第12話 勇者の証言は、聖剣より先に黒ずんだ
アレクの証言を掃除する。
そう決めた瞬間、黒雑巾が重く沈んだ。
焦げた端。
血を吸った繊維。
神殿の白い灰。
その奥で、死亡記録の染みがまだ脈打っている。
【死亡確認:未確認】
たった三文字。
それだけで、神殿の紙は揺れた。
ロギアは署名を止めた。
記録官は汗をかいた。
アレクは聖剣に触れることをためらった。
小さい。
まだ小さい。
だが、嘘は一度濡れると腐る。
乾いたふりをしても、奥から臭う。
俺は魔王城の床に膝をついた。
頬の傷が熱い。
掌の皮が裂けている。
黒塵を遠くへ伸ばすたび、神殿の白い結界が俺の手を焼いてくる。
便利な力じゃない。
でも、使える。
なら使う。
――顔色が悪いわよ、管理者。
封印区画の奥から、魔王の娘の声がした。
前より近い。
鉄格子の向こうにいるはずなのに、声だけは、もう壁一枚向こうくらいまで来ている。
「見えるのか」
――気配で分かるわ。血の匂いが濃い。
「清掃係に血の匂いは付き物だ」
――無理をして倒れたら、私の封印は誰が削るの?
「結局それか」
――当然でしょう。私はまだ、あなたを信用していないもの。
「俺もだ」
――でも、利用価値はある。
「お互いにな」
黒雑巾を床へ押し当てる。
神殿へ続く黒塵の糸は細い。
何本かは焼け落ちた。
だが、残っている。
記録官の焼却箱の灰。
ロギアの手帳。
聖女の浄化室。
治療室の床。
そして、アレクの白い手袋。
そこに、俺の黒塵が残っていた。
今から追うのは、その手袋だ。
聖剣に焼かれた掌を隠す、白い布。
勇者の嘘を覆う、薄い布。
黒塵が動く。
視界が開いた。
王国神殿の内奥。
証言聴取室。
白い壁。
白い椅子。
中央に置かれた記録水盤。
その奥に、老神官が座っていた。
隣に若い神官。
記録官が二人。
神殿騎士が扉の前に二人。
そして、アレク。
勇者アレク。
白い手袋をはめ、聖剣を腰に下げ、いつもの英雄の顔をしている。
ただ、その顔は少し硬い。
証言を求められる勇者の顔ではない。
取り調べを受ける罪人の顔に近い。
「勇者アレク」
老神官が言った。
「改めて確認する。レイヴ・クロウリーは死亡したのだな」
「はい」
早い。
迷わないように、先に答えた声だ。
「君が確認したのか」
「魔王城の地下へ落ちました。あの高さでは生きていません」
「質問に答えなさい。確認したのか」
アレクの喉が動いた。
ほんの少し。
「……状況から、死亡と判断しました」
ロギアがいない。
この場にいない。
だから老神官は強く出ている。
アレクの言葉を整え直すための部屋だ。
勇者の嘘を、神殿の記録に耐える形へ削り直す場所。
記録水盤が白く光った。
水面に、アレクの言葉が文字として浮かぶ。
【状況死亡判断】
老神官の眉がかすかに動く。
「状況判断では弱い」
「ですが」
「勇者が魔王城で、清掃係を取り逃がしたなどと記録できると思うか」
アレクの顔が歪む。
怒りではない。
屈辱だ。
「取り逃がしたわけではありません」
「なら、死亡を確認したと言いなさい」
命令だった。
アレクは拳を握る。
白い手袋の下で、火傷が痛んだのだろう。
指が小さく震えた。
「……死亡を確認しました」
記録水盤が白く光る。
【死亡確認】
その文字が浮かんだ。
綺麗な文字。
整った文字。
白い嘘。
俺は黒雑巾を握った。
「嘘をつくな」
声は届かない。
だが、黒塵は届く。
アレクの手袋の縫い目に残った黒塵が、水盤の縁へ落ちた。
一粒。
それだけ。
だが、水は汚れを嫌う。
白い水盤の水面に、黒い波紋が立った。
【死亡確認】
その下に、じわりと別の文字が浮く。
【死体未確認】
記録官が息を呑んだ。
若い神官が水盤へ手をかざす。
「汚染反応です!」
老神官の顔が冷える。
アレクは水面を見た。
その目が、ほんの一瞬、揺れた。
見たな。
自分が見ていないことを。
死体を確認していないことを。
地下に落としただけで、確認しなかったことを。
「消せ」
老神官が言った。
「はい」
若い神官が浄化光を流す。
黒い文字は薄れる。
だが、消えきらない。
水の底に沈む。
汚れは沈む。
消えたふりをする。
ミリアの浄化と同じだ。
白いだけ。
薄い膜。
俺は笑った。
「見覚えがあるだろ、聖女」
ミリアはこの場にいない。
だが、きっと似たことをしてきた。
消えないものを沈める。
沈めたものを、なかったことにする。
老神官はアレクを見る。
「もう一度だ」
「……はい」
「レイヴ・クロウリーは、魔王城の呪詛に取り込まれた死体である。そう証言しなさい」
アレクの唇が動く。
「レイヴ・クロウリーは、魔王城の呪詛に取り込まれた死体です」
黒塵が痛んだ。
その言葉だけで、俺の胸の奥が冷える。
死体。
まただ。
何度殺す気だ。
何度、紙と口で俺を殺す気だ。
黒雑巾が、俺の血を吸った。
手のひらからまた血が出ている。
力を入れすぎた。
だが、その血で黒塵が太くなる。
水盤に、もう一つの波紋が立った。
【死体】
その下に、黒い線が走る。
【生体反応:継続】
老神官が立ち上がった。
記録官が青ざめる。
アレクの顔が硬直する。
「馬鹿な……」
アレクが呟いた。
小さい声だった。
だが、聞こえた。
お前の声は、黒塵が拾った。
老神官が水盤へ手をかざす。
白い光が強くなる。
黒塵が焼ける。
俺の目の奥に痛みが走った。
「ぐっ……」
視界が白く滲む。
焦げた匂い。
黒雑巾の端がまた焼けた。
――引きなさい。
魔王の娘の声が鋭くなる。
「まだだ」
――焼き切られるわ。
「まだ、アレクの口が汚れてる」
――本当に馬鹿ね。
「知ってる」
水盤の文字は消されかけていた。
【生体反応:継続】
薄くなる。
消える。
その前に、俺は黒雑巾を強く床へ擦りつけた。
ごしり。
魔王城の床が鳴る。
黒塵が水盤の底へ食い込む。
最後に一文字だけ残す。
【生】
それだけ。
死体という文字の下に、生。
白い水の底に、黒く沈む。
老神官はそれを見た。
アレクも見た。
記録官も見た。
神殿騎士の一人も、見てしまった。
小さい。
たった一文字。
だが、勇者の証言を腐らせるには十分だった。
「水盤を封鎖しろ」
老神官が低く言った。
記録官たちが慌てて動く。
「この場の記録は、神殿上層部扱いとする。外部へ漏らすな」
外部へ漏らすな。
その言葉を聞いて、俺は笑った。
漏れるのが怖いのか。
なら、そこに汚れがある。
アレクが一歩前へ出た。
「猊下。これは魔王城の干渉です。俺の証言に誤りはありません」
「なら、証明しなさい」
「どうすれば」
「聖剣を水盤にかざせ」
空気が止まった。
アレクの顔から、血の気が少し引いた。
聖剣。
勇者の証。
白い刃。
魔王を討った剣。
そして、アレクの掌を焼いた剣。
「聖剣は真実を照らす」
老神官が言う。
「君が正しければ、魔王城の干渉など一瞬で焼き払える」
アレクは動かない。
白い手袋の指が震えている。
若い神官がそれを見た。
記録官も見た。
神殿騎士も見た。
勇者が、聖剣を抜くことをためらっている。
老神官の声が冷たくなる。
「勇者アレク」
命令。
アレクは歯を食いしばり、聖剣の柄へ手を伸ばした。
触れる。
じゅう、と音がした。
白い手袋の内側から煙が上がる。
「っ……!」
アレクの顔が歪む。
それでも抜いた。
聖剣は白く輝いた。
強い光だ。
この場の誰もが息を呑む。
まだ勇者に見える。
まだ英雄に見える。
だが俺には見える。
刃の根元に走る黒い筋。
柄の内側にこびりついた、拒絶の汚れ。
聖剣そのものが、アレクを完全には認めていない。
アレクは聖剣を水盤へかざした。
「レイヴ・クロウリーは死んだ」
声が震えている。
「魔王城の呪詛に取り込まれた死体だ」
聖剣の光が水盤に落ちる。
白い。
眩しい。
黒塵が焼ける。
俺の視界がほとんど白になる。
痛みが頭を突き抜ける。
だが、その白の奥で、黒雑巾が暴れた。
嘘だ。
聖剣の光の下で、嘘が泡を吹いている。
水盤に文字が浮かぶ。
【勇者証言:照合】
【対象:レイヴ・クロウリー死亡】
【照合結果――】
文字が乱れる。
白と黒が混ざる。
アレクが叫んだ。
「照合しろ! 俺は勇者だ!」
その瞬間、聖剣の柄がアレクの掌を焼いた。
手袋が破れた。
焼けた皮膚が見えた。
記録官が小さく悲鳴を上げる。
神殿騎士が目を見開く。
若い神官の口が開いたまま止まる。
勇者の手が、聖剣に焼かれている。
隠しようがない。
アレクは歯を食いしばり、聖剣を離さなかった。
だが、水盤の文字は白くならない。
黒い一行が、底から浮いた。
【証言不一致】
部屋が凍った。
アレクの呼吸が止まる。
老神官の目が細くなる。
記録官の筆が落ちた。
かつん、と乾いた音。
それだけが響いた。
俺は笑った。
声が出なかった。
痛みで喉が詰まっていた。
それでも笑った。
ざまあない。
勇者の証言が、聖剣の前で不一致を吐いた。
「違う……」
アレクが呟く。
「違う。これは、魔王城の干渉だ」
老神官がすぐに動いた。
白い袖を振る。
水盤全体に強い浄化光が走る。
【証言不一致】
その文字が焼かれる。
消える。
だが、消える直前、黒塵がその一部を噛み取った。
【証言不一致:断片取得】
黒雑巾へ戻る。
その瞬間、俺の胸に白い火が入ったような痛みが走った。
「が……っ」
床に手をつく。
血を吐きかける。
黒雑巾が、俺の血を吸って震えた。
魔王の娘が声を荒げる。
――馬鹿! そこまで取る必要はなかったでしょう!
「ある」
俺は息を吐きながら言った。
「これは、要る」
勇者の証言不一致。
証拠だ。
紙より強い。
水盤より強い。
聖剣の前で出た矛盾。
これがあれば、アレクの英雄譚に穴が開く。
まだ小さい穴だ。
神殿はすぐ塞ぐ。
でも、穴は開いた。
アレクは聖剣を下ろした。
手袋の裂け目から、焼けた掌が見えている。
隠せない。
もう隠せない。
老神官は記録官たちを睨んだ。
「今見たものを記録するな」
記録官たちが青ざめて頷く。
「水盤は浄化する。証言記録は、神殿上層部で修正する」
修正。
便利な言葉だ。
嘘を整えることを、こいつらは修正と呼ぶ。
神殿騎士の一人が、ほんの少しだけ眉を動かした。
見たな。
お前も見た。
勇者の手が焼けたところを。
証言不一致の文字を。
老神官がそちらを見る。
騎士は慌てて姿勢を正した。
だが、遅い。
目撃者が増えた。
【目撃者:記録官二名/神殿騎士二名/若神官一名】
【勇者証言不一致:神殿内限定拡散】
魔王城の床に文字が浮かぶ。
いい。
神殿の内側で、汚れが増えている。
アレクは老神官に詰め寄る。
「なぜです。なぜ聖剣が……」
「黙りなさい」
老神官の声は鋭かった。
アレクが止まる。
勇者が、止められる。
「君は勇者だ」
老神官は低く言う。
「勇者でなければならない」
「ですが、聖剣が――」
「聖剣の反応は神殿が管理する」
アレクの顔が歪む。
その言葉は、慰めではなかった。
聖剣さえ、神殿の管理物だと言っている。
勇者ではなく。
神殿が。
「君の役目は、民の前で勝利を語ることだ。疑問を持つことではない」
アレクは唇を噛む。
焼けた掌から血が落ちた。
聖剣の柄に触れた血。
その血を、聖剣は吸わなかった。
床に落ちる。
ぽたり。
黒い染みになる。
黒塵が反応する。
俺はその血を見た。
アレクの血。
勇者の血。
聖剣に拒まれた血。
使える。
だが、今は無理だ。
もう体が限界に近い。
――引きなさい。
魔王の娘が言った。
今度は命令に近かった。
――証拠は取った。これ以上は焼かれる。
「分かってる」
視界を引く。
だが、最後にもう一つだけ見えた。
扉の外。
廊下の影。
ロギアが立っていた。
この聴取室には入っていない。
だが、扉の外で聞いていた。
あいつ。
どこまで嗅ぎつける。
ロギアは誰にも見えない位置で、手帳を開いていた。
そこに、一行を書き足す。
【勇者証言――不一致の可能性】
可能性。
まだ断定しない。
賢者らしい。
いやらしい。
俺は黒塵を引き戻す直前、ほんの一欠片だけ残した。
ロギアの足元へ。
彼は視線を下げる。
気づいた。
手帳の余白に、黒い点が浮く。
今回は文字にはしない。
ただの点。
ロギアはそれを見て、口元だけで言った。
「次は、何を望む」
俺は答えない。
答えられるほど余裕もない。
ただ、黒塵を引いた。
視界が切れる。
魔王城へ戻る。
俺は床に倒れかけた。
片手をつく。
血が落ちる。
黒雑巾がそれを吸う。
息が荒い。
頭が痛い。
掌が焼けている。
でも、黒雑巾の上には新しい染みがあった。
【証言不一致】
黒く、濃く、重い染み。
勇者の嘘から剥がした汚れ。
俺はそれを見て、笑った。
痛みでうまく笑えなかった。
それでも、笑った。
「取ったぞ」
封印区画の奥で、鎖が鳴る。
今度は、はっきりと一本、緩んだ音だった。
魔王の娘の声が、すぐ近くで聞こえた。
――本当に取ってくるなんて。
「必要だった」
――死にかけているのに?
「死んでない」
そう言うと、彼女は少し黙った。
それから、低く笑う。
――そうね。死んでいないわね。
俺は黒雑巾を握った。
証言不一致。
死亡未確認。
処理者名改竄。
聖女功績転嫁。
罪痕反動。
ロギアの私的記録。
少しずつ、揃ってきた。
まだ民衆には届かない。
まだ神殿は隠せる。
だが、内側には確かに腐りが入った。
次は外へ出す。
王都の白い広場へ。
民衆の耳へ。
勇者を信じている者たちの前へ。
「アレク」
俺は呟いた。
「お前の口、汚れてるな」
黒雑巾が重く揺れる。
「次は、民の前で拭いてやる」
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現在のステータス
名前レイヴ・クロウリー
立場元・勇者パーティ清掃係/魔王城新管理者
スキル《穢れ喰い》/《記録汚染読取:初期解放》
装備《黒雑巾》/《黒モップ:仮解放中断》
支配権限魔王城の地下廃棄層・宝物庫前結界・血紋罠・封鎖扉・偽聖堂跡・黒塵追跡の限定解放
取得証拠死亡未確認、処理者名改竄、聖女功績転嫁、勇者証言不一致
復讐対象勇者アレク、聖女ミリア、剣聖ガルド、賢者ロギア、王国神殿




