第95話 彼女の継承者 ―光莉の選択― 第2話 母・瞳
―「受け入れるふり」から「受け入れること」へ、そして「見られること」への覚醒―
2-1. 母の現在
父の家を出た光莉は、その足で母・瞳に会いに行った。
といっても、母は同じ家に住んでいる。リビングに戻ると、母がコーヒーを淹れて待っていた。
「お父さんと話した?」
「うん。いろいろ。」
母も歳を重ねた。でも、若い頃とあまり変わらない。姿勢が良くて、目がしっかりしている。ただ、その目が以前より優しくなった気がする。
「お母さんは、あの頃のこと、どう思ってるの?」
光莉はストレートに聞いた。
母は少し間を置いて、コーヒーを一口飲んだ。そして、静かに話し始めた。
2-2. 「受け入れるふり」の話
「昔はね、『受け入れるふり』をしてたんだよ。」
「受け入れるふり?」
「そう。お父さんのフェチも、あの子――純の存在も、全部。『私は受け入れてる』って言い聞かせてた。でも、本当は違った。」
母は、あのノートのことを話した。
誰にも見せずに書き続けていた日記。そこには、嫉妬や疑念や醜い感情が、赤裸々に綴られていた。
「それが、流出しちゃったんだよね。」
「うん……読んだ。」
光莉は、あのAIレポートで見た母の言葉を思い出していた。赤裸々な感情の数々。自分でも知りたくなかった、母の「本当の顔」。
「ショックだった?」
母の問いかけに、光莉はうつむいた。
「……ちょっと。でも、それよりも、お母さんがそれを書いてたことよりも、晒されたことをどう思ってるのか、そっちが気になった。」
母は微笑んだ。
「最初は恥ずかしかった。裸にされたみたいで。でも、その次に思ったの。『これが私なんだ』って。」
「え?」
「晒されたことで、初めて自分を受け入れられたんだよ。醜い感情も、嫉妬も、全部含めて、これが私なんだって。」
2-3. 「見られること」への覚醒
母は続けた。
「それからかな。自分が『見られる側』にいるって気づいたのは。」
「見られる側?」
「うん。昔はね、私は『見る側』だった。お父さんを見て、純を見て、康介を見て。ずっと観察してる側だった。でも、あのノートが流出してから、逆になった。私が見られる側になった。」
母は窓の外を見た。庭では、さっきまで光莉が話していた父が、花に水をやっている。
「地域の活動に行くと、みんな私を見てる。『あの人が例の…』って。でも、それが嫌じゃないの。」
「嫌じゃないの?」
「うん。それが私だから。昔みたいに『受け入れるふり』をする必要がない。見られるままに、そこにいればいい。」
母はふっと目を細め、独り言のように付け加えた。
「許せない自分を、20年かけて許してきた気がするわ。……正しくあろうとすることを、諦めたのよ」
「お母さん……」
「今はね、暴かれた後のこの風通しの良さが、案外気に入ってるの」
母はそう言って、悪戯っぽく笑った。
2-4. 純の小説のこと
「お母さん、今でも純さんの本、読んでるの?」
母は少し驚いた顔をした後、静かにうなずいた。
「そうね、新作が出たら。」
「嫉妬したりしない?」
「しないね。昔はどうかな。今はないよ。あれはあの子の物語であって、私の物語じゃないから。」
母の横顔は、とても穏やかだった。
2-5. 「見る」という習慣
その時、窓の外で父がくしゃみをした。母が小さく笑う。
「お父さん、まだ書いてるの?」
「うん、少しだけ。」
その短い会話。でも、その中に、30年以上の「見る/見られる」の関係が詰まっていることを、光莉は感じ取った。
母はずっと、父を見てきた。
そして今も、見ている。
でも、それは「監視」じゃない。
ただ、そこにいることを確認するような、優しい視線。
「お母さんは、変わったんだね。」
「変わったよ。でも、変わらないものもある。お父さんを見ることは、ずっと変わらない。」
2-6. 光莉の気づき
その夜、光莉は母と一緒に夕飯を作った。
昔よく作ってくれた肉じゃが。母の手つきは、昔と変わらない。でも、どこか違う。肩の力が抜けている。
「お母さん、ありがとう。」
「何が?」
「いろいろ。話してくれて。」
母は少し照れたように笑った。
光莉は思った。
(お母さんはずっと「見る側」だった。でも今は「見られる側」に立ってる。それを受け入れてる。それが、強さなんだ。)
2-7. 母と別れた夜
その夜、光莉は母に宛てて短いメッセージを書いた。メールではなく、手書きのメモ用紙に。
お母さんへ
今日、お母さんの「受け入れるふり」から「受け入れること」への変化を聞いて、胸が熱くなりました。
私は覚えている。中学生の時、『彼女の計画』を読んで動転していた私に、お母さんは何も言わずに、ただそばにいてくれた。あの時、お母さんはもう「ふり」じゃなかったんだね。本当に、私のことを受け止めてくれていた。
お母さんが、自分の内面の感情も含めて「これが私なんだ」と受け入れたからこそ、私も自分の弱さを隠さなくていいんだと思えるようになった。
お母さんの強さは、完璧であることじゃない。不完全な自分をそのまま受け入れたことにあるんだと思う。
本当に、ありがとう。
また、コーヒー淹れて待っていてください。
光莉
翌朝、母の家のポストにそっと入れた。
母から届いたコーヒーの香りがするメッセージカードが、後日光莉の部屋に置かれていた。




