第83話 継承の鏡―光莉の外側― 第1話「前半」 わからなかったもの
序
光莉は「私が書く」を選んだ。AIレポートの四つの選択肢のどれも選ばず、自分の言葉で書くことを選んだ。
その夜、彼女はノートパソコンを開く。
カーソルが点滅する。
何も書けない。
(何を書けばいいのか――)
彼女が知っているのは、AIレポートという「データ」だけだ。父の裏アカウント、母のノート、純の小説、康介の沈黙、Eのメモ、沙織の画布。
でも、それは「彼らの物語」であって、「自分の物語」ではなかった。
光莉は、最初の一行を書くのに、三日かかった。
『私は、父と母の物語を調べた。でも、その先にあったのは、自分の物語だった。』
1. 父の言葉の断片
光莉は、これまでに父から聞いた言葉をノートに書き出した。
「俺にも、わからないんだ」 ――この言葉を聞くたび、父の声がなぜか遠くに聞こえた。目の前にいるのに、どこか別の場所にいるみたいだった。
「わからないけど、そこにいる。それだけで」 ――それでいいの? と聞きたかった。でも、聞けなかった。父の横顔が、それを許さなかった。
「書くことは、生きることだ。でも、書かなくてもいい。書かないことも、生きることだ」 ――これは、父が唯一、自分の「核」に近いことを語った言葉だった。でも、その意味を光莉はまだ飲み込めずにいた。
「昔は、誰かに見られるのが怖かった。でも、見られないのも、もっと怖かった」 ――裏アカウントのことを話した時、ぽつりと言った。その時の父の目は、遠くを見ていた。
「今はな、書きたいから書く。それだけだ」 ――今の心境を聞かれて。その言葉は、やけに軽かった。でも、軽いからこそ、重みがあった。
光莉は何度も読み返した。でも、それだけでは父の「核」は見えてこない。
(言葉だけでは、伝わらないものがある。でも、言葉がなければ、何も伝わらない)
(私は、言葉の間にあるもの、言葉が届かなかった場所にあるものを、感じ取らなければならない)
2. 母のノート
母・瞳から日記のコピーをもらった。母は言った。「もう、隠すものは何もないから」。
ページを開くと、嫉妬、疑念、醜い感情が赤裸々に綴られていた。光莉は読んでいて、息が詰まった。
(母は、こうやって自分の醜さと向き合ったんだ)
でも、父はどうだったんだろう。父も、何かを書いていた。裏アカウントの投稿も、エッセイも。でも、それは自分の醜さを曝け出すためじゃなかった。光莉にはそう思えた。
(父が書いていたのは、もっと別のものだった)
何かが違う。でも、その「何か」を言葉にすることはできなかった。
3. 純の小説
純の『彼女の計画』を再読した。そこに描かれていた「拓」は父だった。でも、同時に父ではなかった。
(純さんが見ていた父は、純さんの中の父だった)
(それは、私が見ている父とは違う)
(でも、それでいい。真実は一つじゃない)
そのことを、光莉は純から教わっていた。
4. 康介の言葉
康介に会った時の言葉を思い出す。
「光莉さん、君は父のことを知りたいのか。それとも、理解したいのか」
「知ることと理解することは、違う。知ることは事実を集めること。理解することは、その人の内側に入り込むこと。君は、どちらをしたいんだ?」
その問いが、光莉の中でずっと響いていた。
(私は、どちらをしたいんだろう)
(知りたいのか。それとも、理解したいのか)
(わからない。でも、父は「わからない」と言い続けてきた。その「わからない」を、私は「わからない」ままにできない)
(それが、私と父の違いなのかもしれない)
5. Eのメモ
Eから聞いた話。
「あの時、彼は知っていたと聞いた。でも、何も言わなかった。それが、救いだった」
(父は、何も言わなかった。それは逃げなのか。それとも、相手に委ねることだったのか)
(Eさんは、その「何も言わない」ことを、救いだと言った)
(父の「わからない」も、同じなのかもしれない。相手に委ねるための、沈黙だったのか)
6. 沙織の画布
沙織の言葉。
「純が言っていた。『彼の核は、私の刃が刺さらなかった』って」
(父の核は、純さんの刃が刺さらなかった。それは、父が何か特別なものを持っていたからじゃない)
(ただ、そこにあった。それだけ)
※『彼女の計画_外伝』影たちの物語をお読み頂くとより作品の深みを味わうことができます。




