第7話 封印された魔王の娘は、復讐を止めなかった
魔王城の奥で、女の声がした。
若い声だった。
だが、軽くはない。
血の底に沈んだ刃みたいに、冷たく、硬い。
――やっと、管理者が戻ったのね。
俺は黒雑巾を握ったまま、宝物庫前の床を見下ろしていた。
魔王の血が、まだ石の継ぎ目に残っている。
勇者アレクが魔王を討った時に飛び散った血。
俺が清掃しきる前に、背中を刺され、地下へ落とされた場所。
そこに、声が混ざっていた。
魔王の声ではない。
もっと若い。
もっと鋭い。
そして、怒っている。
「誰だ」
俺が問うと、床の血が薄く波打った。
黒雑巾が、勝手に血を吸い上げる。
吸い込まれた血の奥に、ぼんやりと景色が浮かんだ。
鉄格子。
黒い鎖。
紫の炎。
白い釘。
壁に打ち込まれた、王国神殿の紋章。
そこに、誰かが座っていた。
少女。
いや、少女と呼ぶには、その目が古すぎる。
長い黒髪。
額から伸びる、小さな角。
細い首に絡む封印鎖。
薄い唇。
赤い瞳。
その瞳だけが、暗闇の中でこちらを見ていた。
――名乗る前に、そちらが名乗りなさい。新しい管理者。
「レイヴ・クロウリー」
俺は答えた。
「元・勇者パーティの清掃係だ」
少しだけ、沈黙があった。
それから、血の向こうで女が笑った。
――清掃係。
嘲笑ではなかった。
面白がるような、低い笑い。
――よりによって、清掃係が魔王城の管理者になるなんて。皮肉ね。
「俺もそう思う」
――でも、悪くないわ。
鉄格子の向こうで、彼女はゆっくりと顔を上げた。
――この城はずっと、汚れを押し込められてきた。血も、呪いも、死体も、記録も。誰かが掃除しなければ、腐るだけだった。
「お前は誰だ」
俺はもう一度聞いた。
女の赤い瞳が細くなる。
答える前に、床に文字が滲んだ。
【封印区画:魔王血族拘束室】
【収容対象:識別封鎖】
【王国神殿封印:稼働中】
【管理者権限不足】
名前だけが出ない。
そこだけが、黒く塗り潰されている。
女が、つまらなさそうに舌打ちした。
――まだ名前も読めないのね。
「悪いな。管理者になったばかりでな」
――謝らなくていいわ。弱い管理者に期待するほど、私も優しくない。
「ずいぶんだな」
――事実でしょう。
俺は笑った。
気に入った、とは言わない。
だが、嫌いではなかった。
泣きついてこない。
助けてくれとも言わない。
媚びない。
俺の怒りを、気味悪がらない。
ただ、こちらを見ている。
同じ汚れの底に落ちた者を見るように。
――勇者たちは?
「外に出した」
女の目がわずかに動く。
――逃がしたの?
「排出した」
――言い方を変えただけではなくて?
「逃がしたわけじゃない。黒塵をつけた。王都まで追う」
少しの間、女は黙った。
それから、笑った。
今度ははっきりと。
――いいわね。殺すより悪い。
「殺すより悪い?」
――殺せば、その場で終わる。王都では勇者が殉教者になる。聖女が泣き、神殿が祈り、民衆が花を捧げる。そうして、また白い嘘が増える。
彼女の声が、少し低くなった。
――生かして戻せば、汚れは自分から歩く。嘘を吐き、隠し、誰とつながっているかを見せる。
俺は黒雑巾を見た。
その通りだ。
こいつは分かっている。
復讐を止めない。
綺麗事を言わない。
俺があいつらを殺さなかった理由を、すぐに理解した。
「お前、魔王の血族か」
女は答えなかった。
だが、目は逸らさない。
――あなたは、魔王を殺した勇者たちを憎んでいるの?
「憎んでいる」
――父を殺したから?
「違う」
俺は即答した。
「俺を殺そうとしたからだ。俺の名前を奪ったからだ。俺の仕事を奪ったからだ。俺の痛みを、あいつらの勝利に塗り込めたからだ」
血の向こうで、女が静かに聞いている。
「魔王のために怒ってるわけじゃない」
――正直ね。
「綺麗な復讐なんて、持ってない」
――いらないわ。綺麗な復讐なんて、だいたい嘘よ。
その言葉で、俺は彼女を少しだけ信用した。
少しだけだ。
全部ではない。
この城には、まだ汚れが多すぎる。
魔王の血族だからといって、味方とは限らない。
だが。
今の言葉は、悪くなかった。
床の血が揺れる。
別の景色が混ざった。
王都。
まだぼやけている。
黒塵追跡の視界だ。
完全には見えない。
だが、勇者パーティが魔王城を出たことは分かった。
アレクの靴底に、黒い塵がついている。
ミリアの法衣の裾にも。
ガルドの大剣の傷にも。
ロギアの杖の先にも。
小さな汚れ。
だが、俺には見える。
王都の転移門に、白い光が落ちた。
歓声が上がる。
勇者が帰還した。
そう叫ぶ声が、遠く滲んで聞こえる。
――見えるの?
女が聞いた。
「少しだけな」
――なら、見なさい。白い街は、魔王城より汚れていることがある。
黒い染みの中に、王都の広場が映る。
花。
旗。
人々の歓声。
勇者アレクが、聖剣を掲げていた。
掌の火傷は、白い手袋で隠している。
聖剣の黒筋も、遠目には見えない。
民衆は気づかない。
「勇者様!」
「魔王討伐、おめでとうございます!」
「人類の勝利だ!」
アレクは笑っていた。
さっきまで崩れかけていた顔ではない。
もう、勇者の顔を被っている。
早い。
さすがだ。
嘘を着るのがうまい。
「魔王は討った!」
アレクの声が広場に響く。
「だが、魔王城に異変が起きた!」
歓声が少し止まる。
ミリアはアレクの横に立っていた。
法衣の裾の黒染みは、布を重ねて隠している。
だが、歩くたびに黒が滲む。
本人だけが、それを気にしている。
顔は笑っているのに、指先が裾を押さえている。
民衆に手を振った瞬間だった。
ミリアの袖口から、黒い染みが一筋、白い布の上へ浮いた。
ほんの細い線。
遠目には影にしか見えない。
だが、ミリアだけは気づいた。
笑顔が、一瞬だけ凍る。
彼女は慌てて手を下ろし、袖口を反対の手で隠した。
それでも民衆は叫ぶ。
「聖女様!」
「聖女ミリア様!」
「どうか、祝福を!」
祝福。
その言葉を聞いた時、ミリアの喉が小さく鳴った。
それでも彼女は、笑った。
白い顔で。
黒い染みを握り潰しながら。
ガルドは後ろにいた。
大剣を肩に担いでいる。
だが右腕は使っていない。
左手だけで無理やり支えている。
剣聖の顔を作っているが、額には脂汗が浮かんでいる。
少年が一人、声を上げた。
「剣聖様! 剣を振ってください!」
ガルドの顔が強張る。
ほんの一瞬。
右腕の罪の腕輪が、布の下で脈打った。
剣の刃から、小さな声が漏れた。
――触るな。
ガルドの左手が震える。
それでも彼は歯を剥くように笑った。
「あとでな」
民衆には、気づかれない。
でも、本人には分かっている。
もう前みたいには振れない。
ロギアは一番後ろで沈黙していた。
民衆を見ていない。
神殿の塔を見ている。
その目は、もう以前と違う。
「魔王城の残留呪詛が、我らの清掃係だった男の死体を取り込んだ!」
アレクが叫ぶ。
広場がざわめく。
「レイヴ・クロウリーは死んだ! だが、その肉体が魔王城に利用され、新たな魔王の器となった!」
見事だ。
俺は喉の奥で笑った。
死体にしたのは自分だ。
刺したのも自分だ。
落としたのも自分だ。
それを、魔王城のせいにする。
白い広場の上で。
王都の民衆の前で。
勇者は、また俺を殺した。
今度は言葉で。
――怒らないの?
封印の向こうから、女が聞いた。
「怒ってる」
――そうは見えないけれど。
「怒りすぎると、逆に冷えるんだよ」
黒雑巾が俺の手の中で重くなる。
「今すぐあの口を裂きたい。でも、まだだ」
アレクは続ける。
「我々は再討伐の準備を整える! 王国神殿と共に、魔王城に生まれた新たな災厄を討つ!」
民衆が再び歓声を上げる。
だが、その中に小さなざわめきが混じっていた。
「清掃係?」
「勇者パーティに、そんな人がいたのか?」
「死んだの?」
「名前、レイヴって……」
俺はその声を聞いた。
小さい。
まだ本当に小さい。
だが、ある。
名もなき清掃係ではない。
アレクが俺の名前を出した。
嘘を作るために。
そのせいで、俺の名前は王都に落ちた。
黒塵のように。
――馬鹿な勇者ね。
女が言った。
――消したい名前を、自分で広場に撒いた。
「ああ」
俺は笑った。
「掃除しやすくなった」
その時、王都の広場に神官たちが現れた。
白い法衣。
金の刺繍。
王国神殿の紋章。
先頭に立つ老神官が、アレクの前に進み出る。
アレクは膝をつきかけた。
だが、その前に老神官が手を上げる。
「勇者アレク。よくぞ魔王を討った」
声は穏やかだった。
だが、黒塵越しでも分かる。
汚れている。
白い法衣の下に、薄い黒が何層も重なっている。
老神官の視線が、アレクの手袋に一瞬だけ向いた。
気づいたか。
聖剣の火傷に。
それとも、聖剣の黒筋に。
ミリアの袖口にも、視線が動く。
ガルドの腕にも。
ロギアの沈黙にも。
全部を一瞬で見た。
そして、何も見なかった顔をした。
こいつも同じだ。
見ないふりがうまい。
――神殿の犬ね。
女の声が冷たくなる。
「知っているのか」
――嫌というほど。
老神官は民衆へ向き直る。
「魔王城の残留呪詛は、最後の抵抗を始めたようだ。だが恐れることはない。勇者は帰還した。聖女も、剣聖も、賢者も健在である」
ミリアの指が、袖口の黒染みを握る。
ガルドの腕が震える。
ロギアは黙っている。
健在。
その言葉が、ひどく白々しい。
「神殿はただちに、魔王城再浄化の儀を執り行う」
広場が沸く。
神殿騎士が剣を掲げる。
民衆が祈る。
アレクは、ほっとした顔をした。
自分の嘘に、神殿が白布をかけてくれたからだ。
だが、ロギアだけは老神官を見ていた。
見すぎていた。
老神官も、それに気づいた。
ほんの一瞬。
二人の目が合う。
その間に、何かが通った。
警告か。
牽制か。
それとも、過去のつながりか。
黒塵の視界が揺らぐ。
神殿の結界だ。
王都の中心に近づくほど、黒塵の映像が薄くなる。
やはり万能ではない。
追えるが、覗き続けるには抵抗が強い。
俺は無理に見ようとしなかった。
今は十分だ。
アレクは嘘を作った。
神殿はそれに白布をかけた。
民衆は歓声を上げた。
ミリアは黒染みを隠し、ガルドは罪の腕輪を隠し、ロギアは考え始めた。
汚れは、王都で広がった。
俺が望んだ通りに。
黒い染みの中の王都が、ゆっくり薄れていく。
最後に、ロギアがこちらを見たような気がした。
まさかな。
黒塵に気づいたのか。
それとも、ただ考えていただけか。
どちらにしても、やはりあいつは危険だ。
視界が切れた。
魔王城の血が、床に戻る。
俺は息を吐いた。
疲れていた。
傷が痛い。
聖剣に焼かれた頬も、まだ熱い。
黒雑巾は血を吸って重くなっている。
それでも、胸の奥は冷えていた。
王都の歓声を聞いても、怒りは消えない。
むしろ、深くなった。
――見たでしょう。
封印の女が言った。
――あれが白い人間の街よ。
「白いな」
――ええ。表面だけ。
「掃除しがいがある」
――あなた、本当に清掃係なのね。
「元、だ」
――いいえ。今もよ。
女は静かに言った。
――ただし、今のあなたが掃除するのは床ではない。国よ。制度よ。歴史よ。そこに塗られた白い嘘よ。
俺は返事をしなかった。
言われなくても分かっている。
でも、口に出されると重い。
国。
制度。
歴史。
そんなものを掃除する力が、今の俺にあるのか。
黒雑巾が震えた。
答えるように。
喰え、と。
汚れを喰え、と。
そうすれば届く、と。
俺は封印区画の方を見た。
「お前を出せば、何が分かる」
女はすぐには答えなかった。
鉄格子の向こうで、鎖が小さく鳴る。
――私を出せば、魔王がなぜ魔王と呼ばれたかが少し分かる。
「少し?」
――全部をすぐ教えるほど、私はあなたを信用していない。
「正直だな」
――あなたも、私を信用していないでしょう。
「していない」
――なら、ちょうどいいわ。
赤い瞳が、血の向こうで細くなる。
――信用ではなく、利害で手を組みましょう。あなたは勇者たちに復讐したい。私は、この封印を壊したい。そして王国神殿には、私たち両方の敵がいる。
「名前は」
俺は聞いた。
今度は、床の文字ではなく、本人に。
女はしばらく黙っていた。
やがて、唇を動かす。
だが声は出ない。
首の鎖が、赤黒く光った。
王国神殿の紋章が浮かぶ。
名前を封じているのか。
そこまでやるか。
女の顔が、初めてはっきりと歪んだ。
怒りで。
屈辱で。
自分の名前すら奪われている怒りで。
俺は、その顔を見て理解した。
こいつも奪われた側だ。
名前を。
自由を。
血を。
おそらく、父親も。
「いい」
俺は言った。
「今は名乗らなくていい」
女が俺を見る。
「名前を奪われる痛みは、知ってる」
彼女の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
ほんの少しだけだ。
――……そう。
「俺が拭き取る」
黒雑巾を握る。
「その封印ごと」
女は笑った。
弱い笑みではない。
挑むような笑みだった。
――なら、まず黒塵の結果を回収しなさい。王都に持ち出された汚れが、神殿のどの扉へ入るか。それが分かれば、私の封印の外側を削れる。
「外側だけか」
――今のあなたでは、それで十分。
「偉そうだな」
――魔王の娘だもの。
その瞬間、鎖が強く光った。
血の映像が乱れる。
女の姿がかすれる。
今、言った。
魔王の娘。
はっきりと。
封印がそれを許さなかった。
鉄格子の向こうで、彼女が苦しげに息を呑む。
「おい」
俺は黒雑巾を床に押し当てた。
封印に干渉しようとする。
だが、黒い火花が弾け、俺の手が焼けた。
「ちっ……!」
まだ届かない。
権限が足りない。
汚れが足りない。
喰った罪が足りない。
女は顔を上げ、かすれた声で言った。
――焦らないで、管理者。
「お前が痛そうにしてるからだろ」
――優しいの?
「違う」
俺は即答した。
「利用価値があるだけだ」
女は、少しだけ笑った。
――それでいいわ。
血の映像が消える。
だが最後に、封印越しの声が残った。
――レイヴ・クロウリー。
「何だ」
――王都の白さを、信じないで。
「最初から信じてない」
――なら、あなたは私より少し賢いわ。
声が消えた。
床に残ったのは、黒い血と、薄く滲んだ文字だけ。
【黒塵追跡結果:未回収】
【封印区画:魔王血族拘束室】
【外殻封印解除率:一%未満】
【必要条件:王国神殿内への黒塵到達】
一%未満。
遠いな。
だが、ゼロではない。
俺は立ち上がった。
魔王城の奥で、壁が低く鳴る。
まるで、次の掃除場所を待っているようだった。
王都では、勇者が嘘を塗り直している。
神殿は、その上に祈りをかぶせている。
魔王城の奥では、魔王の娘が名前を封じられている。
そして俺は、まだ血まみれの雑巾を握っている。
「一つずつだ」
俺は呟いた。
「床の染みも、国の嘘も」
黒雑巾が、静かに揺れた。
「全部、拭き取ってやる」
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現在のステータス
名前レイヴ・クロウリー
立場元・勇者パーティ清掃係/魔王城新管理者
スキル《穢れ喰い》
装備《黒雑巾》/《黒モップ:仮解放中断》
支配権限魔王城の地下廃棄層・宝物庫前結界・血紋罠・封鎖扉・偽聖堂跡・黒塵追跡の限定解放
復讐対象勇者アレク、聖女ミリア、剣聖ガルド、賢者ロギア、王国神殿




