第96話 彼女の継承者 ―光莉の選択― 第3話 康介
―「見る側」から「見守る側」へ、そして「見られることの不在」へ―
3-1. 康介という人
数日後、光莉は康介に会いに行った。
康介――母の元夫。AIレポートで初めてその存在を知った時、光莉は複雑な気持ちになった。
「不倫された夫」というレッテルだけではない何かを、彼は背負っている。書店の二階から父を見下ろしていたこと。何もせずに、ただ「見ていただけ」だったこと。
今は、後妻と静かに暮らしている。
光莉は事前に連絡を取っていた。康介は快く会うことを承諾してくれた。
3-2. 庭での会話
康介の家は、都内の閑静な住宅街にあった。庭付きの一戸建て。玄関先には、手入れの行き届いた植木鉢が並んでいる。
康介の家を訪ねると、彼は庭で待っていた。
「光莉さん、お久しぶりですね。前にお会いしたときは、まだ若いお嬢さんだったのに。」
康介の声は穏やかで、時の経過が自然に感じられた。
光莉は微笑んで答えた。
「康介さんも、お変わりなくて安心しました。あのとき伺ったお話、今でも胸に残っています。」
康介は光莉を庭に案内した。小さなテーブルと椅子が置いてあり、そこでお茶を飲みながら話すことになった。
3-3. 「見る」から「見守る」へ
光莉は、率直に聞いた。
「あの頃、お父さんのこと――見てたんですよね?」
康介は少し間を置いた。そして、静かにうなずいた。
「ええ、見てました。書店の二階から。あの日、彼を呼び出して。」
「どうして、何もしなかったんですか?」
「それが、私の選んだ道だったからです。」
康介の言葉は、ゆっくりと、でも確かな重みを持っていた。
「動くことが、正しいわけじゃない。動かないことが、間違いでもない。あの時、私はそれを選びました。」
「今も、見てるんですか?」
康介は少しだけ笑った。
「ええ。彼の作品が出るたびに、読んでいます。でも、感想は言いません。それが、私たちの関係だから。」
3-4. 「見られること」の不在
光莉は、もう一つ聞いてみたかったことを口にした。
「康介さんは、誰かに見られてるって思いますか?」
康介は、少し驚いた顔をした。そして、庭の隅を見た。そこには、何の変哲もない植木鉢が並んでいるだけだ。
「思わないですね。」
「それは……寂しくないですか?」
康介は、長い沈黙の後、答えた。
「私はね、誰にも見られずに生きてきた。それが、私の選択だった。でも――」
彼は少し間を置いた。
「時々、寂しくもあるんだよ。」
その言葉に、光莉は何も言えなかった。
3-5. 変わらないもの
その後、康介は拓との関係について話した。
離婚後も、なぜか連絡を取り合っていること。年に一度ほど、電話で話すこと。お互いの近況を報告し合うこと。
「不思議なものですよ。妻を奪った男と、こんな関係になるなんて。」
「嫌じゃないんですか?」
「嫌な時もありました。でも、今は違う。彼は彼で、私は私。それだけです。」
康介の目は、とても澄んでいた。
光莉は思った。
(この人は、ずっと「見る側」だった。でも、その「見る」が、「監視」から「見守る」に変わった。それだけで、こんなに違うんだ。)
3-6. 帰り際
帰り際、康介が言った。
「光莉さん、君はこれからたくさんの人に会うだろう。そして、たくさんのものを見るだろう。でも、覚えておいてほしい。見ることには、いろんな形がある。監視もあれば、見守りもある。どれが正解かなんて、誰にもわからない。」
「でも、選ぶことはできる。自分がどう見るかを。」
光莉は深くうなずいた。
3-7. 康介の家を後にした夜
光莉はホテルに戻り、ノートパソコンを開いた。康介さんにはメールが一番合うと思った。
件名:本日はありがとうございました
康介さん
今日は、本当にありがとうございました。
「見守る」という選択が、どれだけ強い意志と、そして相手への深い思いやりから生まれるものなのか、康介さんから教えていただきました。
何も壊さず、何も言わず、ただ静かに見守り続けること。それは、決して楽な道ではないはずです。それでも康介さんは、母を、父を、そして私を見守り続けてくれていた。
その静かな、でも確かな温かさが、私の心にずっと届いていました。言葉にできなかったけど、でも確かにそこにありました。
誰にも見せない場所で、康介さんがずっと一人で抱えてきたものの重さを、私は忘れません。表でも裏でもない、あの静かな窓辺にいた康介さんのことを、私はずっと覚えています
本当に、ありがとう。心から、ありがとう。
光莉
送信ボタンを押した後、光莉はしばらく画面を見つめていた。
康介からは、数日後に短い返信が来た。
「光莉さんも、自分の目でいろいろ見てみてください。私は遠くから見守り続けます。君のお父さんのこと、お母さんのこと、そして光莉さんのこと。」




