第011話 女神のモテる加護
「大丈夫です、ハルトさん。今度こそ!」
友好区から城へ続く通りの端で、ナユエが濃紺のジャージの袖をまくり、両手を差し出した。
手のひらの間に、淡い光が寄り集まっていく。
佐伯ハトは思わず胸を張った。さっきアルディオに一撃で負けたばかりの男が、立ち直るには少々早い。だが、どうしようもない実力差を埋められないなら、せめて人気くらいは欲しい。
「おう。俺にもああいう、ちやほやされる未来を頼む!」
「任せてください!」
頼もしい即答。
……なのにナユエは、そのまましばらく黙った。
「ナユエ?」
「ええと、モテる、モテる……皆さんから好かれて、いっぱい寄ってきて……」
「うん。そこまでは完璧だ」
「大好きって思ってもらえて、近くにいたくなって……よし!」
「おおっ」
彼女は真剣な顔で目を閉じた。大きなリボンが風に揺れる。
ハトは口を結ぶ。茶化したくなるところだが、本人は全力で願いを聞いてくれている。ここで余計な注文をして失敗するのは避けたい。
ナユエの指先から光がふわりと流れ、ハトの胸元へ吸い込まれた。
熱くも痛くもない。春先の陽だまりに一瞬立ったような、妙な温かさだけが残る。
「……終わり?」
「はいっ! できました!」
「マジか! 早いな!」
ハトは自分の手を見た。いつもどおりの五本指。身長も、顔も、別に変わっていない。
「で、どう? 俺、今どんな感じ?」
「ハルトさんはハルトさんですよ」
「その感想だと付与前から変わってねえだろ!」
「見た目を変える加護じゃありませんから。近づきたくなるように、好かれるようにしたんです!」
ナユエは嬉しそうに笑う。
ハトもつられて顔をほころばせた。
これで、いよいよ俺にも春が。
「よし。じゃあ、町を一回歩いてみるか!」
「はい! きっと効果が出ます!」
ナユエが先に歩き出した。ハトも鼻歌まじりでついていく。
◇
町へ戻る道で、ハトは普段より胸を張って歩いていた。
すれ違った通行人に、さりげなく笑ってみる。
普通に通り過ぎていった。
「……まあ、一人目だしな」
「はい。すぐには分からないかもしれません」
ナユエも頷く。慰めているのか本気でそう思っているのか、判別しにくいのが彼女の強みであり弱みである。
その時、道端の草むらが揺れた。
ひょこっ、と丸い耳が出る。
「ん?」
現れたのは、子犬ほどの小さな魔物だった。柔らかそうな毛並みに、短い足。犬に似ているが、額には小さな突起があり、普通の犬ではない。
野生の魔物らしい。
ハトが立ち止まると、その小さな魔物は尻尾を振りながら駆け寄ってきた。
「おっ、おい。可愛いな、お前」
「ハルトさん、いきなり触って大丈夫ですか?」
「いや、向こうから来てるし……」
しゃがんだハトの膝へ、魔物が前足を乗せた。
ぺろっ。
頬を舐められた。
「うわっ! はは、くすぐったいって!」
もう一度、ぺろっ。
「おおお、懐いてる! すげえ、俺に懐いてる!」
笑いながら小さな頭を撫でると、魔物はますます嬉しそうに身体をすり寄せてくる。
ハトの胸が、じんわり満たされた。
さっきまで広場の観客には臭がられ、アルディオにはあっさり負けた。そんな自分にも、無条件で近寄ってくる相手がいる。
「ナユエ、見ろよ! 俺、モテてる!」
「本当ですね! よかったです!」
「いやー、可愛い子に懐かれるっていいなあ。ちょっと想定と違うけど、これはこれで……」
そこで言葉が止まった。
小さな魔物が、急に耳を立てたのだ。
どん。
遠くで、何かが地面を踏んだ。
どん、どん。
足音が近づくたび、道の脇の砂がかすかに跳ねる。
「……ナユエ?」
「はい?」
「あれ、何の音?」
彼女は道の先へ目を向けた。
ハトも振り返った。
大きな影が、曲がり角から姿を現した。
三つの頭。
太い首。
人間など軽く見下ろす巨大な身体。
ケルベロスである。
「…………」
「…………」
三つの口が同時に開いた。
低い唸り声が、地面を這うように響く。
「うわあああああ! 何でケルベロスが町の道にいるんだよおお!」
ハトが立ち上がる。
子犬ほどの魔物は、まだ足元にまとわりついていた。
巨大な三つの頭が、真っすぐこちらを向く。
そしてケルベロスは。
嬉しそうに尻尾を振った。
「振るな! 尻尾を振るな! お前の愛情表現は怖すぎる!」
「ハルトさん! こっち、こっちです!」
ナユエが道の脇へ身を引き、ハトの袖をつかんだ。
二人が走ると、ケルベロスもついてくる。
どん、どん、どん!
逃げるための全力疾走と、追いかけるためのご機嫌な足取りが、同じ距離を縮めていく。
「やばいやばいやばい! あいつ絶対俺を食う気だ!」
「でも、怒っているようには見えません!」
「怒ってなくても、あの大きさでじゃれられたら終わりだろ!」
ハトが曲がり角を抜けると、後ろから三つの鼻がぐいっと伸びてきた。
頬を舐めようとしている。
さっきは嬉しかった行為である。
今は命が惜しい。
「ナユエ、何とかならないのか!」
「待ってくださいっ!」
ナユエが立ち止まり、両手を向ける。
短い魔法の光がケルベロスの前に広がった。巨大な身体が一瞬だけ怯み、その隙に二人は近くの石壁の陰へ逃げ込む。
魔法で倒したわけではない。
足音はすぐそばに残ったままだ。
ハトは壁に背を押しつけ、息を整えようとした。
「な、なあ……ひとつ聞いていいか」
「はい……」
「あの子犬みたいなやつと、今のケルベロス。共通点、分かる?」
ナユエの顔が、ゆっくり曇った。
「……どちらも、魔物ですね」
「だよな!」
「それも、人とお話しするような魔族の方ではなくて、野生の魔物です」
「だよなぁ!?」
ハトは頭を抱えた。
今まで近寄ってきたのは野生の魔物だけ。町の人々は誰も振り向かず、巨大な魔物だけがこちらへまっしぐら。
思い当たるものは、ひとつしかない。
「ナユエ。お前、俺に何の加護を付けた?」
「モテる加護……の、つもりだったんですけど」
「誰に!?」
「……野生の魔物に、好かれる加護に……なってしまったみたいです」
一拍。
「モテる相手を間違えたぁぁぁ!」
ハトの声に反応して、壁の向こうで三つの頭が一斉に鳴いた。
「ほら呼ぶな! いや、呼んでるの俺なのか!?」
ナユエは困りきった顔で、胸の前に手を重ねた。
「ごめんなさい、ハルトさん……!」
「いや、お前が頑張ってくれたのは分かってる。分かってるけど! せめて人間にしてくれよ!」
「ご、ごめんなさい!」
足音が壁の向こうへ遠ざかり、ハトはようやく息をついた。二人は十分に様子を見てから道へ戻る。
小さな魔物も巨大なケルベロスも、もう視界にはいない。
しかし、安心するには早すぎた。
◇
「……で、これ、消せる?」
ハトはできるだけ穏やかな声で尋ねた。
穏やかに聞けば答えが変わるかもしれない。そういう願掛けである。
ナユエは目を伏せた。
「それが……一度きりの、ずっと続く加護にしてしまって……」
「うん」
「あとから取り消せないんです」
「……うん?」
理解が一歩遅れた。
「ちょっと待って。『ずっと』って、いつまで?」
「ずっと、です」
「明日も?」
「はい」
「来月も?」
「……はい」
「俺が忘れた頃にも?」
ナユエは答えず、申し訳なさそうに頷いた。
「永久かよぉぉ!」
ハトは両膝へ手をついた。
さっき舐められた頬を拭く。袖にはまだ小さな足跡がついている。少し離れた茂みで、別の魔物の耳がぴくりと動いた。
「何とか、別の加護で上書きするとか……」
「加護を付けることはできます。でも、一度付けたものは、わたしにも消せないんです。別の加護を重ねても、魔物が寄ってくるのはそのままで……」
「付けるのは一瞬なのに、取り消しは無理なのかよ……」
ハトは顔を上げた。
ナユエが、泣きそうな顔でこちらを見ている。白い髪リボンの端が、俯いた頭に合わせてしゅんと垂れた。
「わたし、ハルトさんに喜んでほしくて……」
「……それは、分かってる」
責めたい気持ちはある。
あの三つ頭を思い出すだけで、足がもう一度走り出しそうだ。
けれど、目の前の彼女が本気で自分のために加護を付けたことも、嫌になるほど分かる。ジャージの袖で目元をこする顔が、ちょっと可愛く見えてしまった。いや、ケルベロスを呼ぶ加護は可愛くない。
「次からはさ、俺の希望を最後まで聞いてから加護を付けような」
「はい……!」
「あと、魔物にモテるのは、モテるって言わないからな」
「……はい」
「いや、あの小さい子は可愛かったけど」
ナユエが少しだけ顔を上げる。
「……可愛かったですよね」
「そこだけは認める。でもケルベロスは別枠! あいつに舐められたら顔がなくなる!」
思わず二人で道の先を見た。
今のところ、巨大な足音はしない。
ただし明日も、明後日も、いつ現れるか分からない。
その事実は、笑い話だけでは済まなかった。
◇
二人は先ほどの救助現場へ続く道を戻っていた。
友好区で魔王軍と人間が揉めたという噂。アルディオが怪我人を助けたことは確かだが、塀が崩れる前に何があったのか、ハトたちはまだ知らない。
「……やっぱり、もう少し見ておきたいな」
ハトが言うと、ナユエも頷いた。
「はい。助かった方たちも気になりますし」
道沿いには、片づけられた荷物が寄せてある。先ほどより人通りは落ち着いていた。
その中を、人間に見える通行人が一人、横切った。
ハトは特に気にせず通り過ぎようとした。
だが、隣のナユエが足を止める。
「……あれ?」
「どうした? また何か来た?」
ハトが反射的に道の奥を見る。
ケルベロスの姿はない。
「いえ、そうじゃなくて……」
ナユエは通行人を見つめていた。
相手は普通に歩いている。ハトの目には、ほかの人と変わらない。
「知り合い?」
「違います。わたしも初めて見ました」
「じゃあ、何だよ」
彼女は答えず、目を凝らした。
いつもの勢いのいい返事がない。それだけで、ハトは急に落ち着かなくなった。
「ナユエ?」
彼女がそっとハトの袖をつかむ。
「あの人、変です」




