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聖女をクビにしたら国が詰んだ  作者: 秋月 もみじ


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第5話 この引き継ぎ書を、全国民に読ませたい


「——兄上。大祝祭の中止を、ご決断ください」


議場に僕の声が落ちた時、兄上は鼻で笑った。


「大袈裟だな、クラウス。祝祭の一つや二つ、誰かに任せればいい」


誰かに。その誰かがいないから困っているのだと、何度言えばわかるのだろう。


僕の手元には、三百頁の紙束がある。元筆頭聖女フラウ・リンデンが残した引き継ぎ書だ。神殿の書庫に放置されていたのを、僕が引っ張り出してきた。マティアス上級神官は「あれは実務の覚書にすぎません」と言ったが、読んでみて、椅子から立ち上がれなくなった。


議場には二十名ほどの貴族と高官が並んでいる。大祝祭の中止を審議するための臨時会議だった。兄上は末席ではなく最上座に座っている。当然のように。


「では、この場で一つだけ確認させてください」


僕は紙束を持ち上げた。


「これは、元筆頭聖女フラウ殿が残した引き継ぎ書です。三百頁あります。中身を一部、読み上げます」


兄上の笑みが少し硬くなった。


読み上げた。


結界維持。三層構造の各層の更新手順と時期。月ごとの大規模浄化の段取り。第二層の更新には神獣ギンガとの連携が必要であり、ギンガの信頼を得るには最低三年の関係構築を要する。


神獣管理。ギンガの食事内容、健康管理、機嫌の判別法。銀鮭は塩を振りすぎると食べない。体調が悪い時は左耳が垂れる。


神託の受信と翻訳。受信は筆頭聖女のみが可能。翻訳には古代聖語の知識が必要で、習得に通常五年以上を要する。


祝祭の典礼設計。年間七つの祝祭の式次第。使用する聖具のリスト。各神殿との調整手順。奏楽の順序。祝詞の旋律。


地方巡回指導。年四回、国内十二の地方神殿への巡回。各神殿の事情と注意点。巡回中の瘴気監視方法。


瘴気監視。日常の監視記録の読み方。異常値の判定基準。緊急浄化の手順。


読み上げるたびに、議場の空気が変わっていった。最初は退屈そうだった貴族たちの表情が、徐々に強張っていく。


「——以上が、フラウ殿が一人でこなしていた業務の概要です」


紙束を卓に置いた。重い音がした。


「これを一人でやっていたのが、兄上が『代わりはいくらでもいる』と仰った聖女です」


議場が静まった。兄上の顔から笑みが消えていた。


「もう一つ伺います。なぜローザ殿の着任時に、神鏡テストを実施しなかったのですか」


兄上の目が揺れた。


「あれは旧弊な——」

「旧弊かどうかは、結果が証明しています。第一層は消失し、神獣は餌を拒否し、大祝祭は中止の瀬戸際です。テストを行っていれば、少なくとも今の事態は避けられた可能性がある」


兄上は何か言いかけて、やめた。初めて見る表情だった。反論の言葉が出てこない顔。


議場の沈黙が、そのまま答えだった。


辺境では、のどかな午後が流れていた。


神殿の裏庭に、小さな生き物がいる。先週、裏庭の茂みで衰弱しているところをルーシェが見つけてきた子獣だ。手のひらに乗るくらいの、銀色の毛玉。神獣の仔だとルーシェは言うが、とても神獣には見えない。丸くて、ふわふわで、鼻先が湿っていて、私の指を甘噛みする。


「この子、フラウのことお母さんだと思ってるよ」


ルーシェが草の上に寝転がりながら言った。


「お母さんって……私、この子に何もしてないですよ」

「毎朝ミルクあげてるじゃん」

「それはまあ……」

「名前つけたじゃん」

「……つけましたけど」


シロ、と名づけた。安直すぎるのは自覚している。でも銀色というより白に近いし、ルーシェに「他にないの」と言われても他に浮かばなかったのだから仕方ない。


シロが私の膝によじ登ってきて、丸くなった。小さな寝息が聞こえる。温かい。


この重さと温度が、ここ数日の私の日課になりつつある。


執務室に戻ると、机の上に花が置いてあった。


昨日とは違う花だ。今日のは薄紫で、茎が細い。小さな壺に一輪だけ。


三日前から、毎朝机に花が載っている。最初の日は白い花、翌日は青い花、今日は薄紫。


「ディートリヒさん」


夕食の準備をしている背中に声をかけた。今日は私が手伝うつもりで厨房に入ったのだけれど、すでに根菜が切り終わっている。


「お花がお好きなんですか」


ディートリヒさんの手が一瞬止まった。包丁を持ったまま、振り向かない。


「……花が余っていただけだ」


横で芋の皮をむいているルーシェが、小さな声で言った。


「嘘だよ。裏の畑から毎朝選んで摘んでるよ。朝のお祈りより早く起きて」


ディートリヒさんの包丁の音がひとつ大きくなった。根菜がごろんと転がった。


「……ルーシェ」

「何? 事実じゃん」


ディートリヒさんは根菜を拾い上げて、何事もなかったように切り続けた。耳が赤いかどうかは、この角度からでは見えなかった。


「素敵なお花ですね。ありがとうございます」

「……備品だ」


また備品。この人の語彙には「備品」と「たまたま」と「風のせいだ」しかないのだろうか。


夕食後、もう一通の手紙が届いた。


今度は王都大神殿からだった。封蝋を見るだけで胃が重くなる。


開けた。


フラウ殿


大祝祭の典礼について、至急ご教示を賜りたく——


要するに、祝祭のやり方を教えてほしいという懇願だった。前回の「帰還命令」とは打って変わって、丁寧な文面だった。差出人はマティアス様になっている。殿下ではなく。


返信用の紙を一枚取って、短く書いた。


「引き継ぎ書の百十二頁から百四十頁に全て記載しております」


封をして、机に置いた。


ルーシェが覗き込んで、笑った。


「短っ」

「書いてありますから」

「うん。でもあの人たち、読めないと思うよ。フラウの字が綺麗すぎて逆に」


綺麗すぎて読めない、という苦情は初めてだった。


窓の外が暗い。明日は巡回の日だ。アルト村の泉の経過を見に行く予定がある。シロのミルクも用意しないといけない。やることはたくさんある。


全部、ここでの仕事だ。


薄紫の花は、翌朝には少しだけしおれていた。でも、その隣に新しい花が一輪、置かれていた。今度は淡い黄色だった。

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