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青のグラデーション  作者: 久遠 睦


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第一章:ケラマブルーの衝撃

沖縄行きの航空券を予約した夜、七海はしばらく自分の勢いに戸惑っていた。有給休暇の申請書を提出する際、課長に「珍しいね、高梨さんが夏休みちゃんと取るなんて」と言われ、曖昧に笑って誤魔化した。誰にも、あの一枚の写真のことは話していない。話したところで、うまく説明できる自信もなかった。

出発前夜、七海はキャリーケースに水着とラッシュガードを詰めながら、少しだけ胸がざわついているのを感じていた。最後に「旅行」という名目でどこかに出かけたのは、いつだっただろう。社会人になってからの休暇は、たいてい「体を休めるため」の消極的な休みで、「何かを求めて」出かける旅ではなかった。今回は、その質が明らかに違う。理由のはっきりしない、けれど無視できない引力に導かれるようにして、七海はこの旅を決めていた。

羽田空港の搭乗ゲート前で、七海は美咲と麻衣子と落ち合った。三人が旅行に出かけるのは、大学卒業以来、三年ぶりのことだった。

待ち時間、三人は窓際の席で紙カップのコーヒーを飲んだ。美咲は転職先で任される数字の重さを冗談にし、麻衣子は不規則な勤務で恋人とすれ違っていることを笑って話した。大学時代なら、どちらかが泣くまで聞いたような話を、今はみな短い言葉で畳み、最後に「まあ、仕方ないけどね」と付け加える。

「私たち、仕方ないって言うの上手になったよね」

七海が言うと、二人は一瞬黙り、それから美咲が吹き出した。

「大人の必修科目だから」

笑いながらも、七海の胸にはその言葉が残った。受け入れることと、諦めることは似ている。けれど同じではない。その違いを、いつから考えなくなったのだろう。

「なんか、久しぶりすぎて緊張する」

麻衣子がそう言って笑う。美咲は、すでに旅行雑誌を三冊も買い込んでいて、「ここ絶対行こう」「これ絶対食べよう」と、付箋だらけのページを次々に見せてくる。そんな他愛のないやり取りだけで、七海の中に溜まっていた仕事の疲れが、ゆっくり溶けていくのが分かった。

那覇空港に降り立った瞬間、肌を撫でたのは、湿り気を含んだ温かい風だった。東京を出る時に着ていた薄手のカーディガンが、途端に邪魔に感じられる。塩の匂いと、どこからか漂ってくる南国の花の甘い香りが混じり合い、東京とは明らかに違う、ゆったりとした時間の流れを肌で感じさせた。

「空気が、もう違う」

七海が思わず呟くと、美咲が「でしょ? これだけでもう来た甲斐あるよね」と目を細めた。

レンタカーを借り、国道58号線を南へと走る。車窓の向こうには、東京では見たこともないほど広い空と、その下に横たわる海が広がっていた。信号待ちの間、七海は窓を開けて風を浴びる。潮の匂いが車内に流れ込んでくるたび、胸の奥の何かが、次第にほどけていくような気がした。

宿泊先の民宿に荷物を置き、その夜は近くの居酒屋で乾杯をした。地元の生ビールの心地よい苦味と、島らっきょうの独特な風味。三人でとりとめのない話をしながら、七海は久しぶりに声を上げて笑った自分に気づき、少し驚いていた。

「なんか、こっちに来てから、みんな表情柔らかくなった気がする」

美咲がそう言うと、麻衣子も「分かる、七海なんて、東京にいる時より三割増しで笑ってる」と茶化す。七海は「そんなに変わったかな」と苦笑しながらも、内心では、その指摘に思い当たる節が多くあった。会社では常に気を張っていた自分の肩から、少しずつ力が抜けていくのを、この一日ですでに感じていたからだ。

食事の後、三人は宿の近くを少し散歩した。街灯の少ない通りに、驚くほど多くの星が瞬いている。「東京じゃ絶対見えないよね、こんなに」と麻衣子が空を見上げて呟く。七海も同じように空を見上げながら、ふと、これほど星が綺麗に見える場所で暮らす人々の日常は、一体どんなものなのだろうと、ぼんやり考えていた。

「いよいよ今日だね。海の中、どんな色なんだろう」と美咲が言った。

二日目の朝、三人は予約していた体験ダイビングツアーへ向かった。目的地は慶良間諸島。ネットで何度も見た「ケラマブルー」を、いよいよ自分の目で確かめられると思うと、七海の胸は朝から高鳴っていた。

那覇の泊港は、朝から観光客と地元の漁師たちでごった返していた。発券所の窓口で予約票を見せ、乗船券を受け取る。船内は思ったよりも冷房が効いていて、七海は持ってきたパーカーを羽織った。デッキに出ると、潮風がむき出しの肌を心地よく撫でていく。

高速船は、想像していたよりも速く、白い航跡を残しながら海面を滑るように進んでいく。エンジンの低い唸りと、船体が波を切る音。港が徐々に遠ざかり、那覇の街並みが水平線の向こうに小さくなっていくのを、七海はデッキの手すりにもたれながら見送った。

船が防波堤を抜けた瞬間、周囲の海の色が明らかに変わった。港の中では濁っていた水が、外洋に出た途端、透き通ったエメラルドグリーンへと姿を変えていく。その変化だけで、三人は歓声を上げた。

「ちょっと、もう綺麗すぎない?」

麻衣子がスマートフォンを構えながら興奮気味に言う。だが七海は、なぜか写真を撮る気になれなかった。この景色は、画面越しではなく、自分の目に、体に、直接刻みつけたい。そんな衝動に駆られていた。

三十分ほどで、慶良間諸島の一角、阿嘉島近くのダイビングポイントに到着した。港からダイビングショップの小型ボートに乗り換えると、そこで待っていたインストラクターが、焼けた肌に白い歯を見せて迎えてくれた。

「おはようございます! 今日担当させてもらいます、新城蒼あらしろ・あおいです。よろしくお願いします」

二十八歳だという彼は、海のように穏やかで、それでいて自信に満ちた瞳をしていた。日焼けした肌に、潮風にさらされて少し色の抜けた髪。ウェットスーツを腰まで下ろした姿は、東京のオフィスでは決して見かけることのない、健康的でしなやかな体をしていた。

彼のブリーフィングは、専門用語を並べたてるだけの事務的なものではなかった。「僕、実は最初に潜った時、パニックになって溺れかけたんですよ」と自分の失敗談を交えながら、巧みなユーモアと、海への深い愛情が伝わるエピソードを次々と披露していく。初めてのダイビングに緊張していた七海たちの心が、いつの間にかすっかりほぐれていた。

「呼吸だけ、忘れないでください。難しいことは何もありません。海の中では、僕が絶対に皆さんを守りますから」

その言葉には、器材を迷いなく点検する手つきと同じ落ち着きがあった。七海は肩の力を抜き、教わった呼吸の手順をもう一度頭の中で確かめた。

ブリーフィングの合間、蒼は器材の一つひとつについても丁寧に説明してくれた。BCDというジャケットの浮力調整の仕組み、レギュレーターの仕組み、そしてハンドシグナルの意味。「これは『OK』、これは『問題あり』、これは『もう少しゆっくり』」。一つひとつのジェスチャーを、蒼は実際にやって見せながら、三人にも真似をさせた。その様子はまるで、子供に遊びを教えるかのように楽しげで、こちらの緊張までほぐしてくれるような温かさがあった。

「新城さんって、この仕事長いんですか?」

美咲が尋ねると、蒼は少し考えるように視線を海に向けてから、「五年くらいですかね」と答えた。それ以上は特に語らず、話題はすぐに今日の海況の説明へと移っていった。ほんの一瞬だけ見せたその間が、七海の記憶にわずかに引っかかった。

重いタンクを背負い、フィンをつけ、マスクの内側を軽く曇り止めで拭う。その一つひとつの手順が新鮮で、七海は自分が今、日常からどれだけ遠い場所に来たのかを実感した。

「大丈夫ですか?」

先に海へ入った美咲が楽しそうに手を振る一方で、七海はボートの縁から動けなかった。タンクの重みで背中が引かれ、足元の青が急に底なしに見えた。乗船前には「やってみたい」が勝っていたのに、今は「戻りたい」が喉元までせり上がっている。

蒼は急かさなかった。器材をもう一度確認し、七海の目の高さまで腰を落とした。

「やめてもいいですよ」

思いがけない言葉に、七海は彼を見た。

「怖いまま無理に入る必要はないです。ここで待つのも、自分で決めたなら立派な選択です」

背中を押す言葉を期待していたわけではない。それでも、逃げ道を示されたことで、七海は初めて自分の意思を確かめられた。誰かに促されて飛び込むのではなく、自分で選ぶ。

「入ります。ゆっくりでも、いいですか」

「もちろん。七海さんの速さで行きましょう」

蒼は先に海へ降り、七海が手を伸ばせる位置で待った。その姿を見て、七海は一度大きく息を吸った。

水に入った瞬間、世界から音が消えた。

聞こえるのは、自分の呼吸音だけ。レギュレーターから送られてくる「シュー、コー」というリズミカルな音が、不思議と心を鎮めていく。蒼の合図でゆっくりと潜行していくと、耳の奥に軽い圧迫感を覚えた。指示された通りに鼻をつまんで耳抜きをすると、その違和感もすぐに消える。

そして、目の前に、信じられない光景が広がった。

だが、美しさに見とれるより先に、七海の呼吸は乱れた。吸えているはずなのに空気が足りない。胸が浅く上下し、マスクの内側に水が入り込む。視界が歪み、浮上しなければという焦りで体がこわばった。

蒼がすぐに気づき、七海の正面へ回った。彼は自分の胸に手を当て、ゆっくり吸い、長く吐く動作を繰り返した。もう片方の手は七海のBCDの肩口を支え、逃げない場所を作っている。

吸う。吐く。もう一度。

七海は蒼の目だけを見た。水中では言葉がないぶん、相手が焦っていないことがそのまま伝わってくる。三度目の呼吸で、胸の強張りが少しゆるんだ。蒼が「OK」の輪を作る。七海はまだ震える指で同じ形を返した。

怖さが消えたわけではなかった。怖さを抱えたままでも、呼吸はできる。その事実が、七海には大切だった。仕事でも将来でも、不安がなくなる日を待ち続けてきた。けれど必要なのは、不安のない状態ではなく、不安の中で次の一呼吸を選ぶことなのかもしれない。

顔を上げたとき、青はさっきよりも深く、静かに七海を包んでいた。

どこまでも続く、青。水面から差し込む光が、幾筋ものカーテンとなって水中に降り注ぎ、すべてを青く染め上げていく。それは、七海が今まで知っていたどんな青とも違っていた。写真や画面越しでは決して伝わらない、生命力に満ち溢れた、魂を揺さぶるような青だった。

目の前を、銀色に輝くリュウキュウハタンポの群れが、まるで一つの生き物のように、しなやかに向きを変えながら通り過ぎていく。岩陰に目をやれば、鮮やかなオレンジ色のカクレクマノミが、ゆらゆらと揺れるイソギンチャクの中からこちらを覗いていた。ひらひらと舞うチョウチョウウオの、優雅な泳ぎ。そして、不意に視界の端に現れた一匹のアオウミガメが、慌てる様子もなく、悠然と七海の横を通り過ぎていった。

言葉を失い、ただ目の前の美しさに圧倒される。水中特有の無重力感は、まるで心と体を縛り付けていた見えない鎖が、音もなく解かれたかのような、完全な解放感をもたらした。

東京で常に頭の中を占めていた、仕事の悩み。将来への漠然とした不安。上司の顔色。終わらないタスクリスト。そういった一切合切が、この深い青の中に、少しずつ溶けて消えていくのを、七海ははっきりと感じていた。以前どこかで読んだ、あるダイバーの体験談――「水に入った瞬間、不安が吹き飛んだ」という言葉が、今なら痛いほど理解できる。

蒼は、七海たち三人のペースに合わせながら、時折、手のひらに書いたスレートで生物の名前を教えてくれた。「クマノミ」「ハナヒゲウツボ」――一つひとつの名前を確認するたび、七海の口元は、マウスピースの下でも分かるくらいに緩んでいた。

途中、蒼が急に立ち止まり、七海たちに手招きをした。指差す先の砂地を目を凝らして見ると、そこには保護色でほとんど見分けのつかない、小さなヒラメが潜んでいた。次の瞬間、蒼がスレートに素早く文字を書いて見せる。「見つけるの得意でしょ? これ隠れるの上手すぎ(笑)」。水中で交わす、声にならない冗談。それだけのやり取りに、七海は思わず吹き出しそうになり、慌ててレギュレーターを咥え直した。

さらに岩の隙間からは、長い触覚を揺らすイセエビの仲間が顔を覗かせ、頭上を見上げれば、水面近くを群れで泳ぐグルクンの銀色の背が、光を反射してきらきらと瞬いていた。七海は、自分がこれまでいかに狭い世界だけを見て生きてきたのかを、思い知らされているような気がした。東京のオフィスの、あの四角い画面の中だけが世界のすべてだと、いつの間にか錯覚していたのかもしれない。

蒼は時折、七海の目を見て、指でそっと「大丈夫?」というジェスチャーを送ってくれた。そのたびに七海は親指を立てて応え、少しずつ、水中での呼吸にも慣れていった。最初は必死だった呼吸のリズムが、いつの間にか自然なものへと変わっている。その変化に気づいた瞬間、七海は自分がこの新しい世界に、少しずつ受け入れられているような、そんな感覚を覚えた。

浮上直前、蒼は七海たちを、ひときわ大きなテーブルサンゴの前に案内してくれた。無数の小魚が、そのサンゴを住処にして群れている。まるで海の中の小さな街のようだった。この静かな世界にも、確かに営みがあり、命の連なりがある。七海は、その事実に、なぜか胸が締め付けられるような感動を覚えていた。

三十分ほどの潜水時間は、あっという間に終わった。海面に浮上し、マスクを外した瞬間、七海の視界には、涙で滲んだ強烈な太陽の光が飛び込んできた。

「どうでした?」

ボートに引き上げられながら、蒼が聞く。

「……すごかったです。本当に、言葉になんないくらい」

やっとの思いで絞り出した七海の声は、自分でも驚くほど震えていた。蒼は満足そうに頷き、「その顔、僕、一番好きなんですよね。初めて潜った人の、その顔」と笑った。

水面から落ちる光の筋が、揺れるたびに形を変えた。七海は呼吸の音を聞きながら、自分の体が今ここにあることを、これまでになく鮮明に受け取っていた。

海から上がった後、ボートの上で軽い昼食休憩を取った。ダイビングショップが用意してくれたのは、島豆腐とゴーヤーを使った沖縄風のサンドイッチと、キンキンに冷えたシークワーサージュースだった。潮風にあたって火照った肌に、酸味の効いたジュースが染み渡る。

「新城さんは、ずっとここで生まれ育ったんですか?」

麻衣子が興味津々に尋ねると、蒼は少し遠くを見るような目をした。

「生まれは沖縄です。高校まではこっちで、大学から名古屋へ出ました。向こうで就職して、体を壊して戻ってきたんです。だから、出ていった側でも、戻ってきた側でもあるんですよ」

「へえ。ずっと沖縄にいた方だと思っていました」

蒼は笑ったが、簡単には整理できない時間がその声に混じっていた。

「よく驚かれます。でも、こっちへ戻ってからの方が、なんというか……自分らしくいられる気がして」

それ以上の詳しい事情は語らず、蒼は話題を海の生態系の話に戻してしまった。だが七海は、彼が「自分らしくいられる」と口にした時の、あの少しだけ複雑な表情を、なぜか記憶の片隅に留めていた。誰にでも、簡単には語れない過去があるのかもしれない。七海自身も、灰色の日常の中で、本当の自分を押し殺しながら生きているような感覚を、常に抱えていたから。

港に戻ると、蒼は撮影した水中写真をその場でデータ転送してくれた。三人が代わる代わるスマートフォンを覗き込み、歓声を上げる。七海の画面には、蒼が撮ってくれた、青い光のカーテンの中で微笑む自分の姿が映っていた。ウェットスーツ姿で、髪はぐしゃぐしゃで、化粧もほとんど落ちている。それなのに、そこに写る自分の顔は、東京では長らく見たことのないほど、生き生きとしていた。

写真を選びながら、七海は自分が呼吸を乱した場面のことを蒼に詫びた。

「すみません。みんなを止めてしまって」

「止めてないですよ。海では、誰かの速さに合わせるのが普通です」

蒼はそう言ってから、少し真剣な顔になった。

「怖かったこと、なかったことにしないでください。怖くても戻ってこられた。それが今日の七海さんの経験だから」

七海は頷いた。感動だけを持ち帰るより、その言葉の方が長く自分を支えてくれる気がした。

「よかったら、うちのショップのアカウントもフォローしてください。今日みたいな海の様子、たまに投稿してるので」

蒼が差し出したのは、小さなショップカードだった。手作り感のあるロゴと、ショップのSNSアカウントが印字されている。七海はその場でスマートフォンを取り出し、迷わずフォローボタンを押した。画面には、海の様子とスタッフの日常が並んでいた。旅が終わっても、この場所の時間は続いていく。その当たり前のことが、七海には眩しく見えた。

「今日はありがとうございました。おかげで、忘れられない思い出になりました」

七海が頭を下げると、蒼は白い歯を見せて笑った。

「また来てください。海はいつでも、ここにありますから」

その何気ない一言が、なぜか七海の胸の奥に、じんわりと染み込んでいった。

帰りのボートの上、美咲と麻衣子が興奮気味に感想を語り合う中、七海だけは、少し離れた場所で、遠ざかっていく島影と、その下に広がる青い海を、いつまでも黙って見つめていた。まだ何かがはっきりと言葉になったわけではない。それでも、胸の奥に小さな種のようなものが、確かに植え付けられたのを、七海は感じていた。

その夜、民宿のオーナーが庭先で小さな焚き火を焚いてくれた。三人はビーチで拾ってきた貝殻をテーブルに並べながら、パチパチと爆ぜる薪の音に耳を傾けた。空を見上げると、東京では決してお目にかかれないほどの数の星が、こぼれ落ちそうなほどにひしめいている。

美咲は火を見つめながら、「私、転職したら全部変わると思ってた」と打ち明けた。けれど職場が変わっても、人に嫌われたくなくて仕事を抱え込む癖は変わらなかったという。麻衣子も、恋人との将来を聞かれるのが嫌で、家族からの電話を避けていると話した。

旅先の夜だからこそ口にできることがある。七海は二人の話を聞きながら、灰色に見えていたのは東京だけではなく、互いに見せないようにしていた心の一部だったのだと思った。

「私、今日、水の中で怖くなった」

七海も打ち明けた。蒼に呼吸を整えてもらったこと、怖さが残っていてもその先の景色を見られたこと。二人は茶化さずに聞いた。

「それでも潜ったんでしょ。すごいじゃん」

麻衣子の言葉に、七海は首を振った。

「たぶん、潜ったことより、やめてもいいって言われてから自分で決められたことが嬉しかった」

焚き火が小さく爆ぜた。三人はそれぞれの生活へ戻る。戻ればまた迷うだろう。それでも今夜は、迷っている自分を隠さずにいられた。

「東京帰りたくないなあ」

麻衣子がぽつりと呟いた。冗談めかした口調だったが、その奥に、ほんの少しの本音が滲んでいるのを、七海は聞き逃さなかった。

「私も、正直ちょっと分かる」

美咲がそれに同調する。三人とも、それぞれの職場で、それぞれの悩みを抱えていることを、七海は今更ながらに実感した。誰もが、多かれ少なかれ、同じような灰色の日常を生きている。だが、その日常に対する向き合い方は、きっと人それぞれなのだろう。

「もし今の仕事辞めて、全然違う人生始めるとしたら、二人はどうする?」

七海がふと投げかけた問いに、麻衣子は「うーん、想像つかないな。怖くて無理かも」と苦笑し、美咲は「私は無理だと思う。安定手放す勇気ないもん」と即答した。二人の答えに、七海は「だよね」と笑いながら頷いた。だが、その一方で、自分の胸の奥では、二人とは少し違う何かがざわめいているのを、七海は密かに感じ取っていた。

その夜、民宿の縁側で三人が地元の生ビールを飲みながら旅の最後の夜を惜しんでいる間も、七海の脳裏には、あの青が繰り返し蘇っていた。目を閉じても、瞼の裏にあの光のカーテンが揺らめいている。

「七海、今日ずっとぼーっとしてるね」

麻衣子に指摘され、七海ははっと我に返った。

「ごめん……なんか、まだ夢の中にいるみたいで」

そう答えながら、七海は自分の中で何かが確実に変わり始めていることに、うっすらと気づいていた。この旅が終わって東京に戻れば、また元通りの灰色の日常が待っている。それは分かっている。それでも、あの青を知ってしまった今、自分はもう、旅行前と同じ自分ではいられないだろうという予感が、静かに、しかし確かに七海の中に根を下ろしていた。

翌朝、三人は那覇空港から東京行きの便に乗り込んだ。機体が滑走路を蹴り、ふわりと浮き上がる瞬間、七海は窓の外に目をやった。眼下に広がる海が、高度を上げるごとに小さくなっていく。あのケラマブルーの鮮やかさだけは、機体が雲の中に入るまで、ずっと七海の視界の隅で輝き続けていた。

隣の席で美咲と麻衣子は、旅の疲れからかすぐに眠りについていた。一方の七海は、まったく眠気を感じなかった。膝の上に置いたスマートフォンの画面には、蒼のダイビングショップのアカウントが表示されている。フォローしたばかりのそのページには、これまでの投稿が青い海の写真でびっしりと埋め尽くされていた。

機内アナウンスが着陸態勢に入ったことを告げる。窓の外には、見慣れた東京の街並みと、その上に垂れ込める灰色の雲が広がっていた。七海は小さく息を吐き、シートベルトを締め直す。心のどこかで、まだ体の半分が、あの青い海に置き去りにされているような、そんな奇妙な感覚があった。

帰りの飛行機で、七海は水中写真を何度も開いた。旅の余韻がいつまで続くのかは分からない。それでも、怖さの向こうで呼吸を取り戻した感覚だけは、東京へ戻っても忘れたくないと思った。

第二章:東京の海鳴り

東京に戻った七海を待っていたのは、以前にも増して色褪せて見える日常だった。オフィスの蛍光灯の白々しい光も、窓の外に広がる灰色のビル群も、あのケラマブルーの記憶が鮮烈であればあるほど、耐え難いものに感じられた。

空港からの帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見て、七海は思わず苦笑した。日焼けした肌に、まだ潮の香りが残っているような気さえする。だが翌朝、満員電車に押し込まれ、いつもの駅で降り、いつものオフィスに向かう頃には、その香りはすっかり洗い流され、代わりに満員電車特有の、あの澱んだ空気の匂いだけが纏わりついていた。

「高梨さん、日焼けしたね。いいなあ、休み」

同僚の一人がそう声をかけてくれる。「沖縄行ってきたんです」と七海が答えると、「へえ、リゾートでのんびり?」という、悪気のない、しかし的外れな返しが返ってくる。七海はそれ以上何も説明せず、ただ曖昧に微笑んだ。あの海で自分の内側に何が起きたのか、うまく言葉にできる自信が、七海自身にもなかった。

昼休み、給湯室で電気ケトルの湯が沸くのを待ちながら、七海はふと、自分のデスクの引き出しにしまい込んだままの、あの水中写真のプリントアウトを思い出した。旅先で焼き増しした一枚を、なんとなく持ち帰ってきていたのだ。誰にも見せる気にはなれず、それでも捨てることもできず、七海はその写真を、まるで秘密のお守りのように、引き出しの奥にしまい込んでいた。時々、誰にも見られていないことを確認してから、こっそりとその写真を取り出しては、また元の場所に戻す。そんな小さな儀式が、いつしか七海の日課の一つになっていた。

休暇明けのデスクには、山のような未処理メールが待っていた。取引先からのクレーム対応、上司からの急な仕様変更依頼、そして相変わらずの、余白を数ミリ調整するだけの修正指示。七海は機械的にそれらを処理していきながら、心のどこかが、明らかに以前とは違う場所にあることに気づいていた。

その日の夕方、工藤が修正中の画面を持ってきた。若い利用者を意識して、ボタンの色を少し鮮やかにしたらしい。

「これ、どう思いますか」

七海は反射的に「前の色に戻した方が安全かも」と言いかけ、口を閉じた。旅行前の自分なら、上司に通りやすい答えを教えていたはずだ。だが、それでは工藤の問いに答えたことにならない。

「この色にした理由、聞いてもいい?」

工藤は、想定ユーザーの年齢や視認性について説明した。全部が正しいわけではない。けれど、考えた跡は確かにあった。七海は改善点を一緒に整理し、最後に「理由を言葉にできるなら、一度提案してみよう」と伝えた。

翌日のレビューで、その案は結局、従来色に戻された。工藤は落ち込んでいたが、「高梨さんに聞いてもらえたから、次はもっと根拠を作ります」と言った。その言葉に、七海は嬉しさと痛みを同時に覚えた。自分がこの会社で欲しかったのも、採用される保証ではなく、考えたことを受け止めてもらえる時間だったのだ。

午後の定例会議では、来期の予算削減について報告があった。デザインチームの外注費が真っ先に削減対象となり、「今後は既存テンプレートの流用で対応してほしい」という方針が、特に議論もされないまま決定された。誰も異を唱えない。七海自身も、以前ならば黙って頷いていたはずだ。だがこの日は、なぜか喉の奥に小さな違和感が引っかかった。ここにいる誰もが、自分の意見を主張することの意味を、いつの間にか忘れてしまっているのではないか。そんな考えが、ふと頭をよぎった。

会議の翌週、経費精算システムの問い合わせ対応で、七海は総務部の契約社員・山口と話す機会があった。山口は五十代で、毎月末になると入力方法の質問を何十件も受けるという。

「若い人には分かるんでしょうけど、文字が薄くて見えづらいって言う人、多いんです」

七海は初めて、画面を使う人の席へ座り、実際の手順を見せてもらった。色だけでなく、項目名やエラー表示にも迷いが生じていた。会社では「既存テンプレートで十分」と言われるが、使う人の小さな困りごとは確かに残っている。

七海は勤務時間内でできる範囲の改善案を作り、山口の言葉を添えて坂本へ渡した。大規模な改修は認められなかったが、文字のコントラストとエラー文の一部は変更された。

「見やすくなったって、皆言ってます」

山口から届いた短いメールを、七海は保存した。今の会社にも、心を動かす仕事はあった。ただ、それを見つけるために毎回、制度の隙間へ自分の時間を差し込まなければならない。その事実が、残るか離れるかを考えるための、もう一つの材料になった。

定時後、七海は珍しく残業をせず、まっすぐ帰路についた。それでも足取りは重かった。オフィスビルを出て見上げた空は、今日もまた、あの曖昧な灰色に覆われている。沖縄で見た、雲ひとつない突き抜けるような青空とは、あまりにも対照的だった。

帰宅途中、七海はふと足を止め、ビルの合間から覗く狭い空を見上げた。この空の向こうに、あの海がつながっているのだと考えると、不思議な気持ちになる。同じ日本のはずなのに、まるで別の惑星の出来事のように感じられた。

心の中では、常に沖縄の海の音が鳴り響いていた。電車の走行音の合間に、ふとレギュレーターの「シュー、コー」という呼吸音が蘇る。会議室の白い壁を見つめていると、その奥にあの青い光のカーテンが透けて見えるような、そんな錯覚に陥ることさえあった。

しかし、多忙な日々に追われるうち、あの感動も次第に薄れ、いつしか「楽しかった旅行の思い出」という名の、当たり障りのないアルバムに収められてしまいそうになっていた。人間とは、こうも簡単に、大切な何かを日常の重みに押し潰されて忘れていくものなのか。七海は、その自分自身の変わり身の早さに、密かな苛立ちすら覚えていた。

旅行から二週間ほど経ったある夜、七海は残業を終え、へとへとの状態で帰宅した。コンビニで買った出来合いの惣菜を電子レンジで温めながら、意味もなくスマートフォンをスクロールしていた。SNSのタイムラインには、友人の結婚報告、同僚の飲み会の写真、見知らぬインフルエンサーの旅行記――そういった情報が、無感情に流れていく。

その指が、ふと見覚えのあるロゴで止まった。沖縄でお世話になったダイビングショップの、SNSアカウントだった。

新着投稿の通知が来ていたわけではない。ただ、指先が無意識のうちに、その名前を検索窓に打ち込んでいたのだ。まるで、体の一部が、あの海のことをまだ覚えていて、勝手に導かれるかのように。

そこには、蒼が投稿した一枚の写真があった。プロが撮ったような洗練された構図ではない。一日のダイビングを終え、港に戻る船の上で、彼と他のスタッフたちが、夕日を背にして満面の笑みを浮かべている、ありのままの一枚だった。誰かのスマートフォンで、おそらくは適当に撮られたのだろう。少しピントがぼやけていて、画角も歪んでいる。それでも、そこに写る人々の表情には、作り物ではない、本物の充実感が満ちていた。

添えられたキャプションは、拍子抜けするほど短かった。

「今日も最高の海でした! みんな、お疲れ様!」

たったそれだけの言葉。それなのに、その写真と言葉が、七海の心に鋭く突き刺さった。

これは、休暇中だけの特別な一枚ではない。彼らにとっては、仕事を終えた一日の記録なのだ。海に出られない日も、疲れて笑えない日もあるはずだ。それでも、写真の中の表情には、自分たちの仕事をやり遂げた人の手応えがあった。

七海は、電子レンジの終了音にも気づかず、しばらく画面を見つめた。旅先の印象だけでは分からない暮らしが、その写真の向こうに続いている。別の働き方を夢として眺めるのではなく、条件を調べてみようと思った。

その夜、七海はなかなか寝付けなかった。ベッドに横たわり、天井を見つめながら、頭の中では様々な考えが渦を巻いていた。今の仕事を辞めるなんて、現実的じゃない。安定した収入も、社会的な信用も、すべて手放すことになる。両親はきっと反対するだろう。友人たちにも、どう説明すればいいのか分からない。

それでも、心のどこかで、譲れない何かが確かに存在していた。

ここ数日、七海は業務の合間に、こっそりとフリーランスのウェブデザイナーについて調べるようになっていた。案件の探し方、収入の目安、確定申告の仕組み。調べれば調べるほど、それが決して楽な道ではないことが分かってくる。むしろ、その一つひとつの情報が、七海の中で、漠然とした憧れを、徐々に具体的な計画へと変えていくのを感じていた。

夜な夜な、七海は個人ブログや、フリーランスとして独立した先輩デザイナーのインタビュー記事を読み漁った。「最初の半年は貯金を切り崩す覚悟で」「営業活動が苦手な人には向かない」――そういった率直な体験談は、時に七海の背中を押し、時に不安を煽った。だが、共通していたのは、皆一様に「大変だったけど、後悔はしていない」という言葉だった。その一文を読むたびに、七海の心の天秤は、次第に「挑戦」の方へと傾いていった。

調べるだけでは、自分に仕事が取れるかは分からない。七海は試しに、知人の小さな焼き菓子店が募集していたイベント用バナー制作へ応募した。提示された報酬は一万円。会社なら数時間で終える作業だと思っていたが、依頼主の好みを聞き、写真の使用許可を確認し、修正に対応しているうちに、休日がほとんど潰れた。

納品後、依頼主から「七海さんの青、すごくお店に合っています」と連絡が来た。金額だけなら割に合わない。それでも、自分の名前で引き受け、自分で約束を守り、誰かに喜ばれたという手応えは残った。

同時に、甘くない現実も見えた。見積書の作り方も、著作権の扱いも、入金期限の決め方も、会社員時代には他部署が担ってくれていた。独立とは好きなデザインだけをすることではなく、仕事の入口から出口までを自分で背負うことだ。七海は作業時間と報酬を表にまとめ、次に同じ依頼を受けるなら、いくら必要なのかを計算した。

数字は夢を冷ますものではなかった。むしろ、何を準備すれば夢を壊さずに済むかを教えてくれた。

ある夜、七海は思い切って、独立してフォトグラファーになった大学時代の先輩に、メッセージを送ってみた。返ってきた長文の返信には、独立後の苦労話とともに、「不安なのは、まだ本気で決めきれていない証拠かもね。本気で決めたら、不安より先に行動が出てくるよ」という一文があった。その言葉が、七海の胸に深く突き刺さった。

そんな折、実家の母親から電話がかかってきた。いつも通りの、他愛のない近況報告のはずだった。だが、電話の向こうで「そういえば、沖縄旅行どうだった?」と聞かれた瞬間、七海は思わず口ごもった。

「すごく良かったよ。海が、信じられないくらい綺麗で」

「へえ、良かったね。また休み取れたら、今度はお父さんと三人で温泉旅行でも行こうか」

母の言葉に、七海は「うん、いいね」とだけ答え、それ以上、心の内を明かすことはしなかった。今の自分が抱えている漠然とした計画を口にすれば、母がどんな反応をするか、容易に想像がついたからだ。電話を切った後、七海はしばらくスマートフォンを握りしめたまま、リビングの床に座り込んでいた。

母との通話のあと、父から珍しく短いメッセージが届いた。

「旅行の写真、母さんに見せてもらった。いい顔してるな」

それだけだった。七海は返信欄に何度も文章を打っては消し、最後に「ありがとう。潜るの、怖かったけど楽しかった」と送った。父からはすぐに「怖いのにやったなら大したもんだ」と返ってきた。

父は若い頃、町工場で機械の設計をしたかったと聞いたことがある。だが祖父が倒れ、家計を支えるために営業職へ就いた。それを不幸だったとは一度も言わなかった。むしろ、家族を守れたことを誇りにしているように見えた。だからこそ七海は、自分が安定を手放したいと言えば、父の人生を否定することになるような気がしていた。

けれど、父が選んだ責任と、自分が選びたい人生は、同じ形である必要はない。家族を大切にすることと、家族と違う道を選ぶことは両立できるのかもしれない。七海はその夜、移住について調べたページを閉じずに、初めて最後まで読み切った。

親友の由紀にだけは、少しずつ本音を打ち明けるようになっていた。「最近、なんか転職でも考えてるの?」と由紀に聞かれた時、七海は「転職っていうか……もっと根本的に、生き方自体を変えたいのかもしれない」と、初めて曖昧ながらも本音に近い言葉を口にした。由紀は驚いた様子だったが、「七海がそこまで言うの、初めて聞いた」と、真剣な顔で耳を傾けてくれた。その反応に、七海は少しだけ救われた気持ちになった。誰かに、たとえ全部は理解されなくても、真剣に話を聞いてもらえるということが、これほど心強いものだとは思わなかった。

由紀と会えたのは、その翌週の午後だった。子供を保育園へ迎えに行くまでの一時間だけ、駅前のカフェで向かい合った。

「沖縄に行けば、全部うまくいくって思ってない?」

由紀は遠慮なく聞いた。七海は一瞬、責められたように感じたが、すぐには答えなかった。

「思ってるところ、あるかもしれない」

「場所が変わっても、自分はついてくるよ。私、結婚したら寂しくなくなると思ってたし、子供ができたら毎日幸せだと思ってた。でも実際は、家族がいても孤独な日はある」

由紀は冷めかけたコーヒーを見つめた。

「もちろん幸せだよ。でも、幸せとしんどさって、どっちか一つじゃないんだと思う」

七海は沖縄の写真を見せるのをやめ、代わりに、自分が怖がっていることを話した。収入、孤独、両親の反対、蒼への憧れが判断を曇らせている可能性。由紀は一つずつ聞き、「それを考えても行きたいなら、逃げるだけじゃないのかもね」と言った。

別れ際、由紀は「私も、週に一度くらい自分のために絵を描こうかな」と笑った。七海が何かを変えたいと思ったことは、誰かの今を否定することではない。二人は違う場所で、それぞれの生活を選び直せる。そのことが七海には嬉しかった。

ある日の昼休み、七海はいつものように屋上の休憩スペースでコンビニのおにぎりを食べていた。同期入社の女性社員、佐々木が隣に腰を下ろし、「最近、なんか元気ないね」と声をかけてきた。

「そう見える?」

「見える見える。旅行から帰ってきてから、なんか、心ここにあらずって感じ」

七海は少し迷った末、ぽつりぽつりと、沖縄で感じたことを話してみた。あの海の美しさ、蒼という青年の生き方、そして自分がこの東京での生活に、以前にも増して息苦しさを感じていること。話しながら、七海は自分の中でまだ曖昧だった感情が、次第に輪郭を持ち始めているのを感じていた。

佐々木は黙って耳を傾けたあと、「私には想像もつかないけど、七海がそこまで言うなら、本当にすごい場所だったんだろうね」と静かに言った。それは、賛成でも反対でもない、ただ七海の気持ちを尊重するだけの言葉だった。だがその言葉が、七海の背中を、ほんの少しだけ押してくれたような気がした。

仕事帰り、七海は駅前の書店に立ち寄った。旅行書のコーナーで、沖縄移住に関するエッセイ本を手に取る。レジに向かう足取りは、いつもより少しだけ軽かった。

その週末、決定的な出来事が起きた。七海が半年がかりで温めていた、社内向け業務システムのUIを一新する企画案が、経営会議であっさりと却下されたのだ。理由は「コストに見合わない」の一言だった。企画書を作るために費やした休日出勤の数々、上司を説得するために練った資料、そのすべてが、たった数秒の判断で無に帰した。

却下の前日、七海は課長から「ここまで作り込まなくてもよかったのに」と言われていた。会社が求めていない熱意を、自分が勝手に注いだだけなのかもしれない。その迷いがあったから、経営会議の結果を聞いた直後も、七海は誰かを責めることができなかった。

ところが、工藤が企画書を返しに来た際、付箋を一枚挟んでいた。

「私は、この画面を使ってみたかったです」

丸い字で、それだけ書かれていた。七海は付箋を手帳へ移した。採用されなかった案にも、意味はあった。問題は評価されなかったことだけではない。自分が、意味のある仕事を続けられない場所に留まることを、当然だと思い始めていることだった。

辞めるかどうかはまだ決められない。それでも、決められないまま時間に決めてもらうことだけはやめよう。七海は会社帰り、駅のホームではなく近くの公園へ向かい、ベンチでノートを開いた。左側に「残る」、右側に「離れる」と書き、それぞれの利点と怖さを、綺麗に見せようとせず並べていった。

「まあ、こういうこともあるよ。次頑張ろう」

課長は軽い調子でそう言って、七海の肩を叩いた。悪意があったわけではないのだろう。それでも、その軽さこそが、七海には一番こたえた。自分がどれほどの熱量を注いだところで、この会社では、それが正当に評価される保証はどこにもない。ただ歯車として、上から降りてくる指示をこなし続けるだけの毎日。その現実を、七海は改めて、痛いほど突きつけられた気がした。

帰りの電車の中、七海は窓に映る自分の疲れきった顔を見つめながら、静かに、しかし確かな決意を固めていた。もう迷っている時間はない。あの海が、本当に自分の心の答えなのかどうか、きちんと確かめに行く必要がある。

翌日、坂本が昼休みに七海を呼び出した。彼は却下された企画書を机へ置き、「勝手にコピーして読んだ」と前置きした。

「俺も昔、広告のデザインをやりたくてこの会社に入ったんだ。でも、気づいたら調整する側に回ってた」

坂本は自嘲するように笑った。家庭があり、住宅ローンがある。辞めたいわけではないし、今の役割にも責任を感じている。それでも七海の企画を見て、かつての自分を思い出したという。

「残ることを諦めだとは思いたくない。でも、高梨さんまで俺と同じ選び方をする必要はない」

七海は、坂本が臆病だから会議で発言しなかったのだと決めつけていた。けれど人には、見えないところで守っている生活がある。彼の選択は七海の選択と違うだけで、劣ってはいなかった。

「もし辞めるなら、会社で身につけたことを全部無駄だったことにするなよ。面倒な調整も、言葉の曖昧な人と話す力も、外に出たら使うから」

その助言は、海の写真より現実的に七海の背中を押した。七海は帰宅後、残る理由の欄に「ここで学べること」、離れる理由の欄に「学んだことを自分で使う」と書き足した。

その夜、家に帰り着いた七海は、再びあの写真を開いた。何度目になるか分からない。画面の中で笑う蒼の顔を見つめながら、七海は自分の中で、ある決意が形になりつつあることに気づいていた。

衝動的に、彼女は航空券の予約サイトを開いていた。行き先は、沖縄。今度は一人で。

今度の旅では、海の美しさだけでなく、暮らしの輪郭を確かめようと決めた。家賃、仕事、人との距離、雨の日の街。蒼に会いたい気持ちも否定しなかったが、それだけを答えにはしない。あの場所で感じたものを、自分の生活として引き受けられるのか、自分の目で確かめたかった。

予約完了の画面が表示された瞬間、七海の心臓は早鐘のように鳴っていた。恐怖と、それを上回るほどの高揚感。震える指で、七海はその画面のスクリーンショットを撮り、誰に見せるでもなく、ただ自分のフォルダに保存した。

出発までの二週間、七海は誰にも今回の旅の本当の目的を話さなかった。有給休暇の申請書には「私用のため」とだけ記入し、周囲には「また沖縄行くの?」と冗談交じりに驚かれる程度で済ませた。荷造りをしながら、七海はふと、前回の旅とは明らかに違う緊張感を覚えていることに気づいた。あの時は、友人二人と一緒の、気楽な観光旅行だった。だが今回は、たった一人で、自分の人生そのものと向き合いに行くための旅だ。キャリーケースに服を詰めながら、七海は何度も手を止め、深呼吸を繰り返していた。

窓の外では、いつもと変わらぬ東京の夜景が広がっていた。無数の光の点。その一つひとつの向こうに、七海と同じように何かに迷い、何かを諦め、あるいは何かに挑もうとしている人々がいるのだろう。そう思うと、この巨大な都市の中で、七海は初めて、自分がひとりぼっちではないような、そんな不思議な連帯感を覚えた。

ベッドに入ると、仕事が見つからなかったら、貯金が底をついたら、両親をがっかりさせたら、と不安が次々に浮かんだ。そんな夜は水中写真を開いた。怖さが消えなくても、呼吸を一つずつ整えれば次へ進める。あの海で自分が確かめた感覚が、七海を机の前へ戻してくれた。

眠れないまま迎えた朝、七海は洗面所の鏡の前で、自分の顔をまじまじと見つめた。少し疲れた顔。だが、その奥に、以前にはなかった小さな光が灯っているのを、七海は確かに見つけた気がした。

不安は残っていた。それでも、七海の心は南の海へ向かっていた。次の旅で何を持ち帰るのかは分からない。ただ、迷ったまま時間に任せるのではなく、自分で確かめに行くことだけは決めていた。


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