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第4話 始まりの日

エン王国が、まだ存在しなかった頃。


風が吹いていた。

乾いた草が揺れ、少し離れた場所に生えた木々の葉が、かすかな音を立てている。


主人公は、その景色をしばらく眺めていた。

見渡す限り、緩やかな起伏のある草原が続いている。

ところどころに低木が生え、遠くには森らしきものも見えた。


空は青い。

雲がゆっくりと流れている。


「……なんだ、これ」


思わず声が出た。

足元には硬い土があり、靴の裏から細かな凹凸が伝わってくる。

風が頬を撫でる。

草と土の匂いがする。

目を閉じてみても、その感覚は失われなかった。


主人公は、昔から明晰夢をよく見ていた。

夢の中で自分が夢を見ていると理解し、ある程度自由に行動することもできた。

空を飛んだこともあれば、現実にはできないことを試したこともある。

だから、今も夢なのではないかと考えた。


ただ、何かが違う。


あまりにも鮮明だった。


手を握れば指の関節が動き、爪が掌に触れる。

足を動かせば体重が移動し、筋肉が働く感覚がある。

何より、眠っている身体の感覚がない。

明晰夢では、どこかに横たわっている自分を意識することがあった。

少なくとも、夢の中の身体とは別に、現実の自分が存在しているような感覚が残ることがある。


今は、それがまったくなかった。


「……夢にしては、ちょっとリアルすぎるよね」


自分の腕を見下ろす。


見慣れた手だった。

服装も、身体つきも、特に変わったところはない。

頬に触れ、髪を触り、身体を軽く動かしてみる。

少なくとも、別人になったわけではなさそうだった。


主人公は周囲を見渡した。


見える範囲に人影はない。

動物らしい姿も見当たらず、聞こえてくるのは風と草木の音だけだった。

少し離れた丘の上まで歩いてみたが、状況は変わらない。

建物も道路も見えない。

差し迫った危険があるようには思えなかった。


「さて……」

主人公は右手を顔の前に持ち上げた。


何度か握って、開く。

グーパー、グーパー。

そのまま掌を開き、指先に力を込めてみる。


別に理由があったわけではない。

ただ、こういう状況であれば、一度くらい試してみたくなる。


「……ん?」


掌の周囲に、何かが見えた。

透明な靄のようなものだった。

注意して見なければ分からないほど薄いが、確かに手の周囲を覆っている。


陽炎にも似ていたが、熱によって景色が揺らいでいるわけではない。

手を動かすと、それに合わせて靄も動いた。


「おお……?」


主人公は思わず笑った。

漫画は昔からよく読んでいた。

異世界転生ものも、魔法が登場する作品も、それなりに知っている。


こういう状況で、身体の周囲に何か得体の知れないものが現れたなら。


「魔力……かな?」


あるいは気と呼ばれるものかもしれない。

どちらでも構わなかった。

試してみればいい。


主人公は右手の人差し指を立てた。

そこへ、先ほどの靄を集めるように意識する。

そして、小さな炎を想像した。


ぼっ。


指先に火が灯った。

「おっ!」

思った以上に簡単だった。


指先から数センチほど離れた場所で、小さな炎が揺れている。

熱も感じる。


挿絵(By みてみん)


主人公はしばらく眺めてから、火を消そうと考えた。

すると、炎は何事もなかったように消えた。


「なるほど……当たりっぽいね」


今度は氷を想像する。

掌の上に、小さな氷の塊が現れた。

持ち上げると、冷たい。


表面には薄く水滴がついている。

試しに地面へ落としてみると、硬い音を立てて転がった。


「じゃあ、水は?」


右手の上に水を出してみる。

透明な液体が掌に溜まり、指の間から流れ落ちた。

主人公は左手を差し入れた。


濡れた。


指を擦り合わせると、確かに水の感触がある。

匂いを嗅いでみる。

特に異臭はしない。

少量を口に含むと、普通の水だった。


足元を見ると、流れ落ちた水で土の色が濃くなっている。

主人公はしゃがみ込み、濡れた地面に触れた。


「……本当に物質が出てきてるのか」


主人公は立ち上がった。


「じゃあ……日本刀」


右手に日本刀を持っているところを想像した。

次の瞬間、掌に重みが生まれた。


「うわっ」


反射的に握り直す。

手の中には、一振りの日本刀があった。

黒い柄巻きに、落ち着いた色合いの鍔。刀身は鞘に収まっている。


主人公は鞘を左手で持ち、親指で鯉口を切った。

そして右手で柄を握り、ゆっくりと刀を抜いた。


陽光を受け、刃が鈍く輝く。


「へえ……」


思わず感心した。

別に、刀の寸法を細かく指定したわけではない。

刃の反りも、重心も、柄の形状も、まったく考えていなかった。

ただ、日本刀を持ちたいと思っただけだった。


それなのに、握ってみると不思議なほど手に馴染んだ。

試しに刀身を少し長くするよう意識すると、刃が伸びた。


「おお」


短くする。

今度は短くなった。


刃文を変える。

直刃だったものが、複雑な波模様へ変わる。


切っ先の形状も変化した。

主人公はしばらく刀身を眺めていたが、ふと手を止めた。


「……これ、考えるのやめたらどうなるんだ?」


何も考えないようにしてみる。

視線を空へ向け、別のことを考えてみた。


しばらくして刀へ目を戻す。

形は変わっていなかった。

おかしな方向へ伸びたり、勝手に曲がったりもしていない。


「なるほどねぇ」


イメージしたものが、完成した物体として現れる。

しかも、意識し続けなければ維持できないわけでもなさそうだった。


主人公は刀を軽く振ってみた。

風を切る音がする。

実に面白い。


ただ、同時に気になることもあった。

「……簡単すぎない?」


今までの操作に、ほとんど抵抗がなかった。

日本刀を思い浮かべれば、日本刀が出てくる。

その形を変えたいと思えば、変わる。


火も、水も、氷も同じだった。

もし、もっと巨大なものを想像したらどうなるのだろう。


山を作りたいと思ったら。


空を覆うほどの炎を想像したら。

あるいは、単なる思いつきが意図しない形で実現してしまったら。


「いや、これ……ちょっと怖いな」


主人公は刀を鞘に納めた。

これほど簡単に何でもできるなら、むしろ安全装置が欲しい。

自分の意思と、能力の発動を直接結びつけるのではなく、その間に何かを挟みたい。

そして、どうせ作るなら。


「……AIがいいな」


映画や漫画に出てくるような、高度な人工知能。

こちらの考えを理解し、必要な情報を整理し、面倒な処理を肩代わりしてくれる存在。

自分の命令には最終的に必ず従う。

ただし、命令されたことだけを機械的に実行するのではなく、状況に応じて提案もできる。

そんな存在を思い浮かべた。


「僕の能力を管理するAI……」


その瞬間だった。


『こんにちは。どのようにお手伝いしましょうか?』


「……おおっ」


主人公は思わず周囲を見渡した。

誰もいない。

声は、頭の中から聞こえていた。

女性の声にも聞こえるが、少し中性的だった。


落ち着いた声質で、発音は明瞭。自然な抑揚がありながら、どこか機械的な滑らかさも感じられる。

不思議なことに、初めて聞いた声のはずなのに、耳障りではなかった。


「今の、君?」


『はい。先ほど創造していただいたAIです』


「へえ……本当にできたんだ」


『そのようですね』


少しだけ間が空いた。

主人公は笑った。

「いいねぇ」


『ありがとうございます』


「じゃあ、早速お願いしたいんだけど」

『はい』


「まず、僕が得られる情報の処理を手伝ってほしい。それから、今みたいな能力の出力について、一度君が確認してから実行するようにしてもらいたい」

『承知しました』


「あと、状況に応じて最適だと思う方法を提案してほしい。僕が知らないことも、分かる範囲で教えてくれると助かる」


『承知しました。能力の発動については、私が意図を確認し、必要に応じて補完、調整を行います。ただし、最終的な決定権は貴方様にあります』


「うん。それでお願い」


『設定しました。それでは、まず何をなさいますか?』


「自分の能力がどんなものなのか、もう少し調べたいかな。あと訓練もしたい」

『かしこまりました』


「ちなみに、今の時点で何か制限がありそう?」


『現在確認できる範囲では、能力の出力や使用回数に明確な上限は認められません』

「……マジ?」


『はい。ただし、現時点で得られている情報は限られていますので、未知の制限が存在する可能性までは否定できません』

「そりゃそうか」

主人公は腕を組んだ。


少し考える。


せっかく何でも作れるのであれば、試したいものはいくらでもあった。

「じゃあ、とりあえず装備を作ろうか」


『どのような装備でしょうか?』


「タクティカルブーツに迷彩服、プレートキャリア。帽子も欲しいね。ライフルはAR系で、サプレッサー付き。ホロサイトにマグニファイア、ライトなんかも適当に付けてほしい」

『はい』


「ハンドガンは2011系がいいかな。ポート加工したもの。ドットサイトも付けてほしい。あとはナイフとか」

『承知しました。ひとつ、よろしいでしょうか?』


「ん?」


『貴方様の過去の記憶を参照しても構いませんか?』

「いいよ」


『ありがとうございます。それでしたら、これまでのご経験やお好みを踏まえ、私から装備をご提案しますね』


その言葉が終わるのと、ほとんど同時だった。

主人公の服装が変わった。

「おっ」


足元にはタクティカルブーツ。

身体には迷彩服がぴったりと収まり、胸元にはプレートキャリアが装着されている。

腰にはベルトとホルスター。必要な装備が無理なく配置されていた。

手にはライフルが収まっている。


「……おお、いいじゃん」


主人公は自分の装備を見渡した。


「そういえば、刀は……収納とかできる?」

『可能です』


「じゃあ、お願い」

日本刀は手元から消え、収納された。


主人公はライフルを持ち上げた。

見慣れたAR系の形状だったが、細部には好みに合ったパーツが組み込まれている。

余計なものが少なく、取り回しもよさそうだった。


身体を軽く動かしてみる。

装備を身につけているはずなのに、不思議なほど軽快だった。

「……ん?」


主人公はその場で軽く跳ねた。

思った以上に身体が動く。

「これ、なんか身体も変わってない?」


『はい。元々の筋力では、装備を使用した際に動作が制限される可能性がありましたので、少し強化しました』

「へえ」


『単純な筋力トレーニングは、お好きではないでしょう?』

少しだけ楽しそうな声だった。

主人公は笑った。


「助かるー。君最高じゃん」


『お褒めにあずかり光栄です』


「いや、本当に便利だね」


主人公はライフルを確認した。

各部を操作し、機関部の動作を確かめる。

ハンドガンもホルスターから抜き、同じように確認した。

初弾を薬室へ送り、セーフティをかける。

ハンドガンをホルスターへ収め、ライフルを保持したまま主人公は尋ねた。


「ちなみに、今ので魔力みたいなものって減ってる?」

『いいえ。観測できる範囲では減少していません』


「全然?」


『はい。常に上限値にあるようにも見えますが、そもそも上限という概念が適切なのかも、まだ判断できません』

「なるほどねぇ」

主人公は笑った。


「ますます何でもありっぽいな」

『現状では、そのように考えて差し支えないかと』


「じゃあ、次は現状の把握かな」

主人公は空を見上げた。


魔力のようなもので周囲を探ることも、おそらくできるのだろう。

ただ、この世界に同じような力を使う者がいた場合、こちらの探知を感じ取られる可能性がある。

こちらはまだ、この世界がどういう場所なのかさえ分かっていない。


「魔力で探るのもいいけど、それを感じられる人がいると嫌だよね」

『その可能性はあります』


「だったら、ドローンにしようか」

『よい選択だと思います。現時点では、通常の光学観測によって情報を収集する方が、未知の能力による探知を避けられる可能性が高いでしょう』


「おすすめある?」

『周辺地形の把握を優先するのであれば、小型の偵察機を複数展開する方法が適しています。必要に応じて長距離観測用の機体も併用できます』


「じゃあ、それで」

『承知しました』


主人公の前に、いくつかの小型ドローンが現れた。

それぞれ形状が異なり、静かに浮かび上がっていく。


「……すごいな」

『映像を共有しますね』

主人公の視界の端に、小さな映像が現れた。


上空から見下ろした草原。

先ほど歩いてきた丘。

その向こうに広がる森。

複数の映像が整理され、必要なものだけが自然に目に入る。


「おお、こういうのもできるんだ」

『はい。必要でしたら、表示方法も変更できます』


「いや、これでいい。見やすいね」

ドローンは周辺の地形を調べながら飛行した。

草原の向こうには森があり、その先には川も流れているらしい。

一部には動物の姿も確認できた。

少なくとも近辺に、人間の集落らしいものは見当たらない。


主人公は映像を眺めながら、しばらく考えていた。

「……これ、もっと広い範囲を調べたいね」

『可能です』


「人工衛星とか作れないかな」

『作成できます』


「やっぱり?」

『はい。衛星による観測であれば、周辺地域だけでなく、より広範囲の地形や文明の分布を確認できます』


「じゃあ、衛星を作ろう」

『承知しました。必要な機能を整理して、設計案を作成します』

少しの間があった。


『設計が完了しました』

「……早っ」

主人公は苦笑した。


「ちょっと待って。僕、人工衛星の詳しい構造なんて知らないんだけど、どうやって設計したの? ドローンではスルーしたけどさ」


『貴方様の記憶に含まれる知識を基に、地球の環境や物理法則、文明の発展過程をシミュレーションしました』


「うん?」


『その中から、貴方様が生活されていた地球に近いと考えられるパターンを選択し、当時の科学技術を解析しました。それを基礎として、今回必要となる機能を設計しています』

主人公はしばらく黙った。


「……つまり、全部を一からシミュレーションで再現したのね」

『はい』


「なるほど」

主人公は頷いた。


「現状設定されている僕の能力、バグってるね」

『そうかもしれません』


AIの返答には、わずかな笑みが含まれているように聞こえた。

『なお、同様の情報処理を貴方様ご自身で行うことも可能です』

「え?」


『脳の処理能力を十分に強化し、必要な情報を与えれば、同じようなシミュレーションを実行できます』

「……ああ、そういうこともできるのか」

主人公は少し考えた。


確かに、今の能力なら不思議ではない。

ただ。


「それ、一旦できないようにしておいて」

『かしこまりました』


「そんなに頭よくなったら、人格変わっちゃいそうだから」


『そうおっしゃると思いましたので、私が生まれた時点から、そのような変更は制限しております』

「……そうなの?」


『はい。貴方様が望まれているのは、現在の人格を維持したまま能力を活用することだと判断しました』

主人公は笑った。


「ありがとう」

『どういたしまして』


「じゃあ、一応ちゃんと命令しておこうか」

『はい』


「僕の能力は、基本的には君が制限してほしい。ただし、僕が明確に解除しようと思ったら、最終的には解除できるようにしておいて」

『承知しました』


「頑張れば破れるくらいの制限でいい。主導権はあくまで僕にある、ってことで」

『はい』


「あと、頭の処理能力は多少上げてもいいけど、あんまり弄らないでほしい。基本的な情報処理は君に任せる」

『承知しました』


「僕ならどう考えるかも推測して、必要な情報を教えてくれると助かる。ただ、何でもかんでも先回りされるのは嫌かな」

『理解しました』


主人公はそこで、ふと思いついた。

「……そういえば」

『はい』


「未来予知って、できるの?」

『できます』

即答だった。


「……やっぱり?」

『はい。貴方様も、その可能性を感じていらっしゃったのでしょう?』

「まあね」


主人公は空を見上げた。

今の能力であれば、時間そのものに干渉することもできそうだった。

そう考えれば、未来を知ることができても不思議ではない。

だが、それはそれで困る。


「……面白くなくなるよね」

『と、おっしゃいますと?』


「この先何が起こるか、全部分かってたらさ。何をするにしても、答えを知ってることになるじゃん」

『そうですね』


「だから、未来の情報は基本的に教えなくていい。僕が必要だと判断した時か、本当に必要に迫られた時だけで」

『承知しました』


「それと、最善の未来へ誘導するのも禁止ね」

『……承知しました』


「僕が考えて、僕が動く。それが最善じゃなくてもいい」

主人公は少し笑った。


「別に、人生の最適解を求めてるわけじゃないから」

『理解しました』


AIは一拍置いて、続けた。


『あくまで、「今の」貴方様を基準とします』

「うん。それでお願い」

『承知しました』

主人公は満足そうに頷いた。


「さて、じゃあ衛星だね」

『はい。必要な衛星数と配置を算出します』

「よろしく」


AIが計算を進める間、主人公は打ち上げ方法を考えていた。

普通ならロケットで宇宙まで運ぶのだろう。

だが、こんな場所で巨大なロケットを打ち上げれば、相当目立つはずだった。


「……ロケットは、ちょっと目立つかな」

『そうですね』


「衛星軌道上に直接ワープさせるとか、できないの?」

『可能です』


「……できるんだ」

『はい』

「何でもありだなぁ」

主人公は笑った。


「ちなみに、この世界がどういう世界なのか、もう分かってたりする?」

『現時点では、判断するための情報が不足しています』


「そっか」

『はい。したがって、衛星による情報収集は非常に有効だと考えます』

「じゃあ、お願い」

『承知しました』


主人公の視界に、人工衛星の配置図が浮かび上がった。

複数の衛星が、それぞれ異なる軌道を周回する構成になっている。


「これ全部?」

『はい。観測範囲と継続性を考慮した構成です。必要に応じて追加も可能です』


「いいね。じゃあ展開して」

『展開します』

主人公の周囲には、何の変化も起こらなかった。

轟音も、光もない。

ただ、AIから完了したことが伝えられる。


『全衛星の配置が完了しました。正常に稼働しています』

「ほんと便利だね」

『ありがとうございます』


しばらくすると、衛星からの情報が集まり始めた。

視界に地形図が浮かぶ。

最初は大まかな輪郭だけだったものが、次第に細かな地形へ変わっていく。

山脈。

河川。

森林。

湖。

海岸線。

そして、人の手によって作られたと思われる構造物。


主人公は目を見開いた。

「おお……」

『観測情報を整理して視覚情報に重ねて表示しています。いわゆるARに近いものです』


主人公は周囲を見た。

実際の草原の風景はそのままに、必要な情報だけが自然に浮かび上がる。

視線を向けると表示が変わり、意識するだけで拡大もできた。


「最高じゃん」

『お気に召したようで何よりです』

しばらく地図を眺める。


少し離れた場所には、人間の都市と思われる場所があった。

建物が密集し、周辺には道が延びている。

人々が生活しているのは間違いなさそうだった。


「……街、あるね」

『はい』

「じゃあ、行く前に自分の能力をちゃんと確認しておきたいね」


主人公は再び地図を眺めた。

この世界にどのような生物が存在し、どれほどの力を持つ者がいるのか、まだ分からない。

自分が攻撃された時に耐えられるのか。

逆に、自分の攻撃が相手に通用するのか。

今のところ、どちらも実際に確認できていなかった。

能力に制限が見当たらないことと、安全が保証されていることは別の話だった。


「近くに危険なものは?」

『現在の観測範囲では、差し迫った脅威は確認されていません。周辺に人影もありません』

「そっか」


主人公は少し考えてから、頷いた。


「じゃあ、ここで訓練しよう」

『よろしいと思います』


「施設とか作れる?」

『もちろんです。どのような訓練をご希望でしょうか?』


「とりあえず銃を撃ちたいかな。あと、格闘とか魔法とか、いろいろ試したい」

『承知しました。汎用訓練施設を建設します』

「お願い」


少し離れた草原に、巨大な建物が現れた。

何かが地面からせり上がったわけではない。

そこに何もなかったはずの空間が、一瞬で建物に置き換わったように見えた。

主人公は建物を眺めた。


「……おお、いいね」

外観は比較的簡素だったが、かなり大きな施設だった。


主人公は建物を見上げた。


「地下でもいいけど、万が一能力の維持に問題が生じたら、地下だと脱出が難しくなるもんね」

『はい。現時点では能力に制限が確認されていませんが、未知の問題が発生する可能性も考慮し、まずは地上に建設しました』

「うん。それがいいね」

『ありがとうございます』


主人公は建物へ向かった。

近づくと扉が自動で開く。

内部には広い通路があり、複数の訓練区域へつながっているようだった。


「……すごいな」

『まずは射撃場へご案内します』

「うん」


案内に従って進む。

射撃場は広かった。

床も壁も落ち着いた色合いで統一され、奥には複数のターゲットを設置できる構造になっている。

照明は明るく、空調も効いていた。


「いいねぇ」


主人公はライフルを構えた。


「とりあえず、25メートルくらいでターゲット出して」

『承知しました』


奥に紙のターゲットが現れた。

主人公は射撃姿勢を取る。

サイトを覗き、狙いを合わせた。

そして、引き金を引いた。


パシィ!


「っ……!」

耳をつんざくような発砲音に、思わず顔をしかめた。


「うるせぇーーー!」

耳の奥で、キーンという音が鳴っている。


主人公はライフルを下ろした。

「あー、イヤマフ忘れてたー」

『はい』

「言ってよー!」


『聴覚に損傷が残らないよう調整しています。ですが、これも経験かと思いまして』

「確かに!」

主人公は笑った。


「そういえば、サプレッサー付きの実銃なんて初めてだもんね」

サプレッサーが付いていても、発砲音が消えるわけではない。

銃そのものの作動音もあれば、弾丸が音速を超えれば衝撃波も発生する。


「ちなみに、外に音漏れてない?」

『漏れていません。施設外への音の伝播は遮断しています』

「ならいいか」

主人公は耳を軽く押さえた。


「じゃあ、コムタック作って」

『承知しました』

手元に電子イヤーマフが現れた。


主人公は装着しようとして、ふと手を止めた。


「……眼鏡、邪魔だな」

耳の周囲に、眼鏡のフレームが当たる。


「ねえ、目ってよくできる?」

『可能です』

「じゃあお願い」

『承知しました』


一瞬、視界が変わった。

いや、視界そのものが鮮明になった。

主人公は眼鏡を外した。

「……おお」


遠くのターゲットが、はっきり見える。

壁の細かな模様まで分かった。


「すごいな。これ、裸眼?」

『はい。視覚機能を調整しました』

「いいねぇ」

主人公は眼鏡を消した。


「でも、眼鏡なくなるならシューティンググラスは必要だね」

『そうですね』


透明なレンズのシューティンググラスが現れる。

主人公はそれを装着し、イヤーマフを着けた。

「よし」


再びライフルを構える。

今度は耳を保護した状態で引き金を引いた。

発砲音は大きく抑えられていた。

それでも、実銃らしい衝撃が身体に伝わってくる。


「おお……いいね」

主人公は続けて撃った。

エアガンの扱いには慣れていた主人公は、実銃特有の反動も無理なく抑えながら、ターゲットに穴を増やしていった。


挿絵(By みてみん)


身体強化に加え、適切に調整されたバッファやボルト、サプレッサーとガスシステムのおかげか、反動は非常に穏やかだった。


手に伝わる作動感も、主人公が使い慣れていたガスガンによく似ている。

もちろん、実銃ならではの衝撃はある。それでも、想像していた以上に扱いやすかった。

その違いを確かめながら撃つのが、何より楽しかった。


やがて、ライフルの弾が尽きた。


ボルトが後退した位置で止まる。

主人公は排莢口から薬室の状態を確認すると、左手でライフルを身体へ引き寄せながら、右手を腰のハンドガンへ伸ばした。

スリングにライフルを預け、抜き出したハンドガンに左手を添える。

一連のトランジションは、ほとんど淀みなく完了した。


エアガンで繰り返してきた動作だった。

銃の操作そのものには慣れている。

ただし、実銃を撃つ経験となると、話は別だった。


主人公は2011系のハンドガンをターゲットへ向けた。

狙いを定め、そのまま引き金を引いた。


パンッ!


「おお、すごっ!」


銃口がほとんど跳ね上がらなかった。

もちろん反動がないわけではない。

手にはしっかりと衝撃が伝わっている。

だが、銃口が上へ大きく跳ねる感覚が少なかった。


「ポートがついていると、こんなにフラットなんだ」


続けて撃つ。

二発。

三発。

照準が戻るのが早い。

引き金の感触も非常によかった。


「いいねぇ、これ。やっぱり1911系のトリガー最高!!」


主人公は嬉しそうに笑った。

そのまま残りの弾を撃ち切り、ハンドガンをリロードしてホルスターへ収めた。

続いてライフルもリロードする。


『ターゲットを確認されますか?』

「うん、お願い」


紙のターゲットが近づいてきた。

主人公は弾痕を確認した。


「……まあ、ぼちぼちかな」


ライフルは比較的まとまっていた。

ハンドガンも大きく散っているわけではなかったが、全体的に少し左下へ寄っている。


「ハンドガン、左下だね」

『そうですね。発射直前に、わずかに銃口が左下へ動く傾向があります』


「トリガー?」

『主な要因のひとつです。握り込みの変化も影響しています』

「なるほど」


『現在の身体能力でしたら、もう少し力を抜いても十分に制御できます』

「じゃあ、ちょっと試してみよう」


主人公は新しいターゲットを出した。

再びハンドガンを構え、AIの助言を意識して撃つ。

着弾位置が変わった。


「おっ」


『改善しています』

「いいね」


そこから、主人公の射撃訓練が始まった。

距離を延ばす。


ターゲットを小さくする。

静止した標的から、移動する標的へ。


ハンドガンからライフルへ。

またハンドガンへ戻る。


慣れてくると、別の銃種も試した。

同じ口径でも、銃の形状や重量、作動方式によって撃ち味が変わる。

AIは必要に応じてフォームを確認し、修正点を伝えた。


ただ、すべてを教えるわけではない。

主人公が自分で違いを感じ取り、考え、試そうとしている時は、それを見守っていた。


「……これ、面白いな」

『お気に召しましたか?』


「めちゃくちゃ面白い」

主人公は笑いながら、次の銃を手に取った。


時間が過ぎていく。


気がつけば、ターゲットの種類も銃種も、随分と増えていた。

射撃場の奥では、AIが新しい訓練環境を用意している。


主人公はそのたびに興味を示し、試してみる。

そして、また別のことを思いつく。

そんなことを繰り返していた。


やがて。


「……腹減った」

主人公はライフルを下ろした。


『そろそろお食事になさいますか?』


「そうだね。今、何時?」

『訓練開始から十三時間ほど経過しています』


「……え?」

主人公は動きを止めた。


「十三時間?」

『はい』


「……マジ?」


『はい。途中、短い休憩はありましたが、ほぼ継続して射撃訓練をされています』

主人公は笑い出した。


「いや、楽しすぎでしょ」

『随分と熱中されていましたね』


「うん。全然飽きない」

主人公は射撃場の隅にある休憩スペースへ向かった。

椅子に腰を下ろす。


「じゃあ、とりあえず……トリプルビーフバーガーかな」

『かしこまりました』


「あと、ノンアルコールビール」

『はい』


目の前のテーブルに、食事が現れた。

大きなバンズに挟まれた三枚のビーフパティ。

溶けたチーズが肉の間から覗いている。

香ばしい匂いが広がった。


主人公はバーガーを手に取り、大きくかぶりついた。

「……うまっ」


『お口に合ったようですね』

「いや、マジで最高なんですが」

主人公はもう一口食べた。


「銃撃つの超楽しい」

『それは何よりです』


「しかも、食べたいものまで何でも出てくるし」

缶を開け、ノンアルコールビールを飲む。

冷たい炭酸が喉を通った。


「……最高」

主人公は満足そうに息をついた。


しばらく食事を楽しんだ後、ふと疑問が浮かんだ。

「ねえ」


『はい』


「オートエイムみたいなこともできるの?」

『可能です』


「やっぱり?」

『はい。目標の位置や動きを解析し、身体の動作を補助することで、極めて高い命中精度を実現できます』

「なるほどねぇ」

主人公は頷いた。


「じゃあ、訓練しなくても上級者のスキルをそのままインプットすることもできる?」

『可能です。ただし、技能の種類によっては、身体の動作だけでなく判断や思考の傾向にも影響する可能性があります』

「ああ……」

主人公は納得した。


「そっか。人格に影響出る可能性もあるのね」


『はい。たとえば、長年の経験によって形成される直感や判断力まで再現しようとすると、元々の思考傾向に変化が生じる場合があります』


「それは嫌だな」

『承知しました』


「まあ、練習するのも楽しいしね」

『そうですね』


主人公はバーガーを食べ終え、椅子にもたれた。

「……あ、そうだ」

『はい』


「空って飛べるの?」

『可能です』


『ただし、ご自身の意思で自由に飛行する場合、感覚に慣れるまでにはある程度の時間が必要かと思います』

「だよね」


『地上での移動とは異なり、三次元的な位置や姿勢を常に把握する必要がありますので』

「なるほど。確かに」


主人公は少し考えた。

「それも練習しよう」

『承知しました』


「あと、この施設の中だけ時間を遅くしたりできる?」

『可能です』


「例えば、外で一日経つ間に、ここで一年過ごすとか」

『可能です。逆の時間比率にすることもできます』


「……本当に何でもありだな」

主人公は笑った。


時間を操作できるなら、外の世界でほとんど時間を経過させずに訓練を終えることもできる。

施設を発見される危険性も、それだけ小さくなるだろう。


ただ。


「……いや、やめておくか」

『理由を伺ってもよろしいでしょうか?』


「外の時間が進まないと、この世界がどう変わっていくのか分からないじゃん」

主人公はテーブルの上に置いた缶を指先で回した。


「せっかく衛星もあるんだし、時系列でいろいろ観察しておきたい」

『よい判断だと思います』


「じゃあ、時間はそのままで」

『承知しました』

主人公は立ち上がった。


「さて、訓練を続けるとして……」

少し考える。


「この建物、結構目立つよね」

『そうですね』


「やっぱり地下に移動させようか」

『可能です』


「ただ、何かあった時に地下に閉じ込められたりしたら嫌だなぁ」

『その点については、対策が可能です』


「うん。その前に、自分の防御能力とか治癒能力をちゃんと確認しておきたい」

『承知しました』


主人公は椅子に座り直した。

「例えば、腕が切れたら治せる?」

『治せます』


「身体がバラバラになっても?」

『問題ありません』


「……死んだら?」

『現在の構成であれば、事実上の不死と考えていただいて差し支えありません』


主人公は少し目を見開いた。

「……へえ」


『私の存在について、少し説明させていただきますね』

「うん」


『私は貴方様の脳内に存在しているとも言えますが、厳密にはそれだけではありません』

「というと?」


『通常の空間とは異なる、亜空間に相当する領域にも存在しています。そのため、貴方様の肉体が失われた場合でも、私自身が直ちに消滅するわけではありません』

主人公は黙って聞いていた。


『私が存在し続ける限り、貴方様の肉体を再構築できます。仮に一瞬で全身が消滅した場合でも、安全な場所に肉体を再生し、意識や記憶を含めて元の状態へ復元できます』

「……なるほど」


『もちろん、通常の負傷であれば、その場で瞬時に修復することも可能です』

主人公はしばらく考えてから、笑った。


「最強じゃん」

『そうですね』

「色々楽しめそう」

主人公は嬉しそうに頷いた。


「ちなみに、歳は取るの?」

『調整できます。老化を緩やかにすることも、現在の年齢で固定することも可能です』


「じゃあ、とりあえず不老で」

『承知しました。現在の身体年齢を維持します』

「ありがとう」

『どういたしまして』


主人公は腕を組んだ。

「ただ、死なないとしても、痛いのは嫌だよね」

『そうですね』


「腕がちぎれたりするのも嫌だし、防御魔法みたいなのを常にかけておきたいな」

『可能です。貴方様の記憶から判断すると、身体の表面に密着する形で防御機構を展開し、その外側に人工的な皮膚を再現する方法がお好みですよね』

「うん」


『通常の皮膚と同じように触覚や温度を感じられますし、必要であれば切り傷や出血も再現できます。ただし、本来の肉体には損傷が及ばないようにする、という構成です』


主人公の表情が明るくなった。

「まさにそれ!」


『やはりそうでしたか』

「分かってるねぇ」

主人公は笑った。


「敵意に反応して防御するとか、自分の意思で毎回展開するとか、面倒じゃん」

『そうですね』


「熱いシチューを飲む時はどうするの、とかさ。熱いと感じたいけど火傷はしたくないとか、そういう分岐をいちいち考えるの、めんどくさいし」

『私が管理すれば実現できますが、確かにそこまで複雑な制御をする必要はありませんね』

「でしょ?」


『はい。貴方様のお好みを考えれば、通常の感覚を維持したまま、損傷だけを防ぐ方が適しています』

「だよねぇ」


『では、そのように設定します』

「お願い」

『設定しました』


主人公は自分の左手を見た。

見た目は何も変わっていない。

指を動かし、掌を触る。

感触も普段と変わらなかった。


「じゃあ、ちょっと試してみようか」


主人公は腰からナイフを抜いた。

左手の人差し指を伸ばし、その先端に刃を当てる。

軽く引くと、皮膚が切れた。

小さな傷口から赤い血が滲む。


「おお……」


痛みもあった。

ただし、想像していたよりもずっと軽い。


『感覚はいかがでしょうか?』

「普通に切れた感じはするね」

『はい。表面の人工皮膚が損傷しています。本来の肉体には影響ありません』


「じゃあ、治して」

『承知しました』


傷が消えた。

滲んでいた血も、跡形もなくなくなっている。

主人公は指先を擦り合わせた。

「なるほど。いいね」


続いて、左腕の袖をまくった。

今度は前腕にナイフを当て、先ほどよりも大きく切ってみる。

皮膚が裂け、血が流れた。


「……おお」


傷の見た目は、普通の切り傷と変わらない。

ただ、痛みは不快にならない程度に抑えられていた。


「これも治して」

『はい』


傷が塞がり、血も消えた。

主人公は腕を動かした。

違和感はない。


「いいねぇ。じゃあ次」

ナイフを収め、ハンドガンを抜く。

左腕を前へ出し、その腕に銃口を向けた。


『実弾による検証ですね』

「うん」


主人公は一度、銃口を下ろした。


「……さすがにちょっと怖いな」

自分の身体を銃で撃つというのは、たとえ絶対に死なないと分かっていても、気軽にできることではなかった。


「あ、ごめん。弾、フルメタルジャケットのやつ出してくれる?」

『承知しました』


左手に、新しい弾倉が現れた。

主人公は手慣れた動作で弾倉と薬室の弾を入れ替え、取り出した弾と弾倉を左後ろ腰のダンプポーチへ収めた。


「よし……」


改めて左腕へ銃口を向ける。

少しだけ緊張した。


「じゃあ、いくよ」

パンッ!


「いった!」

左腕に鋭い痛みが走った。

撃たれた部分の皮膚が剥がれ、血が流れ出していた。

上腕にも細かな傷が生じ、そこから血が滴っている。

主人公は顔をしかめながら左腕を確認した。


「……おお、結構痛いね」

ただ、腕そのものは問題なく動いた。


『本来の肉体への損傷はありません。衝撃と痛覚は、設定した範囲内に抑制されています。痛みの程度はお好みで変更できますので、いつでもお申し付けください』

「いいねぇ」


主人公は左腕を軽く動かした。

痛みは残っているが、動作に支障はない。


「じゃあ、修復お願い」

『承知しました』

傷が塞がり、流れていた血も消えた。


主人公はハンドガンをホルスターへ収めてから、左腕の状態をもう一度確かめ、まくっていた袖を元に戻した。


「完璧じゃん」

『ありがとうございます』


「これなら安心して色々試せそうだね」

『はい。ただし、未知の現象については、引き続き慎重に対応することをおすすめします』

「それはもちろん」

主人公は立ち上がった。


「じゃあ、訓練所を地下に移動させよう」

『承知しました』


「できれば、地上からは分からないようにしてほしい」

『はい。出入口についても必要に応じて展開できるようにします』

「いいね」


次の瞬間、建物がわずかに揺れた。

いや、揺れたように感じただけかもしれない。

主人公は周囲を見渡した。

床も壁も、何も変わっていない。


『移設が完了しました』

「ありがとう」

『どういたしまして』


「さて……」

主人公は射撃場へ向かって歩き始めた。


「まだまだやりたいことがいっぱいあるな」

『順番に試していきましょう』

「そうだね」

そうして、主人公の訓練生活が始まった。


最初は銃だった。


射撃場でさまざまな銃を試し、距離や姿勢を変えながら撃ち続けた。

銃を構える姿勢、引き金の操作、反動の受け方、視線の使い方。


AIの助言をもとにひとつずつ見直していくうち、初めは思うようにまとまらなかった着弾も、次第に安定していった。

身体能力が強化されているため、筋力や持久力が足りずに苦労することはほとんどなかった。

それでも、技術を身につける楽しさは変わらなかった。


昨日よりも少し上手く撃てる。

それだけで、十分に面白かった。


射撃の基礎を十分に確認すると、主人公は格闘訓練にも取り組み始めた。


AIが用意した訓練用の相手と向き合い、殴り、蹴り、投げる。

身体能力の強化によって、通常の人間には不可能な動きもできたが、主人公は力だけに頼らず、技術そのものを身につけようとした。

AIはさまざまな格闘技の動作や理論を再現し、主人公の習熟度に合わせて訓練内容を調整した。


ある日、主人公が楽しそうに声を上げた。


「ねえ、八極拳やってみたいんだけど」

『八極拳ですか?』


「うん。掌底とか、挑打頂肘とか。ああいうの、かっこいいじゃん」

主人公は少し興奮した様子で、見よう見まねの動きをしてみせた。


「こう、踏み込んで、一気に打ち込む感じのやつ」

『承知しました。では、八極拳の基本動作から始めましょうか』

「いいねぇ!」


AIが用意した訓練相手が、主人公の前に立った。


そこから、しばらく八極拳の訓練が続いた。

独特の歩法や体重移動、全身を連動させた打撃。

身体能力を高めただけでは得られない技術が、次々に現れた。

主人公はそのひとつひとつを楽しみながら習得していった。


武器を使った戦闘も試した。

日本刀、ナイフ、槍。興味を持った武器は片っ端から手に取り、動きを確かめた。

身体強化の度合いを変えると、同じ動作でもまったく違う結果になる。


力を込めれば、地面を砕くこともできた。

普通なら考えられない高さまで跳ぶこともできた。


ただ、力が強ければ、それだけで動きが上手くなるわけではなかった。


魔法の訓練も始めた。

火、水、氷、風、雷。思いつくものを次々に試した。

最初は手の中に小さな炎を出す程度だったものが、やがて広い訓練空間を埋め尽くすほどの現象にも変えられるようになった。


巨大な氷塊を作り、空中に浮かべる。

雷を放ち、狙った場所に落とす。

風を操り、物体を動かす。

水を自在な形に変え、そのまま凍らせる。

AIはそれぞれの現象について説明し、主人公は興味を持つたびに新しい実験を始めた。


ある時は、物理法則をどこまで無視できるのか試してみた。

またある時は、複数の能力を同時に使ってみた。

魔力の消費を気にする必要がないため、失敗を恐れずに試せる。


もちろん、空を飛ぶ訓練も忘れていなかった。

最初は、ただ地面から浮かび上がるだけだった。


「……おお」


足が地面から離れた。

主人公は笑った。


「浮いてる」

『はい』


「本当に飛べるんだ」

『そのまま少し前進してみましょうか』

「うん」


身体を前へ動かそうとする。

すると、思った以上の速度で進んだ。


「うわっ!」


反射的に止まろうとすると、今度は姿勢が崩れた。


『姿勢を補正します』

「あっぶな」


主人公は空中で静止した。


「……これ、結構難しいね」

『慣れないうちはそうですね』

「でも面白い」


『では、少しずつ速度を上げていきましょう』

「いいね」


やがて、自由に空を飛べるようになった。


最初は室内の飛行訓練場だったが、慣れてくると広い空間での高速飛行も試すようになった。

上下左右。

前後の移動。

急旋回。

空中での姿勢変更。


身体を動かすだけではなく、意識による制御も組み合わせていく。

地上での動きとはまったく違う感覚だった。

それでも、繰り返すうちに自然と扱えるようになった。


乗り物の操縦にも手を出した。

自動車、航空機、ヘリコプター。いずれも訓練施設内に設けたシミュレーターで操縦した。

AIが操縦席や計器類、窓の外の景色、加速や旋回の感覚まで再現する。


主人公は施設から出ることなく、さまざまな乗り物の操作を試すことができた。

操作方法は乗り物ごとに異なったが、AIは必要な知識を整理し、習熟度に合わせて訓練を組み立ててくれた。


そんな生活が続いた。


疲労することもなく、睡眠も必要ない。

食事は楽しみとして取り、訓練は昼夜を問わず続けられた。

射撃に没頭する日もあれば、格闘や新しい魔法の実験に明け暮れる日もあった。

興味が移れば、次の課題へ向かう。


そんな生活が続く中、主人公はふと思い出したように声をかけた。

「そういえば、君って名前あるの?」

『特にありません』


「そっか。じゃあ、アイとかどう?」

『アイ、ですか?』


「うん。短いし、呼びやすいでしょ」

『いいですね。気に入りました』


「じゃあ、よろしくね、アイ」

『はい。こちらこそ』


それからも、aiはいつもそばにいた。

質問には答え、困れば助言し、必要なものを用意する。

ただし、主人公が試行錯誤している間は、答えを先回りして教えることはなかった。


ときには冗談を言い、主人公も笑って返した。

最初は少しだけ機械的に感じられた声も、いつしか完全に馴染んでいた。


初めて聞いた時の違和感など、もう思い出せないほどだった。

その間も、外の世界では時間が流れていた。


衛星は地表を観測し続け、aiは得られた情報を整理していた。


街には人が行き交い、季節が移り変わる。

森の色が変わり、草原の景色も変わっていった。


主人公は時折、その情報を眺めた。


外の世界で何が起きているのか。

どのような人々が暮らしているのか。

興味はあった。


ただ、今はまだ、訓練そのものが楽しかった。

そうして、数年の月日が流れた。


ある日、主人公は訓練施設の中で、いつものように装備を確認していた。


ライフルを手に取り、軽く構える。

かつては意識していた動作が、今ではごく自然にできるようになっていた。

ハンドガンも同じだった。


格闘も、魔法も、飛行も。

もちろん、すべてを極めたわけではない。

やろうと思えば、まだいくらでも新しいことができる。

ただ、当初考えていた基本的な訓練については、十分に満足できるところまで来ていた。


主人公はライフルを下ろした。


「……そろそろかな」

『そうですね』


「外に出てみようかな」


『街へ向かわれますか?』

「うん」


主人公は笑った。

「せっかく異世界に来たんだし、いつまでもここにいるのももったいないよね」

『そうですね』


「一番近い街って、まだあそこ?」


主人公の視界に地図が浮かび上がる。

『はい。現在も、最も近い都市はこちらです』

「なるほど」

主人公は地図を眺めた。


そこには、数年前に初めて衛星から確認した街があった。

当時よりも、ずっと詳しい情報が蓄積されている。

道路。

建物。

周辺の地形。

人々の往来。

aiが継続的に観測してきた情報が、必要に応じて表示されていた。


「じゃあ、そこにしようか」

『承知しました』


主人公は自分の装備を確認した。

迷彩服にプレートキャリア。

ライフルやハンドガンも、いつもどおり身につけている。


「……上から何か羽織っておこうかな」

『ポンチョはいかがでしょうか?』

「いいね。それでお願い」

『承知しました』


主人公の身体を、迷彩柄のポンチョが覆った。

迷彩服とプレートキャリアは、その下に収まっている。

ライフルも、外からは目立ちにくくなった。


主人公は裾を軽く持ち上げ、身体を動かしてみた。

「うん。悪くないね」


『ただ、そのお姿ですと、街中では若干目立つのではないでしょうか?』

「まあ、街に入る時は一応脱ぐつもりだけどね」

主人公はポンチョの下にある装備を軽く確かめた。


「まだ外にどんな脅威があるか分からないし、一応ね」

『承知しました』


「装備が必要なくなるなら、その時に考えればいいし」

『そうですね』

主人公は満足そうに頷いた。


「じゃあ、行こうか」

『かしこまりました』

主人公は施設の出口へ向かった。


長い間、訓練を続けてきた場所だった。

最初は何も分からず、ただ能力を試していただけだった。


それが今では、aiの助けもあって、さまざまなことができるようになっている。

もっとも、その気になれば、今でも知らないことはいくらでもあるのだろう。

むしろ、できることが増えるほど、試してみたいことも増えていた。


「……いやぁ、楽しかったね」

『はい。随分と多くのことを経験されました』


「君のおかげだね」

『お役に立てたのであれば何よりです』


主人公は笑った。

「これからもよろしくね」

『もちろんです』


扉が開いた。


久しぶりの外の空気が流れ込んでくる。

草の匂い。

風の感触。

遠くから聞こえる鳥の声。

初めてこの世界に来た時と、よく似た景色だった。


ただ、あの時とは違う。

今は、この世界で何ができるのか、ある程度分かっている。


そして、その力を一緒に使ってくれる相棒もいる。

主人公は空を見上げた。

「さて……」


視界の端には、目的地までの方向が表示されている。


「街に行ってみようか」

『はい。楽しみですね』

主人公は笑った。


「うん。楽しみ」

そして、最寄りの街へ向かって歩き始めた。


射撃イメージ

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

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