召喚
『クリスティーナさま、死んじゃやだっ』
幼さの残った高い声。墨を塗ったように光さえも吸い込んでしまう漆黒の髪は、撫でると指をするりと流れていく。膝元にしがみつく孫が愛おしくて、クリスティーナは弱った体を叱咤して無理に腕を上げると、泣き濡れた赤い瞳を労わるようにそっと目尻を撫でた。自分の体では無いかのように重い腕。指を動かすことすら重労働だったが、周囲の目を気にしたクリスティーナは笑顔で辛い素振りを見せなかった。
『ごめんなさいね、ウィルヘルム……もう少し貴方が大きく育つのを見ていたかったわ』
『見ていてよぉ、ずっと僕と一緒にいてよぉ! 大好きなんだよっ』
『ええ、私も貴方が大好きよ』
『ひ、うっ……くっ、うぇっ、クリスティーナさまぁ……っ』
ひいひいと息も絶え絶えに泣き続けて強くしがみつくウィルヘルムを、父親でありクリスティーナの息子であるコンラッドが引き離そうとする。
『いいのよ、コンラッド。貴方も何も出来ずに逝ってしまう母を恨んでいるでしょうけれど、幸せになりなさい』
『そんな、母上の病を治せない己の未熟さを悔やむことはあれど、恨むなどと! 民は必ずや私が守ります故、どうかご自愛下さい』
『ふふ、真面目な貴方が、時に心配なのよ。マリーゴールド……後は、任せましたよ』
ウィルヘルムにつられたように、涙を滲ませるコンラッド。その妻であり、従姉妹でもあるマリーゴールドは、弱った伯母を見ていられないのか、コンラッドの隣でハンカチに顔を埋めて肩を震わせている。クリスティーナの部屋には身内である三人しか居らず、既に薬師も退室をしていた。
ウィルヘルムの顔から、クリスティーナの手が離れる。焦点が定まらなくなった青の瞳は虚ろに空を泳ぎ、ふと部屋の壁一面に広がる窓の外を見つめる。
その昔、アズラバークという、竜と契約した一人の男が戦乱を生き抜き、やがて一つの国を造った。
それが龍王国『アガシア』。
アガシアは世界で唯一竜が目撃される国であり、その象徴とされるのは竜が通ることを想定して建造された豪奢な造りの白亜の城。その城は純白の美しさもさることながら、天に届きそうなほどに巨大で、太い柱は六メートルの高さを誇り、通路の幅は八メートルの広さを持つ。
竜との契約が出来た者は一生お金に困らないと言われるほどの好待遇に恵まれるが、竜はアズラバークの血を受け継いだ王族にしか興味がないとされ、民から契約者が出るのは稀のこと。
契約者は存在が人間ではなく竜寄りになるため、人の二十倍は長生きをする。
クリスティーナは、数ある竜の中でも最上位に位置する、六竜王の一角『イルベール』と契約を結んだため、更に永き時を生きる――筈だった。しかしアガシアに向けられた他国の呪いが疫病として民に降りかかったのを好しとせず、彼女は全ての病をその体内に取り込んだ。
結果、最低でも二千年は安泰とされたクリスティーナの治世は、僅か二百年でその代を終え、輝かしい筈だった命も、八百年という若さで力尽きようとしている。
『ああ……イル、ベール』
窓の外には竜の影さえ見えない。それもそのはず、竜は契約者が害されることを許さない。けれど竜王とさえ契約できるほどの力を持ったクリスティーナの決断がなければ、今頃アガシアは死の国と化していたのだ。他国への怒りが収まらず、弱った姿を見ることも出来ないイルベールは、遠くの方から猛る感情の一端を、繋がった心で送ることしか出来ない。
張り裂けんばかりに伝わってくる、喪失への恐怖と勝手をしたクリスティーナへの不満。他国への怒りは眩暈がしそうなほどに強く、狂ってしまいそうな己への不安。
――ああ、愛されている。
泣き叫ぶ家族と、喪失に怯える竜王。民たちの祈りまでひしひしと伝わってきたクリスティーナは、徐々に重くなる目蓋に逆らえないことを申し訳なく思いながらも、どこか幸福感に満たされていた。
(私も、愛しているわ……皆を、この世界を)
そうして、彼女の生涯は閉ざされた。
呼び出しを受けたから校舎裏に来た。四時五分前。時計を見ても携帯を見ても、時間が狂っているわけではないようだから、遅刻か、はたまた冗談だったのか。
時間になるまでは一応待つことにして、秋月美桜は退屈を紛らわせるべく、持参した文庫本に目を落とした。挟んだ栞の位置までページをめくり、読み進めていくこと五分。まだ呼び出した人物の影さえ見えない。
(帰ろうかしら……)
疲れたように溜息を吐いた美桜の肩から、さらりと一房の黒髪が流れた。高い位置に結い上げられたポニーテールは、黒字に赤で細いストライプの入った丈の短いブレザーの背を超え、膝丈の赤いチェック柄のスカートにまで届いている。雪のように白い肌と、化粧っ気がないのに目を惹かれる紅色の唇が特徴的だ。ブレザーを押し上げる胸は豊かに実り、ウエストが引き締まっている。同性が見ても、その磨き上げられた美しさに息を呑むほどだ。
だからこそ、美桜自身、告白の手紙が冗談ではないだろうと分かっていた。それでも帰りたいと思うのは、そんな大事な場面で遅刻するような人を、好きになるとは思えないからだ。
左手に飾られたチェーン型の時計の針が五分を指したのを確認してから、美桜はポケットに入れたメモ用紙に『姿が見えなかったので帰ります』と伝言を残し、校舎裏で一番に目に入る壁に張り付けた。念のため明日の登校後に捨てる予定だ。
そして美桜は首を回して肩を鳴らすと、未練など一ミリも見せずにその場を後にした。
「それで帰ってきたんだ?」
呆れたように語尾を上げたのは、胸に届く長さの茶色の髪を丁寧に巻いている少女だった。大きく丸い黒の瞳は水分を多く含んで、今にも涙を零しそうなほどに潤んでいる。美桜と負けず劣らずの美少女だ。宮部朱音はヤスリで爪を整えながら、部室に来たものの読書を続けている美桜の顔を覗き込んだ。
「当然よ。呼び出したなら待っている位じゃないと」
「まぁ待たせるのは論外だけどさー、二組の足立でしょ? ちょっと待つ位なら全然いけるけどなぁ」
「そうかしら……あまり良い噂は聞かないわよ。顔は見たことないんだけど、彼に酷いこと言われたって子何人も知ってるもの」
「それって女の子泣かせてばっかってやつ? あれなら告白されたときの振り方がきついってだけで、普段は明るくて友情に厚いーってタケが言ってた」
「なら尚更ね。私女の子に優しくない人って嫌いだから。それより朱音、何よ? 妙に足立くんの肩持つじゃない」
興味のない人に対して美桜以上にさっぱりしている朱音のフォローに、思わず文庫本から視線を上げる。吹けない口笛を吹く振りまで始めた朱音に、分りやす過ぎると半目になれば、朱音は顔の前でぱちんと手を合わせた。
「だってぇ、タケの友達だって言うからついー。ほら、ダブルデート出来るじゃん?」
「はぁ……友達の彼氏からも埋めてくるか」
「やーんっ、ごめんって美桜! クレープ奢るから許して! 無理にくっつけようとはしないからさ」
「その辺は心配してないけどクレープは貰っとくわ」
事実、朱音がフォローしたのは呼び出しに応じてからだ。けれど何もないままでは朱音の気が済まないことも分かっているので、美桜は有難く奢られることにした。同時に、朱音の爪も最後まで整え終わったようだ。二人は駅前のクレープ屋について語りながら部室を後にした。
部室棟の階段を下り、下駄箱に向かう。
「秋月!」
階段の中ほどまで下りたところで、ふと階下から声が響いた。低い声音に振り返った美桜の耳元で、「あれが足立くんだよ」と朱音が囁く。そこにいたのは、短く刈り上げた黒髪が精悍さを醸し出している青年だった。どこか怒っているようにも見える真剣な眼差しは熱っぽく、朱音の姿が目に映ってはいないようで、美桜だけを一心に見上げている。
けれど、美桜の心は何一つ動かなかった。
「どうして待っててくれなかったんだよ、部活がちょっと長引いたけど走って五分でついたんだぜ?」
(ならどうして後十分でも遅くに呼び出さなかったのかしら……あまり遅いと行かずに帰ってたけど)
「あのさ、もう分かってるだろうけど俺お前が好きなんだ」
二段下から投げかけられる言葉に、束の間黙り込む。じっと足立を見ていたが、彼がその後に言葉を続けないことに、美桜は口を開いた間抜け面を晒しかけた。慌てて、開きかけた口を閉ざす。何度か瞬いて待っていたが、やはり足立は何も言わない。
(え、それだけ? 君と私は初対面なわけで、私は何とも思ってないんだけど。付き合ってくれとも言われないんだから、だから何としか言えないし)
どうしたのものかと考え込む――こともなく、美桜はさっさと切り上げてクレープ屋に向かうことにした。
「ごめんなさい。私は貴方に興味がないわ」
淡々と言葉を返す。冷たいその一言に、足立が目を見開いた。傷つけたかもしれないという思いが僅かに湧きあがり、けれど次の瞬間には事実だから仕方ないという思いに塗り替えられる。美桜にとって、同年代の恋愛事情は子供のお遊戯にしか思えなかった。
冷めた美桜の瞳に、足立の顔に怒りが宿る。
振り上げられた右手を見上げると、美桜は覚悟するかのように、目蓋を閉じた。
『――おいで、私の――』
ふと声が聞こえた気がした。
その刹那、視界を灼くほどに眩い光が周囲を満たす。
朱音と足立の悲鳴が聞こえるが、美桜は全身で溺れる感覚に陥るほどの深い眠気に身を奪われ、身動ぎ一つ取れないままに意識を失っていた。