれ、ハトは「はい」と返した。足元には、投げ出した木箱がある。中の皿にも一枚ひびが入っていた。彼はそれを布で包み、割れていない皿とは別に置く。
「あとで持ち主に話そう」
「ええ。隠して戻しても、その方の皿には戻りませんもの」とシェリザ。
ハトは箱を一つ抱え直し、もう一度ミロを見た。男は女性の隣にしゃがみ、彼女の話を聞いていた。さっきと同じ、落ち着いた声で。
あの人は確かに、目の前で一人を助けた。女性を連れて逃げた腕も、夫を呼ぶ声も本物だ。ハトは箱を抱えたまま、ミロが並べた破片の円をもう一度見た。欠けた場所だけが、白く空いている。




