第6話 帰す理由がない
勅使が来たのは、昼食の片づけをしている時だった。
シロの皿を洗っていたら、神殿の正面から馬蹄の音が聞こえた。一頭ではない。三頭か四頭。辺境の道をこれだけの馬が走ること自体が珍しい。
手を拭いて表に出ると、ディートリヒさんがすでに入口に立っていた。腕を組んで、いつもの不機嫌な顔をしている。いつもより少しだけ不機嫌の度合いが強い。
王都の紋章を掲げた騎士が四名。その中央に、正装の文官が一人。手に巻物を持っている。
「辺境古神殿、グリューネ神殿の神官長に告ぐ」
文官が巻物を広げた。声が大きい。この石畳と石壁に反響して、余計に大きく聞こえる。
「筆頭聖女フラウ・リンデンに対し、王都大神殿への即時帰還を命ずる。——国王陛下の勅命である」
勅命。
前回の書状は第一王子の名だった。今度は国王の名になっている。格が上がった。つまり、前回の帰還命令を無視したことが問題になったということだ。
胃が少し重くなった。勅命に背くということは、単なる命令違反ではない。国王への不敬にあたる可能性がある。
「ディートリヒさん——」
何か言おうとした私の前に、ディートリヒさんが一歩出た。
「一つ確認するが」
声は低く、平坦だった。
「グリューネ神殿は築三百年を超える古神殿であり、ヴァイゼル王国神殿法典第十七条に基づき、神の直轄領として独立管轄権を有する。神殿内の人事は神殿長の裁量に帰属し、王命よりも神殿自治が優先される」
文官の顔がこわばった。
「……それは」
「法典はお持ちか」
「持ってはいるが——」
「第十七条を読み上げてもらえるか。それとも僕が読むか」
ディートリヒさんが「僕」と言った。公の場での言い方に切り替えたのだろう。初めて聞く、硬い声だった。
文官は隣の騎士と目を見合わせた。騎士たちも困惑している。法を盾にされると、力で押すわけにもいかない。
「……本件は持ち帰り、上に確認する」
「そうしてくれ。確認した結果が法典と異なるなら、その時に改めて話を聞く」
勅使は、しばらく立ち尽くしていた。
それから踵を返した。馬蹄の音が遠ざかっていく。砂埃が少し舞って、石畳の隙間の雑草が揺れた。
私はディートリヒさんの横顔を見た。
法典の条文を、暗記していた。辺境の神官長が、王都の法律を。しかも即座に引用できるほど正確に。
「ディートリヒさん、あの条文……」
「古神殿の神官長なら知っていて当然だ」
当然、という顔ではなかった。準備していた顔だった。いつから準備していたのかは、聞けなかった。
業務上の判断だ。古神殿の自治権を守るための、神官長としての当然の対応。そう思うことにした。
ただ、ディートリヒさんが勅使に向かって一歩前に出た時、外套の下で拳が握られていたことには——気づかないふりをした。
午後は、ルーシェとシロと裏庭にいた。
シロが芝の上を転がっている。転がるというか、丸いのでころころと勝手に転がる。止まると足をばたばたさせて、また転がる。虫か何かを追いかけているつもりらしいが、虫はとっくに飛んでいった。
ルーシェがシロの腹を撫でながら言った。
「フラウ、あの人たちまた来ると思う?」
「……来るかもしれません」
来るだろう。勅命を退けたのだ。次はもっと強い手段で来る可能性がある。
「ふーん」
ルーシェはあまり興味がなさそうだった。神様にとっては、人間の王の命令はそこまで重大なことではないのかもしれない。
「ねえフラウ。焼き菓子まだ?」
「あとで作ります」
「約束ね」
「はい、約束です」
シロが膝に乗ってきた。温かくて、少し重い。前より大きくなった気がする。
翌日、思いもよらないものが届いた。
アルト村の村長が、数人の村人を連れてやってきた。手に持っているのは、紙の束だ。
「聖女様。これを、お渡しに参りました」
嘆願書、だった。
アルト村の全四十世帯。署名と拇印が並んでいる。字が書けない人は名前の代わりに印を押している。紙の端が少し皺になっていて、インクが滲んでいる箇所もある。急いで集めたのだろう。
聖女フラウ・リンデン様のグリューネ神殿残留を嘆願いたします。聖女様がいらっしゃらなくなれば、我々の村は再び瘴気に脅かされます。どうか——
全部は読めなかった。目の奥が熱くなって、字がにじんだ。
「聖女様?」
「いえ……ありがとうございます。ありがとう」
村長の手を握った。硬い手だった。前にも握った、あの年配の女性の手と同じ種類の硬さ。
王都で十年間、こういう手を握ったことは一度もなかった。
夜。
部屋の窓辺に座って、嘆願書をもう一度読み返した。
四十の名前と印。一つ一つが、この辺境で暮らしている人たちの重さだ。
帰還命令のことを考えた。勅命。国王の名。逆らえば犯罪者になるかもしれない。ディートリヒさんが法典で退けてくれたけれど、次はどうなるかわからない。
帰るべきなのかもしれない。帰れば、結界の問題は解決する。国のためにはそれが正しい。
でも。
嘆願書の紙を指でなぞった。インクの滲み。拇印の凹凸。
ここにも、守るものがある。
窓の外を見た。星が、あいかわらず近い。
「帰りません」
三日前にも同じことを言った。あの時は独り言だった。今度は——もう少しだけ、自分の声として言えた気がする。
翌朝、ディートリヒさんが朝食の席で言った。
「王都から伝令が来た。昨日の夜遅くに」
パンを齧りかけた手が止まった。
「大祝祭の準備で、ローザ殿が典礼を仕切ろうとしたらしい」
「……結果は」
「失敗した。結界の第二層が大きく揺らいだ。瘴気が王都の外縁まで来ている」
第二層。瘴気遮断層。あれが崩れたら、王都の外側の村々が直接瘴気に晒される。
ディートリヒさんは黒パンを静かに千切った。
「……あの王都は、どこまで愚かなんだ」
珍しく、感情が声に出ていた。
怒りではなかった。呆れに近い何かと、それからもう一つ、もっと底の方にある感情。フラウを追い出した人間たちが、フラウの仕事を壊していくことへの——何か。
名前はつけられなかった。
シロが食卓の下で、私の足に頭を擦りつけていた。温かかった。




