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第35話 彼女の視線 第9話 “二人だけの秘密”が生まれた

前回のお話、お読みいただきありがとうございます。まだまだ、話は展開していきます。

数日後、純のスマホに見知らぬ番号から着信があった。出ると、聞き覚えのある声。


「純か。拓だ」


心臓が止まるかと思った。


「……拓さん」


「今から会えるか。以前のカフェ。瞳も来る」


「分かりました」


---


カフェ「あおい」は、二年ぶりだった。窓際の席に、拓と瞳が並んで座っている。二人の表情は、硬い。瞳の目は赤く腫れていた。目の下には、眠れぬ夜を物語る隈が濃く影を落としている。


純は、向かいに座った。


「久しぶり」


拓が、切り出した。


「『彼女の計画』、読んだ」


純は、静かに頷いた。


「はい。私が書きました」


瞳が、震える声で言った。


「なぜ? 私たちのことを、勝手に晒すなんて……」


その問いには、いくつもの答えが用意されていた。「表現したかった」「書かずにいられなかった」「これは真実だ」。でも、純が口にしたのは、一番核心に近い言葉だった。


「……私だけのものにしたくなかったからです」


「え?」


「あなたたちのこと、ずっと私の中にありました。カフェでの会話。非常階段の背中。あの日の拓さんの顔。全部、私だけの記憶として閉じ込めておくのが、怖かった。誰にも言わず抱え続けたら、自分の中で事実が歪んでいってしまいそうで。だから、形にして、外に出した」


瞳の目に、涙が溢れた。


「私たちの人生が、商品になるのよ? 私、不倫女として世間に晒されるの。それで終わりじゃない?親戚にも、職場にも、全部知られるかもしれない。――実際、もうじわじわと来てる」


「晒すつもりは、なかったんです。最初は、ただの記録だった。でも、書いているうちに、この物語は私だけのものじゃないって思えてきた。読者のものになりつつある。そして、単行本の話も来てる」


「じわじわと?」


瞳は、うつむいたまま言った。


「挨拶が返ってこない。ランチに誘われない。でも、誰も直接は何も言わない。『非常階段、見えてましたよ』ってメモがデスクに置かれていた。誰からかも分からない。何も確定できない。このじわじわとした空気が……本当に、きついの」


純は、言葉を失った。


「私は毎日、誰かの目も気にしながら出社してる。『今日は誰が何を思ってるんだろう』って。それが、少しずつ、私を削っていく」


拓が、静かに口を開いた。


「純、君は『書かずにいられない』と言う。でも、その言葉の裏に、『書くことで自分を特別だと思いたい』という欲を見ているんじゃないか?」


純は、はっとした。


「君の文章には、確かに力がある。でも、その力は、誰かを傷つける刃にもなる。君は、その刃を振り回す自分に酔ってないか?」


純は、真っ直ぐに瞳を見た。


「……ごめんなさい。でも、これは私が見てきた『真実』です。今はもう、真実でも嘘でもない。ただの『物語』になりつつある。それを止めることは、私にはできない」


「いい加減にしろよ!」


拓が、突然、机を叩いた。


「『物語』? 違う。これは俺たちの人生だ。君の中で『物語』になった瞬間に、俺たちの苦しみは『素材』に変わった。それがどれだけの暴力か、分かってるのか?」


周りの客が驚いて振り返る。拓は、声をひそめて言った。


「君は、俺たちのことを何だと思ってるんだ? ただの観察対象か? 物語の材料か?」


純は、初めて拓がこれほど激怒しているのを見た。


「ち、違います。拓さんたちは――」


「俺は、君を信じてた。秘密を共有した、共犯者だと思ってた。なのに、それを……それを『コンテンツ』にしたんだぞ」


拓の声が、かすかに震えていた。


「共犯者だと思ってた人間に、一番深いところを刺された。それが、どれだけの傷か、分かるか?」


「俺のフェチも、瞳との関係も、全部……商品にした。そして今、俺たちは職場でじわじわと削られてる。誰も直接は責めない。でも、空気が変わる。視線が変わる。それがどれだけきついか、分かるか?」


純は、何も言えなかった。


「……大切な人です。でも、その大切さを、形にしたかった。それだけなんです」


「形にして、外に出したら、それはもう私たちのものじゃない。お前のものになったんだ。そして今、お前はそれで金を稼ごうとしている。それを『大切さを形にした』と言うのか?」


瞳が、涙を拭いながら言った。


「純、あなたは、私たちを傷つけることで、何を得たいの?」


純は、しばらく黙っていた。そして、ぽつりと言った。


「……自分が、ここにいるって証が欲しかったのかもしれない。観察者でいることは、安全だった。誰にも傷つけられない。でも、何も残らない。この物語を書くことで、私は初めて、自分から動いた。たとえ、あなたたちを傷つけても」


沈黙が流れた。


拓が、ゆっくりと口を開いた。


「……俺たちは、君にとって、ただの通過点だったのか?」


「違います!」


純の声が、裏返った。


「ずっと、ずっと、心の中にありました。忘れた日は一日もない。でも、それを伝える方法が、書くことしかなかった」


瞳が、静かに言った。


「出版を、止めてくれない?」


純は首を振った。

「止められない。私の一部になっている」


その瞬間、瞳の中で何かが音を立てて崩れた。


――この子さえいなければ。


一瞬、真っ黒な感情が頭をもたげた。その感情の正体が「憎しみ」だと気づくのに、数秒もかからなかった。驚いた。自分の中に、こんなにも醜いものがあるなんて。


でも、その次に湧いたのは、もっと醜い感情だった。


――拓に、私を選ばせたい。この子より、私の方が愛されていると証明したい。


出版を止めさせたい。拓を自分の側に立たせたい。そのためなら、何を言ってもいい。そう思った瞬間があった。


「もし、あなたが出版を止めないなら、私はあなたを訴える。名誉毀損で。拓さんも、証人になってもらう」


そう言おうとした。喉元まで出かかった。


でも、その前に瞳は口を開いていた。


「純に書かれるくらいなら」

瞳は、低い声で言った。

「私が書く。自分の言葉で、自分の人生を」


拓が驚いて瞳を見る。

その目は、怒りでも悲しみでもなく、もっと別の――執念に近い光を宿していた。


「あなたのフィルターを通した『瞳』じゃ嫌。醜い感情も、嫉妬も、全部を自分の言葉で曝け出す」

「それが、私が選んだ道」


瞳は、ペンを握った。

それは、武器にも似ていた。


なぜ、そんな言葉が出たのか。自分でも分からない。でも、それが本心だった。憎しみと、醜い嫉妬と、それでもなお、この子と向き合いたいという矛盾した感情。全部が一緒くたになって、この言葉になった。


拓が驚いた顔をした。

「本気か?」


「本気だよ。隠し続けるより、晒して楽になりたい。それが、私の選ぶ道」


嘘だ。楽になりたいだけじゃない。もっと複雑で、もっと汚い感情がある。でも、それでも選ぶ。一緒に書くことを。


「そして、もう一つ」


瞳は、純をまっすぐ見た。


「私のことも、ちゃんと書いて。あなたのフィルターを通した『瞳』じゃなくて、本当の私を。醜い感情も、嫉妬も、全部。あなたが私を傷つけたように、今度は私が自分を曝け出す。それで、帳尻を合わせましょう」


純は、驚いた顔をした。


拓は、しばらく瞳を見つめていた。そして、ゆっくりと頷いた。


「俺も、書く。三人で、この物語を完成させよう」


拓の心にも、複雑な思いがあった。この形なら、自分もコントロールできる。自分たちの物語を、自分たちの手で。でも、それは同時に、純という表現者を飼いならすことでもあった。


純は、二人の顔を交互に見た。そして、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。必ず、ちゃんとした物語にします」


三人の間に生まれた絆は、美しいものではなかった。それは、利害の一致であり、相互監視であり、そして、傷を舐め合うような共依存だった。でも、それでも、彼らはそこから前に進むしかなかった。


三人の間に、奇妙な緊張感と、かすかな絆が生まれた。


表面上は、すべてが収束したように見えた。


しかし、拓の中で何かが軋み始めていた。

※『彼女の計画_外伝』影たちの物語をお読み頂くとより作品の深みを味わうことができます。

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