第3話 剣聖の腕には、弱者の血が染みついている
剣聖ガルドの腕に、血痕が浮かんでいた。
古い血だ。
乾いているはずなのに、濡れている。
もう死んだはずの誰かの声を、まだ吐いている。
――痛い。
――やめて。
――剣聖様。
――どうか。
「黙れって言ってんだろうが!」
ガルドが吠えた。
右腕を振る。
だが、動かない。
大剣を握った指は、柄に縫いつけられたように固まっていた。
剣聖。
そう呼ばれてきた男が、自分の剣一本もまともに振れない。
アレクの顔が歪む。
「ガルド、何をしている! 早く斬れ!」
「やろうとしてんだよ!」
ガルドは怒鳴り返した。
だが、その声はいつもの太い威圧ではない。
焦りが混じっている。
恐怖の臭いがする。
俺には、それが分かった。
黒雑巾が、俺の手の中でぬるりと動いた。
床を這う黒い血に触れ、ガルドの足元へ伸びていく。
布。
たしかに布だ。
だが、もうただの雑巾じゃない。
血を吸う。
呪いを絡め取る。
罪を浮かび上がらせる。
そして、汚れた魂に触れる。
俺はガルドを見た。
あいつは、まだ俺を見下していた。
恐怖を感じているくせに。
腕が動かないくせに。
床の血に膝をついたくせに。
それでも、俺を見る目だけは変えようとしなかった。
「清掃係……」
ガルドが歯を剥く。
「てめえ、俺に何をした」
「俺じゃない」
俺は答えた。
「お前の腕が、自分で思い出しただけだ」
「何をだ!」
「殴った感触だよ」
ガルドの顔が止まった。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
黒雑巾が、ガルドの右腕に触れる。
布の先が血痕を拭った。
ごしり、と。
乾いた汚れを剥がすように。
「ぐっ……!」
ガルドの腕から、赤黒い煙が上がった。
煙の中に、映像が揺れる。
魔王城ではない。
王都の裏路地。
訓練場の端。
遠征先の村。
暗い宿舎。
そこに、若い兵士がいた。
冒険者見習いがいた。
魔族でも魔物でもない。
人間だ。
剣を落とし、両手を上げ、もう降参している者たち。
ガルドは、それを殴っていた。
剣の腹で。
柄で。
拳で。
足で。
「違う!」
ガルドが叫ぶ。
「訓練だ! あれは鍛えてやってただけだ!」
黒雑巾がもう一度、血痕を拭った。
今度は腕の内側。
肉の奥に染みた汚れを、無理やり表へ引きずり出す。
煙の中に、別の声が混ざった。
――もう立てません。
――お願いします。
――俺、兵士を辞めます。
――だから、もう。
ガルドが左手で右腕を押さえ込む。
「黙れ! 弱い奴が悪いんだろうが!」
その言葉で、床の血がまた笑った。
宝物庫前の石畳が震える。
黒い血が、ガルドの足元に円を描いた。
細い円。
血紋。
俺が今まで、魔王城の罠として処理してきたものに似ている。
けれど、今は違う。
俺が消す側ではない。
起動させる側だ。
床に、黒い文字が滲む。
【罪痕拘束】
【対象:剣聖ガルド】
「何だ、この文字は!」
アレクが叫ぶ。
「ロギア、消せ!」
「無理だ」
ロギアの声は硬かった。
「術式ではない。魔王城の床そのものが、ガルドの罪を読み上げている」
「罪だと?」
ガルドが鼻で笑った。
無理に笑った。
「俺は剣聖だぞ。俺が斬った相手は、全部、敵だ。弱い奴は戦場に出るな。それだけだ」
「そうか」
俺は一歩近づいた。
黒い血が俺の足を避ける。
まるで道を開けるように。
「じゃあ、聞いてみるか」
黒雑巾を振った。
布が伸びる。
鞭のようにしなり、ガルドの大剣に巻きついた。
「何を――」
ガルドが力を込める。
だが、剣は動かない。
黒雑巾が柄に染み込んだ血を吸い上げる。
剣身に赤黒い筋が浮かんだ。
一本。
二本。
三本。
それだけでは終わらない。
剣全体が、まるで血管を持った肉のように脈打った。
剣が、喋り始めた。
――助けて。
――降参した。
――背中を向けていた。
――武器は捨てた。
――殺さないって言ったのに。
「違う!」
ガルドの声が裏返った。
「戦場で背中を向けた奴が悪い! 降参なんざ信用できるか! 敵は殺す! それが剣だ!」
「お前が殺したのは敵だけか?」
俺は黒雑巾を引いた。
剣が軋む。
ガルドの右腕ごと、前へ引きずられる。
剣聖の体が、俺の前に倒れかけた。
ガルドは歯を食いしばり、踏みとどまる。
さすがに力はある。
ただの雑魚ではない。
だからこそ、汚れが濃い。
力を持った人間が、弱者を踏んできた。
その血が、腕に、剣に、魂に染みついている。
俺にとっては、よく燃える油みたいなものだった。
「てめえ……!」
ガルドが左拳を振り上げた。
右腕が使えないなら、左で殴るつもりらしい。
昔と同じだ。
俺が床に膝をついている時。
血を拭いている時。
死体を袋に詰めている時。
こいつはよく、理由もなく俺を殴った。
『遅い』
『汚い』
『邪魔だ』
『清掃係は床でも見てろ』
拳が来る。
俺は避けなかった。
黒雑巾が、俺の肩の前に広がる。
薄い布。
だが、ガルドの拳が触れた瞬間、布の表面に無数の手形が浮かんだ。
小さい手。
細い手。
骨ばった手。
ガルドに殴られた者たちの、最後に伸ばした手だ。
「ぐあっ!」
ガルドの拳が弾かれた。
彼の左手の甲に、赤黒い手形が焼きつく。
防がれたのではない。
返されたのだ。
過去に殴った痛みが、まとめて左拳へ戻った。
「痛いか」
俺は言った。
「その程度で叫ぶなよ。お前が昔、俺に言ったことだ」
「清掃係風情が……!」
「今さら俺の名前を呼ぶなとは言ったが」
俺は黒雑巾を握り直した。
「いつまでも清掃係と呼ばれるのも、腹が立つな」
布が伸びる。
ガルドの足元の血紋とつながる。
床が黒く濡れ、ガルドの影を縫い止めた。
ガルドが動こうとする。
動けない。
足だけではない。
影ごと固定されている。
「何だよ、これ……!」
「掃除の基本だ」
俺は近づく。
「汚れを広げないよう、まず固定する」
ガルドの顔が怒りで歪む。
「ふざけんな!」
大剣が震えた。
右腕の拘束を引きちぎろうとしている。
さすが剣聖。
罪で縛られても、力だけならまだ押し返せる。
床の血紋にひびが入った。
黒雑巾がきしむ。
俺の腕にも負荷が来る。
骨が鳴りそうになる。
簡単には終わらない。
それでいい。
一撃で片づけるだけなら、こいつらと同じだ。
俺は、こいつを掃除する。
表面だけじゃない。
骨まで。
「ガルド!」
アレクが聖剣を構えた。
「今助ける!」
白い光が走る。
俺へ向かって。
だが、その間に黒い血が盛り上がった。
壁になる。
いや、壁ではない。
死体袋だ。
俺がこれまで処理してきた魔族の死体袋。
勇者パーティが「臭いから早く捨てろ」と命じたもの。
その怨念が、黒い膜になって聖剣の光を受け止めた。
じゅう、と焼ける。
怨念が削れる。
だが、俺には届かない。
「邪魔をするな、アレク」
俺は振り向かずに言った。
「まだお前の順番じゃない」
「貴様……!」
アレクの怒気が膨れ上がる。
だが、ロギアが腕で制した。
「待て。今は不用意に踏み込むな」
「黙れ、ロギア!」
「見ろ」
ロギアの声が鋭くなる。
「ガルドの周囲だけ、血の濃度が違う。あの領域に入れば、君の聖剣にも干渉される」
アレクが歯噛みする。
聖剣の光の奥で、また細い黒筋が揺れた。
ロギアはそれを見て、表情を消す。
ミリアは動けない。
白い法衣の裾を握ったまま、床の文字を隠そうとしている。
誰もガルドを助けられない。
それを、ガルド自身も悟った。
「おい……アレク!」
ガルドが叫ぶ。
「見てねえで助けろ!」
アレクは答えない。
「ミリア! 浄化しろ!」
ミリアは唇を震わせるだけだった。
「ロギア! 何かしろ!」
ロギアは、少しだけ目を細めた。
「今は観察する」
「てめえら……!」
ガルドの顔に、初めて別の感情が浮かんだ。
怒りではない。
見下しでもない。
見捨てられる恐怖。
俺は、それを見ていた。
ああ。
そうか。
こいつは今、初めて自分が弱い側に立ったのか。
「どうした」
俺は言った。
「助けてもらえないのか」
ガルドの喉が鳴る。
「お前が殴った奴らも、そうだったんじゃないか」
黒雑巾が、ガルドの右腕に巻きついた。
布が血痕を拭う。
拭うたび、声が増える。
――助けて。
――誰か。
――剣聖様が。
――怖い。
――痛い。
――もう嫌だ。
「やめろ……!」
ガルドが歯を食いしばる。
「俺は、俺は強くなるために……!」
「違う」
俺は短く切った。
「お前は強い相手と戦うのが怖かっただけだ」
ガルドの目が開く。
「だから弱い奴を殴った。逆らえない奴を斬った。降参した奴を殺した。そうすれば、自分が強いと思えたからだ」
「違う!」
「汚れてるな」
俺は黒雑巾を引いた。
布がガルドの腕に食い込む。
「お前の剣」
大剣の刃に、赤黒い顔が浮かび上がる。
兵士。
村人。
奴隷。
魔族。
名もない死者たち。
全員が、ガルドを見ていた。
「見るな……!」
ガルドが叫ぶ。
「俺を見るな!」
「お前が見なかったものだ」
俺は言った。
「今さら目を逸らすな」
黒雑巾が、大剣の刃を拭った。
ごしり。
ひどい音がした。
金属を拭いた音ではない。
骨の表面から、こびりついた肉を削り落とすような音。
大剣の白銀の刃が、黒く濁る。
そして、剣身の根元に刻まれていた紋章が、剥がれた。
剣聖の証。
王国神殿が与えた称号紋。
それが、黒い汚れとして雑巾に吸い込まれていく。
「やめろ!」
ガルドが絶叫した。
「それは俺の……俺の証だ!」
「違う」
俺は低く言った。
「汚れだ」
黒雑巾が紋章を完全に拭き取った。
その瞬間、大剣が重く落ちた。
がらん、と石床に転がる。
ガルドの右手から、ようやく指が離れた。
だが、彼は剣を手放したのではない。
剣に手放された。
「う、そだ……」
ガルドが呆然と床を見る。
大剣はもう輝いていなかった。
ただの重い鉄の塊。
血と怨念と罪を吸いすぎた、汚れた道具。
俺はそれを踏んだ。
「拾えよ」
ガルドが俺を見上げる。
「何だって?」
「拾え」
俺は言った。
「剣聖なんだろ」
ガルドの唇が震えた。
床に膝をついたまま、左手を伸ばす。
剣の柄に触れる。
その瞬間。
剣から、黒い手が生えた。
無数の手が、ガルドの指を掴む。
――触るな。
――返せ。
――俺たちの血を返せ。
「ひっ……!」
ガルドが手を引いた。
短い悲鳴だった。
剣聖らしくない。
弱い者が上げるような声だった。
宝物庫前に沈黙が落ちる。
アレクが信じられない顔をしていた。
ミリアは口元を押さえている。
ロギアだけが、じっと俺の黒雑巾を見ていた。
「ガルド」
俺はしゃがんだ。
床に膝をついた剣聖と、目の高さを合わせる。
かつて俺が、いつも見上げていた男。
今は逆だ。
「昔、お前は俺に言ったな」
ガルドの目が揺れる。
「雑用は床でも見てろって」
俺は黒雑巾を床に落とした。
布が、ガルドの前の血をゆっくり拭き取る。
そこに映ったのは、ガルド自身の顔だった。
怯えた顔。
汗に濡れた顔。
助けを求める顔。
「見ろよ」
俺は言った。
「床に映った今のお前を」
「やめろ……」
「見ろ」
黒い血が、ガルドの顎を掴んだ。
無理やり下を向かせる。
ガルドの目に、自分の顔が映る。
その周囲に、死者たちの顔が浮かぶ。
ガルドが殺した者。
殴った者。
踏みつけた者。
笑って見捨てた者。
「違う……俺は……俺は剣聖で……」
「剣聖?」
俺は笑った。
喉の奥で、低く。
「床の汚れ一つに膝をついてる男がか」
ガルドの顔が真っ赤になった。
怒りと屈辱。
だが、もう立てない。
血紋が影を縫い止め、黒雑巾が腕の罪を握っている。
「殺せよ……」
ガルドが吐き捨てた。
「勝ったつもりなら、殺せ!」
俺は首を横に振った。
「嫌だね」
「何……?」
「お前は殺さない」
ガルドの目に、ほんのわずかに安堵が走った。
それが、気に入らなかった。
「勘違いするな」
俺は黒雑巾を持ち上げた。
「楽にしてやらないって意味だ」
布がガルドの右腕を撫でる。
血痕の一部が剥がれ、俺の中へ流れ込む。
痛み。
怨念。
恐怖。
そして、ガルドが隠してきた暴力の記憶。
吐き気がした。
けれど飲み込んだ。
これが《穢れ喰い》。
汚れを喰って、力に変える。
敵が汚れていればいるほど、俺は強くなる。
視界の奥で、黒い文字が一瞬だけ滲んだ。
【罪痕閲覧 一部開放】
俺は、それ以上見なかった。
今見るべきものは、別にある。
ガルドの顔だ。
自分の罪を剥がされ、力を失い、仲間にも助けられず、床に這いつくばっている男の顔。
「ガルド」
俺は言った。
「お前の腕は、もう綺麗じゃない」
「俺の腕を……何しやがった……」
「掃除しやすくした」
黒雑巾が彼の右腕に巻きつき、赤黒い輪を残した。
焼き印のように。
血痕の輪。
罪の腕輪。
「その腕で誰かを殴ろうとするたび、お前が殴ってきた奴らの痛みが戻る」
「なっ……」
「その剣を握ろうとするたび、お前が斬った奴らの声が聞こえる」
ガルドの顔が青ざめた。
「ふざけるな……そんなもん、剣聖じゃ……」
「そうだな」
俺は立ち上がる。
「剣聖じゃない」
黒雑巾が大剣の刃を軽く叩いた。
大剣は動かなかった。
ガルドの方へ戻ろうともしない。
「ただの汚れた暴力だ」
ガルドが、震える手でもう一度、剣の柄に指を伸ばした。
大剣が、床の上でわずかにずれた。
ガルドから離れるように。
ほんの一寸。
だが、その一寸で十分だった。
「……おい」
ガルドの声が掠れる。
「何で……逃げるんだよ」
剣は答えない。
ただ、黒く濁った刃を床に沈めるように重くなった。
剣聖が、剣に拒まれていた。
俺はその光景を見下ろした。
足元の黒い血が、静かに笑っていた。
アレクが一歩踏み出す。
「レイヴ、そこまでだ」
俺はようやくアレクを見た。
「何だ、勇者」
「ガルドを解放しろ。仲間を傷つけるなら、俺が相手になる」
仲間。
その言葉が、やけに薄く聞こえた。
さっきまで助けなかったくせに。
ガルドが床に膝をつき、叫び、腕を焼かれていた間も、こいつは様子を見ていた。
勝てるかどうかを測っていた。
それでも、口では仲間と言う。
汚れている。
本当に、どいつもこいつも。
「安心しろ」
俺はアレクに言った。
「お前の番も来る」
聖剣が、かすかに震えた。
アレクはそれに気づかない。
ロギアだけが、また目を細めた。
その時だった。
宝物庫前の壁に、黒い線が走った。
魔王城の壁が軋む。
封鎖扉の奥、別の区画で何かが開いた。
冷たい風が流れ込む。
血と香油の匂い。
聖堂の匂い。
そして、腐った白布の匂い。
ミリアの顔が固まった。
床に、新しい文字が浮かび上がる。
【封印区画:偽聖堂跡】
【接続開始】
【聖女ミリアの浄化記録、照合準備】
「いや……」
ミリアが後ずさった。
「やめて。そこは……そこは駄目」
俺は笑った。
ガルドはまだ床に這いつくばっている。
アレクは聖剣を握り、ロギアは沈黙している。
そしてミリアだけが、白い顔で震えていた。
次に掃除する汚れが、勝手に浮かび上がってきた。
「ミリア」
俺は初めて、彼女の名を呼んだ。
彼女の肩が跳ねる。
「次は、お前の白さを掃除してやる」
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現在のステータス
名前レイヴ・クロウリー
立場元・勇者パーティ清掃係/魔王城新管理者
スキル《穢れ喰い》
装備《黒雑巾》
支配権限魔王城の地下廃棄層・宝物庫前結界・血紋罠・封鎖扉・簡易清掃判定・罪痕閲覧の一部
復讐対象勇者アレク、聖女ミリア、剣聖ガルド、賢者ロギア、王国神殿




