第4話 聖女の白さは、呪いで塗られていた
偽聖堂跡。
その文字が床に浮かんだ瞬間、聖女ミリアの顔から血の気が引いた。
さっきまで必死に法衣の裾を握りしめていた指が、白く震えている。
「いや……」
声が細い。
聖女の声じゃない。
追い詰められた女の声だ。
「そこは、駄目……」
俺はミリアを見た。
白い法衣。
白い聖印。
白い手袋。
白い靴。
ずっと綺麗なものだけを身につけていた女。
その足元には、黒い血が絡みついていた。
「どうした」
俺は言った。
「聖女なんだろ。聖堂が怖いのか」
「違う……」
「違わない」
黒雑巾が俺の手の中で揺れた。
濡れた布が、床を撫でる。
血の筋が伸び、宝物庫前の壁へ這っていった。
壁が鳴る。
石がずれる。
封印されていた古い通路が、黒い口を開いた。
その奥から、冷たい風が流れ込んでくる。
血と香油の匂い。
腐った花の匂い。
そして、古い祈りが腐敗した匂い。
ミリアは一歩下がった。
だが、黒い血が靴底を捕まえる。
「動くな」
俺が言うと、彼女は息を止めた。
命令したつもりはなかった。
だが魔王城が、俺の声を命令として受け取った。
床の血が、ミリアの足を軽く縫い止める。
「レイヴ!」
アレクが聖剣を構えた。
「ミリアに触れるな」
「触れてないだろ」
俺はアレクを見た。
「床が汚れを捕まえただけだ」
「ふざけるな!」
アレクの声が荒れる。
だが、踏み込めない。
ガルドがまだ床に膝をついている。
剣は主人から離れたまま、黒く沈黙している。
アレクはそれを見た。
ほんの一瞬。
自分が助けなかった仲間を。
それから、すぐに目を逸らした。
汚い。
見ないふりをする目だ。
俺は知っている。
そういう目で、人は死体の山を踏んで進む。
ロギアは黙っていた。
杖を構えたまま、通路の奥を見ている。
「偽聖堂跡……」
彼が呟く。
「魔王城内に、聖堂区画があったのか」
「知らなかったのか」
俺が言うと、ロギアは眼鏡の奥で目を細めた。
「魔王城の公式図面には存在しない」
「なら、誰かが消したんだろ」
俺は黒雑巾を握った。
「お前たちが得意なことだ」
ロギアは反論しなかった。
それが答えだった。
俺は通路へ歩き出す。
黒い血が道を作る。
ミリアの足を縫い止めていた血が、ゆっくり引く。
「来い」
「嫌……」
「来い、聖女」
俺は振り返らずに言った。
「お前が浄化した場所なんだろ」
ミリアは震えていた。
だが、足は動いた。
自分の意思ではない。
魔王城が、清掃対象を運んでいる。
ガルドは床に膝をついたまま、荒い息を吐いていた。
アレクが彼を一瞥する。
「ガルド、立て」
「……っ、立てねえって言ってんだろ」
「根性を出せ」
その言葉に、ガルドの顔が歪む。
ついさっきまで、自分が弱者へ吐いていた言葉を、今度は自分が浴びている。
ざまあない。
俺は少しだけ笑った。
だが、今はガルドじゃない。
次の汚れだ。
偽聖堂跡へ続く通路は、白かった。
石壁も、床も、天井も。
白い。
けれど綺麗ではない。
白く塗られているだけだ。
その下に、何か黒いものがある。
壁のひび割れから、細い呪いが滲んでいる。
白い漆喰で何度も上塗りした跡。
血を隠すために石を削った跡。
香油で死臭をごまかした跡。
俺には分かった。
匂いで。
汚れの層で。
ここは清められた場所ではない。
汚れを白く塗りつぶした場所だ。
「ここは……」
ミリアが小さく呟く。
その声に、俺は足を止めた。
「覚えてるのか」
「知らない」
即答だった。
早すぎる。
「私は知らないわ。こんな場所、来たことがない」
「じゃあ、なぜ震えている」
「呪いのせいよ」
「便利だな」
俺は鼻で笑った。
「都合の悪いことは、全部呪いのせいか」
ミリアが俺を睨む。
涙が目に浮かんでいた。
悔し涙だ。
罪悪感じゃない。
まだ、自分が可哀想だと思っている。
「あなたに何が分かるの」
「分かるよ」
俺は黒雑巾を壁に押し当てた。
白い壁を、ゆっくり拭う。
ごしり。
音がした。
白い粉が剥がれた。
その下から、黒い文字が滲む。
【浄化済】
【聖女ミリア】
【同行清掃員:記録なし】
ミリアの呼吸が止まった。
俺は壁をさらに拭う。
白が剥がれる。
黒が出る。
【深層呪詛:残留】
【死体痕跡:未処理】
【実処理履歴:欠落】
「やめて……」
ミリアが呟く。
「壁を汚さないで」
俺は手を止めた。
「汚してる?」
ゆっくり振り返る。
「俺が?」
ミリアは唇を噛んだ。
「ここは聖なる場所よ。あなたみたいな穢れた人間が触れていい場所じゃない」
アレクがわずかに頷いた。
まだ、そう思っている。
俺を穢れたものだと思っている。
ロギアは黙っている。
彼だけは、もう分かりかけている。
ここで本当に汚れているのが誰かを。
「聖なる場所、か」
俺は黒雑巾を持ち上げた。
「なら、綺麗にしても問題ないよな」
布が伸びた。
壁を這う。
床を撫でる。
祭壇へ向かって、白い塗装を拭い取っていく。
偽聖堂跡の扉が開いた。
中は、白かった。
白い柱。
白い祭壇。
白い花。
白い布。
白い香炉。
すべてが白い。
だが、床だけは違った。
祭壇の下。
白布の縁。
石の継ぎ目。
そこに、黒い染みが何層にも重なっていた。
隠しきれなかった汚れ。
拭いても拭いても浮かび上がる罪。
俺はその場に立ち、息を吸った。
胸の奥が焼ける。
ここには呪いが多すぎる。
魔王城の呪いじゃない。
人間の呪いだ。
祈りの形をした呪い。
祝福の名を借りた隠蔽。
白く笑いながら、黒いものを床下へ押し込めてきた者たちの匂い。
黒雑巾が震えた。
喰いたがっている。
だが、すぐには喰わない。
今日は見せる。
ミリアに。
アレクに。
ロギアに。
そして、この城に。
何を隠していたのか。
「ミリア」
俺は祭壇を指さした。
「あそこに立て」
「嫌よ」
「立て」
「嫌!」
ミリアは叫んだ。
聖女らしい柔らかな声ではない。
喉を裂くような声だった。
「どうして私がそんなことをしなきゃいけないの! 私は聖女よ! 魔王を討った勇者パーティの聖女! 民は私を信じている! 王国も神殿も、私を――」
「だからだろ」
俺は彼女の言葉を切った。
「信じさせたんだろ。嘘を」
ミリアの顔が歪む。
アレクが前に出た。
「言葉を慎め、レイヴ。ミリアは聖女だ」
「お前も信じてたのか」
「当たり前だ」
「見てなかっただけだろ」
アレクの眉が動く。
「何?」
「こいつの浄化が届かなかった場所を、誰が処理したか。見ようともしなかっただけだ」
「清掃係が雑用をした。それが何だ」
その言葉に、俺の腹の奥が冷えた。
怒りじゃない。
もう少し静かなものだ。
汚れを見つけた時の感覚。
ああ、ここも腐っている。
そう思うだけの、冷たい確信。
「そうか」
俺はアレクから目を外した。
「じゃあ、見せてやる」
黒雑巾を祭壇の白布に投げた。
布が広がる。
白い布の上に、黒い雑巾。
それだけで、聖堂全体が汚れたように見えた。
ミリアが息を呑む。
「やめて! その布をどけて!」
「綺麗にするだけだ」
「それは汚れた布でしょう!」
「違う」
俺は言った。
「汚れを吸った布だ」
黒雑巾が白布に沈み込む。
じわり、と白布が黒くなる。
ただ黒く染まるのではない。
下から文字が浮かび上がる。
【偽聖堂跡】
【表層浄化:聖女ミリア】
【深層処理:未実施】
【残留呪詛:再現可能】
さらに、白布の裏側に黒い紋章が滲んだ。
王国神殿の紋章。
聖女の浄化を認め、成功と記録した者たちの印。
ミリアだけの嘘ではない。
その嘘に判を押し、白い布をかぶせた者がいる。
アレクの目が一瞬揺れた。
ロギアは無言のまま、紋章を見ていた。
「再現……?」
ロギアの声が低くなる。
「まさか、過去の残留呪詛を起こすつもりか」
「起こすんじゃない」
俺は黒雑巾を引いた。
「見えるところまで拭くだけだ」
祭壇の下から、黒い煙が噴き出した。
煙は聖堂の床を這い、形を作る。
人影。
いくつも。
膝をついて祈る者。
倒れた者。
白い布を被せられた者。
そして、その奥に立つ女。
聖女ミリア。
少し前の姿だ。
今と同じように白い法衣を着て、祭壇の前で手をかざしている。
白い光が広がった。
その光は、確かに強かった。
聖堂の壁が、一瞬だけ真新しい雪のように白く染まる。
黒ずんだ柱も、血の染みも、死臭の残る床も。
すべてが、綺麗に見えた。
見えただけだ。
次の瞬間、その白さの下から、黒い染みがじわりと浮いた。
呪いは消えていない。
床下へ沈んだだけだ。
壁の裏へ逃げただけだ。
死体の口の中へ押し込まれただけだ。
ミリアの光は、表面を白く塗っただけだった。
幻影の中で、誰かが言った。
――聖女様の浄化だ。
――美しい。
――これで終わった。
――記録には成功と残せ。
ミリアの幻影が、微笑んだ。
今と同じ笑みだった。
慈愛の笑み。
白く、美しく、何も知らないふりをした笑み。
「嘘……」
現実のミリアが呟いた。
「こんなの、呪いが見せているだけ……」
「そうだな」
俺は頷いた。
「呪いが覚えていた」
黒雑巾を床へ落とす。
布が床を拭う。
幻影が変わった。
白い光が消えた後の聖堂。
誰もいなくなった後。
床下から、黒い指が這い出す。
壁の裏で怨霊がうめく。
白布の下の死体が、口から呪いを吐く。
聖堂は浄化されていなかった。
ただ、見えなくされていただけだ。
そこへ一人、入ってくる男がいた。
血で汚れた服。
腫れた頬。
焼けただれた手。
雑巾を握った清掃係。
俺だ。
過去の俺。
誰にも見られず、聖堂の床に膝をつく。
吐きそうになりながら、白い床の下から呪いを引きずり出す。
死体の口を開け、そこに詰め込まれた黒い魔力を雑巾に吸わせる。
壁を削る。
床を拭く。
香油でごまかされた腐臭の下から、血を掻き出す。
手が焼ける。
膝が割れる。
喉から胃液が上がる。
それでも止めない。
止めたら、勇者が死ぬ。
止めたら、ミリアの嘘が割れる。
止めたら、殴られるのは俺だ。
幻影の俺が、床に吐いた。
それでも雑巾を動かした。
現実の俺は、それを見ていた。
胸の奥が冷たくなる。
あの時の痛みを、体が覚えている。
指の皮が裂けた感触。
爪の間に呪いが入り込む痛み。
ミリアが翌朝、綺麗な顔で微笑んだこと。
『浄化は完了しました』
その声まで、覚えている。
「やめて……」
ミリアは耳を塞いだ。
「やめてよ……」
「何を」
「見せないで」
「誰に?」
俺は彼女へ近づく。
「アレクにか。ロギアにか。ガルドにか。それとも、お前自身にか」
ミリアは答えない。
ただ首を振る。
白い髪飾りが揺れた。
俺は黒雑巾を持ち上げる。
そこに、白い光の残骸が絡んでいた。
ミリアの浄化の残りかす。
綺麗に見える。
だが、中は空っぽだ。
白いだけ。
薄い膜。
「お前の浄化は、汚れを消していない」
俺は言った。
「隠していただけだ」
「違う……私は……私は神に選ばれた聖女で……」
「選ばれたのは、お前の白い顔だろ」
ミリアが息を呑む。
「祈りじゃない。力でもない。人前で綺麗に笑える顔と、失敗を隠すための嘘。それだけだ」
「黙って!」
ミリアが叫んだ。
聖印を握る。
その手から白い光があふれた。
今度は俺へ向かって。
「消えて! あなたさえいなければ! あなたが生きているから、全部おかしくなるの!」
白い光が走る。
さっきよりも強い。
偽聖堂跡の壁が、一瞬で白く染まった。
黒い血の筋が消える。
床の染みが消える。
ガルドの腕に絡んだ血痕さえ、薄くなった。
さすがに、聖女と呼ばれるだけはある。
表面だけなら。
見せかけだけなら。
この女の白さは、本物より美しい。
だが、白さの下にあるものは消えない。
俺の胸に触れる寸前、黒雑巾が勝手に動いた。
白い光を絡め取る。
薄い膜を剥がすように、光が布に吸い込まれていく。
綺麗な力ではない。
俺には分かった。
この光は、呪いを消すためのものじゃない。
臭いを隠す香油。
血痕を白く塗る粉。
死体にかける布。
そういう力だ。
黒雑巾が、それを喰う。
ミリアの顔が青ざめた。
「返して……」
「返す?」
「私の光を返して!」
俺は笑った。
「汚れたものを回収しただけだ」
黒雑巾を軽く絞る。
布から、白い液体がぽたりと落ちた。
床に触れた瞬間、それは黒く濁る。
その中から、小さな声が漏れた。
――まだ苦しい。
――浄化されたはずなのに。
――聖女様、なぜ。
――暗い。
――床の下が暗い。
ミリアは後ずさった。
だが、背中が祭壇にぶつかる。
逃げ場はない。
白い法衣の裾に、黒い染みがひとつ浮いた。
ミリアは慌てて、それを手で擦った。
一度。
二度。
三度。
消えない。
擦れば擦るほど、黒い染みは広がり、白い布の奥へ沈んでいく。
「消えて……」
ミリアの声が震えた。
「消えてよ……!」
聖印が、かすかに曇った。
ミリアはそれを見て、膝から崩れた。
白い聖女が、白い祭壇の前で膝をつく。
法衣の裾には、黒い染み。
聖印には、曇り。
そして床には、彼女が隠した呪いの声。
曇った聖印を胸に抱いたまま、ミリアはもう祈ることもできなかった。
これで十分だ。
今は。
「これは、まだ準備だ」
俺は言った。
「今ここで、お前を完全に暴いて終わりにはしない」
ミリアの目に、かすかな希望が浮かぶ。
馬鹿だ。
まだ助かると思ったのか。
「勘違いするな」
俺は低く言った。
「王都で笑っていた聖女の顔を、そのまま残しておくためだ」
「……何を」
「白いまま戻れ」
ミリアの唇が震える。
「そして怯えろ。次にいつ、どこで、その白さが剥がされるかを」
「やめて……」
「お前が浄化したと言った場所は、全部覚えている」
黒雑巾が床を撫でる。
偽聖堂跡の白い床に、黒い点がいくつも浮かんだ。
記録の断片。
部屋の名前。
廊下の名。
礼拝堂。
病棟跡。
処刑準備室。
地下慰霊室。
ミリアが「浄化した」と言った場所。
俺が本当に掃除した場所。
「一つずつ、浮かび上がらせてやる」
「嫌……」
「お前が俺の名前を消したように」
俺はミリアを見下ろした。
「俺はお前の聖女の名を、少しずつ拭い取る」
聖堂の空気が重くなる。
アレクが聖剣を強く握った。
「もう十分だ」
その声には怒りがあった。
だが、別のものも混じっていた。
焦りだ。
アレクは気づき始めている。
自分の勇者パーティが、英雄ではなく、汚れの塊として扱われていることに。
そして、それを民衆に見られれば終わることに。
「ミリアを侮辱するな」
「侮辱じゃない」
俺は言った。
「清掃前の確認だ」
アレクが一歩踏み出す。
ロギアが止めようとする。
だが、今度はアレクは止まらなかった。
「黙れ!」
聖剣が白く燃える。
偽聖堂跡の壁に、光が走る。
黒い血がざわめいた。
魔王城が警戒している。
だが、俺は手を上げなかった。
アレクは俺に向かってくる。
勇者として。
仲間を守る男の顔をして。
いや。
違う。
自分の英雄譚を守る顔だ。
白い刃が迫る。
その瞬間、偽聖堂跡の祭壇が軋んだ。
祭壇の奥から、別の声が聞こえた。
ミリアの声ではない。
ガルドでもない。
ロギアでもない。
もっと古い。
もっと低い。
魔王城の奥底から響く声。
【聖剣照合開始】
【対象:勇者アレク】
【聖剣保持資格――】
文字はそこで止まった。
ロギアの顔色が変わる。
アレクの聖剣が、かすかに黒く鳴った。
俺は笑った。
ミリアの白さの下から、別の汚れが出てきた。
勇者の刃。
王国神殿が授けた聖剣。
それもまた、綺麗なままではないらしい。
「アレク」
俺は聖剣の光を見ながら言った。
「お前の剣も、掃除が必要みたいだな」
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現在のステータス
名前レイヴ・クロウリー
立場元・勇者パーティ清掃係/魔王城新管理者
スキル《穢れ喰い》
装備《黒雑巾》
支配権限魔王城の地下廃棄層・宝物庫前結界・血紋罠・封鎖扉・偽聖堂跡・残留呪詛再現の一部
復讐対象勇者アレク、聖女ミリア、剣聖ガルド、賢者ロギア、王国神殿




