第022話 ゴーストお断り
大浴場の前に『ゴーストの方も入浴できます』と書かれた札があった。
『え、専用設備あるの? 種族への配慮が行き届いてんな、魔王城』
ハトは感心して、すぐその下の小さな字を読んだ。
『ただし脱衣所を含め、指定した浴場以外への侵入は厳禁』
『……ですよね』
札の右には男湯、左には女湯の入口。ハトは右へ一歩踏み出した。踏み出したのに、体が左を向く。
『……見たい』
誰にも聞こえないのをいいことに、とうとう口に出した。
『いや、駄目だろ。駄目だけど、一瞬だけなら……いや一瞬も駄目か。でも、俺、幽体だし……』
右足は男湯に向けたまま、左足が女湯へ進む。足同士で会議をしても結論は出なかった。ハトは両足を左に揃えた。結論は出ていた。
女湯の暖簾をくぐる前に、ハトはもう一度案内板を見た。『ゴースト侵入対策作動中』。上から貼られた紙の端が、少しだけめくれている。
『対策って何だよ。……まあ、覗かず帰れば関係ないしな』
自分に向けた最後の言い訳も、暖簾と一緒にすり抜けた。
ガチャン。
入口の赤いランプが点き、『侵入霊体あり』の文字が回り出す。ハト自身の姿は誰にも見えない。罠だけが、正確にそこを指していた。
床から鉄柵が跳ね上がった。壁の棚に置かれていた聖歌のラジカセが、けたたましく鳴り出す。
『清く、正しく、お湯につかろう――!』
『歌詞が俺に刺さる!』
左右の獣口から塩水が噴いた。実体のないはずの肩へ当たり、ハトはそこだけ輪郭を取り戻す。
『熱っ……いや冷たっ! どっちだこれ!』
衝立の向こうから、筋骨隆々のミノタウルスの女性が入口の赤いランプを見た。角に泡を載せたまま、太い腕で桶を構える。ハトの姿は見えていない。
「きゃーー!!! 覗きよっ!」
『すみませんでした!』
『見えてないのに、なんで分かるんだよ!』
ハトが頭を下げるのと桶が飛んでくるのは同時だった。桶はすり抜けたが、聖歌は逃してくれない。ラジカセの前面が開き、眩しい光が脱衣所いっぱいに広がった。塩の粒が空中で輪になり、ハトの足が床から離れる。
『これ、追い払う罠じゃない! 強制成仏だろおおお!』
光の輪がハトを天井へ引き上げる。落ちようとしても落ちない。指先から姿がほどけ、そのまま上へ吸い込まれた。
静かになった脱衣所で、ミノタウルスの女性は桶を拾う。赤いランプが消えたのを確かめ、まだ震える入浴客に言った。
「姿は見えなかったけど、警報が鳴ったんだから来てたのよ。もう大丈夫。ちゃんと成仏したから」
めくれていた紙の下には『覗き霊は天界へ強制送還』。ハトはそこまで読まずに暖簾をくぐった。
*
目を開けると、ハトは白い床の上にいた。
白い壁、白い机、ずらりと並ぶ転生書類。見覚えのある部屋だ。
「うわ、転生部屋! ちょっと待て、俺の体は生きてるぞ!」
「承知しています」
机の奥から、きっちりした白い制服の女神が顔を上げた。眉の動きまでまっすぐで、書類をそろえる指にも迷いがない。ナユエの上司だと、名乗られる前に分かる。
「意識だけが迷い込んだようですね。帰還先の肉体は生存しています」
「じゃあ今すぐ戻してください!」
「申請理由を」
「事故です! 友達に抱きしめられたら、なんか抜けました!」
「どのような抱擁を受ければ、意識が抜けるのですか」
「俺も聞きたいです! あの子、細かい部品は髪の毛一本分まで合わせるんですよ。それなのに普段の力加減だけ、門を壊す巨人みたいで」
「友人の職能に問題はない、と」
「はい。ハグの腕にだけ問題があります」
女神は書類へそのまま書いた。ハトは覗き込んで、急いで顔を上げた。『ハグの腕に問題あり』。これが天界の正式な記録に残るのは、リッカに少し申し訳ない。
「帰還を急ぐ理由は」
「向こうで二人が心配してるんです。ナユエも、リッカも」
女神のペンが止まり、ハトの顔からゆっくり視線が下りた。ハトも自分を見下ろした。
「あ」
先ほどの光で、幽霊の服だけがどこかへ飛んでいた。ハトは全裸である。
「いや違うんです、これは風呂の罠が!」
ハトは反射的に正座し、そのまま両手を床へついた。隠すにも謝るにも、他に構えがない。
「お願いします。体に戻してください。ほんとに反省してます!」
女神は、床に擦りつけられたハトの額と、剥げ上がった頭頂と、布一枚ない身体を見た。しばらく沈黙する。
「君がナユエの……そうか……適材適所だったようだな……」
「どういうことですかね?!」
女神はハトの上から布を一枚かけた。優しさなのか、書類を見る視界に入れたくなかったのか、判断は難しい。
「ナユエには、ここでも呆れるほど手間をかけられました。書類を落とし、欄を取り違え、走れば必ず何かにぶつかる」
「それ、俺にもだいたい分かります」
「それでもあなたを送り出した後、彼女は自分の処分より先に聞いたのです。『ハルトさんは今夜どこで寝ますか。食べるものはありますか』と」
「……あいつ、そんなことを」
「現地のことも知らないくせにね。だから放っておけず、責任を取らせる形であなたのところへ行かせました。今も頑張っているのでしょう」
呆れた声なのに、最後だけ少し柔らかい。ナユエは城で笑っている時も、そういう話を一度もしなかった。
「はい。毎日うるさいくらい元気です。……俺のために動いてくれてます」
「今回は、彼女の失敗ではありませんね」
ハトは布の下で黙った。女湯へ向きを変えたのは自分だ。
「……はい。俺の失敗です」
「ならば本人へもそう言いなさい。彼女は今、あなたの寝台から離れられずにいる。それから、もう一つ頼みがあります」
「はい?」
「あの子が何もかも自分のせいにしたら、止めてやってください。叱っても構いません。あなたが戻れば、少なくとも今は耳を貸すでしょう」
「……分かりました。まず俺が、無事だって言います」
女神は書類の端に印を押した。
「生きているあなたの身体へ返します。今度は、読める注意書きを最後まで読みなさい」
「……はい」
白い床が遠のく。ハトは布をつかんだまま、寝台へ吸い込まれた。
*
「ハルトさん!」
目を開けると、ナユエの顔が近かった。泣きそうな目のまま笑っている。ハトの肩にかけられた毛布の横から、紺色のジャージの袖が見えた。
「戻った! 俺は無事だ!」
「ずっと生きてました!」
「あ、そっか。とにかく心配かけた。ごめん」
リッカも寝台の反対側へ駆け寄る。泣くのを我慢しているような顔で、両手を伸ばした。
「ポッポ君、よかった。あたし、もう二度と勢いで抱きつかない」
「それは本当に頼む。今は握手もしなくていい」
リッカの手が、またハトの肩へ伸びかけた。彼の顔を見ると、指先が止まる。
「……触れないのも、ちょっと寂しいな」
「俺だって嫌ってるわけじゃないよ。次は抱きつく前に、一回深呼吸してくれ」
「一回で足りるかな」
「深呼吸の回数じゃなくて、力加減を覚えてくれ!」
ハトは二人の顔を見た。女神との約束どおり、まずナユエのせいではないと伝える。そこまでは決めていた。
「ナユエ。お前の魔法はちゃんと効いてた。俺が起きなかったのは、お前のせいじゃない」
「でも、どこにいたんですか?」
「どこって……ずっと寝台に。普通に気絶してただけだよ」
リッカが首を傾げた。
「さっき『戻った』って言わなかった?」
「長い気絶から戻ったってこと。女湯の罠で強制成仏されて帰ったとかじゃないから!」
ナユエとリッカの顔から、安堵以外のものが抜けた。
「……女湯?」とナユエ。
「……成仏?」とリッカ。
「二つ言った! 俺、一息で二つ言った!」
「ハルトさん。まさか、覗きに?」
「何も見てない! 暖簾をくぐった瞬間、警報と塩と聖歌で天まで飛ばされた!」
「行ったんですね!」
「……はい」
リッカは肩を落とした。
「あたしが抱きしめたのは悪かった。でも行き先はポッポ君が選んだんだろ」
「その通りです。リッカもナユエも悪くない。俺が悪かった」
「ほんとにもう。心配したんですよ」
ナユエは呆れて頬を膨らませたが、寝台のそばの椅子を引いた。離れては行かない。
医務室の扉が開いた。角の太いミノタウルスの女性が、浴場の管理札を首に下げて立っている。桶を構えていた、さっきの人だ。女性はハトを見ず、医務室の係へ向き直った。
「さっきの警報、もう止めたよ。大きな音で驚かせたね」
医務室の係が礼を言った。女性の袖から出た腕は太く、前掛けの上からでも豊かな体つきが分かる。ハトはついそちらを見た。女性は廊下へ戻っていく。ハトがナユエたちへ目を戻すと、二人とも彼を見ていた。
「……ああいうのが、いいんだ」
ナユエは自分のジャージの胸元を見下ろす。リッカは自分の腕と、女性の腕を見比べた。
「ポッポ君、あの人に抱きしめられたら喜ぶのかな」
「いや、俺は抱きしめてほしいなんて一言も!」
「あの人に会うために女湯へ行ったんですか?」とナユエ。
「誰がいるかなんて知らなかったよ! ……あ、今の答えも駄目だな」
ナユエはまだ自分のジャージを見ている。リッカはハトへ手を伸ばしかけ、また途中で止めた。
「二人とも、その顔やめろ。俺は覗きを反省してるんだって!」
「反省中に見てましたけど」とナユエ。
「返す言葉がない!」
医務室の係から『今日は安静』と言われ、友好区へは翌日向かうことになった。ハトは素直に毛布をかぶる。今日ほど布のありがたさが身にしみた日はない。




