第013話 魔王軍が狙っていたもの
剣は抜かなかった。
抜いたところで、アルディオに一撃で転がされた男の剣である。追っ手の魔王軍まで相手にする勇気は、さすがにない。
「ハルトさん、足元!」
「うおっ!」
崩れた外塀の脇を抜けたところで、ハトは転がった石につまずきかけた。ナユエに腕を引かれ、どうにか踏みとどまる。
「ありがと! ……って、こっちが助けられてどうすんだ!」
「今のは助けてよかったでしょう!?」
「それはそう!」
言い合いながらも、二人の足は止まらない。
路地の先では、青緑の制服が人の背中を追っていた。間には荷車一台がやっと通れそうな幅しかない。先頭の赤髪の女隊長は、角を曲がる前に兵へ手を振る。
「表の通りを空けて。こっちは私が行く」
「了解!」
兵の一人が後ろへ走る。すれ違いかけた人間の住民を、安全な通りへ誘導していった。
ハトはその光景に少し驚いた。
人間を捕まえるだけなら、なぜ人間を逃がす?
いや、これまでも城の人間は普通に働けていた。魔族を全員悪者だと思いたいわけじゃない。それでも、さっき壊れた塀と怪我人を見たばかりだ。気にならないはずがなかった。
前方で逃げる男が振り向いた。
「助けてくれ! 魔王軍が追ってくる!」
よく通る声だった。
ハトの足が鈍る。聞き捨てならない。あんな声で叫ばれたら、通りに人がいれば誰だって助けに入る。
だが、ナユエが隣で首を横に振った。
「ハルトさん。あの人だけです。追われているのは」
「……ああ」
ここで大声で「偽物だ」と叫べば、路地の向こうにいる住民にも聞こえてしまう。ハトは唇を噛んだ。
さっき自分も、あの声の側に立とうとしたのだ。
女隊長が追いつきかけた瞬間、男は脇へ身を翻した。
兵が行く手を塞ぐ。
「止まって。これ以上、住民のいる方へ行かせない」
「俺はただの人間だぞ!」
「それは私が判断する」
女隊長の声は短かった。
ハトは息をのみ、ナユエを見る。彼女は真剣な顔で頷いた。
「……行こう。ただし、邪魔しない距離で」
「はい!」
今度は、ハトが彼女の言葉を信じる番だった。
◇
路地の奥には、崩れた塀の資材が一時的に寄せられ、進める場所が狭くなっていた。
男はそこで足を止めた。前には女隊長。後ろへ回った兵が退路を塞いでいる。二人が追いついた時には、近くに住民の姿はなかった。
「もう終わり。抵抗しないで」
女隊長が言う。
男は両手を上げかけ、困ったような顔をした。
「何で俺を……俺は何も……」
ハトは思わず一歩踏み出した。
「待って、その人に——」
「ハルトさん!」
ナユエの声が、いつもと違った。
ハトは止まった。
「近づかないでください」
彼女の目は、男から逸れない。
この子がここまで言うなら。
ハトが動きを止めると、女隊長が横目で一度だけ確認した。
「そこにいて」
「……分かりました」
納得したからではない。いま逆らえば、ナユエまで危険にさらす気がしたからだ。
男が笑った。
助けを求めた時とは違う、妙に薄い笑いだった。
次の瞬間、その頬が揺らいだ。
「……え?」
ハトは思わず目を凝らす。
光の加減か。そう思ったのは一瞬だけだった。
人間の輪郭が、ぐにゃりと崩れた。
鼻も口も、さっきまで確かにあった顔の位置からずれていく。服に見えていた表面まで、身体と区別がつかなくなる。
ハトの頭が追いつかない。
これは、何だ。
人が変装を解いたとか、仮面を剥がしたとか、そんな話じゃない。目の前で人間の形そのものが失われている。
「う、うわ……!」
思わず後ずさった。
女隊長は怯まなかった。
「今!」
兵たちが左右から動き、逃げようとしたそれを押さえ込む。人間に見えていたものは身をよじったが、隊長がすぐに間合いを詰め、抵抗する動きを封じた。
硬い物が石畳に擦れる音がして、ハトは肩を跳ねさせた。
それでも目を逸らせなかった。
そこにいるのはもう、普通の人間ではない。
ハト自身の目にも、はっきり分かった。
「……ナユエ」
「はい」
「お前、最初から……あれが見えてたのか」
「そうです」
その返事が胸に落ちるまで、少し時間がかかった。
市場で通り過ぎた顔。助けを求める声。あの声を信じて、魔王軍に割って入った自分。
全部、同じ相手だった。
「俺、あいつを守ろうとしてた」
ハトの声は思ったより小さかった。
「見た目だけで決めつけちゃった」
「ハルトさんは、誰かが困っていると思ったから……」
「分かってる。でも、危なかったのも本当だ」
ナユエは続きを言わず、隣に立った。
あいつが本当に人間だったら助けたかった。その気持ちは嘘じゃない。だけど、人間に見えるというだけで正しい側だと決めてしまったのも事実だ。
ハトは、もう一度確保された相手を見た。
「……じゃあ、さっきの噂も」
女隊長が振り返る。
「あなたたち。さっきから、これを追っていたの?」
「あ、はい。俺は全然分からなかったんですけど、こいつが……」
ハトはナユエを示し、慌てて言い直した。
「この子が、最初から変だって」
隊長はナユエをじっと見た。
「見分けたのね」
ナユエは小さく頷いた。
「はい。でも、何なのかまでは知りません」
「それでいい。今はここから離れて」
「ちょっと待ってください」
ハトは食い下がった。
「魔王軍が人間を襲ったって話、ありましたよね。あれも……?」
隊長は、奥で確保されている相手を見た。
「ここで話すことではないわ」
否定も肯定もしない。
けれどその視線と、兵たちが誰一人として人間の住民に刃を向けなかったことを、ハトは忘れられなかった。
◇
案内されたのは、封鎖地点の脇にある小さな控室だった。
外の足音は壁越しに聞こえるが、市場の喧騒はもう遠い。ハトとナユエは並んで立ち、女隊長が机の上に広げた一枚の資料を見ていた。
そこには、崩れた外塀の位置と周辺の通りが記されている。
「座っていいわ。私はネサル。魔王城の護衛隊長で、あの追跡を指揮していた」
「あ、どうも。ハトです。こっちはナユエ」
「よろしくお願いします!」
ナユエがお辞儀をすると、ネサルは短く頷いた。
「あなたたちが見たものは、外では口にしないで」
「……あれ、やっぱり人間じゃないんですね」
「そう。人間の姿を取る、別の存在よ。先ほどの騒ぎも、あれを追っていた時に起きた」
ハトは机上の地図を見る。
「じゃあ塀が崩れたのは……」
「追われていたものが壊した。本物の人間が一人、巻き込まれて怪我をした。助けたのは、あなたたちが見たあの勇者」
「アルディオ……」
あいつが助けた人は本物だった。
ハトは妙なところでほっとした。あの救出だけは、さっきまでと同じ意味で残っていてほしかった。
「俺、魔王軍が人間を襲ったんだと思ってました」
「そう見えた人もいるでしょうね」
ネサルは責めなかった。
その時、扉が軽く叩かれた。
「失礼いたします。ご報告に参りましたわ」
入ってきたのは、青灰の外套を着た人間の女性だった。暗い灰褐色の髪を低く束ね、細い銀縁の眼鏡をかけている。腕には四角い書類筒。裾には、現場の泥がついていた。ネサルと短く言葉を交わし、机へ近づく。
「シェリザ・ドレフでございます。人間側の連絡官ですわ」
「人間……側?」
ハトは思わず聞き返した。
シェリザは眼鏡を押し上げ、書類筒から取り出した報告書で地図の一箇所を指した。
「こちらでも先ほどの目撃報告を確認いたしました。この通りを通過した記録でございます」
「ええ。私たちの追跡経路とも一致する」
ネサルも同じ資料に指を置く。
二人が示したのは、同じ相手、同じ場所だった。赤髪の隊長が現場で追い、眼鏡の連絡官が人間側の目撃を持ってくる。仕事の仕方も、立っている側も違う二人が、一枚の地図の上でつながった。
ハトは二人の顔を見比べる。
「……えっ。ちょっと待って。人間側の人が、魔王軍に情報を渡してる?」
シェリザが口を開く。
「誤解のないよう申し上げますが、わたくしたちはあくまで敵同士でございまして——」
「今はその言い方、必要ないわ」
ネサルが止めた。
シェリザは一瞬、言葉を詰まらせたが、報告書を持ち直した。
「承知いたしました。人間側の住民を守るため、必要な情報だけを共有しておりますわ」
「陛下は城下に住む人間も、我々の守るべき住民だとおっしゃった」
ネサルは背筋を伸ばして言った。
「私は、そのご判断に従う」
「わたくしは人間側の判断で協力しておりますの。そこは一緒になさらないでくださいませ」
シェリザがすかさず眼鏡を押し上げる。二人とも協力はしている。忠誠を向ける先だけが違う。
ハトは口を半開きにした。
「待って待って! 敵同士じゃないの!?」
「表向きには、そう見えることもある」
ネサルが答えた。
「でも、本物の人間を守るために協力している。あなたたちが見たのは、その一部よ」
「……人間を、守るため?」
ハトはついさっきの光景を思い返した。住民を先に逃がした兵。ひとりの追跡対象だけを囲んだ隊列。そして、人間の顔が崩れた瞬間。
見てきたものが、ようやくひとつにつながった。
全部を理解したわけじゃない。どうして秘密にするのか、あれが何者なのか、疑問は山ほどある。
それでも、魔王軍が人間を見境なく襲っていたという思い込みは、もう持てなかった。
「……こんなの、町の人は知らないですよね」
「知られては困る。少なくとも今はね」
ネサルの声が少し低くなった。
「あなたたちも、この部屋で聞いたことを口外しないで」
ハトは頷きかけ、止まった。
「じゃあ、ベルダク王は?」
「もちろん、ご存じよ」
「……あの人が?」
弁当の仕事を任せてくれた魔王。城で見かける騒がしい日常。その裏で、人間側と同じ資料を見ていたというのか。
どうにも実感が湧かない。
ナユエも珍しく口を挟まず、地図を見ている。
シェリザが資料を閉じた。
「現場のことを、ベルダク陛下へお伝えする必要がございます。お二人が偽物を見分けた経緯も含めて」
ネサルはハトとナユエへ向き直った。
「城へ戻りましょう。直接話してもらうことになるわ」
「……分かりました」
ハトは答えたものの、椅子からすぐには立てなかった。
今日、助けるつもりだった相手は人間ではなかった。
人間の敵だと思っていた魔王軍は、その人間を守るために動いていた。
だったら、自分がここで働いている意味まで、何か違って見えてくる。
ナユエがそっと袖をつまんだ。
「ハルトさん。一緒に行きましょう」
「ああ」
ハトは立ち上がった。
今度は、確かめたいことを確かめずに帰るつもりはなかった。




