第9話 俺を殺した紙を、黒雑巾で拭う
神殿記録保管室。
その扉は、まだ遠い。
白い神殿の奥。
何枚もの扉と、何重もの結界の向こう。
だが、そこへ続く前室までは、黒塵が届いていた。
埃だ。
小さな汚れだ。
アレクの靴底から落ち、神殿騎士の靴に移り、記録官の指に付いた。
誰も気づかない。
けれど、清掃係なら分かる。
汚れは、強い者の剣より、弱い埃の方が奥へ入ることがある。
俺は魔王城の床に膝をつき、血の映像を見下ろしていた。
王国神殿の白い会議室。
老神官。
勇者アレク。
聖女ミリア。
剣聖ガルド。
賢者ロギア。
そして、白い革表紙の記録簿。
俺の名前を殺すための紙。
俺を魔王城の汚染個体にするための記録。
黒雑巾が、俺の手の中で重くなった。
血を吸っている。
呪いを吸っている。
そして今は、文字の汚れを吸いたがっている。
――焦らないで。
封印の奥から、魔王の娘の声がした。
まだ名乗れない女。
名乗ろうとしただけで、鎖に焼かれる女。
今は、魔王の娘としか呼べない。
――神殿の記録は、血より厄介よ。紙に書かれた嘘は、人を何度でも殺す。
「知ってる」
俺は答えた。
「今から、俺が殺されるところだ」
血の映像が揺れる。
神殿の白い会議室で、老神官が手を上げた。
「記録官を呼べ」
扉の外から、白い法衣の男が入ってきた。
痩せた男だ。
片手に銀の筆。
もう片手に、白い革表紙の記録簿。
表紙には王国神殿の紋章。
その紋章の溝に、黒塵が一粒だけ入り込んでいた。
よし。
そこだ。
そこから入れ。
記録官は円卓の端に座る。
白い紙を広げる。
紙は綺麗だった。
何も書かれていない。
だが俺には見えた。
紙の繊維の奥に、薄い灰色の染みがある。
以前にも似たような嘘を書いた紙だ。
真実を記すための紙ではない。
真実を塗りつぶすための紙。
記録官が銀の筆を水盤につける。
清めの水。
その底に沈んでいた黒塵が、筆の先に絡みついた。
ほんの少し。
肉眼では見えない。
だが、それで十分だ。
銀の筆が、紙に触れる。
老神官が告げた。
「記録する」
記録官が書き始める。
【魔王討伐後異常報告】
【対象:レイヴ・クロウリー】
【旧所属:勇者パーティ随行清掃員】
俺の名前が書かれた。
神殿の白い紙に。
今さら。
王都の広場では、勇者が俺の名前を叫んだ。
神殿の奥では、記録官が俺の名前を書く。
俺が生きている時には、誰も呼ばなかった名前を。
俺を殺すために。
黒雑巾が震える。
俺の手に力がこもる。
――落ち着きなさい。
魔王の娘が言う。
――怒りで引けば、黒塵が焼かれるわ。
「分かってる」
分かっている。
だが、腹の底が冷える。
殺されたのは、背中だけじゃない。
名前も。
仕事も。
記録も。
全部だ。
記録官の筆が進む。
【状態:死亡】
黒い文字が、紙に染み込んだ。
俺は笑った。
喉の奥で。
低く。
「死んでない」
魔王城の床に声が落ちる。
神殿には届かない。
だが、筆先の黒塵が反応した。
紙の上の【死亡】の文字の端に、ほんの小さな滲みができた。
記録官は気づかない。
老神官も気づかない。
だが、ロギアだけが目を細めた。
見たのか。
いや、違う。
違和感を拾っただけだ。
危ない男だ。
記録官は続ける。
【魔王城残留呪詛により死体利用の疑い】
【危険区分:魔王城汚染個体】
【処分方針:再討伐対象】
紙の上で、俺は死体になった。
汚染個体になった。
討伐対象になった。
勇者たちが俺を殺そうとした夜と、同じだ。
違うのは、今度は刃ではなく筆だということ。
老神官は静かに言った。
「この記録を、王国通達用に整えろ。民衆には、清掃員の名は最小限に留める。英雄譚に不要な名だ」
アレクが少しだけ頷く。
ミリアは目を伏せている。
ガルドは不機嫌そうに腕を押さえている。
ロギアは、記録官の筆先を見ていた。
「質問があります」
ロギアが言った。
老神官の眉が動く。
「何だ」
「レイヴ・クロウリーは、勇者パーティ随行清掃員として正式登録されていましたか」
アレクがロギアを睨む。
「今それを聞く必要があるのか」
「ある」
ロギアは淡々と言った。
「正式登録されていなければ、死亡記録そのものが不自然になります。正式登録されていたなら、随行任務の内容も残っているはずです」
空気が重くなる。
老神官は笑わなかった。
記録官の筆が止まった。
俺も、息を止めた。
随行任務の内容。
俺の仕事。
血を拭ったこと。
呪いを処理したこと。
死体を片づけたこと。
聖女が処理できなかった深層呪詛を、夜中に一人で削ったこと。
残っているのか。
記録に。
神殿は知っていたのか。
老神官は、少しだけ間を置いてから言った。
「随行雑務員だ。任務内容は補助作業に過ぎない」
「補助作業の内訳は」
「不要だ」
「不要かどうかは、記録を見て判断します」
ロギア。
お前は本当に危ない。
だが、今だけはいい。
もっと踏め。
踏んではいけない白い床を、踏め。
老神官は記録官へ視線を向けた。
「補助記録を出せ」
記録官の顔がこわばる。
「しかし、あれは記録保管室の封印棚に移されております」
「前室の写しでいい。出せ」
短い命令だった。
記録官は立ち上がり、会議室奥の壁へ向かった。
そこには、小さな白い扉があった。
記録保管室へ直接つながる扉ではない。
その前にある、封印棚の控え口。
前室。
記録を出し入れするための細い喉。
そこまで届けば、いずれ奥へ行ける。
白い扉には金の鍵。
神殿の紋章。
その鍵穴に、黒塵がついていた。
記録官の指から移ったのだ。
俺は黒雑巾を床に押し当てる。
黒塵を細く伸ばす。
もっと細く。
針より細く。
鍵穴の隙間へ。
入れ。
入れ。
白い封印が焼いてくる。
じり、と指先が痛む。
俺の指ではない。
黒塵が焼ける痛みだ。
それでも、押し込む。
清掃係は知っている。
汚れは、隙間に溜まる。
なら、隙間から入れる。
鍵が回った。
小さな白い扉が開く。
中には薄い記録板が並んでいた。
白い札。
黒い文字。
その一枚に、俺の名前があった。
【勇者隊随行補助員:レイヴ・クロウリー】
記録官がそれを取り出す。
老神官の前に置く。
ロギアが覗き込む。
アレクは不機嫌そうに目を逸らす。
ミリアは、見ないようにしている。
見れば、自分の嘘がまた増えるからだろう。
ガルドは読めていないのか、苛立った顔で待っている。
老神官が記録板に手をかざした。
白い光が走る。
文字の一部が浮かび上がる。
【担当:戦闘後清掃】
【職務分類:雑務】
【功績記録:不要】
俺は鼻で笑った。
雑務。
不要。
便利な言葉だ。
だが、黒雑巾が震えた。
まだある。
表面の下だ。
俺は黒塵を記録板の端へ移す。
白い光に触れないように。
文字の溝の奥へ。
拭う。
紙ではない。
板でもない。
記録の表面にかぶせられた、白い嘘を。
ごしり。
頭の奥で音がした。
黒雑巾で床を拭く音に似ていた。
記録板の文字が、一瞬だけ乱れる。
ロギアの目が見開かれた。
見えたな。
そこに、本当の文字が浮いた。
【特殊処理適性:高】
【呪詛残滓吸着反応:確認】
【深層汚染処理補助:有効】
【聖女浄化後残留物の処理実績:複数】
ミリアの顔が真っ白になった。
白い顔。
だが、聖女の白ではない。
怯えの白だ。
「それは……」
彼女の声が震える。
アレクが記録板を見る。
「何だ、それは」
老神官の手が動いた。
白い光で文字を押さえ込む。
すぐに表面の文字へ戻る。
【職務分類:雑務】
【功績記録:不要】
だが、遅い。
ロギアは見た。
ミリアも見た。
アレクも、少しは見た。
俺も見た。
神殿は知っていた。
俺の力を。
俺の仕事を。
聖女が残した汚れを、俺が処理していたことを。
知っていたうえで、雑務にした。
功績不要にした。
名前を消した。
俺の奥で、何かが軋んだ。
「お前ら……」
声が低くなる。
魔王城の床が震えた。
血が細かく波立つ。
――レイヴ。
魔王の娘の声がする。
――怒りを散らさないで。そこよ。その記録よ。それは汚れの芯に近い。
「分かってる」
俺は歯を食いしばった。
まだ全部は拭けない。
だが、印をつける。
この記録は汚れている。
後で必ず戻る。
黒塵が記録板の端へ染みを残した。
小さな黒点。
白い封印の下に潜った点。
記録官は気づかない。
老神官も、まだ気づかない。
だが、魔王城の床に文字が浮かぶ。
【記録汚染標識:付着】
【対象:レイヴ・クロウリー随行補助記録】
【関連汚染:功績隠蔽/職務偽装/聖女功績転嫁】
封印の奥で、鎖が鳴った。
外殻のどこかに、髪ほどの亀裂が入る音がした。
数字は出ない。
だが分かる。
削れた。
ほんの少し。
女が、低く笑った。
――あなた、本当に掃除向きね。紙の嘘まで拭けるなんて。
「まだ拭けてない」
――印をつけた。それだけで十分よ。次にそこへ戻れる。
老神官は記録板を閉じた。
「この補助記録は封印する」
ロギアが問う。
「なぜです」
「魔王城の干渉を受けた可能性がある」
「干渉されたから封印するのですか。それとも、見られたくないから封印するのですか」
老神官はロギアを見た。
目が、冷たい。
「賢者ロギア。君は少し疲れている」
「そうかもしれません」
「休みなさい」
「休む前に、私的記録を整理します」
「その記録も提出しなさい」
「提出すべきものは提出します」
全部とは言わなかった。
老神官も気づいた。
だが、今ここで責めなかった。
理由は分かる。
今、ロギアを追い詰めると、勇者パーティの亀裂が民衆の前まで広がる。
神殿は隠したい。
アレクも隠したい。
ロギアは、それを分かっている。
嫌な男だ。
使えるが、信用できない。
老神官は記録官へ命じた。
「死亡記録を続けろ」
記録官の筆が再び動く。
【レイヴ・クロウリー】
【死亡確認:勇者アレクの証言により確定】
【現出個体:魔王城呪詛による擬似生命反応】
そこで、黒塵が筆先に絡んだ。
銀の筆が、ほんの少し震える。
記録官の手も震えた。
紙の上に、一文字だけ、違う線が混じる。
【死亡確認:未確認】
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
その文字が浮いた。
ロギアが見た。
記録官も見た。
老神官の顔が変わった。
次の瞬間、白い光が紙面を焼き、文字は元へ戻る。
【死亡確認:勇者アレクの証言により確定】
だが、もう遅い。
未確認。
その言葉は、ロギアの中に入った。
記録官の中にも。
そして老神官の怒りの中にも。
「筆を替えろ」
老神官が言った。
声が低い。
「この筆は汚染された」
記録官が青ざめる。
「申し訳ありません」
「筆を焼却。水盤も浄化し直せ」
水盤の底が白く光る。
黒塵が焼かれる。
視界が一気に狭まった。
痛みが走る。
目の奥が焼けるようだ。
俺は黒雑巾を床から離さない。
もう少し。
もう少しだけ。
前室の奥に、さらに白い扉が見えた。
大きな扉。
銀の鍵が三つ。
その上に、黒い文字が小さく浮いている。
【記録保管室】
見えた。
次の掃除場所。
そこに、俺を殺した紙の原本がある。
勇者候補者の記録も。
魔王の娘の名前を封じた記録も、おそらく。
黒塵が焼ける。
映像が崩れる。
最後に、ロギアの声が聞こえた。
「老神官猊下」
「何だ」
「レイヴ・クロウリーの死体確認は、本当に不要なのですね」
「不要だ」
「承知しました」
ロギアは静かに言った。
「では、その事実を記憶しておきます」
老神官の顔は見えなかった。
そこで視界が切れた。
魔王城の床に、黒い煙が立ち上る。
黒塵の一部が焼かれた。
だが、全部ではない。
黒雑巾の端に、小さな白い灰がついていた。
神殿の白い封印が焼いた跡。
俺はそれを指で拭う。
灰の下から、黒い点が残っていた。
生き残った黒塵だ。
【黒塵追跡:一部焼損】
【取得断片:死亡記録/随行補助記録/特殊処理適性/功績隠蔽】
【次回侵入候補:神殿記録保管室】
俺は息を吐いた。
怒りで、喉が乾いている。
神殿は知っていた。
俺を雑用にした。
俺の仕事を消した。
ミリアの功績にした。
そして今、俺を紙の上で殺した。
許せるわけがない。
――レイヴ。
魔王の娘が呼ぶ。
「何だ」
――今、少しだけ鎖が緩んだわ。
「そうか」
――あなたの怒りのおかげね。
「違う」
俺は黒雑巾を握った。
「神殿の汚れのおかげだ」
女が笑った。
――いい答え。
俺は床に残った血を見下ろした。
そこに、記録板に浮かんだ文字が焼きついている。
【特殊処理適性:高】
【聖女浄化後残留物の処理実績:複数】
俺はそれを見て、奥歯を噛んだ。
「知ってたんだな」
誰もいない魔王城に、俺の声が落ちる。
「俺が何をしてたか。全部、知ってたんだな」
黒雑巾が震えた。
慰めではない。
同意でもない。
ただ、喰えと言っている。
その怒りを喰え。
その記録を喰え。
その汚れを力に変えろ。
俺は立ち上がった。
「次は記録保管室だ」
血の床に、黒い道が伸びる。
王国神殿へ続く、細い細い埃の道。
まだ届かない。
でも、道はある。
「俺を殺した紙を見つける」
黒雑巾を肩にかける。
「それから、俺の仕事を盗んだ記録を全部拭き出してやる」
魔王城の奥で、鎖がまた一つ鳴った。
女の声が、少しだけ近く聞こえた。
――楽しみにしているわ、管理者。
「俺もだ」
俺は笑った。
低く。
冷たく。
「神殿の紙は、よく燃えそうだ」
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現在のステータス
名前レイヴ・クロウリー
立場元・勇者パーティ清掃係/魔王城新管理者
スキル《穢れ喰い》
装備《黒雑巾》/《黒モップ:仮解放中断》
支配権限魔王城の地下廃棄層・宝物庫前結界・血紋罠・封鎖扉・偽聖堂跡・黒塵追跡の限定解放
復讐対象勇者アレク、聖女ミリア、剣聖ガルド、賢者ロギア、王国神殿




