↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
青のグラデーション  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/5

第二章:東京の海鳴り

東京に戻った七海を待っていたのは、以前にも増して色褪せて見える日常だった。オフィスの蛍光灯の白々しい光も、窓の外に広がる灰色のビル群も、あのケラマブルーの記憶が鮮烈であればあるほど、耐え難いものに感じられた。

空港からの帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見て、七海は思わず苦笑した。日焼けした肌に、まだ潮の香りが残っているような気さえする。だが翌朝、満員電車に押し込まれ、いつもの駅で降り、いつものオフィスに向かう頃には、その香りはすっかり洗い流され、代わりに満員電車特有の、あの澱んだ空気の匂いだけが纏わりついていた。

「高梨さん、日焼けしたね。いいなあ、休み」

同僚の一人がそう声をかけてくれる。「沖縄行ってきたんです」と七海が答えると、「へえ、リゾートでのんびり?」という、悪気のない、しかし的外れな返しが返ってくる。七海はそれ以上何も説明せず、ただ曖昧に微笑んだ。あの海で自分の内側に何が起きたのか、うまく言葉にできる自信が、七海自身にもなかった。

昼休み、給湯室で電気ケトルの湯が沸くのを待ちながら、七海はふと、自分のデスクの引き出しにしまい込んだままの、あの水中写真のプリントアウトを思い出した。旅先で焼き増しした一枚を、なんとなく持ち帰ってきていたのだ。誰にも見せる気にはなれず、それでも捨てることもできず、七海はその写真を、まるで秘密のお守りのように、引き出しの奥にしまい込んでいた。時々、誰にも見られていないことを確認してから、こっそりとその写真を取り出しては、また元の場所に戻す。そんな小さな儀式が、いつしか七海の日課の一つになっていた。

休暇明けのデスクには、山のような未処理メールが待っていた。取引先からのクレーム対応、上司からの急な仕様変更依頼、そして相変わらずの、余白を数ミリ調整するだけの修正指示。七海は機械的にそれらを処理していきながら、心のどこかが、明らかに以前とは違う場所にあることに気づいていた。

その日の夕方、工藤が修正中の画面を持ってきた。若い利用者を意識して、ボタンの色を少し鮮やかにしたらしい。

「これ、どう思いますか」

七海は反射的に「前の色に戻した方が安全かも」と言いかけ、口を閉じた。旅行前の自分なら、上司に通りやすい答えを教えていたはずだ。だが、それでは工藤の問いに答えたことにならない。

「この色にした理由、聞いてもいい?」

工藤は、想定ユーザーの年齢や視認性について説明した。全部が正しいわけではない。けれど、考えた跡は確かにあった。七海は改善点を一緒に整理し、最後に「理由を言葉にできるなら、一度提案してみよう」と伝えた。

翌日のレビューで、その案は結局、従来色に戻された。工藤は落ち込んでいたが、「高梨さんに聞いてもらえたから、次はもっと根拠を作ります」と言った。その言葉に、七海は嬉しさと痛みを同時に覚えた。自分がこの会社で欲しかったのも、採用される保証ではなく、考えたことを受け止めてもらえる時間だったのだ。

午後の定例会議では、来期の予算削減について報告があった。デザインチームの外注費が真っ先に削減対象となり、「今後は既存テンプレートの流用で対応してほしい」という方針が、特に議論もされないまま決定された。誰も異を唱えない。七海自身も、以前ならば黙って頷いていたはずだ。だがこの日は、なぜか喉の奥に小さな違和感が引っかかった。ここにいる誰もが、自分の意見を主張することの意味を、いつの間にか忘れてしまっているのではないか。そんな考えが、ふと頭をよぎった。

会議の翌週、経費精算システムの問い合わせ対応で、七海は総務部の契約社員・山口と話す機会があった。山口は五十代で、毎月末になると入力方法の質問を何十件も受けるという。

「若い人には分かるんでしょうけど、文字が薄くて見えづらいって言う人、多いんです」

七海は初めて、画面を使う人の席へ座り、実際の手順を見せてもらった。色だけでなく、項目名やエラー表示にも迷いが生じていた。会社では「既存テンプレートで十分」と言われるが、使う人の小さな困りごとは確かに残っている。

七海は勤務時間内でできる範囲の改善案を作り、山口の言葉を添えて坂本へ渡した。大規模な改修は認められなかったが、文字のコントラストとエラー文の一部は変更された。

「見やすくなったって、皆言ってます」

山口から届いた短いメールを、七海は保存した。今の会社にも、心を動かす仕事はあった。ただ、それを見つけるために毎回、制度の隙間へ自分の時間を差し込まなければならない。その事実が、残るか離れるかを考えるための、もう一つの材料になった。

定時後、七海は珍しく残業をせず、まっすぐ帰路についた。それでも足取りは重かった。オフィスビルを出て見上げた空は、今日もまた、あの曖昧な灰色に覆われている。沖縄で見た、雲ひとつない突き抜けるような青空とは、あまりにも対照的だった。

帰宅途中、七海はふと足を止め、ビルの合間から覗く狭い空を見上げた。この空の向こうに、あの海がつながっているのだと考えると、不思議な気持ちになる。同じ日本のはずなのに、まるで別の惑星の出来事のように感じられた。

心の中では、常に沖縄の海の音が鳴り響いていた。電車の走行音の合間に、ふとレギュレーターの「シュー、コー」という呼吸音が蘇る。会議室の白い壁を見つめていると、その奥にあの青い光のカーテンが透けて見えるような、そんな錯覚に陥ることさえあった。

しかし、多忙な日々に追われるうち、あの感動も次第に薄れ、いつしか「楽しかった旅行の思い出」という名の、当たり障りのないアルバムに収められてしまいそうになっていた。人間とは、こうも簡単に、大切な何かを日常の重みに押し潰されて忘れていくものなのか。七海は、その自分自身の変わり身の早さに、密かな苛立ちすら覚えていた。

旅行から二週間ほど経ったある夜、七海は残業を終え、へとへとの状態で帰宅した。コンビニで買った出来合いの惣菜を電子レンジで温めながら、意味もなくスマートフォンをスクロールしていた。SNSのタイムラインには、友人の結婚報告、同僚の飲み会の写真、見知らぬインフルエンサーの旅行記――そういった情報が、無感情に流れていく。

その指が、ふと見覚えのあるロゴで止まった。沖縄でお世話になったダイビングショップの、SNSアカウントだった。

新着投稿の通知が来ていたわけではない。ただ、指先が無意識のうちに、その名前を検索窓に打ち込んでいたのだ。まるで、体の一部が、あの海のことをまだ覚えていて、勝手に導かれるかのように。

そこには、蒼が投稿した一枚の写真があった。プロが撮ったような洗練された構図ではない。一日のダイビングを終え、港に戻る船の上で、彼と他のスタッフたちが、夕日を背にして満面の笑みを浮かべている、ありのままの一枚だった。誰かのスマートフォンで、おそらくは適当に撮られたのだろう。少しピントがぼやけていて、画角も歪んでいる。それでも、そこに写る人々の表情には、作り物ではない、本物の充実感が満ちていた。

添えられたキャプションは、拍子抜けするほど短かった。

「今日も最高の海でした! みんな、お疲れ様!」

たったそれだけの言葉。それなのに、その写真と言葉が、七海の心に鋭く突き刺さった。

これは、休暇中だけの特別な一枚ではない。彼らにとっては、仕事を終えた一日の記録なのだ。海に出られない日も、疲れて笑えない日もあるはずだ。それでも、写真の中の表情には、自分たちの仕事をやり遂げた人の手応えがあった。

七海は、電子レンジの終了音にも気づかず、しばらく画面を見つめた。旅先の印象だけでは分からない暮らしが、その写真の向こうに続いている。別の働き方を夢として眺めるのではなく、条件を調べてみようと思った。

その夜、七海はなかなか寝付けなかった。ベッドに横たわり、天井を見つめながら、頭の中では様々な考えが渦を巻いていた。今の仕事を辞めるなんて、現実的じゃない。安定した収入も、社会的な信用も、すべて手放すことになる。両親はきっと反対するだろう。友人たちにも、どう説明すればいいのか分からない。

それでも、心のどこかで、譲れない何かが確かに存在していた。

ここ数日、七海は業務の合間に、こっそりとフリーランスのウェブデザイナーについて調べるようになっていた。案件の探し方、収入の目安、確定申告の仕組み。調べれば調べるほど、それが決して楽な道ではないことが分かってくる。むしろ、その一つひとつの情報が、七海の中で、漠然とした憧れを、徐々に具体的な計画へと変えていくのを感じていた。

夜な夜な、七海は個人ブログや、フリーランスとして独立した先輩デザイナーのインタビュー記事を読み漁った。「最初の半年は貯金を切り崩す覚悟で」「営業活動が苦手な人には向かない」――そういった率直な体験談は、時に七海の背中を押し、時に不安を煽った。だが、共通していたのは、皆一様に「大変だったけど、後悔はしていない」という言葉だった。その一文を読むたびに、七海の心の天秤は、次第に「挑戦」の方へと傾いていった。

調べるだけでは、自分に仕事が取れるかは分からない。七海は試しに、知人の小さな焼き菓子店が募集していたイベント用バナー制作へ応募した。提示された報酬は一万円。会社なら数時間で終える作業だと思っていたが、依頼主の好みを聞き、写真の使用許可を確認し、修正に対応しているうちに、休日がほとんど潰れた。

納品後、依頼主から「七海さんの青、すごくお店に合っています」と連絡が来た。金額だけなら割に合わない。それでも、自分の名前で引き受け、自分で約束を守り、誰かに喜ばれたという手応えは残った。

同時に、甘くない現実も見えた。見積書の作り方も、著作権の扱いも、入金期限の決め方も、会社員時代には他部署が担ってくれていた。独立とは好きなデザインだけをすることではなく、仕事の入口から出口までを自分で背負うことだ。七海は作業時間と報酬を表にまとめ、次に同じ依頼を受けるなら、いくら必要なのかを計算した。

数字は夢を冷ますものではなかった。むしろ、何を準備すれば夢を壊さずに済むかを教えてくれた。

ある夜、七海は思い切って、独立してフォトグラファーになった大学時代の先輩に、メッセージを送ってみた。返ってきた長文の返信には、独立後の苦労話とともに、「不安なのは、まだ本気で決めきれていない証拠かもね。本気で決めたら、不安より先に行動が出てくるよ」という一文があった。その言葉が、七海の胸に深く突き刺さった。

そんな折、実家の母親から電話がかかってきた。いつも通りの、他愛のない近況報告のはずだった。だが、電話の向こうで「そういえば、沖縄旅行どうだった?」と聞かれた瞬間、七海は思わず口ごもった。

「すごく良かったよ。海が、信じられないくらい綺麗で」

「へえ、良かったね。また休み取れたら、今度はお父さんと三人で温泉旅行でも行こうか」

母の言葉に、七海は「うん、いいね」とだけ答え、それ以上、心の内を明かすことはしなかった。今の自分が抱えている漠然とした計画を口にすれば、母がどんな反応をするか、容易に想像がついたからだ。電話を切った後、七海はしばらくスマートフォンを握りしめたまま、リビングの床に座り込んでいた。

母との通話のあと、父から珍しく短いメッセージが届いた。

「旅行の写真、母さんに見せてもらった。いい顔してるな」

それだけだった。七海は返信欄に何度も文章を打っては消し、最後に「ありがとう。潜るの、怖かったけど楽しかった」と送った。父からはすぐに「怖いのにやったなら大したもんだ」と返ってきた。

父は若い頃、町工場で機械の設計をしたかったと聞いたことがある。だが祖父が倒れ、家計を支えるために営業職へ就いた。それを不幸だったとは一度も言わなかった。むしろ、家族を守れたことを誇りにしているように見えた。だからこそ七海は、自分が安定を手放したいと言えば、父の人生を否定することになるような気がしていた。

けれど、父が選んだ責任と、自分が選びたい人生は、同じ形である必要はない。家族を大切にすることと、家族と違う道を選ぶことは両立できるのかもしれない。七海はその夜、移住について調べたページを閉じずに、初めて最後まで読み切った。

親友の由紀にだけは、少しずつ本音を打ち明けるようになっていた。「最近、なんか転職でも考えてるの?」と由紀に聞かれた時、七海は「転職っていうか……もっと根本的に、生き方自体を変えたいのかもしれない」と、初めて曖昧ながらも本音に近い言葉を口にした。由紀は驚いた様子だったが、「七海がそこまで言うの、初めて聞いた」と、真剣な顔で耳を傾けてくれた。その反応に、七海は少しだけ救われた気持ちになった。誰かに、たとえ全部は理解されなくても、真剣に話を聞いてもらえるということが、これほど心強いものだとは思わなかった。

由紀と会えたのは、その翌週の午後だった。子供を保育園へ迎えに行くまでの一時間だけ、駅前のカフェで向かい合った。

「沖縄に行けば、全部うまくいくって思ってない?」

由紀は遠慮なく聞いた。七海は一瞬、責められたように感じたが、すぐには答えなかった。

「思ってるところ、あるかもしれない」

「場所が変わっても、自分はついてくるよ。私、結婚したら寂しくなくなると思ってたし、子供ができたら毎日幸せだと思ってた。でも実際は、家族がいても孤独な日はある」

由紀は冷めかけたコーヒーを見つめた。

「もちろん幸せだよ。でも、幸せとしんどさって、どっちか一つじゃないんだと思う」

七海は沖縄の写真を見せるのをやめ、代わりに、自分が怖がっていることを話した。収入、孤独、両親の反対、蒼への憧れが判断を曇らせている可能性。由紀は一つずつ聞き、「それを考えても行きたいなら、逃げるだけじゃないのかもね」と言った。

別れ際、由紀は「私も、週に一度くらい自分のために絵を描こうかな」と笑った。七海が何かを変えたいと思ったことは、誰かの今を否定することではない。二人は違う場所で、それぞれの生活を選び直せる。そのことが七海には嬉しかった。

ある日の昼休み、七海はいつものように屋上の休憩スペースでコンビニのおにぎりを食べていた。同期入社の女性社員、佐々木が隣に腰を下ろし、「最近、なんか元気ないね」と声をかけてきた。

「そう見える?」

「見える見える。旅行から帰ってきてから、なんか、心ここにあらずって感じ」

七海は少し迷った末、ぽつりぽつりと、沖縄で感じたことを話してみた。あの海の美しさ、蒼という青年の生き方、そして自分がこの東京での生活に、以前にも増して息苦しさを感じていること。話しながら、七海は自分の中でまだ曖昧だった感情が、次第に輪郭を持ち始めているのを感じていた。

佐々木は黙って耳を傾けたあと、「私には想像もつかないけど、七海がそこまで言うなら、本当にすごい場所だったんだろうね」と静かに言った。それは、賛成でも反対でもない、ただ七海の気持ちを尊重するだけの言葉だった。だがその言葉が、七海の背中を、ほんの少しだけ押してくれたような気がした。

仕事帰り、七海は駅前の書店に立ち寄った。旅行書のコーナーで、沖縄移住に関するエッセイ本を手に取る。レジに向かう足取りは、いつもより少しだけ軽かった。

その週末、決定的な出来事が起きた。七海が半年がかりで温めていた、社内向け業務システムのUIを一新する企画案が、経営会議であっさりと却下されたのだ。理由は「コストに見合わない」の一言だった。企画書を作るために費やした休日出勤の数々、上司を説得するために練った資料、そのすべてが、たった数秒の判断で無に帰した。

却下の前日、七海は課長から「ここまで作り込まなくてもよかったのに」と言われていた。会社が求めていない熱意を、自分が勝手に注いだだけなのかもしれない。その迷いがあったから、経営会議の結果を聞いた直後も、七海は誰かを責めることができなかった。

ところが、工藤が企画書を返しに来た際、付箋を一枚挟んでいた。

「私は、この画面を使ってみたかったです」

丸い字で、それだけ書かれていた。七海は付箋を手帳へ移した。採用されなかった案にも、意味はあった。問題は評価されなかったことだけではない。自分が、意味のある仕事を続けられない場所に留まることを、当然だと思い始めていることだった。

辞めるかどうかはまだ決められない。それでも、決められないまま時間に決めてもらうことだけはやめよう。七海は会社帰り、駅のホームではなく近くの公園へ向かい、ベンチでノートを開いた。左側に「残る」、右側に「離れる」と書き、それぞれの利点と怖さを、綺麗に見せようとせず並べていった。

「まあ、こういうこともあるよ。次頑張ろう」

課長は軽い調子でそう言って、七海の肩を叩いた。悪意があったわけではないのだろう。それでも、その軽さこそが、七海には一番こたえた。自分がどれほどの熱量を注いだところで、この会社では、それが正当に評価される保証はどこにもない。ただ歯車として、上から降りてくる指示をこなし続けるだけの毎日。その現実を、七海は改めて、痛いほど突きつけられた気がした。

帰りの電車の中、七海は窓に映る自分の疲れきった顔を見つめながら、静かに、しかし確かな決意を固めていた。もう迷っている時間はない。あの海が、本当に自分の心の答えなのかどうか、きちんと確かめに行く必要がある。

翌日、坂本が昼休みに七海を呼び出した。彼は却下された企画書を机へ置き、「勝手にコピーして読んだ」と前置きした。

「俺も昔、広告のデザインをやりたくてこの会社に入ったんだ。でも、気づいたら調整する側に回ってた」

坂本は自嘲するように笑った。家庭があり、住宅ローンがある。辞めたいわけではないし、今の役割にも責任を感じている。それでも七海の企画を見て、かつての自分を思い出したという。

「残ることを諦めだとは思いたくない。でも、高梨さんまで俺と同じ選び方をする必要はない」

七海は、坂本が臆病だから会議で発言しなかったのだと決めつけていた。けれど人には、見えないところで守っている生活がある。彼の選択は七海の選択と違うだけで、劣ってはいなかった。

「もし辞めるなら、会社で身につけたことを全部無駄だったことにするなよ。面倒な調整も、言葉の曖昧な人と話す力も、外に出たら使うから」

その助言は、海の写真より現実的に七海の背中を押した。七海は帰宅後、残る理由の欄に「ここで学べること」、離れる理由の欄に「学んだことを自分で使う」と書き足した。

その夜、家に帰り着いた七海は、再びあの写真を開いた。何度目になるか分からない。画面の中で笑う蒼の顔を見つめながら、七海は自分の中で、ある決意が形になりつつあることに気づいていた。

衝動的に、彼女は航空券の予約サイトを開いていた。行き先は、沖縄。今度は一人で。

今度の旅では、海の美しさだけでなく、暮らしの輪郭を確かめようと決めた。家賃、仕事、人との距離、雨の日の街。蒼に会いたい気持ちも否定しなかったが、それだけを答えにはしない。あの場所で感じたものを、自分の生活として引き受けられるのか、自分の目で確かめたかった。

予約完了の画面が表示された瞬間、七海の心臓は早鐘のように鳴っていた。恐怖と、それを上回るほどの高揚感。震える指で、七海はその画面のスクリーンショットを撮り、誰に見せるでもなく、ただ自分のフォルダに保存した。

出発までの二週間、七海は誰にも今回の旅の本当の目的を話さなかった。有給休暇の申請書には「私用のため」とだけ記入し、周囲には「また沖縄行くの?」と冗談交じりに驚かれる程度で済ませた。荷造りをしながら、七海はふと、前回の旅とは明らかに違う緊張感を覚えていることに気づいた。あの時は、友人二人と一緒の、気楽な観光旅行だった。だが今回は、たった一人で、自分の人生そのものと向き合いに行くための旅だ。キャリーケースに服を詰めながら、七海は何度も手を止め、深呼吸を繰り返していた。

窓の外では、いつもと変わらぬ東京の夜景が広がっていた。無数の光の点。その一つひとつの向こうに、七海と同じように何かに迷い、何かを諦め、あるいは何かに挑もうとしている人々がいるのだろう。そう思うと、この巨大な都市の中で、七海は初めて、自分がひとりぼっちではないような、そんな不思議な連帯感を覚えた。

ベッドに入ると、仕事が見つからなかったら、貯金が底をついたら、両親をがっかりさせたら、と不安が次々に浮かんだ。そんな夜は水中写真を開いた。怖さが消えなくても、呼吸を一つずつ整えれば次へ進める。あの海で自分が確かめた感覚が、七海を机の前へ戻してくれた。

眠れないまま迎えた朝、七海は洗面所の鏡の前で、自分の顔をまじまじと見つめた。少し疲れた顔。だが、その奥に、以前にはなかった小さな光が灯っているのを、七海は確かに見つけた気がした。

不安は残っていた。それでも、七海の心は南の海へ向かっていた。次の旅で何を持ち帰るのかは分からない。ただ、迷ったまま時間に任せるのではなく、自分で確かめに行くことだけは決めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。