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キャリブレーション  作者: asnt2026


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9/16

第9話 十五年前のアパート

津森利明という名前を検索しても、豪が知りたいことはほとんど出てこなかった。


古い裁判の記事がいくつか表示されるだけで、現在どこに住んでいるのか、どんな仕事をしているのかも分からない。


それでも父親の手帳に書かれていた住所が気になり、翌日の夜、豪は母親へ電話をかけた。


「昨日の手帳なんだけどさ」


電話の向こうで食器の触れ合う音が止まった。


「何?」


「津森さんが住んでたアパートの住所、分かったりする?」


少し間があった。


「どうして?」


「父さんが行った場所、一度見てみようかなって」


「見に行ってどうするの」


「別に、何かするわけじゃないよ。どんなところだったのか気になっただけ」


貴美子はすぐには答えなかった。


豪はスマートフォンを耳に当てたまま、台所の流し台へ目を向けた。


夕食に使った皿が、まだ二枚残っている。蛇口から落ちる水滴がステンレスに当たり、電話の向こうの沈黙と妙に似た間隔で音を立てていた。


「お父さんの手帳に、古い住所の控えが挟まっていたわ」


やがて貴美子が言った。


「そうなんだ」


「でもね、豪。津森さん本人を探すようなことはしないでちょうだい」


「分かってるって」


「仕事で知った人のことを、家族だからって勝手に調べていいわけじゃないのよ」


母親の声が少し硬くなった。


法律の仕事をしているときの声だった。


「うん。本人の住所とか聞くつもりはないよ。父さんが立ち寄った場所を確かめたいだけ」


「それなら、昔のアパートの所在地だけ送るわ」


「ありがとう」


「本当に、それだけにしてね」


豪は返事をした。


電話を切ってから、しばらくスマートフォンを眺めていた。


母親は昔から心配性だったが、父親が亡くなってからは特にそうなった。


目立つことをするな。


余計なことに関わるな。


普通に暮らしていればいい。


豪も、その考えには賛成だった。


だからこそ、今の自分が何をしているのか少し不思議に思う。


十五年近く前のアパートを見に行ったところで、父親の死について何か分かるとは限らない。


それでも、知らないままにしておく方が気になる。


しばらくすると、貴美子から写真が届いた。


古い紙の一部を撮影したものだった。


『コーポ松原』


その下に住所が書かれている。


市内の西側にある住宅地で、豪も何度か通ったことのある地域だった。


思ったより近い。


電車と徒歩で一時間もかからない。


豪は地図を開いた。


画面には、小さな建物がいくつも並んでいる。


その一角に、コーポ松原という名前が残っていた。


建物は、まだあるらしい。


     ◇


五月二日、土曜日。


豪は午前十時を少し過ぎたころ、目的の住宅街へ到着した。


駅前の商店街を抜け、古い住宅と小さな工場が混在する道を歩く。


大通りから一本入ると、車の音が急に遠くなった。


道幅はそれほど広くなく、ところどころ舗装が補修されている。塀の向こうでは洗濯物が風に揺れ、開け放した窓から掃除機の音が聞こえてきた。


五月に入ったばかりだというのに、日差しはずいぶん強かった。


首元に汗がにじみ、ジャケットを着てきたことを少し後悔する。住宅街の風は思ったより涼しいが、日なたを歩いていると背中に熱がたまっていく。


豪はスマートフォンで地図を確認した。


あと百メートルほど。


道の角を曲がる。


その先に、二階建ての建物が見えた。


薄いクリーム色の外壁はところどころくすみ、ベランダの手すりには錆が浮いている。建物の横には六台分ほどの駐車場があり、そのうち三台分に車が停まっていた。


一階の角には、小さな看板がついている。


コーポ松原。


豪は立ち止まった。


「ここか」


思っていたより、普通のアパートだった。


もっと古びているのかと思っていたが、外壁には補修した跡があり、共用階段もきちんと掃除されている。


郵便受けには名前の書かれた部屋もある。


物干し竿には洗濯物が掛かり、開いた窓の奥からテレビの声が聞こえた。


十五年前、父親がここへ来た。


豪は建物を見上げた。


当然だが、何か特別なものが残っているわけではない。


人が住み、洗濯をし、買い物へ出かける。


どこにでもあるアパートだった。


それでも、ここへ来た理由を改めて考えると、少しばかり落ち着かなくなった。


忘れ物を返すため。


ただ、それだけだったのだろうか。


豪は一階の共用通路へ足を踏み入れた。


コンクリートの床には細かなひびが入り、掃除に使った水がまだ少し残っている。湿った土と洗剤の匂いが混じり、階段の下には使い込まれた箒とちり取りが置かれていた。


壁に管理会社の連絡先が貼られている。


小牧管理事務所。


豪はその文字を見た。


小牧。


父親の手帳に書かれていた名前だった。


電話番号も載っている。


豪はスマートフォンを取り出し、しばらく迷ってから電話をかけた。


呼び出し音が二回鳴ったところで、女性が出た。


「はい、小牧です」


「あの、突然すみません。コーポ松原の管理をされている方でしょうか」


「そうですが、どちら様ですか?」


「畑中と申します。少しお聞きしたいことがありまして」


「入居についてですか?」


「いえ。十五年くらい前のことで」


電話の向こうが静かになった。


豪は続けた。


「父が以前、こちらへ伺ったことがあるみたいなんです。当時のことを少し聞けたらと思いまして」


「お父様が?」


「はい。畑中昌彦といいます」


しばらく返事がなかった。


聞こえてくるのは、どこかで車が通る音だけだった。


「あの、もしご存じなければ大丈夫なんですが」


豪が言いかけると、女性が声を上げた。


「畑中さん?」


「はい」


「弁護士をされていた方ですか?」


豪はスマートフォンを握り直した。


「そうです」


また少し間があった。


「ちょっとお待ちいただけますか」


女性の声が変わった。


「今、建物の近くにいらっしゃるんですか?」


「はい。アパートの前にいます」


「それなら、裏手の事務所へ回っていただけますか。小さい建物なんですが、看板が出ていますので」


「分かりました」


「私、そちらにおります」


電話が切れた。


豪はしばらく画面を見つめた。


覚えている。


父親のことを、この女性は覚えている。


十五年近く前の、たった一度の訪問かもしれないのに。


豪はアパートの横を通り、裏手へ回った。


     ◇


管理事務所は、アパートの裏に建つ平屋の小さな建物だった。


入口の横に観葉植物が二鉢置かれ、ガラス戸には「小牧管理事務所」と印刷された紙が貼られている。


豪が扉を開けようとすると、内側から先に開いた。


「畑中さんですか?」


四十歳くらいの女性が立っていた。


白いブラウスに紺色のカーディガンを羽織り、肩までの髪を後ろで一つにまとめている。顔には薄く化粧をしているが、飾り気のない服装で、仕事中なのだろう、手にはボールペンを持っていた。


「はい。突然すみません」


「いえ、どうぞ」


女性は少し身体を引き、豪を中へ招いた。


事務所には机が二つ並び、壁際には書類棚が置かれていた。窓から差し込む光がコピー機の上を白く照らし、室内には古い紙とインク、それから淹れたばかりのコーヒーの匂いが漂っている。


小さなエアコンが動いていた。


外を歩いて少し汗ばんでいた豪には、その冷たい空気がありがたかった。


「小牧多恵と申します」


女性が名乗った。


「畑中豪です。父がお世話になったようで」


「お世話になったというほどではないんですが」


多恵は向かいの椅子を勧めた。


「お父様、亡くなられたんですよね」


豪は頷いた。


「はい」


「当時、ニュースで見ました」


多恵は机の端に置いたペンを揃えた。


「驚きました。ついこの間までお元気だったのにって」


豪はその言葉を聞き、背筋を伸ばした。


「父に会ったことがあるんですね」


「あります。一度だけですが」


多恵は頷いた。


「九月でした。もう十五年近く前になりますね」


「父が亡くなった日のことですか?」


「そうです」


迷いのない答えだった。


豪は膝の上で指を組んだ。


父親があの日、この場所に来ていた。


それは手帳の記録から分かっていたことだったが、実際に会った人の口から聞くと、急に重さが変わる。


「覚えてるんですか。そんな昔のこと」


豪が尋ねると、多恵は少し笑った。


「全部ではないですけどね。でも、あのころは私も仕事を引き継いだばかりだったので」


「引き継いだ?」


「祖母がここを管理していたんです。昔から一人でやっていたんですが、体調を崩して入院してしまって」


多恵は壁際の書類棚を見た。


「認知症の症状も出始めていて、細かいことを確認するのが難しくなっていたんです。それで私が管理を引き継ぐことになりました」


「大変だったんですね」


「ええ。まだ二十五歳でしたし、何から覚えればいいのか分からなくて」


多恵は苦笑した。


「家賃の振り込みを確認して、修理の手配をして、入居者さんの苦情を聞いて。毎日そんなことばかりでした」


豪は頷いた。


母親が司法書士として仕事をしていることもあり、書類を扱う仕事の煩雑さは少しだけ想像できた。


ただ、二十五歳でアパートの管理を引き継ぐのは、かなり大変だっただろう。


「父は、何をしに来たんでしょうか」


豪が尋ねると、多恵は少し考えた。


「昔の入居者の方に、預かっていたものを返したいとおっしゃっていました」


「津森利明さんですか?」


「そうです」


多恵は頷いた。


「津森さんは、もう引っ越されていたんですけどね」


「父の手帳にも、そう書いてありました」


豪は鞄から小さなメモ帳を取り出した。


実家で見た内容を、帰宅してから自分用に書き留めていたものだった。


父親の手帳そのものは、母親が保管している。


そこに書かれていた個人的な記録だけを、豪は控えてきた。


「父が、管理人の小牧さんに話を聞いたと書いていたんです」


多恵は少し目を見開いた。


「そんなことまで?」


「はい。あと、夜間騒音とか、複数名とか」


そこまで言うと、多恵の表情が変わった。


少しだけ、困ったような顔になる。


「そうでしたか」


豪は顔を上げた。


「何かあったんですか?」


多恵はすぐには答えなかった。


机の上に置かれた書類を一度揃え、ボールペンの位置を直す。


その仕草が、言葉を探しているように見えた。


「津森さんについて、ですか?」


「はい」


「申し訳ないんですが、以前の入居者さんの個人的なことを、詳しくお話しするわけにはいかないんです」


多恵は申し訳なさそうに頭を下げた。


豪は慌てて手を振った。


「あ、すみません。そうですよね」


「いえ」


「本人のことを調べに来たわけじゃないんです。ただ、父があの日どういう様子だったのか知りたくて」


多恵は豪を見た。


豪は続けた。


「父が亡くなった日の手帳に、ここへ来た記録が残っていたんです。だから、何か分かるかなと思って」


多恵はしばらく黙っていた。


それから、小さく頷いた。


「お父様のことなら、お話しできると思います」


豪は頭を下げた。


「ありがとうございます」


多恵は当時のことを思い出すように、少し視線を上げた。


「畑中先生は、午前中にいらっしゃいました」


「午前中?」


「ええ。正確な時間までは覚えていませんけど、お昼前だったと思います」


豪はメモ帳を開いた。


多恵は続ける。


「スーツを着て、黒っぽい鞄を持っていらっしゃいました。最初は入居の相談かと思ったんですけど、名刺を出されて」


「父の名刺ですか?」


「はい。弁護士の畑中昌彦と申しますって」


多恵は少し笑った。


「すごく丁寧な方でした。私が管理を引き継いだばかりだとお話ししたら、急に来て申し訳ないと何度もおっしゃって」


豪は父親の顔を思い浮かべた。


その言い方は、いかにも父親らしかった。


「それで、津森さんのことを?」


「ええ。預かっていたものを返したいので、連絡を取りたいと」


多恵は机に肘をつかず、両手を膝の上に揃えた。


「でも、もう引っ越されていましたから、私は本人の住所をお教えできないとお伝えしたんです」


「父は何て?」


「それはそうですねって。すぐに納得してくださいました」


豪は小さく頷いた。


父親が相手の立場を考えず、無理に情報を聞き出そうとする姿は想像できなかった。


「それで、どうなったんですか?」


「こちらから津森さんへ連絡を取ることになりました。畑中先生が連絡先を残してくださったので、私が取次ぎだけさせていただいて」


「父の手帳に、そう書いてありました」


多恵は頷いた。


「そのあと先生は帰られました。津森さんから折り返しがあったかどうかまでは、私には分かりません」


豪はメモ帳へ視線を落とした。


本人より折返し。


勤務先にて受取希望。


父親の手帳には、確かにそう書かれていた。


少なくとも父親は、このアパートを訪れたあと、津森という男本人から連絡を受けたことになる。


「父は、ここにどのくらいいたんでしょうか」


豪が尋ねた。


多恵は少し考えた。


「二十分くらいだったでしょうか。長くても三十分はなかったと思います」


「そんなに?」


「ええ。最初は忘れ物の話だったんですが、途中でアパートのことを少し聞かれて」


豪は顔を上げた。


「アパートのこと?」


「はい」


多恵は窓の外へ視線を移した。


アパートの二階部分が、事務所の窓から少しだけ見えている。


「当時、入居者さん同士のことで困っていたことがあったんです。先生がそれを気にされたようで」


「騒音ですか?」


「そうですね。それもありました」


多恵は曖昧に答えた。


豪はそれ以上、津森について詳しく聞くのを控えた。


先ほど個人情報について断られたばかりだ。


ただ、父親が何を気にしたのかは知りたかった。


「父は、何か質問してました?」


多恵は少し考えた。


「確か、津森さんの部屋に出入りしていた人のことを聞かれたと思います」


豪の指が止まった。


「出入りしていた人?」


「ええ。私が騒音の話をしたら、どんな方が集まっていたのかと」


「それで?」


「私も全部は把握していませんでしたから、見かけたことのある人が何人かいるという話をしました」


豪はメモ帳を見た。


複数名。


父親はその話を聞いて、あの短い言葉を書いたのだろう。


「父は、その人たちの名前を聞きましたか?」


「名前までは、たぶん聞かれなかったと思います」


多恵は少し眉を寄せた。


「すみません。そこははっきり覚えていなくて」


「いえ、大丈夫です」


豪はペンを持ち直した。


「何か、父の様子が変わったりしました?」


多恵はすぐには答えなかった。


窓の外で、車のドアが閉まる音がした。


続いて足音が聞こえ、アパートの階段を誰かが上がっていく。


事務所の中は静かだった。


エアコンの風が書類の端をわずかに揺らしている。


「そうですね」


多恵は小さく息を吐いた。


「最初は普通にお話しされていたんです」


「はい」


「でも、途中から少し考え込んでいらっしゃるようでした」


豪は顔を上げた。


「考え込んでいた?」


「ええ。私が話したことを、何度か確認されて」


「例えば?」


「その人たちは、いつごろから出入りしていたのかとか、津森さんが引っ越される前から来ていたのかとか」


豪はペンを止めた。


父親は、なぜそんなことを聞いたのだろう。


ただ忘れ物を返すためなら、津森の連絡先さえ分かれば十分だったはずだ。


アパートの騒音問題について、そこまで詳しく聞く必要があったのだろうか。


もちろん、父親は弁護士だった。


困っている人の話を聞けば、つい詳しく尋ねてしまったのかもしれない。


多恵が若くして管理を引き継いだことを知り、心配した可能性もある。


そう考えれば、特別に不自然なことではなかった。


「父は、何か言ってました?」


豪が尋ねた。


多恵は少し目を細めた。


「何か……」


口元に手を当て、しばらく考える。


「すみません。そこまでは」


「いえ、十分です。ありがとうございます」


豪は頭を下げた。


多恵も会釈を返した。


それから、何かを思いついたように立ち上がった。


「少し待っていただけますか」


「はい?」


「当時のことを、もう少し確認できるかもしれません」


多恵は書類棚へ向かった。


下から二段目の引き出しを開け、中を覗き込む。


豪は椅子に座ったまま、その様子を見ていた。


多恵は何冊かのファイルを取り出し、表紙を確認している。


「祖母が管理していたころの記録なんですが、まだ残してあるものがあるんです」


「そうなんですか」


「ええ。古い建物ですから、いろいろと記録が必要で」


多恵は一冊の厚いファイルを抜き出した。


表紙は薄い茶色で、角が擦れている。


彼女はそれを机へ置いた。


豪は何気なく表紙を見た。


『平成二十三年 入居管理・苦情記録』


多恵はファイルを開いたが、すぐに豪の方へは向けなかった。


「個人情報が多いので、直接お見せすることはできないんですが」


「はい」


「当時、私が何を確認したのかくらいなら分かるかもしれません」


豪は頷いた。


多恵はページをめくり始めた。


紙が擦れる音が、事務所の中に響く。


豪はその音を聞きながら、父親がこの場所へ来たときのことを想像した。


同じような机。


同じような椅子。


十五年前の多恵は、まだ二十五歳だった。


管理を引き継いだばかりで、仕事に慣れていなかったという。


そこへ突然、弁護士の父親が訪ねてきた。


忘れ物を返したいという、何でもない用事だった。


だが、その途中で父親はアパートの騒音について聞いた。


津森という男が、複数の人間と会っていたことを知った。


そして、何かを考え込んでいた。


豪は膝の上で手を組み直した。


父親の顔が浮かぶ。


昔、何か気になることがあると、少し眉を寄せて黙り込むことがあった。


豪が話しかけても、すぐには返事が返ってこない。


しかし、やがて顔を上げて笑う。


「ごめんごめん、考え事してた」


そんなふうに言う人だった。


多恵がページをめくる手を止めた。


「ありました」


豪は顔を上げた。


多恵はファイルの一か所へ指を置いている。


「やっぱり、記録してありますね。畑中先生がいらした日のこと」


「何て書いてあるんですか?」


「午前十一時ごろ、津森さん宛ての預かり品について問い合わせ。転居済みのため、本人へ連絡希望を取り次ぐ」


多恵はゆっくり読み上げた。


「それから、騒音に関する事情を説明した、とあります」


豪はメモ帳を開いた。


父親の手帳と、多恵の記録。


二つの内容が一致している。


「父は、本当にここに来てたんですね」


思わず口にすると、多恵が顔を上げた。


「ええ」


豪は少し笑った。


自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。


手帳を見たときから、ここへ来たことは分かっていたはずだ。


それでも、父親が亡くなった日の足取りが、初めて一つの形になった気がした。


多恵はファイルを閉じかけたが、途中で手を止めた。


「あれ?」


豪は顔を上げた。


「どうしました?」


「いえ、少し気になることが」


多恵はページを戻した。


指先で文字を追う。


「このころ、家賃の見直しをしていたんですね」


「家賃?」


「ええ。空室が増えていたので、いくつかのお部屋について条件を変えていたんです」


多恵は少し考えた。


「そういえば、畑中先生にも、その話をしたような気がします」


豪は首を傾げた。


「家賃のことまで?」


「はい。津森さんの部屋の周辺で、いろいろと問題があったので」


多恵はそこで言葉を切った。


「ただ、詳しくは当時の記録をもう少し確認しないと、私も正確にはお話しできません」


豪は頷いた。


「分かりました」


多恵はファイルを机の端へ置いた。


「もしよろしければ、また改めてお越しになりませんか。私の方でも、お父様にお話しした内容を確認しておきます」


「いいんですか?」


「個人情報に触れない範囲になりますけど」


「それで十分です」


豪は頭を下げた。


「ありがとうございます」


多恵は柔らかく笑った。


「いえ。お父様には、私も少し助けられた気がしていたので」


豪は顔を上げた。


「父に?」


「ええ」


多恵は少し懐かしそうに目を細めた。


「管理を引き継いだばかりで、何をどうすればいいのか分からない時期だったんです。そんなとき、突然いらした弁護士さんが、私の話をきちんと聞いてくださって」


豪は黙って聞いていた。


「仕事とは直接関係のない話だったでしょうに、途中で遮ったりせずに聞いてくださったんです」


多恵は笑った。


「そのあと、私が困っていることについても、少し助言をいただきました」


「そうだったんですね」


「はい。だから、よく覚えているんです」


豪は小さく頷いた。


父親らしいと思った。


困っている人の話を聞く。


頼まれていないことまで気にかける。


そういう人だった。


そして、そういう生き方をしていた父親が、あの日に亡くなった。


豪はメモ帳を閉じた。


胸の奥に、何とも言えない重さが残っている。


多恵は立ち上がり、入口まで見送ってくれた。


「今日はありがとうございました」


豪が頭を下げる。


「こちらこそ。お役に立てたかどうか分かりませんけど」


「いえ、父のことを聞けてよかったです」


多恵は頷いた。


「またご連絡ください。古い記録を確認しておきますから」


「ありがとうございます」


豪は事務所を出た。


外は、来たときより少し暑くなっていた。


アパートの裏手から表へ回ると、駐車場のコンクリートが日差しを受けて白く光っている。遠くでは子どもが遊ぶ声が聞こえ、開いた窓から炒め物の匂いが漂ってきた。


豪は建物を見上げた。


十五年前。


父親はここへ来た。


若い管理人と話をし、津森という男のことを尋ねた。


そして、その日のうちに亡くなった。


豪はスマートフォンを取り出し、母親へ短いメッセージを送った。


『アパートの管理人さんに会えたよ。父さんのこと覚えてた』


送信してから、少し考える。


それだけでは、母親が心配するかもしれない。


続けて入力した。


『昔の話を少し聞いただけ。無理なことはしてないから大丈夫』


画面を閉じ、ポケットへしまう。


駅へ向かって歩き始めたところで、背後から声がした。


「畑中さん!」


振り返ると、多恵が事務所の入口に立っていた。


片手に、先ほどのファイルを持っている。


「すみません。もう一つだけ」


豪は足を止めた。


「はい?」


多恵は少し迷ったように、ファイルへ視線を落とした。


「お父様のことなんですけど」


豪は黙って待った。


「さっき、考え込んでいらしたってお話ししたでしょう」


「はい」


「私、あのときは単に仕事のことで何か気になったのかなと思ってたんです」


多恵は顔を上げた。


「でも、今思い出すと、少し違った気もするんです」


豪は建物の方へ一歩戻った。


「どういうことですか?」


多恵はすぐには答えなかった。


アパートの二階で洗濯物が揺れ、風に押されたハンガーが手すりへ小さくぶつかった。


「お父様、帰るときに一度だけ、振り返られたんです」


豪は何も言わなかった。


「私が事務所の入口までお見送りしたら、アパートの方を見て、少し考えていらして」


「何か言ってましたか?」


多恵は頷いた。


「津森さんの部屋に来ていた人たちについて、もう一度聞かれたんです」


豪の指が、スマートフォンの側面に触れた。


「もう一度?」


「ええ。私が何人か出入りしていたとお話ししたら」


多恵はそこで少し首を傾げた。


「確か、こうおっしゃったんです」


豪は息を止めた。


「その人たちは、津森さんがここへ住む前からの知り合いだったんでしょうかって」


豪は多恵を見た。


「父が、そんなことを?」


「はい」


「それで、何て答えたんですか?」


「分からないとお答えしました。私も全員のことを知っていたわけではありませんから」


多恵は少し申し訳なさそうに笑った。


「先生はそうですかって頷いて、それから帰られました」


豪は口を閉じた。


父親は、なぜそんなことを気にしたのだろう。


津森という男が、誰と付き合っていたのか。


いつからの知り合いだったのか。


ただの忘れ物を返すために来た弁護士が、そこまで尋ねる理由はあるのだろうか。


豪は何か言おうとした。


だが、うまく言葉にならなかった。


多恵は静かに続けた。


「お父様、最後はずいぶん考え込んでいらっしゃいましたよ」


豪はアパートを見上げた。


二階の廊下に、誰かの洗濯物が干されている。


窓の一つが開き、室内からテレビの音が漏れていた。


何も変わらない日常の風景だった。


しかし豪には、その建物が先ほどまでとは少し違って見えた。


父親は、ここで何かを聞いた。


そして、その日のうちに津森利明と連絡を取り、勤務先へ向かうことになった。


忘れ物を返すためだった。


それは確かだろう。


けれど。


父親が本当に気にしていたのは、忘れ物ではなかったのかもしれない。


豪は多恵へ頭を下げた。


「ありがとうございました。また、連絡します」


「はい」


多恵は小さく会釈した。


豪は今度こそ歩き出した。


駅へ向かう道を進みながら、手帳の文字を思い返す。


夜間騒音。


複数名。


転居済。


勤務先にて受取希望。


十五年近く前、父親が書き残した短い言葉が、頭の中で何度も並び替わる。


そこにどんな意味があるのか、豪にはまだ分からない。


ただ、父親があの日、このアパートで何かを気にしたということだけは分かった。


豪は歩く速度を少し上げた。


背中に汗が流れる。


駅までの道は、思っていたより長く感じられた。


父親は、あの日。


いったい何に気づきかけていたのだろう。

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