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第94話 彼女の継承者 ―光莉の選択― 第1話 父・拓 

【プロローグ:2055年、夏】


あのAIレポートを読み、衝撃を受けたあの日。そしてネット上の騒動があった。あれから、十年が経った。


光莉はその間、ただ「わかるまで考えたい」という自分の性分に従い、静かに旅を続けた。


光莉はその旅を通じて、父や母、純さん、康介さん、沙織さん、Eさん……それぞれの人に一度は会い、話を聞いていた。

でも、あのときの自分はまだ「知りたい」という気持ちが強かった。

今は違う。

ただ、感謝を伝えたい。

感じたことを、ちゃんと伝えておきたいと思った。


彼女は小さなノートをバッグに詰め、もう一度、彼らに会いに行くことにした。

十年前とは違う気持ちで。


1. 久しぶりの実家


光莉は実家の最寄り駅に降り立った。

十年前にこの道を歩いたときとは、心持ちが違っていた。あの頃は「父の核を知りたい」という強い好奇心があった。今はただ、父に感謝を伝えたかった。


インターホンを押すと、父が出てきた。

白髪が増え、背中が少し丸くなった父は、彼女を見て柔らかく目を細めた。


「光莉か。あー……。……、久しぶりだな。」


「うん……お父さん、元気だった?」

光莉は少し照れくさそうに笑った。

「前に会ったときより、肩の力が抜けてる気がする。」


父は小さく頷き、家の中に招き入れた。


2. 書斎の原稿


父の書斎は、相変わらず本と原稿用紙の山だった。


でも、若い頃とは少し違う。机の上には、家族の写真が何枚か飾ってある。小さい頃の光莉。母と旅行に行った時の写真。それと――誰にも見せないと言っていた原稿の束。


「お父さん、まだ書いてるの?」


「ああ、まあな。でも、昔みたいにがむしゃらに書くんじゃない。書きたい時に、書きたいだけ。」


父は窓辺の椅子に座り、外を見た。その背中は、光莉が子供の頃から見慣れたものだった。でも、どこか違う。肩の力が抜けているような気がする。


「光莉、お前、あのレポートを読んだんだろ?どう思った?」


光莉は息を飲んだ。


父は振り返らずに言った。


「で、何が知りたい?」


光莉は、バッグからノートを取り出した。でも、すぐにしまった。最初の一言が出てこない。


沈黙が続く。


父が先に口を開いた。


「昔な、誰かに見られるのが怖かったんだ。」


3. 裏アカウントの話


父は、ゆっくりと話し始めた。


裏アカウントのこと。誰にも言えずに、ネットの片隅でだけ本当の自分を曝け出していたこと。


「でもな、見られないのも、もっと怖かった。」


「どういうこと?」


「誰にも見られないってことは、そこに自分がいないってことだと思ったんだ。誰かが見てくれるから、自分がここにいるって確認できる。」


父は、机の引き出しから古いスマホを取り出した。電源を入れると、画面に懐かしいアプリのアイコンが並ぶ。


「これが、あの頃の裏アカウントだ。今はもう更新してないけど、消してもいない。」


光莉は画面を覗き込んだ。


そこには、見知らぬ誰かの日常が綴られていた。仕事の愚痴。些細な喜び。そして――パンストの写真に添えられた、短い詩のような文章。


「これが……お父さん?」


「そうだ。恥ずかしいだろう?でも、消してない。消したら、あの頃の自分が死ぬ気がする。」


父はスマホをしまい、また窓の外を見た。


「今はな、書きたいから書く。それだけだ。誰かに読まれることを前提にしない。ただ、自分の中にあるものを形にする。」


「それって、昔と変わったの?」


「変わったよ。昔は、仮面に隠れて書いてた。脚本もそう、裏アカもそう。今は、自分が書いてる。似てるようで、全然違う。」


光莉は、机の上の原稿の束に目をやった。


「それ、読んでもいい?」


父は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。


「いいぞ。でも、つまらないかもしれないぞ。誰にも読ませるつもりで書いてないから。」


光莉は原稿を手に取った。


そこには、自分が小さい頃のことが書かれていた。初めて歩いた日のこと。幼稚園の運動会で転んだこと。小学生の頃、父と二人で行ったキャンプのこと。


「お父さん……これ」


「ああ、覚えてるよ。お前がキャンプで初めて自分で火をおこした時、すごく嬉しそうだったな。」


光莉の目頭が熱くなった。


「誰にも読ませるつもりはないって言ったけど、これだけは、いつかお前に読んでほしいと思ってた。」


4. 「核」のこと


光莉は、長い間抱えていた疑問を口にした。


「お父さんって、何考えてるのか、よくわからない時がある。小さい頃からそうだった。優しいんだけど、どこか遠くにいるみたいで。」


父は、少し間を置いてから答えた。


「俺にも、わからないんだ。」


「え?」


「自分でも、自分が何を考えてるのか、よくわからない時がある。でも、それでいいんだと思う。わからないけど、そこにいる。それだけで。」


光莉は、その言葉の意味を考えた。


「それが、お父さんの『核』なの?」


「『核』……いい言葉だな。そうかもしれない。何があっても揺るがないもの。でも、それが何かは説明できない。ただ、そこにあるだけだ。」


父は立ち上がり、光莉の隣に座った。


「お前にも、きっとあるよ。まだ気づいてないだけで。」


5. 光莉の気づき


その日、光莉は父とたくさん話をした。


昔のこと。今のこと。これからのこと。


父は、何一つ隠さなかった。でも、すべてを語ったわけでもない。語らない部分があることを、光莉は感じ取った。


それが、父という人間なんだ。


(わからない人だ。でも、その「わからなさ」が、お父さんなんだ。)


家を出る時、父が言った。


「光莉、お前はお前のやり方で、お前の言葉で、あの頃のことを受け止めればいい。誰かの正解を探す必要はない。」


光莉は深くうなずいた。


(自分の核を表から書きたい、仮面をつけずに――それが、お父さんの原点だったんだ。)


6. 光莉が実家を出た夜


光莉は帰りのバスの中で、古いノートを取り出した。

父に会って話したことを、簡単に書き留める。


最後に、彼女は一枚の便箋を広げ、ゆっくりとペンを走らせた。


お父さんへ


今日、久しぶりにたくさん話せて嬉しかった。


私はずっと、お父さんの「わからない」という言葉が謎だった。逃げているようにも見えた。でも、違った。


お父さんは、何もかもを熟考した上で、それでも「わからない」としか言えないことを、誠実に選び続けてきたんだね。答えを急がない。決めつけない。相手に考える余地を残す。


それは、逃げじゃない。むしろ、強い意志が必要なこと。


お父さんがその「わからない」を貫いてくれたから、母は自分自身と向き合う時間を持てた。私も、自分で考え続けることを諦めなかった。


本当に、ありがとう。


これからも、時々顔を見せに行きます。


光莉


彼女は封を閉じ、ポストに投函するまで、ずっとその手紙を胸に抱いていた。


※『彼女の計画_外伝』影たちの物語をお読み頂くとより作品の深みを味わうことができます。

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