第10話 半額の家賃
小牧多恵から電話があったのは、木曜日の夕方だった。
豪は会社の給湯室で、紙コップにインスタントコーヒーを注いでいた。
湯を入れたばかりのコーヒーから薄い湯気が立ち上り、狭い室内に少し焦げたような匂いが広がっている。窓の外はまだ明るかったが、向かいのビルの影が道路へ長く伸び始めていた。
スマートフォンが震え、画面に見覚えのない番号が表示された。
一瞬迷ってから電話に出る。
「はい、畑中です」
「あの、小牧管理事務所の小牧と申します」
「ああ、先日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。今、お電話大丈夫でしょうか」
「はい。大丈夫です」
豪は紙コップを流し台の脇へ置いた。
「何か分かりました?」
「祖母が残していた記録を少し確認できまして。先日お話しした家賃の件なんですが」
「はい」
「もしお時間があれば、もう一度お越しいただけませんか。古い募集広告も見つかったので、それならお見せできると思うんです」
豪は壁の時計へ目を向けた。
午後五時二十分。
今日の仕事が終わってから行くには、少し遅い。
「土曜日でも大丈夫ですか?」
「ええ。午前中なら事務所におります」
「じゃあ、十時半くらいに伺います」
多恵は了承したあと、少し声を落とした。
「ただ、一つお伝えしておきたいことがあって」
「何でしょう」
「当時の記録に書かれていることが、全部事実だったかどうかまでは分からないんです。祖母が聞いた話もありますし、私自身が確認したことも混じっていますので」
豪は紙コップへ視線を落とした。
黒い液面に蛍光灯が細く映っている。
「分かりました」
「その点だけ、ご了承ください」
「はい。それでも十分ありがたいです」
電話を切ると、豪はコーヒーを一口飲んだ。
思ったより熱かった。
舌先を軽く火傷したらしく、しばらく口を閉じたまま動けなかった。
「何してんの、豪」
背後から声がした。
振り返ると、亜紀が給湯室の入口に立っていた。
「コーヒー熱くて」
「そりゃ、入れたばっかりなら熱いでしょ」
「分かってたんだけどね」
亜紀は笑いながら隣の棚へ手を伸ばし、ティーバッグの箱を取り出した。
「今の、仕事の電話?」
「いや、ちょっと私用」
「へえ。こんな時間に?」
「実家のことでね」
「お母さん、元気?」
「うん。相変わらず」
「よかった。前に一回会ったことあるけど、優しそうな人だったよね」
豪は曖昧に笑った。
母親は、確かに優しい。
ただ、その優しさがいつも心地よいかといえば、そうでもなかった。
「亜紀は? 鉄平さんたち元気?」
「元気すぎるくらい。兄貴、こないだも史絵さんに怒られてた」
「何したの?」
「夜中にラーメン食べに行こうって誘ったんだって」
「平和だね」
「史絵さん、翌朝早かったらしくて。そんなに食べたきゃ一人で行けって」
豪は笑った。
亜紀も笑いながらカップへ湯を注ぐ。
湯気の向こうで、彼女の表情が少し柔らかくなった。
「そういえば、豪」
「何?」
「この前の桑野の話、変なこと聞いてごめんね」
豪は紙コップを持ち直した。
「別にいいよ」
「何か、急に昔のこと思い出しちゃって」
「あるよね、そういうの」
「うん」
亜紀は頷いたが、それ以上は話さなかった。
豪も何も聞かなかった。
二人の間に、給湯室の換気扇の音だけが残った。
「じゃあ、お先に」
亜紀がカップを持って出ていく。
豪はその背中を見送った。
昔のこと。
最近、その言葉を聞く機会が増えた。
十五年も前の出来事が、今になってあちこちから顔を出してくる。
豪は冷めかけたコーヒーを飲み干した。
これ以上、余計なことが増えなければいい。
そう思いながらも、土曜日の予定をスマートフォンへ登録していた。
◇
五月九日、土曜日。
豪がコーポ松原に着いたのは、約束より十分ほど早い時間だった。
前に訪れたときより雲が多く、空は薄い灰色をしていた。雨が降りそうなほど暗くはないが、日差しが遮られているせいで住宅街の色が少しくすんで見える。
道路脇には昨夜の雨が残っていた。
アスファルトの窪みに薄い水たまりができ、通り過ぎる車がその端を踏むたびに、小さな波紋が広がっていく。濡れた土と若葉の匂いが風に混じり、アパートの階段下では水を含んだコンクリートがまだ黒く光っていた。
豪は建物の前で足を止めた。
二階建て。
各階に四部屋ずつ、全部で八部屋あるようだった。
前に来たときには気づかなかったが、二階の奥にある部屋の玄関扉だけ色が少し違う。
塗り直したのだろうか。
ほかの扉より新しく見えた。
豪はしばらく建物を眺め、それから裏手の管理事務所へ向かった。
扉を開けると、多恵が机の上に何冊かのファイルを広げていた。
「おはようございます」
「畑中さん。おはようございます」
多恵は椅子から立ち上がった。
「早かったですね」
「電車がちょうどよくて」
「どうぞ、座ってください」
勧められた椅子へ腰を下ろす。
机の上には、古いファイルとは別に透明な袋が置かれていた。
中には黄色く変色した紙が何枚か入っている。
「これが?」
豪が尋ねると、多恵は頷いた。
「当時の募集広告です。入居者さんの情報とは関係ないので、こちらならお見せできます」
彼女は一枚を取り出し、豪の前へ置いた。
紙はA4サイズだった。
上部に大きく「入居者募集」と印刷され、その下にコーポ松原の外観写真が載っている。
写真の中の建物は、今より少し古びて見えた。
外壁の色も違う。
豪は文字を追った。
駅徒歩十二分。
バス・トイレ別。
エアコン完備。
家賃四万六千円。
ここまでは普通の募集広告だった。
しかし、右下に赤い文字がある。
『初月家賃半額』
豪はそこへ目を留めた。
「半額?」
多恵が頷いた。
「そうなんです」
「結構思い切ったことしてますね」
「祖母も、できればこんな条件にはしたくなかったと思います」
多恵は別の広告を取り出した。
こちらには「敷金不要」と書かれている。
さらに、その下。
『入居月を含む二か月間、賃料半額』
豪は二枚を見比べた。
「こっちの方が条件いいですね」
「後から出したものです。最初の募集で入居者が決まらなかったので」
「そんなに空いてたんですか?」
多恵は少し考えた。
「一時期は、八部屋のうち三部屋が空いていました」
「三部屋も?」
「ええ。小さなアパートですから、それだけ空くと厳しかったんです」
多恵は広告を指で揃えた。
「祖母は、家賃を下げればすぐに埋まると思っていたみたいなんですが」
「決まらなかった?」
「はい」
豪は募集広告へ目を落とした。
駅から徒歩十二分。
建物は古いが、家賃はそれほど高くない。
設備も、少なくとも当時の単身者向けとしては悪くなさそうだった。
最初の二か月が半額なら、さらに借りやすい。
「何ででしょうね」
豪がつぶやくと、多恵は答えなかった。
代わりに、机の上のファイルを開いた。
「少しお待ちください」
ページを数枚めくる。
豪の方からは中身が見えないように、ファイルを自分の手元へ引き寄せていた。
「当時の苦情を、日付と内容だけで整理してきたんです」
多恵は一枚の紙を取り出した。
新しく作成したものらしい。
パソコンで打たれた日付と、短い文章が並んでいる。
個人の名前や部屋番号は伏せられていた。
「こちらは、私が確認できた範囲の記録です」
豪は紙を受け取った。
最初の日付は、二〇一〇年二月だった。
『深夜、共用階段に複数人の声』
その下には、別の日付がある。
『玄関付近で長時間の会話。通行の妨げ』
『夜間の車両出入りについて苦情』
『大きな物音。翌朝、管理者へ相談』
豪はゆっくり読み進めた。
似た内容が何度も出てくる。
二月。
三月。
五月。
六月。
月が変わっても、苦情は途切れていない。
「これ、全部同じ人に対する苦情なんですか?」
多恵は首を横に振った。
「そこは断定できません。祖母の記録には、どこから音がしたのか分からないものもありますし、実際に確認したものと、入居者さんから聞いたものが混じっています」
「そうですよね」
「ただ、ある時期から複数の男性が出入りするようになって、夜間の苦情が増えたということは、記録から分かります」
豪は紙を置いた。
「津森さんが住んでいたころですね」
「ええ」
多恵は頷いた。
「祖母は何度か注意したようです。ご本人からも、気をつけますという返事はあったと書いてありました」
「じゃあ、話が通じないような人ではなかったんですかね」
「少なくとも、祖母が会ったときはそうだったようです」
多恵は少し笑った。
「私も一度だけお会いしたことがありますが、受け答えは丁寧な方でしたよ」
豪は顔を上げた。
「そうなんですか」
「はい。だから最初は、ほかの入居者さんとの行き違いもあるのかなと思っていました」
多恵は窓の外へ視線を向けた。
「でも、困っている方がいたのは確かなんです」
豪はもう一度、紙を見た。
記録の途中に、短い一文があった。
『夜間の出入りが続くため、更新を希望せず』
その下にも、似た内容がある。
『生活環境を理由に退去』
「これって」
豪が指さすと、多恵は頷いた。
「引っ越してしまった方もいたんです」
「騒音が原因で?」
「そうおっしゃっていた方はいました。ただ、退去の理由はそれだけではなかったかもしれません」
豪は紙から目を離した。
たとえば、隣の部屋が少し騒がしい。
最初のうちは我慢できる。
一日二日なら、仕方がないとも思うだろう。
しかし、それが何週間も続いたら。
仕事から帰ってきて、ようやく眠ろうとしたところで階段から大きな声が聞こえる。
知らない人間が通路に立っていて、自分の部屋へ入るのに気を遣う。
家賃を払っているのに、安心して暮らせない。
豪は自分の住んでいるアパートを思い浮かべた。
隣室の物音が気になったことはある。
深夜に洗濯機を回されたときには、さすがに文句を言いたくなった。
でも、実際には言わなかった。
翌朝には何とも思わなくなっていたからだ。
もし、それが毎晩だったら。
豪は机の上の募集広告へ目を向けた。
家賃半額。
その文字が、先ほどとは違って見えた。
「つまり、空いてた部屋を埋めるために半額にしたんですね」
「そうです」
「でも、原因になった人が住んでるなら、また同じことになりません?」
豪が尋ねると、多恵は少し顔を伏せた。
「そうなんですよね」
その声は、思ったより小さかった。
豪は多恵を見た。
彼女は広告の角を揃えながら、ゆっくり言った。
「今なら分かるんです。もっと早く別の対応ができたんじゃないかって。でも当時は、祖母がほとんど一人で管理していましたし、入居者さんの行動をどこまで問題にしていいのかも、はっきり分かっていなかったみたいで」
「注意はしてたんですよね」
「ええ。ただ、苦情があったからといってすぐに退去してもらえるわけではありませんし、記録も十分ではありませんでした」
多恵は少し困ったように笑った。
「祖母、もともと人に強く言える性格じゃなかったんです」
豪は頷いた。
何となく、父親のことを思い出した。
誰かに強く言うことが苦手な人。
困っている相手を見ると、つい助けようとする人。
それは別に悪いことではないはずだ。
けれど、何もしなければ別の誰かが困ることもある。
「祖母は、空いた部屋が埋まれば何とかなると思っていたみたいです」
多恵が言った。
「家賃を下げれば入ってくれる人がいる。新しい人が増えれば、建物の雰囲気も変わるんじゃないかって」
「それで半額に」
「はい」
「うまくいかなかったんですね」
多恵は苦笑した。
「見学に来た方は何人かいたようなんですが、結局決まらなかった部屋もあります」
豪は広告を見つめた。
写真の中のアパートは、日当たりがよさそうだった。
青空の下で、きれいに見える角度から撮影されている。
普通の賃貸住宅の広告だ。
ただ、そこに書かれた半額という文字の裏には、住み続けられなくなった人たちがいた。
「家賃を半額にしても、借りたくない部屋ってあるんですね」
豪が言うと、多恵は少し考えた。
「そうですね」
それから、机の上の資料を閉じながら続けた。
「静かな場所で暮らしたい人にとっては、安いだけじゃ足りなかったんでしょうね」
豪はその言葉を聞き、口を閉じた。
何となく、胸の奥に引っかかるものがあった。
安くする。
それは入居を希望する人にとって、良いことかもしれない。
しかし、安くしなければ借り手がつかない理由が残っているなら、結局は誰かが困る。
良いことと悪いことが、うまく釣り合っていない。
豪はそこまで考えてから、少しだけ笑った。
何でも、そういうふうに考えるのはよくない。
これは単なるアパートの管理の話だ。
自分のこととは関係ない。
「畑中さん?」
多恵が声をかけた。
「すみません。ちょっと考え事してました」
豪は姿勢を直した。
「父が来たときも、こういう話をしたんでしょうか」
多恵は頷いた。
「ええ。半額にしても入居者が決まらないという話は、したと思います」
「父は何て?」
「そこまでは、はっきり覚えていないんですが」
多恵は視線を上げた。
「困っている方がいるなら、まずは記録をきちんと残した方がいいと教えていただいた記憶があります」
「記録ですか」
「いつ、どんなことが起きたのか。誰からどういう相談を受けたのか。後から確認できるようにしておくことが大切だと」
豪は少し笑った。
「父さんらしいな」
「そうなんですか?」
「はい。何でもメモする人だったので」
多恵も笑った。
「それで、祖母が残していた記録を整理し始めたんです。全部をすぐに直すことはできませんでしたけど」
豪は机の上の紙を見た。
十五年前の記録。
一つ一つは、ありふれた苦情だった。
夜中に声がした。
廊下が騒がしかった。
知らない人間が出入りしていた。
それだけなら、どこのアパートでも起こりそうなことだ。
しかし、父親はこの話を聞いて考え込んだ。
そして、多恵へ繰り返し確認した。
津森の部屋に来ていた人間たちは、いつからの知り合いだったのか。
豪はその質問を思い出した。
「小牧さん」
「はい」
「この記録って、最初が二〇一〇年の二月なんですね」
「ええ。残っているものでは、それが一番古いです」
「それ以前にも、出入りしていた人はいたんでしょうか」
多恵は少し考えた。
「分かりません。祖母の記録も、全部残っているわけではないので」
「そうですよね」
豪は頷いた。
二〇一〇年二月。
父親が弁護した傷害事件が起きたのは、その年の春だった。
豪はスマートフォンへ保存していた記事を思い出した。
公園で男性が殴られ、頭部に重傷を負った事件。
津森は正当防衛を主張し、無罪判決を受けた。
それが二〇一〇年十二月。
そして翌年九月、父親は津森に会おうとしていた。
豪は指先で膝を軽く叩いた。
日付が並ぶ。
二〇一〇年二月。
同年春。
十二月。
翌年九月。
ただ時系列に並べただけなのに、何かが気になった。
「津森さんは、いつまでここに住んでたんですか?」
豪が尋ねると、多恵は少し眉を寄せた。
「具体的な退去日はお伝えできませんが、畑中先生がいらしたときには、もう転居されていました」
「ああ、そうでしたね」
豪は頷いた。
個人情報について、これ以上聞くつもりはなかった。
多恵も少し安心したように表情を緩めた。
「ただ、今の記録から分かるのは、そういう問題が長く続いていたということです」
「分かりました」
豪はメモ帳を開いた。
二〇一〇年二月から夜間の苦情。
複数の男性。
空室増加。
家賃半額。
その四つを書き留める。
しかし最後の行を書き終えたところで、手が止まった。
父親は、なぜこの話を気にしたのだろう。
騒音に困っている人がいたから。
管理人の多恵が苦労していたから。
もちろん、それもあったはずだ。
父親はそういう人だった。
だが、前に多恵が話してくれた質問は、少し違っていた。
その人たちは、津森さんがここへ住む前からの知り合いだったんでしょうか。
単に騒音問題を解決したいだけなら、どうして知り合った時期まで気にするのだろう。
豪はその疑問を、そのまま口に出した。
「父さん、何でそんなこと聞いたんでしょうね」
多恵が顔を上げる。
「何のことでしょう」
「津森さんの部屋に来ていた人たちのことです。いつから知り合いだったのかって」
「ああ」
多恵は少し考えた。
「私も、そこは不思議でした」
「ですよね」
「でも、弁護士さんだったから、何か事情があるのかなと思って」
豪は頷いた。
父親が気にした理由を、多恵は知らない。
当時の記録にも、その理由は書かれていない。
ただ、父親が質問したことだけが残っている。
豪はペンを置いた。
そのとき、多恵が何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば」
豪は顔を上げた。
「はい?」
「畑中先生、帰る少し前に、変わったことをおっしゃっていた気がします」
豪の背筋が伸びた。
「どんなことですか?」
多恵はすぐには答えなかった。
窓の外を見て、記憶を探るように目を細める。
「正確な言葉までは覚えていないんですが」
「はい」
「誰かが何かを言ったからといって、それだけで本当だと決めつけてはいけない、というようなことを」
豪は黙った。
多恵は申し訳なさそうに笑った。
「すみません。何についてのお話だったのか、思い出せなくて」
「いえ」
豪は首を振った。
「それ、父さんがよく言ってた言葉なんです」
多恵は驚いたように目を開いた。
「そうなんですか」
「はい」
豪は机の上へ視線を落とした。
父親は昔から、人の話を聞くときに一度立ち止まる人だった。
誰かが悪いと聞いても、すぐには決めつけない。
学校で喧嘩があったときも、豪が相手の悪口を言うと、父親は必ず尋ねた。
「相手の話は聞いたのか?」
当時の豪は、その質問があまり好きではなかった。
自分は嫌なことをされたのだから、相手が悪いに決まっている。
それなのに、父親はすぐには味方をしてくれない。
しかし最後には、必ず豪の話を最後まで聞いてくれた。
ただ、それは父親が正しい人だったからではなく、そういう考え方をしていたからなのだろう。
豪は思った。
父親は津森の言い分を聞いた。
そして、無罪を信じた。
そのあとで何かを聞き、考え込んだ。
もし、父親が自分の判断を疑い始めていたとしたら。
豪はそこで考えるのをやめた。
まだ、何も分かっていない。
多恵が見せてくれた記録は、アパートの騒音に関するものだ。
誰が何をしたのかまでは書かれていない。
父親が何に気づいたのかも、分からない。
ここで何かを決めつければ、父親がいつも言っていたことと逆になる。
「小牧さん」
豪は顔を上げた。
「本当に、ありがとうございました」
多恵は少し驚いたように首を振った。
「いえ。こんな古い話しかできなくて」
「十分です」
豪はメモ帳を閉じた。
「父のこと、少し分かった気がします」
多恵は静かに頷いた。
「そう言っていただけるなら、よかったです」
◇
事務所を出たころには、雲の隙間から日が差し始めていた。
濡れていた道路はほとんど乾き、アパートの外壁に残った雨の跡だけが細い筋になっている。近くの家からは炒め物の匂いが漂い、遠くでは子どもたちが自転車で走る声が聞こえた。
豪はコーポ松原の前で足を止めた。
もう一度、建物を見上げる。
二階の奥の部屋は、相変わらず玄関扉の色が少し違っていた。
十五年前、ここには津森利明が住んでいた。
何人もの男が夜遅くまで出入りし、周囲の人間が困っていた。
その結果、空室が増え、家賃を半額にしても入居者が決まらない時期があった。
そこまでは分かった。
しかし、それ以上のことは何も分からない。
豪はスマートフォンを取り出した。
古い記事をもう一度検索する。
津森利明。
傷害事件。
無罪判決。
検索結果を眺めながら、豪は何となく別の言葉を加えた。
証言。
画面が切り替わる。
いくつかの古い記事が並び、その中に以前は読んでいなかった記事があった。
地方紙の裁判報道を引用したものらしい。
豪は画面を開いた。
記事は短かった。
公園で起きた傷害事件について、被告人の津森が正当防衛を主張していること。
被害男性が重い脳の損傷を負い、意識が戻っていないこと。
そして、当時現場にいたとされる複数の男性が、被告人の説明に沿う証言をしたこと。
豪は指を止めた。
画面の下の方に、さらに短い文章があった。
『証言した三人は、被害者の知人として現場に居合わせたと説明している』
豪はその一文を読み返した。
三人。
父親が訪ねたアパートには、複数の男性が出入りしていた。
しかし、それが裁判で証言した三人と同じ人物だという証拠はない。
そもそも、何人の男が出入りしていたのかも分からない。
豪はスマートフォンを下ろした。
偶然だろうか。
そう考える方が自然だった。
十五年前のアパートの騒音と、一年前に起きた傷害事件。
二つを結びつけるには、あまりにも情報が足りない。
それでも、父親が最後に気にしていたことが頭から離れなかった。
いつからの知り合いだったのか。
豪は再び記事を開いた。
被害者の知人として現場に居合わせた三人。
その三人は、津森とはどういう関係だったのだろう。
当時の裁判で、何を証言したのだろう。
豪は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
ふと、後ろから自転車のベルが鳴った。
豪は慌てて道の端へ寄る。
中学生くらいの男子が二人、笑いながら通り過ぎていった。
その姿を見て、なぜか圭太の顔が浮かんだ。
中学時代、体操着をなくして困っていた圭太。
そして、何もしていないと必死に訴えていた桑野。
豪はスマートフォンを握り直した。
桑野は、あのとき嘘をついていなかった。
それを豪だけが知っていた。
周りの人間は、桑野の言葉を信じなかった。
教室中の誰もが、見つかったリコーダーの方を信じた。
豪は目を閉じた。
父親なら、どうしただろう。
桑野の話を、最後まで聞いただろうか。
きっと聞いた。
そして、誰が本当のことを言っているのか確かめようとしただろう。
豪は目を開けた。
胸の奥で、何かが小さく引っかかった。
自分がしたことを、十五年近く前に終わったものとして考えていた。
でも、桑野はどうだったのだろう。
あの出来事を、もう忘れているのだろうか。
豪はそこで首を振った。
今は父親のことだ。
余計なことを考えている場合ではない。
スマートフォンの画面には、まだ古い裁判の記事が表示されている。
三人の証人。
豪はその言葉をメモ帳へ書き加えた。
そして、次に調べるべきことを決めた。
父親が無罪を勝ち取った裁判で、いったい誰が、何を証言したのか。
それを知らなければ、父親があの日何を気にしていたのかも分からない。
豪はメモ帳を閉じ、駅へ向かって歩き始めた。
背後には、いつもと変わらないコーポ松原が建っている。
二階の窓には洗濯物が干され、共用階段には誰かの靴音が響いていた。
十五年前、ここで暮らしていた人たちのことなど、今の住人はほとんど知らないだろう。
家賃が半額になった理由も、もう誰も気にしていないのかもしれない。
それなのに豪は、少しずつ気になり始めていた。
父親が亡くなる前に聞いた話。
その話を聞く前に、父親が信じていたもの。
二つの間に、何があったのだろう。
豪は歩きながら、もう一度記事を開いた。
そして、今度は三人の証言に関する部分を、最初からゆっくり読み直した。
ただ一つ、気になることがあった。
もし父親があのアパートで聞いた話によって何かを疑い始めたのだとしたら。
無罪を信じて弁護した相手について、父親はあとから何を知ったのだろう。




