第012話 人間の顔をした何か
「あの人、変です」
ナユエが佐伯ハトの袖をつかんだまま、通りの向こうを見ている。
「……変って、どのへんが?」
ハトは相手を見直した。
友好区の通りを歩く、一人の人間。ごく普通の顔。ごく普通の服。荷物を抱えて行き交う住民に道を譲り、何食わぬ様子で歩いている。
少なくとも、頭が三つあって尻尾を振るやつよりは百倍まともに見える。
「人間じゃないです」
「おおう、急にでかい話になったな!」
「本当です。見れば分かります」
「見てるよ! めっちゃ見てるけど、俺には普通の人なんだよ!」
ナユエはハトに顔を向けた。いつもの「大丈夫です!」が飛んでこない。
それだけで、ハトは続きを茶化すのをやめた。
「……見間違いって可能性は?」
「ないと思います。見えているものが、違うんです」
「俺に見えてない何かが?」
「はい」
言い切る声に迷いがなかった。
ナユエは仕事で魚型の醤油差しを弁当の蓋に挟んでしまうことがあるし、モテる加護の相手を野生魔物にしてしまったばかりである。正直、万能な判断力を期待してはいけない。
でも、今はふざけていない。ハトはそこを信じたかった。
「分かった。とりあえず、近づきすぎずに見てみよう」
「はい!」
「あと、本人に向かって『人間じゃない』って言うのは禁止な」
「わ、分かってます!」
分かっているなら助かる。今日はもう、魔物の大行列だけで十分だ。
二人は人の流れに紛れ、少し離れて後をつけた。
◇
通行人は市場へ入った。
人間の客が布を選ぶ隣で、角のある店主が野菜を量っている。屋台から焼いた生地の香りが漂い、籠を提げた魔族の親子が通り抜けた。
ハトはナユエと並んで露店の品物を眺めるふりをする。
「尾行って、もっと格好よくできるもんだと思ってた」
「今でも、すっごく自然ですよ」
「本当か? 俺、何も買わずに同じ干し物を三回見てるぞ」
「それはちょっと不自然かもです」
「先に言って!」
ナユエは品物を一つ手に取り、すぐ戻した。店主が二人を見る。
「買うのかい?」
「あっ、ええと、また後で!」
ハトは笑って頭を下げた。
追っていた通行人は、まだ市場の向こうにいる。その背中を見失わないよう目を動かした、まさにその時。
かり。
靴の先が引っ張られた。
「……ん?」
足元には、小さな野生魔物がいた。犬に似た毛むくじゃらのやつが、ハトの靴紐へ鼻を押しつけている。
可愛い。可愛いが、今は困る。
「お前、ちょっとだけ待って。今、忙しいんだ」
しゃがまずに囁くと、魔物は嬉しそうに足首へ頬を擦りつけた。
「ハルトさん、こっちにも来ました!」
ナユエが示した先から、もう一匹。そちらはハトの上着の裾をくわえた。
「いや待って待って! 何でこのタイミングで集合するんだよ!」
片足を動かすと裾が引かれ、裾を外そうとすると靴へ絡まれる。
走って逃げれば騒ぎになる。何より、これ以上目立てば尾行は終わりだ。
「ちょっ、そこの兄ちゃん。店の前で何やってんだい?」
露店主が身を乗り出した。商品の入った籠へ小さな魔物が鼻を近づけている。
「すみません! 俺も呼んだ覚えはなくて!」
「呼んでないなら連れてっておくれよ!」
「俺が一番そうしたいです!」
ナユエが慌てて籠の前に立ち、魔物を遠ざける。ハトも上着を引かれたまま、どうにか道の端へ移った。
その数秒が致命的だった。
「あっ、見てください!」
ナユエの声を追って顔を上げる。
通行人は、市場の奥で足を止めていた。
ちょうど人間の客と魔族の客が、通り道を塞ぐ荷物のことで言い合っている。怒鳴り声ではないが、周囲の人が一瞬振り向く程度には声が大きい。
「そっちが先に置いたんだろ」
「だから今どけるって言ってるだろうが」
その隙間へ、通行人が何事もない顔ですっと紛れた。
こちらを見たのか。分からない。
ハトが追い出した一歩の先に、また小さな魔物が寄ってくる。
「うわっ、また!? 俺は今、人気者になってる場合じゃない!」
「ハルトさん、こっち!」
ナユエは店主に短く謝り、ハトの手首を引いた。
二人が人混みを抜けた時には、目当ての背中は市場の出口へ向かっていた。
「今ので絶対、怪しまれたよな……」
「それでも追いましょう。あの人、やっぱり変です」
「どこが変なのか、俺にはまだ分かんねえけどな」
そう答えるのは、情けないくらい本当だった。
◇
市場を抜けると、崩れた外塀の近くへ出た。
石材が脇へ寄せられ、壊れた箇所の向こうには通りの一部が見えている。先ほどアルディオが救い出した怪我人のことが、ハトの頭によぎった。
噂では、人間と魔王軍が揉めたらしい。
だが何が起きたのかは、まだ分からない。
通行人は塀沿いの道を進み、細い路地の前で歩調を緩めた。
「ナユエ。あいつ、ここに戻ってきたってことか?」
「そうみたいです。でも、何をするつもりなのかは……」
「だよな」
ハトは言いかけた質問を飲み込んだ。ナユエにだって、答えられないことはある。
その時、路地の反対側から足音が重なった。
青緑色の制服を着た魔王軍の兵たちだ。
先頭にいる女性を見て、ハトは思わず姿勢を正した。
褐色の肌に、顎のあたりで切り揃えた赤髪。振り向いた横顔は鼻筋が通り、切れ長の目が路地の奥を見据えている。青緑の制服は豊かな胸と引き締まった腰の線を隠さないが、片肩の鉄灰の防具と腰の連絡笛が、ただ着飾った人ではないと教えてくる。黒褐色の細い尻尾が、歩くたび背中側で揺れた。
めちゃくちゃ美人だ。ハトは一瞬、声をかける口実まで探しかけた。
という感想は一瞬で吹き飛んだ。
女性は兵の一人へ短く指示した。
「先を塞いで。通行人は巻き込まないで」
「了解!」
もう一人が横へ回る。
狙われているのは、どう見ても、あの人間に見える通行人だった。
「……えっ、ちょっと待てよ」
ハトの頭に、襲撃の噂が戻ってきた。
まさか、また?
目の前では魔王軍の兵が進路を塞ぎ、たった一人の人間が追われている。ナユエには何か見えるらしい。でも、ハトの目にはその人間が何者なのか、ちっとも分からない。
それでも、黙って見ていていいのか。
「ハルトさん!」
ナユエが制止するより早く、ハトは通りへ踏み出していた。
「ちょっと! 何なんですか、集団で囲んで!」
女性が足を止める。
「下がって。ここは危険よ」
「危険なのは分かりますけど! その人、まだ何もしてないように見えます!」
「だから下がるように言ってるの」
言い方は鋭い。だが、女隊長らしいその人は、ハトへ武器を向けない。むしろ兵の一人を手で止め、ハトが挟まれない位置を確保しようとしている。
その冷静さに、ハトは一歩だけ迷った。
俺が見ているもの、本当に全部なのか?
ナユエが追いつき、ハトの袖を引いた。
「ハルトさん。あの人は、本当に人間じゃありません」
彼女は追われている相手から目を離さずに言った。
「さっきからずっと、そう見えています。顔も服も、人間みたいなのに……違うんです」
「……お前がそこまで言うなら、信じる」
信じる。けれど、分かったとは言えない。
ハトには、人間の背中が一つあるだけだ。顔を見ても手を見ても、異常なものは何ひとつ見つからない。
「でも、俺にも確かめさせてくれ。相手が何者か、まだ……」
「そのつもりです。わたしも、ちゃんと確かめたいです」
ナユエは小さく頷いた。
その間に、人間に見える相手が身を翻した。
「動いた!」
兵の一人が声を上げる。
相手は崩れた塀の脇から、細い路地へ駆け込んだ。
青緑の制服が続く。女隊長はすぐに前へ出た。
「追う。周りの人を近づけないで!」
兵たちが路地へ消えていく。
ハトはその背中と、隣のナユエを交互に見た。
ここで追うのは怖い。魔王軍の邪魔になるかもしれないし、自分の腕では何か起きてもろくに戦えない。
それでも、さっき見たものが本当に人間なのかどうか。確かめずに帰れば、また同じ噂を聞くたびに疑うしかない。
「行こう」
「はい!」
ナユエの目は、まだ路地の先を追っていた。
ハトは剣の柄に手を添えただけで抜かず、その隣を走った。




