第60話 彼女の傍観者―もう一つの視線― 第6話 顔
あのアカウントの主が、どうしても気になった。
瞳がメモしていた「stocking_night_0612」。
純の鍵アカで追っている「彼」。
おそらく同一人物だ。
そして、瞳と関係がある――いや、あった――男。
復讐心からではない。
怒りからでもない。
ただ――瞳が選んだ男が、どんな顔をしているのか、この目で確かめたかっただけだ。
恨んでいるわけではなかった。
むしろ、冷静だった。
長い結婚生活の中で、瞳が自分に見せなかった表情を、この男は見ているのだろう――そう思うと、奇妙な好奇心が湧いた。
どんな男なのか。
どんな目をしているのか。
どんな声なのか。
それだけ知りたかった。
それだけでよかった。
そのためには、呼び出す必要があった。
康介は新しいアカウントを作った。
名前は適当だ。プロフィールも適当だ。
問題は、どうやって相手に信頼させるかだった。
今は簡単だ。無料のAIツールに「アラサーOLがSNSで使うような、軽い感じのメッセージを生成して」と入れれば、それらしい文章が即座にできる。「今日も仕事疲れた〜」「週末どこか行きたいな」――そんな何気ないやりとりを、AIは淀みなく生成する。数回のやりとりで、相手は警戒を解いた。あるいは、それほどに孤独だったのか。
康介はただ、生成された文をコピーして送るだけだった。そろそろか。
「会えませんか?」
そう送った時、手が震えた。何をしようとしているのか、自分でもよくわかっていなかった。ただ――この男の顔を、この目で見たかった。
相手は応じた。待ち合わせは駅前のカフェ。日時も相手の希望に合わせた。
当日、康介は待ち合わせ場所の近くの書店にいた。二階の窓から、改札前を見下ろせる場所だ。
約束の時間、一人の男が現れた。
四十代半ばだろうか。特別な特徴はない。普通のサラリーマンという印象だ。少し猫背で、キョロキョロと周りを見渡している。誰かを待っている。明らかに、誰かを。
アラサーOLを名乗る「女性」を、待っている。
「……これが、瞳の選んだ男か」
それだけだった。それだけ確認して、康介は書店を後にした。
男はその後も、30分ほど待っていた。スマホを確認し、何度か周りを見て、ゆっくりと階段を降りていった。
康介は二度と、そのアカウントを開かなかった。
これが、あの「呼び出し」の全貌だった。
何かを成し遂げたわけでもない。何かを変えたわけでもない。ただ、顔を見ただけだ。
それなのに、康介の胸の奥には、ずっと何かが引っかかっていた。
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あの日から、どれだけ経っただろう。
今も時々、あの男の顔を思い出す。普通の、どこにでもいる男の顔。
でも、瞳はあの男を選んだ。
それが、すべてだ。




