第10話 記録保管室の紙は、血より汚れていた
神殿記録保管室。
そこは、白い神殿の奥にあった。
扉は三重。
鍵も三つ。
白銀の鎖。
聖印。
封印札。
清めの水が溝を流れ、黒いものを一切通さないように作られている。
なるほど。
綺麗な場所だ。
だから、余計に臭う。
血の匂いではない。
死体の匂いでもない。
紙の匂い。
インクの匂い。
削られた名前。
書き換えられた功績。
なかったことにされた死。
そういうものが、白い扉の向こうに詰まっている。
黒塵は、まだ扉の前にいた。
焼かれかけた粒がひとつ。
記録官の袖に残った粒がひとつ。
ロギアの杖の先に付いた粒がひとつ。
細い。
弱い。
だが、残っている。
俺は魔王城の床に片膝をつき、黒雑巾を押し当てた。
「行け」
声に出す。
命令ではない。
祈りでもない。
ただ、掃除を始める時の合図だ。
黒塵が動いた。
白い扉の下。
ほんのわずかな隙間。
そこへ潜り込む。
じゅ、と音がした。
神殿の封印が焼いてくる。
視界が白く弾ける。
痛みが、指先ではなく、目の奥に来た。
「……っ」
俺は歯を食いしばる。
黒雑巾が、俺の手の中で震えた。
逃げるな、と言っているみたいだった。
逃げるかよ。
俺を殺した紙が、向こうにある。
俺の仕事を盗んだ記録が、向こうにある。
俺の名前を汚染個体にした白い嘘が、向こうにある。
ここで退くわけがない。
――無理に押すと、黒塵が全部焼けるわ。
封印の奥から、魔王の娘の声がした。
前より少し近い。
第9話で、外殻が削れたからだろう。
それでもまだ、鉄格子の向こう。
鎖の音は重い。
「なら、どうする」
――清掃係なのでしょう。汚れは正面から削るだけじゃないはずよ。
俺は扉を見る。
白い扉。
聖印。
清めの水。
鍵穴。
隙間。
蝶番。
そして、扉の下に溜まった埃。
白い神殿でも、埃はある。
人が歩けば落ちる。
紙を運べば繊維が舞う。
香油を焚けば煤が残る。
清浄を名乗っても、完全な無垢など存在しない。
俺は黒雑巾を握り直した。
「下だな」
――正解。
黒塵は、扉そのものではなく、扉の下に積もった白い埃へ潜った。
白い埃。
神殿の床を拭いた布から落ちた繊維。
記録紙の粉。
封印札の端から剥がれた微細な紙片。
そこに混ざる。
黒を白に隠す。
ミリアがやってきたことと、逆だ。
白の中に黒を潜らせる。
視界が少しだけ安定した。
扉の向こうが見える。
記録保管室。
白い棚が、奥まで並んでいた。
壁一面。
天井まで。
紙。
記録板。
封印箱。
名簿。
死亡記録。
功績記録。
勇者制度記録。
聖女制度記録。
魔王関連記録。
全部、白い。
全部、整っている。
反吐が出るほど。
黒塵は棚の足元を這った。
まだ自由には動けない。
結界が強い。
息をするだけで焼かれるような場所だ。
だが、入った。
入ったぞ。
魔王城の床に文字が浮かぶ。
【黒塵追跡:神殿記録保管室へ侵入】
【侵入経路:扉下部堆積塵】
【記録汚染読取:条件成立】
黒雑巾が、どくん、と脈打った。
いつもの反応ではない。
血を喰う時とも、呪いを吸う時とも違う。
紙の奥に染みた嘘。
改竄された名前。
消された行。
それを、黒雑巾が嗅ぎ分け始めた。
視界に、黒い文字が滲む。
【《穢れ喰い》派生反応】
【記録汚染読取:初期解放】
頭の奥で、何かが開いた。
気持ち悪い感覚だった。
目が増えたような。
鼻が紙の奥に潜ったような。
耳が文字の下の沈黙を聞くような。
神殿記録保管室の白い棚が、少し違って見える。
ただの棚ではない。
汚れている棚が分かる。
汚れの濃い記録が分かる。
俺の名前に近い汚れ。
ミリアの白い嘘に近い汚れ。
勇者候補者という言葉に近い汚れ。
そして、魔王の娘の名前を封じた、鋭い汚れ。
全部が、黒い点として見える。
「……見える」
俺は呟いた。
――何が?
「紙の汚れだ」
魔王の娘が、少しだけ沈黙した。
それから、低く笑う。
――本当に、嫌な力ね。
「褒めてるのか」
――ええ。とても。
黒塵が、最初の棚へ向かった。
小さな札がついている。
【臨時死亡記録】
その中に、俺の汚れがあった。
白い封筒。
銀の紐。
封印印。
記録官がさっき書いていた紙の控えだ。
原本ではない。
だが、新しい。
まだインクが乾ききっていない。
黒塵が封筒の端に触れる。
白い封印が焼いてくる。
だが、今度は違う。
黒雑巾が、魔王城側から反応した。
封筒の上に、薄い黒い染みが浮く。
文字が透ける。
【レイヴ・クロウリー】
【死亡確認:勇者アレクの証言により確定】
【現出個体:魔王城呪詛による擬似生命反応】
まただ。
また、俺は紙の上で殺されている。
胸の奥が冷える。
黒雑巾が震えた。
喰え、と。
俺は黒塵を通じて、封筒の端を拭った。
ごしり。
音はしない。
けれど、魔王城の床では確かに聞こえた。
紙を拭く音。
嘘の表面を削る音。
文字の端が滲む。
【死亡確認:未確認】
また浮いた。
今度は、前より長く。
数息分。
それだけで十分だった。
魔王城の床に、その文字が焼き付く。
【死亡記録改竄痕:取得】
【矛盾点:死体未確認/本人確認未実施/勇者証言依存】
俺は笑った。
「取ったぞ」
――何を?
「俺を殺した紙の、汚れの端だ」
――端だけ?
「端だけでいい」
俺は黒雑巾を見下ろした。
そこに、小さな白い紙片のような染みが浮いている。
神殿の記録の欠片。
俺の死亡記録の矛盾。
小さい。
だが、証拠だ。
「これを広げれば、紙の上で俺を生き返らせられる」
――あなた、嬉しそうね。
「嬉しいわけじゃない」
――また嘘。
「ざまあないと思っただけだ」
魔王の娘は、くすりと笑った。
黒塵は次の棚へ向かった。
【随行補助記録】
ここだ。
第9話で見た記録板。
俺の仕事を雑務にした記録。
功績不要にした記録。
聖女の残した呪いを、俺が処理していたと知っていた記録。
棚は白い鎖で巻かれている。
前より封印が強い。
老神官が気づいたからだ。
俺が印をつけた記録を、すぐに封じた。
仕事が早い。
汚れを隠すことだけはな。
黒塵が近づくと、鎖が白く光った。
焼かれる。
入れない。
正面からは。
俺は棚の下を見た。
白い床。
埃。
紙片。
古いインクの粉。
そして、記録板を出し入れした時に落ちた、小さな黒い削りかす。
前に俺がつけた標識だ。
残っていた。
消しきれていない。
「そこだ」
黒塵が、黒い削りかすに触れる。
魔王城の床が震えた。
道がつながる。
細い。
すぐ切れそうな道。
だが、通れる。
記録板の表面が、遠くに見えた。
【勇者隊随行補助員:レイヴ・クロウリー】
【職務分類:雑務】
【功績記録:不要】
白い嘘。
その下を、黒雑巾で拭う。
今度は、全部を出そうとしない。
前は怒りで引きずり出しすぎた。
今回は、細く。
必要な一行だけ。
黒雑巾の端が、文字の裏をなぞる。
【聖女浄化後残留物の処理実績:複数】
浮いた。
続けて、もう一行。
【処理者名:レイヴ・クロウリー】
俺の手が止まった。
あった。
神殿の記録には、あった。
俺の名前が。
処理者名として。
清掃係ではなく。
雑務ではなく。
処理者として。
それを、神殿は消した。
ミリアの功績にした。
俺は息を吸った。
怒鳴りそうになった。
でも、やめた。
怒りすぎると、逆に冷える。
今は冷えたままでいい。
凍った怒りの方が、よく切れる。
黒雑巾が、記録の一部を吸う。
【功績隠蔽痕:取得】
【処理者名改竄痕:取得】
【聖女功績転嫁痕:取得】
小さな黒い染みが、黒雑巾に三つ浮かんだ。
紙の汚れ。
名前の汚れ。
功績の汚れ。
俺は低く笑った。
「ミリア」
声は神殿に届かない。
だが、いずれ届かせる。
「お前の白さ、もう紙の下から剥がれてるぞ」
――楽しそうね。
魔王の娘が言う。
「楽しいんじゃない」
――はいはい。
適当な返事だった。
毒舌だな、本当に。
黒塵はさらに奥を見た。
棚の一番下。
普通なら目に入らない場所。
そこに、薄い封印箱があった。
札には、こう書かれている。
【勇者候補者関連】
俺の中で、空気が変わった。
白い石棺。
第七号。
記録抹消。
聖剣に拒まれた血。
幼いアレクの記憶。
全部が、一瞬でつながりかける。
だが、ここで全部は見るな。
第9話で学んだ。
深く覗けば、神殿の封印が脳を焼きに来る。
今回は、端だけ。
端を拭く。
黒塵が封印箱へ近づく。
その瞬間、白い鎖が蛇のように動いた。
速い。
黒塵を潰しに来る。
「ちっ」
俺は黒雑巾を引く。
だが、ほんの少しだけ触れた。
箱の角に。
角の汚れを拭った。
一文字だけ、浮かぶ。
【第七号:名――】
そこまで。
白い封印が黒塵を焼いた。
視界が弾ける。
頭が割れるように痛む。
血の味がした。
俺は魔王城の床に手をついた。
「ぐ……っ」
黒雑巾の端が焦げている。
神殿の封印に焼かれたのだ。
だが、取れた。
一文字ではない。
断片だ。
第七号には、名前があった。
番号だけではなかった。
名を消されたのだ。
俺と同じように。
魔王の娘と同じように。
名前を奪われた誰か。
黒雑巾の焦げ跡に、薄い文字が浮かぶ。
【勇者候補者記録断片:取得】
【内容:第七号に名称記録あり】
【名称部:封印未解除】
魔王の娘の鎖が、がしゃりと鳴った。
強く。
今までよりも近い音だった。
――名前を消す記録……。
声が低い。
怒っている。
静かに。
深く。
――やっぱり、同じ手口ね。
「お前の名前も、あそこにあるのか」
――可能性は高いわ。王国神殿は、名前を奪ってから封じる。名前が残っていると、呼ばれるから。
「呼ばれると、どうなる」
――鎖が緩む。
俺は封印区画の方を見た。
「なら、お前の名前を探す」
――簡単に言うわね。
「簡単じゃないから、掃除するんだろ」
少し沈黙。
それから、彼女は笑った。
――本当に、あなた嫌いじゃないわ。
「それはどうも」
記録保管室の映像が揺らぐ。
封印箱に触れたせいで、神殿側が反応している。
奥から鐘の音が聞こえた。
低い警鐘。
記録室内の白い札が揺れる。
【異物反応】
【記録汚染検知】
【浄化開始】
まずい。
消される。
黒塵が一斉に焼かれ始めた。
紙棚の下。
扉の隙間。
筆の跡。
水盤の底。
全部に白い火が走る。
俺は黒雑巾を広げた。
燃えている黒塵を、こちらへ引き戻す。
全部は無理だ。
だが、取った断片だけは逃がさない。
死亡記録改竄痕。
功績隠蔽痕。
処理者名改竄痕。
聖女功績転嫁痕。
勇者候補者第七号の名称断片。
これだけは持ち帰る。
白い火が追ってくる。
魔王城の床まで伸びてくるような感覚。
黒雑巾が焦げる。
俺の掌も焼ける。
血が滲む。
それでも、離さない。
「持って帰るぞ」
――急ぎなさい!
魔王の娘の声が、初めて少し焦った。
「言われなくても」
俺は黒雑巾を引き絞った。
濡れた布を絞るように。
黒塵の道が細くなり、切れる。
その直前。
記録保管室の白い扉が、少しだけ開いた。
誰かが入ってきた。
ロギアだ。
なぜここにいる。
単独か。
老神官に許可されたのか。
いや、違う。
あの顔は、許可を取った顔じゃない。
勝手に来た顔だ。
ロギアは記録保管室の入口で足を止めた。
黒塵の焼け跡を見る。
白い棚の下に残った、わずかな黒い煤。
彼はしゃがみ込み、それを指先で触れようとした。
その瞬間、白い封印がロギアの指を弾いた。
「……なるほど」
ロギアが呟く。
聞こえた。
黒塵の最後の視界が、彼の口元を映す。
「ここに来たのか、レイヴ」
俺の名前。
小さく。
誰にも聞こえない声で。
ロギアが呼んだ。
視界が切れる。
魔王城へ戻る。
黒雑巾が、俺の手の中で重く垂れた。
焦げている。
端が白く灰になっている。
だが、その中に黒い染みが残っていた。
五つ。
死亡記録。
功績隠蔽。
処理者名改竄。
聖女功績転嫁。
勇者候補者第七号。
全部、取った。
全部、まだ断片だ。
だが、断片で十分だ。
床に文字が浮かぶ。
【記録汚染断片:回収成功】
【記録汚染読取:初期安定】
【黒塵追跡:一部焼損/経路再構築可能】
【魔王血族拘束室:外殻封印に亀裂拡大】
封印区画の方で、鎖が鳴った。
今度は、一本だけ。
軽い音。
切れたわけではない。
でも、緩んだ。
血の向こうに、魔王の娘の姿が少しだけ濃く映る。
赤い瞳。
黒い髪。
封印鎖。
そして、手。
細い指が、鉄格子の隙間からほんの少し出ていた。
前は見えなかった手だ。
彼女は自分の指を見て、少しだけ目を細めた。
――……久しぶりに、指先が軽いわ。
「よかったな」
――同情?
「成果確認だ」
――でしょうね。
彼女は笑う。
痛そうに。
でも、楽しそうに。
俺は黒雑巾の上の染みを見た。
紙の嘘。
神殿の汚れ。
俺を殺した記録。
俺の功績を奪った記録。
そして、名前を消された誰かの記録。
まだ足りない。
まだ小さい。
でも、初めて神殿の内側から汚れを持ち帰った。
黒雑巾が、どくりと鳴る。
今までより、少しだけ重い。
だが、その重さは嫌ではなかった。
武器の重さだ。
証拠の重さだ。
復讐の重さだ。
「ロギアに気づかれた」
俺は言った。
――賢者でしょう。気づくわよ。
「どうする」
――利用しなさい。向こうも、あなたを利用するつもりよ。
「分かってる」
あいつは味方じゃない。
だが、アレクの言いなりでも、神殿の犬でもない。
真実を欲しがっている。
危険なやつだ。
危険なやつは、汚れを踏む。
そして汚れを運ぶ。
清掃係にとっては、目印になる。
俺は黒雑巾を肩にかけた。
焦げた端から、白い灰が落ちる。
床に落ちた灰が、黒く変わる。
魔王城が喰った。
「次は、ロギアの記録も掃除する」
――順番が増えたわね。
「掃除する場所が多すぎるんだよ」
――嫌そうに聞こえないわ。
「嫌だよ」
俺は言った。
「でも、やる」
記録保管室。
死亡記録。
随行補助記録。
勇者候補者。
魔王の娘の名前。
そしてロギア。
糸が増えていく。
汚れが絡まり始めている。
それをほどくのは、きっと面倒だ。
けれど、俺は知っている。
酷い汚れほど、最初はどこから手をつければいいか分からない。
だから、端からやる。
小さい染みから。
隙間の埃から。
紙の端の黒ずみから。
最後には、床ごと剥がす。
俺は黒雑巾を握った。
「まずは俺の死亡記録だ」
魔王城の奥が、低く鳴る。
「死んでないってことを、神殿の紙に教えてやる」
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現在のステータス
名前レイヴ・クロウリー
立場元・勇者パーティ清掃係/魔王城新管理者
スキル《穢れ喰い》/《記録汚染読取:初期解放》
装備《黒雑巾》/《黒モップ:仮解放中断》
支配権限魔王城の地下廃棄層・宝物庫前結界・血紋罠・封鎖扉・偽聖堂跡・黒塵追跡の限定解放
復讐対象勇者アレク、聖女ミリア、剣聖ガルド、賢者ロギア、王国神殿




