序章:灰色のグラデーション
月曜の朝は、いつも同じ音で始まる。
スマートフォンの、無機質な電子音。七回目のアラームでようやく指が届き、高梨七海の意識は、浅い眠りの底から乱暴に引きずり出される。二十五歳。都内のIT企業でウェブデザイナーとして働いて、もう三年になる。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ夜の名残を引きずる鈍色をしていた。天気予報を見なくても分かる。今日も、東京の空はきっと曖昧な灰色をしているのだろう。快晴でもなく、雨でもない。何色とも言い切れない、中途半端な色。それは、七海が最近の自分自身に対して抱いている感覚と、驚くほどよく似ていた。
ベッドから体を引き剥がすようにして起き上がると、狭いワンルームの中を機械的に動き回る。トースターに食パンを放り込み、その二分足らずの間に洗面所で歯を磨き、化粧水を叩き込む。鏡に映る自分の顔は、悪くはないが、特別な輝きもない。可もなく不可もない、平均点の朝の顔。
大学時代、七海は美術サークルに所属していた。油絵よりもデザインに惹かれ、独学でデザインソフトを触るようになり、いつか誰かの心を動かすようなビジュアルを作る仕事がしたいと思っていた。就職活動では、有名な広告代理店やデザイン事務所を何社も受けた。全部落ちた。最終的に拾ってくれたのが、今の会社――中堅のIT企業の、コーポレートサイトやシステムの管理画面を作る部署だった。
就職活動をしていた頃、父は「好きなことを仕事にできる人は少ない」と言い、母は「まずは名前の通った会社に入りなさい」と繰り返した。どちらも七海を傷つけるための言葉ではなかった。両親は、長い不況の中で生活を守ることの難しさを知っていたし、娘には苦労をさせたくないと願っていた。七海もそれを理解していたから、内定通知を受け取った日には、胸の奥に残る小さな違和感を、喜びの下へ器用に押し込めた。
入社一年目は、覚えることの多さだけで毎日が過ぎた。二年目には仕事の速さを褒められ、三年目には後輩から操作方法を尋ねられる立場になった。できることが増えるほど、任されるのは過去のデータを流用する仕事ばかりになった。失敗が少ない人には、失敗しようのない仕事が集まる。その皮肉に気づいた頃には、七海は「安定しているのだから」と自分を納得させる癖を身につけていた。
ある朝、入社したばかりの後輩・工藤が、七海のデスクに小さな紙袋を置いた。中には、美術館で買ったという鮮やかな青のポストカードが入っていた。
「高梨さん、こういうの好きそうだと思って」
工藤は、七海が昼休みにデザイン誌を眺めていたことを覚えていたらしい。たった一枚のカードだった。それでも七海は、長いこと隠していたものを見つけられたような気がして、うまく笑えなかった。
「ありがとう。すごく、好きな色」
そう答えてから、カードを引き出しにしまった。デスクに飾ればよかったのに、なぜかできなかった。好きなものを好きだと外に見せるだけのことが、今の七海には小さな勇気を要する行為になっていた。
「贅沢は言えない」。そう自分に言い聞かせて三年。気づけば、七海が最後にゼロから何かを「創造」したのがいつだったか、思い出せなくなっていた。
トーストを咥えたまま、七海は玄関のドアを開ける。ひやりとした空気が肌を刺し、目が覚める。彼女の本当の一日は、ここから始まる。
最寄り駅までの十分間、七海はいつも同じルートを、同じ歩幅で歩く。コンビニの前を通り過ぎ、いつも同じ場所に停められている自転車の脇を抜け、横断歩道の白い部分だけを選んで踏む。子供の頃からの、意味のない癖だった。今となっては、その儀式めいた反復だけが、朝の時間に唯一の「自分らしさ」を与えてくれているような気さえする。
駅のホームは、すでに黒やグレーのコートの群れで埋め尽くされていた。誰も彼もが同じような色の服を着て、同じ方向を向いて、同じように俯いてスマートフォンの画面を眺めている。まるで、あらかじめプログラムされたアバターの集団のようだ。
やがて滑り込んできた電車のドアが開くと、人々は意思のない塊のように車内へと吸い込まれていく。七海も、その無個性な一部になる。
身動きができないほど混み合った車内で、見知らぬ誰かの体温が背中越しに伝わり、圧迫感で息が詰まる。甘すぎる香水の匂い、湿ったコートの匂い、そして誰のものとも分からない無数のため息が混じり合った空気が、車内に澱んでいた。
七海は吊り革に掴まることもできず、ただ人の波に身を委ねる。両手で抱えたトートバッグだけが、辛うじて自分の領域を主張していた。唯一の救いは、ワイヤレスイヤホンから流れてくるポッドキャストだ。誰かが淡々と語る海外ニュースの解説。内容はほとんど頭に入ってこない。それでも、外界の音を物理的に遮断できるという事実だけで、この息苦しい箱の中から数十分だけ意識を切り離すことができる。それは、ささやかな、しかし彼女にとっては切実な抵抗だった。
オフィスに着くと、ガラスと鉄骨でできた、無機質で冷たい印象のビルが七海を迎える。カードキーをかざし、エレベーターに乗り、七階のフロアへ。自分のデスクに着くと、代わり映えのしない一日が始まる。
今日の仕事は、社内向けの経費精算システムのUI改修と、来月の株主総会用資料に使うパワーポイントのテンプレート作成だった。フォントサイズを2ポイント調整してほしい、色をもう少し「弊社らしい青」にしてほしい――そんな、創造性の入り込む余地のない修正依頼が、朝からメールボックスに三件溜まっていた。
「高梨さん、例のバナー、部長がもう少し明るい感じにって言ってるんだけど」
隣の席の先輩、坂本の声に、七海は顔を上げる。「明るい感じ」という指示に具体性は何ひとつない。それでも七海は「分かりました」と笑顔で答え、無数にある「明るい青」の中から、当たり障りのない一色を選び直す。かつて夢見たクリエイティブな仕事とは程遠い、単調な作業の繰り返しだった。
同僚との会話はいつも当たり障りがなく、昨夜のドラマの感想か、週末に見た映画の話か、あるいは誰かの上司への愚痴に終始する。ランチタイムには、デスクでコンビニのサラダチキンとおにぎりを頬張りながら、SNSのタイムラインをぼんやり眺める。それが、七海にとっての「休憩」だった。
誰もが、この巨大な都市という機械の歯車として、黙々と自分の役割をこなしている。そのことに文句を言う人間さえ、あまりいない。文句を言うだけの熱量すら、みんなどこかに置き忘れてきてしまったかのようだった。
七海の心の中では、いつからか同じ問いが木霊するようになっていた。
――本当にこれが、私のやりたかったことなのだろうか。
今の仕事に、「やりがい」という言葉で表現できるものは、ほとんど見つからない。ただ、生きていくためのお金を得るための手段。家と会社の往復だけで、一週間が、一か月が、そして気づけば一年が過ぎていく。灰色の日々の、単調なグラデーション。まるで、彩度をすべて抜き取られた古い写真のフィルムを、延々と眺め続けているようだった。
二十五歳。世間的に見れば、まだ何にでもなれる年齢だと言われる。だが七海自身は、自分の人生がすでに一本のレールの上に固定されてしまったような、そんな息苦しさを日々感じていた。結婚、出世、あるいは転職。周囲が口にする「次のステップ」の話題は、どれもピンとこない。自分が本当に欲しいものが何なのか、七海にはもう分からなくなっていた。
午後の会議で、七海は久しぶりに自分から発言をした。社内ポータルサイトのリニューアル案について、若手デザイナーとして意見を求められたのだ。七海は前夜、勤務時間外にわざわざ自宅でモックアップを作り込んでいた。ユーザーの導線を見直し、色数を絞り、余白を活かしたシンプルなデザイン。誰かに頼まれたわけでもないのに、気づけば夢中になって手を動かしていた自分に、七海自身も少し驚いていたくらいだ。
「面白い試みだとは思うけど」
プロジェクトリーダーの課長は、七海の画面を一瞥すると、そう前置きしてから続けた。
「うちは冒険する必要ないから。今まで通りのテンプレートに寄せてもらえる? 上に説明するのが面倒なんだよね、こういう新しいの」
会議室の空気は、特に波風も立たずに次の議題へと流れていった。七海の作ったモックアップは、誰の記憶にも残ることなく、フォルダの奥深くに眠ることになるのだろう。悔しさすら感じないほど、七海はこの手の展開に慣れてしまっていた。慣れてしまった自分に、むしろぞっとした。
会議が終わって資料を片づけていると、坂本が最後まで残った。彼は閉じられたノートパソコンに手を置き、声を落とした。
「俺は、高梨さんの案の方が使いやすいと思ったよ」
七海は顔を上げた。なら、なぜ会議で言ってくれなかったのか。その問いは口にできなかった。坂本の顔に浮かんだ気まずさが、答えの代わりになっていたからだ。
「ただ、今は余計なことを言うと、俺が説明役になるだろ。ごめん」
「いえ。分かります」
反射的に答えた瞬間、自分の声の滑らかさに七海は驚いた。本当は分かりたくなかった。誰かが責任を引き受けなければ、良いと思った案でさえ最初から存在しなかったことになる。その仕組みに腹が立ったし、同じ仕組みの中で「分かります」と笑える自分にも腹が立った。
席へ戻る途中、工藤が廊下の角で待っていた。
「あの案、もう見られないんですか」
「たぶんね。今までの形に戻すことになったから」
工藤は露骨に残念そうな顔をした。その表情を見たとき、七海の胸には、却下されたことよりも、自分が誰かの期待を簡単に手放そうとしていることへの痛みが残った。
大学四年の卒業制作展のことを、七海はふと思い出す。自分が手がけたポスターシリーズを見て、見知らぬ来場者が足を止め、「これ、いいですね」と声をかけてくれたことがあった。その時に感じた、指先から全身へと広がっていくような高揚感。あれこそが、七海が本当に求めていたものだったはずだ。誰かの評価のためではなく、自分の内側から湧き上がる衝動のままに手を動かし、それが誰かの心にほんの少しでも触れる。あの感覚を、この三年間、七海は一度も味わっていなかった。
その週の金曜日、部署の歓送迎会があった。異動していく先輩を送る名目の飲み会だったが、実際には、いつも通りの職場の延長のような時間だった。上司の武勇伝を愛想笑いで聞き流し、グラスが空けば気を利かせて注ぎ足す。誰かが「高梨さんは将来どうしたいの?」と何気なく尋ねてきた時、七海はとっさに「今のところは今の仕事を頑張りたいです」と、当たり障りのない言葉で答えた自分に、帰り道でひどく嫌気が差した。本当に思っていることは何一つ言えなかった。周りに合わせることに、あまりにも慣れすぎてしまっている。そのことに気づいた瞬間、七海は駅までの道のりを、いつもよりずっと重い足取りで歩いていた。
週末、七海は大学時代からの親友・由紀とカフェで会う約束をしていたが、由紀の子供が急に熱を出したとかで、土壇場でキャンセルになった。仕方なく一人で入ったカフェで、七海は隣のテーブルに座るカップルの、屈託のない笑い声を聞くともなしに聞いていた。手元のスマートフォンには、マッチングアプリの通知が溜まっている。半年前に興味本位で始めたものの、結局誰とも会う気になれず、放置したままだった。
実家の母親からは、月に一度は必ず電話がかかってくる。「元気にしてる?」「彼氏はできた?」「もう若くないんだから」。悪気のないその言葉の一つひとつが、七海の胸の柔らかい部分をじわじわと圧迫する。「大丈夫、元気だよ」。そう答えるたび、七海は自分の声が、少しずつ薄い膜で覆われていくような感覚を覚えていた。本当の気持ちを、誰にも――両親にも、由紀にさえも、うまく言葉にできないでいた。
休日の過ごし方も、いつからか固定化していた。土曜日は溜まった洗濯と掃除、日曜日の午前中は惰性で二度寝をして、午後は近所のカフェで一人、ノートパソコンを開く。誰かに会う予定もなく、行きたい場所も特にない。かつては大学時代の恋人と、休みのたびにあちこち出かけたこともあった。だが、卒業と同時に価値観の違いから自然消滅するように別れて以来、七海は誰かと積極的に予定を作ることを、いつしか避けるようになっていた。傷つくことへの防衛本能なのか、それとも単なる惰性なのか、自分でもよく分からなかった。
由紀とは、学生時代には週に何度も会っていた。卒業後、由紀は結婚し、二年前に娘を産んだ。七海が仕事の愚痴を送ろうとしてスマートフォンを開く時間、由紀はたいてい子供を寝かしつけている。返信が翌朝になっても責める気持ちはなかった。ただ、二人の時間が少しずつ別の速さで流れていくことが寂しかった。
キャンセルになった日の夜、由紀から短いビデオ通話が入った。画面の向こうで、熱の下がりきらない娘が由紀の肩にもたれていた。
「本当にごめん。今度、絶対埋め合わせするから」
「気にしないで。そっちが優先に決まってるよ」
七海が笑うと、由紀は少しだけ眉を寄せた。
「七海、最近ちゃんと寝てる?」
思いがけない問いだった。七海は「寝てるよ」と答えたが、その直後に大きなあくびが出た。二人で笑ったあと、由紀は声を柔らかくした。
「私、子供が生まれてから、自分のこと後回しにしてばっかり。七海は自由でいいなって思う日もあるよ。でも、自由なら自由で、しんどいことあるんだよね」
「自由って言われても、何をしたいのか分からないんだけどね」
初めて本音がこぼれた。由紀は安易に励まさず、「分からないって言えるなら、まだ探してる途中なんじゃない」と言った。通話が終わったあと、七海は暗くなった画面に映る自分をしばらく見つめた。自分は何かを失ったのではなく、まだ選んでいないのかもしれない。その考えは不安と同じくらい、かすかな安堵をもたらした。
ある日曜の午後、カフェの窓際の席で、七海はぼんやりと外を眺めていた。目の前の通りを、楽しそうに笑い合う家族連れや、手を繋いで歩くカップルが通り過ぎていく。誰も七海のことなど気にも留めていない。それは当然のことだ。それでも、その何気ない光景を眺めながら、七海はふと、涙が出そうになる自分に驚いた。寂しいと感じることすら、どこか贅沢なことのように思えて、七海はその感情に蓋をするように、また画面に視線を戻した。
その日の帰り道、七海は珍しく残業もなく、定時で会社を出た。だが、心は少しも軽くならなかった。夕暮れの街を歩きながら、彼女はふと、大学時代に描いていた絵のことを思い出す。あの頃は、何を描いても楽しかった。誰かに評価されるためではなく、ただ描きたいから描いていた。今の自分は、いつからそれを忘れてしまったのだろう。
自宅に戻り、電気もつけずにベッドに横たわる。窓の外には、変わらず灰色のビル群のシルエットが並んでいた。何百万人もの人がひしめき合うこの街で、七海はふと、途方もない孤独を感じる。誰かとつながっているようで、本当は誰とも深くつながっていない。友人はいる。家族もいる。それでも、この胸の奥にぽっかりと空いた穴を埋めてくれるものは、どこにも見当たらなかった。
そんなある日の昼休み、七海はいつものようにデスクでスマートフォンを眺めていた。特に見たいものがあったわけではない。ただ、指先が勝手にSNSのアプリを開き、意味もなく画面をスクロールしていた。
そして、その指がふと止まった。
友人がシェアしていた、一本の旅行ブログの記事。タイトルは「絶景!ケラマブルーに会いに行く旅」。サムネイル画像いっぱいに広がっていたのは、これまで七海が見たことのないような、鮮やかなターコイズブルーの海だった。
思わず息を呑む。
その色彩は、あまりにも生々しく、あまりにも力強かった。灰色の世界に慣れきってしまった彼女の目を、その一枚の写真は強く捉えて離さなかった。まるで、モノクロだった世界に、突然一滴だけ絵の具が垂らされたような感覚。七海は、自分でも説明のつかない衝動に駆られ、その記事を隅から隅まで読み込んでいた。
慶良間諸島。沖縄本島から船で渡ることのできる、透明度の高い海。記事の中の写真には、七海がこれまでの人生で一度も出会ったことのないような、生命力に満ちた青が、いくつも並んでいた。
昼休みの残り時間、七海はその写真を何度も見返した。ズームインすると、海面の下に無数の光の粒が揺らめいているのが分かる。太陽の光が水を透過し、砂地に届いた瞬間に生まれる、あの独特な光と影の模様。デザイナーとしての職業病か、七海は無意識のうちに、その色を自分のPCのカラーパレットに置き換えたら何番のコードになるだろうと考えていた。RGBで表せば、きっと純粋な水色や群青とは違う、もっと複雑な、いくつもの青が層になった色になるはずだ。そこまで考えて、七海は小さく笑ってしまった。自分でも呆れるほど、仕事の癖が染みついている。
だが同時に、その色は単なる「情報」としてではなく、もっと直感的な何かとして、七海の胸を強く打っていた。理屈ではない。ただ、その青を、この目で直接見てみたい。そう思わずにはいられなかった。
記事の下部にあった「体験ダイビング」というリンクを、七海は気づけば何度もタップしていた。料金、必要な持ち物、対象年齢。読めば読むほど、それは決して手の届かない夢物語ではなく、少し勇気を出せば実現できる、現実的な選択肢であることが分かってくる。
予約画面まで進んでは閉じることを、その日のうちに三度繰り返した。泳ぎが得意なわけではない。耳抜きさえしたことがない。航空券と宿泊費を合わせれば、今月買おうと思っていた新しいタブレットは諦めなければならなかった。
けれど、諦める理由を数えるほど、画面の青は鮮やかになった。七海は久しぶりにノートを開き、旅に必要な金額を書き出した。数字は思ったほど非現実的ではなかった。有給も残っている。足りないのは時間でもお金でもなく、自分のためにそれらを使ってよいと許す気持ちなのだと気づいた。
大学時代の三人のグループ画面を開いたとき、七海は一度、指を止めた。美咲は転職したばかりで、麻衣子はシフト制の仕事をしている。断られれば、一人で行く勇気はまだなかった。それでも、何も言わなければ、また次の月曜が来るだけだ。
そして、心のどこかで、小さな声が囁くのを聞いた気がした。
――行ってみたい。
その言葉を心の中で繰り返したとき、七海は小学生の頃の夏休みを思い出した。図工の宿題で海を描き、青い絵の具を何度も混ぜた。父は「海は青一色じゃないんだな」と言って、濃淡の違う波を面白そうに眺めてくれた。あの頃の七海は、正しい色を探すのではなく、見えた色を迷わず紙へ置いていた。
いつから、間違わない色ばかり選ぶようになったのだろう。会社で指定されたブランドカラー、誰にも嫌われない服、母を安心させる返事。安全な選択は七海を守ってくれた一方で、自分が何を美しいと思うかまで、少しずつ曖昧にした。
画面の海は、記憶の中の絵より複雑な青をしていた。見たことのない色を確かめるために出かける。それだけの理由でもよいのではないか。七海は旅費のメモの一番上に、「自分の目で色を見る」と書いた。
それはまだ、旅行への憧れと呼べる程度の小さな衝動だった。けれど七海は、その小ささを理由に無視することだけはしたくなかった。大きな決意などなくても、今までと違う選択を一つすれば、見える景色は変わるかもしれない。
満員電車に押される朝。自分の考えを引っ込める会議。大勢の連絡先がありながら、本音を話せる相手が思い浮かばない夜。それらを急に変えることはできない。それでも七海の中では、今までとは違う場所へ一度手を伸ばしたいという願いが、静かに形を持ち始めていた。
その日の帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見ながら、七海はずっとあの海の写真のことを考えていた。会社の飲み会も、上司の顔色をうかがう会議も、代わり映えのしない毎日も、その一枚の青の前では、急にひどく色褪せて見えた。
自宅に着くなり、七海はコートも脱がないままノートパソコンを開いた。検索窓に「慶良間諸島 体験ダイビング 初心者」と打ち込む。次から次へと出てくる青い写真の数々に、指先が止まらなくなる。気づけば一時間近く、七海はただひたすら沖縄の海の画像を眺め続けていた。
その夜、七海は珍しく、大学時代の友人二人――サークル仲間だった美咲と、同じゼミだった麻衣子――に、グループメッセージを送った。
「ねえ、突然だけど。夏休み、沖縄行かない? 海、潜ってみたいんだ」
既読がつくまでの数分間が、やけに長く感じられた。やがて美咲から「急にどうしたの(笑)でも面白そう!」と返信が来て、麻衣子からも「シフト調整してみる」とスタンプ付きで届く。それだけのやり取りに、七海は胸の奥が温かくなるのを感じた。誰かと何かを一緒に始めようとする、その単純な高揚感を、自分がどれほど久しく忘れていたか、七海はその時初めて気がついた。
送信したあと、七海は胸の前でスマートフォンを握った。人生が変わる確信などなかった。ただ、明日の自分が今日とまったく同じではないことだけが、嬉しかった。
窓の外では、相変わらず灰色のビル群が沈黙を守っていた。だが七海の胸の奥では、その灰色を突き破るような、小さな、けれど確かな青い光が、ゆっくりと灯り始めていた。まだ名前のつかないその光を、七海はスマートフォンの画面を閉じたあとも、しばらくの間、じっと見つめ続けていた。




