第108話 彼女の傍観者 ―拓の窓― 第6話 Eという偶然
あるいは、ずっと見られていた男の告白
Eという観測者
非常階段で俺と瞳を見ていたこと。メモを置いたこと。それがきっかけで、噂が広がったこと――全てを後から知った。彼女が辞める直前、その話を彼女自身から直接聞いた時のことを、今でも覚えている。誰にも話していない。何も言うつもりはない。ただ彼女の口から語られた事実を、これからも胸の奥にしまっておくだけだ。
あの時、非常階段に立っていたのは、俺と瞳だけじゃなかった。もう一人、影のようにそこに立つ誰かがいた。彼女があの場にいなければ、あの噂はもしかすると生まれなかったかもしれない。メモがなければ、誰も「見た」と証言することはなかったかもしれない。
誰もが、何かを見ている。見ないふりをしている人も、見たくなくて見てしまう人も、全部含めて、視線の連鎖の中にいる。康介も、瞳も、純も、俺も。みんな誰かを見て、誰かに見られている。その連鎖から逃れられる者はいない。見ていることすら意識しない者もいれば、見られていることに気づかない者もいる。ただ、その連鎖は続く。
Eは、その連鎖に巻き込まれた一人にすぎない。特別な存在ではない。英雄でもなければ、悪人でもない。ただの、連鎖の中の一つの点。でも、彼女だけが、メモを置いた。それだけで、彼女はもう「見ていただけ」の人じゃなかった。「見ていただけ」で終わらなかった。たった一枚のメモが、彼女を「見ていただけ」から「残した者」へと変えた。何かを変えたかどうかはわからない。でも、少なくとも何かを「始めた」。
今も時々、Eのあのときの顔を思い出す。誰かの人生に、たった一枚のメモが残す痕跡を。それは小さな、ほとんど目に見えない痕跡かもしれない。それでも、確かにそこにある。
彼女は今、どこで何をしているのか。もう会うことはないだろう。でも、彼女が置いたメモは、今もどこかで誰かの机の上に――あるいは記憶の片隅に――残っている。視線の連鎖は、途切れることなく続いている。




