第85話 継承の鏡―光莉の外側― 第2話 父の気配
1. 書斎の匂い
父の書斎に一人で入った。
古い紙の匂い。
かすかなインクの香り。
机の上には、父が最近書き始めたエッセイが置いてある。読んでもいいかと聞くと、父は「いいぞ」と言った。でも、その目は少し照れくさそうだった。
ページを開く。
そこには、自分が小さい頃のことが書かれていた。初めて歩いた日。幼稚園の運動会で転んだこと。小学生の頃、二人で行ったキャンプのこと。
一文字一文字に、父の「見ていた」視線があった。
(父は、こんなことを書いていたんだ)
(誰にも読ませるつもりはないって言ってた。でも、私には読んでほしかったんだ)
(父は、言葉にしない。でも、書く。それが、父の在り方なんだ)
書斎の空気が、父の気配で満ちていた。光莉は、その中にしばらく身を置いた。
2. 庭の背中
庭で父の背中を見た。
花に水をやっている。
その背中は昔と変わらない。
でも、どこか違う。
肩の力が抜けている。
水やりで濡れた土の匂いが立ち込める中、父の背中に影が長く伸びている。
(父は、昔はもっと固かった。何かを守っているみたいに)
(でも、今は違う。ただ、そこにいるだけ)
(それが、父の辿り着いた場所なんだ)
光莉は、その背中をしばらく見つめていた。
何も言わない。
言う必要もない。
ただ、そこにいる。それだけで、何かが伝わる気がした。
父が振り返った。
目が合う。
父は何も言わずに、また水やりを続けた。それだけのことだった。でも、それだけで十分だった。




