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キャリブレーション  作者: asnt2026


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11/16

第11話 三人の証人

父親が無罪を勝ち取った裁判には、三人の証人がいた。


被告人の知人ではない。


重傷を負った被害者の知人だった。


豪がそのことを妙に気にし始めたのは、土曜日の夜になってからだった。


夕食を済ませ、洗い終えた皿を水切りかごへ並べる。いつもならソファに寝転がって動画でも見るところだが、その日はノートパソコンを開いたまま、何度も同じ記事を読み返していた。


二〇一〇年四月。


市内の公園で、男性が殴られて転倒した。


後頭部を強く打ち、意識不明の重体。


傷害罪に問われた津森利明は、相手から先に暴行を受けたと主張した。


現場にいた三人が、その説明を裏づける証言をした。


そして十二月、津森には無罪判決が言い渡された。


豪は記事の最後までスクロールし、再び上へ戻した。


三人の証人。


記事には、その名前までは書かれていなかった。


ただ、被害者の知人だったという。


「何でだろ」


誰に聞かせるでもなく、声が出た。


津森にとっては都合のいい証言だ。


しかし、その三人は被害者の知り合いだった。


知っている人間が大怪我をして意識を失ったのに、その相手をかばうような証言をしたことになる。


もっとも、本当に被害者が先に殴りかかったのなら、不思議でも何でもない。


友人だからといって嘘をつくとは限らないし、むしろ正直に話しただけなのかもしれない。


豪は椅子の背にもたれた。


そこまで考えたところで、別のことに気づく。


自分は最初から、三人が津森の味方をしたように考えている。


それこそ、父親が嫌っていた決めつけではないだろうか。


豪はパソコンを閉じかけ、手を止めた。


記事には裁判の詳しい経過が載っていない。


もしかすると、当時の新聞にはもう少し詳しいことが書かれているかもしれない。


スマートフォンで市立図書館の所蔵資料を調べると、地元紙の古い紙面を閲覧できることが分かった。


豪は開館時間を確認した。


明日は日曜日。


特に予定はない。


わざわざ十五年以上前の新聞を読みに行くなんて、少し変わっている気もする。


けれど、ほかにすることも思いつかなかった。


豪はパソコンを閉じた。


それから、ふと思い出して仕事用の鞄を開けた。


中には小さな手帳が入っている。


今週も何度か人を助けた。


後輩の仕事を手伝い、取引先の相談にも乗った。金曜日には社内で落とした財布を拾い、本人へ届けている。


それらに見合う悪いことを、すべて済ませたわけではなかった。


豪は手帳を開きかけ、やめた。


今日はもう遅い。


明日、考えればいい。


机の上のノートパソコンへ、もう一度目を向ける。


父親が亡くなって十五年近くたつ。


それまで調べようとも思わなかった事件を、今になって追いかけている。


自分がこんなことをするとは、少し前まで想像もしなかった。


豪は部屋の明かりを消した。


暗くなった窓に、自分の姿がぼんやり映った。


その向こうで、遅い時間まで営業している店の看板が赤く光っていた。


     ◇


翌日、豪は午前十時過ぎに市立図書館へ着いた。


五月十日、日曜日。


朝方まで降っていた雨はすっかり上がり、雲の隙間から春の日差しが差し込んでいた。図書館の周囲に植えられた木々は濡れた葉をゆっくり揺らし、足元にはまだ小さな水たまりが残っている。


自動ドアが開くと、ひんやりした空気が顔へ流れてきた。


古い本の紙と床用ワックスの匂いが混じり、外の湿った土の匂いが少しずつ薄れていく。高い窓から差し込む光は閲覧席の机を淡く照らし、誰かがページをめくる音と、返却カウンターで本が重ねられる音だけが静かに響いていた。


豪は入口の案内板を確認し、郷土資料室へ向かった。


日曜日の午前中ということもあり、利用者はそれほど多くない。


新聞を読んでいる年配の男性や、何冊も本を積んで勉強している学生がいる。


奥のカウンターで、豪は職員へ声をかけた。


「すみません。昔の新聞を調べたいんですけど」


眼鏡をかけた女性職員が顔を上げた。


「何年ごろの新聞でしょうか」


「二〇一〇年です。四月と十二月あたりで」


「地元紙ですか?」


「はい」


職員は端末で所蔵を確認し、古い紙面の閲覧方法を教えてくれた。


「調べたい日付が分かっていれば、その前後から確認できますよ」


「ありがとうございます」


「記事の内容も、ある程度分かっていらっしゃいますか?」


豪は少し考えた。


「公園で起きた傷害事件の裁判です」


職員は頷いた。


「では、まず十二月の紙面から探してみましょうか」


案内された端末の前へ座り、豪は日付を入力した。


保存された新聞の紙面が画面に表示される。


今のニュースサイトとは違い、記事は縦書きの細かな文字で並んでいた。広告や写真も当時のまま残っており、画面を拡大しなければ見出しも読みづらい。


豪は一枚ずつ確認していった。


政治。


経済。


地域の催し。


高校生のスポーツ大会。


クリスマス商戦の記事もある。


十五年以上前の新聞なのに、書かれていることは今とあまり変わらないように見えた。


ページを進める。


地元の事件をまとめた欄へ移ったところで、豪は指を止めた。


『公園での傷害事件 被告に無罪』


あった。


豪は画面を拡大した。


見出しの下には、津森利明の名前がある。


当時二十四歳。


被害者は二十二歳の男性。


記事によると、津森は公園で男性の顔を殴り、男性は転倒して後頭部を打った。


男性は重い脳の損傷を負い、判決の時点でも意識が戻っていないという。


豪はそこを読み返した。


意識が戻っていない。


事件から八か月近くたっている。


被害者は、その間ずっと病院にいたのだろうか。


どんな人だったのだろう。


家族はいたのだろうか。


豪は何となく、自分が十三歳だったころを思い出した。


父親が亡くなったあと、母親は毎日仕事へ行き、家事をしていた。


豪も学校へ通っていた。


それまでと同じように食事をし、宿題をし、友人と話した。


けれど、何もかもが以前とは違っていた。


この被害者の家族も、そんな毎日を送っていたのだろうか。


豪は画面へ目を戻した。


判決の記事は、思ったより詳しかった。


津森は相手から先に殴られたと主張している。


顔や腕に傷を負っていたことも確認されていた。


一方、検察側は津森による一方的な暴行だったと主張していたらしい。


ただ、何が起きたのかを客観的に示す証拠は十分ではなかった。


そこで重要になったのが、現場にいた三人の証言だった。


豪は画面を少し下へ動かした。


『被害者と面識のあった三人は、男性が被告人へ先に手を出したと証言した』


その一文で指が止まった。


さらに続きがある。


『三人は事件当日、被害者と行動を共にしていたと説明。被告人との間に、それ以前からの交友関係はなかったとしている』


豪は椅子へ座り直した。


事件当日まで、津森とは知り合いではなかった。


三人とも。


豪は記事をもう一度読み返した。


裁判では、彼らが被害者側の知人であることも、証言を評価するうえで意味を持っていたようだった。


津森の友人が津森をかばったのではない。


被害者を知る人間が、被害者の方から殴りかかったと話した。


それなら、裁判所も慎重に受け止めただろう。


豪にも、そう考えることはできた。


しかし、何かが引っかかった。


三人は現場にいた。


被害者が津森と揉めるところを見ていた。


そのあと、男性は倒れて重傷を負った。


「何で、止められなかったんだろ」


声に出してから、豪は慌てて周囲を見た。


近くの閲覧席にいた男性が一度だけこちらを向いた。


豪は小さく頭を下げた。


確かに、そんなことを言っても仕方がない。


突然喧嘩が始まれば、近くにいても動けないことはある。


止めようとしても、間に合わないかもしれない。


自分だって亜紀を助けようとした夜、相手を殴り返したあとで別の男に頭を打たれた。


あのときのことは今でも覚えている。


拳が顔へ向かってきた瞬間、相手の手の甲に街灯の光が当たった。


避けようと思ってから身体が動くまで、ほんのわずかな時間しかなかった。


あんな状況で、冷静に人を止められるかどうかは分からない。


豪は指先で机の端を撫でた。


それでも、被害者の知人三人が何をしていたのかは気になった。


記事には、一人が止めに入ろうとしたという証言が載っていた。


残る二人も騒ぎを収めようとしたと説明している。


しかし、詳しい行動までは書かれていない。


豪はその部分をノートへ書き写した。


三人とも被害者の知人。


津森とは事件当日が初対面。


被害者が先に手を出したと証言。


止めようとした。


書き終えてから、しばらくノートを眺めた。


特におかしなことはない。


少なくとも、この四行だけでは。


     ◇


昼前になると、豪は別の日付の紙面を開いた。


事件直後の記事だった。


こちらは無罪判決の記事より小さく、社会面の隅に載っていた。


『公園で男性重体 傷害容疑で男を逮捕』


本文には、四月の夜に起きた出来事が書かれている。


公園で男性同士が口論になった。


一人が殴られて倒れ、ベンチ付近で頭を強く打った。


搬送された男性は意識不明。


警察が当時の状況を調べている。


豪は記事を最後まで読んだ。


被害者の名前は春日井道隆。


当時二十二歳。


記事に使われているのは、特別な肩書きのない、どこにでもいそうな若い男性の名前だった。


豪はノートへ書き込んだ。


春日井道隆。


書き終えると、しばらくその文字を見つめた。


津森利明という名前ばかりを調べていた。


父親が弁護した人間だからだ。


しかし、その裁判にはもう一人、中心にいた人間がいる。


春日井道隆。


大怪我をした人。


その人の名前を、今になって初めて知った。


豪はペンを持ち直した。


記事には、津森が相手から暴行を受けたと説明していることも書かれていた。


事件直後から、津森の主張は変わっていなかったらしい。


ただ、当初の記事には、三人の証人についてほとんど触れられていない。


数日後の続報を確認すると、現場に居合わせた複数の男性から事情を聞いているという記述があった。


それだけだった。


豪は何度か紙面を行き来した。


警察が誰に話を聞き、何を確認したのか。


新聞から分かることには限界がある。


当たり前の話だった。


それでも、記事を読む前よりは少しだけ事件の輪郭が見えてきた。


公園にいた津森。


被害者の春日井。


そして、春日井の知人だった三人。


少なくとも五人の男が、その場にいたことになる。


豪はノートの余白へ、小さく人の形を描いた。


津森を一人。


その向かいに春日井。


さらに、三人。


五つの印が並んだ。


豪はそれを眺め、少し考えてから線を引いた。


春日井と三人を同じ側へまとめる。


津森だけが離れている。


新聞に書かれているとおりなら、こういう関係だったはずだ。


しかし、その三人は結果として津森の主張を支える証言をしている。


豪は線を消した。


被害者の知り合いだからといって、必ず被害者の味方になるわけではない。


何も見えないところで、誰かが何かを決めつけた。


そう考えてしまうこと自体、あまりよくない気がした。


「お客様、大丈夫ですか?」


顔を上げると、先ほどの女性職員が立っていた。


豪がずっと同じ画面を見ていたため、端末の操作に困っていると思ったらしい。


「あ、すみません。大丈夫です」


「紙面、見つかりました?」


「はい。ありがとうございます」


「よかったです」


職員は微笑み、別の閲覧席へ歩いていった。


豪は軽く頭を下げた。


親切な人だ。


頼まれてもいないのに声をかけてくれた。


そのことを何となく考えたところで、ふと父親の顔が浮かんだ。


父親も、ああいうふうに声をかける人だった。


困っている人がいれば、放っておけない。


頼まれていなくても、何か手伝えることはないかと考える。


そして、時々面倒なことへ巻き込まれてしまう。


豪はノートを閉じかけた。


そのとき、画面の下に別の記事があることに気づいた。


無罪判決を伝える翌日の記事だった。


父親の名前が、小さく載っている。


『弁護人の畑中昌彦弁護士は、判決後、証拠に基づく判断が示されたと受け止めていると話した』


豪はそこを読み返した。


父親の言葉だ。


新聞記者へ、そう答えたのだろう。


よかった。


そう思った。


父親は津森の無罪を喜んでいた。


少なくとも、弁護人として判決を受け止めていた。


だが、そこまで考えて、豪は自分の思い込みに気づいた。


無罪になったことと、津森が実際に何も悪くなかったことは、同じではない。


父親は弁護士として、証拠を調べ、証言を確かめ、依頼人のために仕事をした。


裁判所も、証拠に基づいて判断した。


それでも、実際に公園で何が起きたのか。


すべてが明らかになったわけではないのかもしれない。


豪は記事を最後まで読んだ。


無罪判決の理由として、被告人の正当防衛の可能性を否定できないことが挙げられていた。


津森の行為が絶対に正しかったと認められたわけではない。


有罪と判断するだけの証拠が足りなかった。


そういうことなのだろう。


豪は深く息を吐いた。


父親は何を信じていたのだろう。


津森という人間を信じていたのか。


それとも、裁判で示された証拠を信じていたのか。


二つは似ているようで、どこか違う気がした。


     ◇


図書館を出たのは午後一時を過ぎたころだった。


外はすっかり晴れていた。


建物のガラスへ日差しが反射し、駐車場の白線が眩しく見える。朝まで降っていた雨の名残は植え込みの下に少し残っているだけで、風には湿った土よりも、温められたアスファルトの匂いが強くなっていた。


豪は近くの喫茶店へ入った。


昼食を済ませようと思ったのだが、注文したサンドイッチにはすぐ手をつけず、先ほど書いたノートを開いた。


春日井道隆。


津森利明。


三人の証人。


並んだ名前と数字を眺める。


正確には、三人の名前はまだ分からない。


新聞にも載っていなかった。


調べようと思えば、何か別の資料が見つかるかもしれない。


しかし、古い裁判の証人について、簡単に何でも分かるわけではないだろう。


豪はサンドイッチを一つ取った。


パンは少し乾いていた。


ハムとレタスの間に挟まれたマスタードが、思ったより辛い。


「うま」


小さくつぶやいてから、豪はコーヒーを飲んだ。


こんなふうに普通の昼食を取っていても、頭の片隅では昔の裁判のことを考えている。


少し前までは、まったく興味のなかった話だ。


父親が弁護士だったことは知っている。


無罪判決を勝ち取ったことも、何となく覚えていた。


しかし、どういう事件で、誰が関わっていたのか。


そんなことは考えたこともなかった。


豪はスマートフォンを取り出し、母親へ電話をかけた。


呼び出し音が四回鳴ったところで、貴美子が出た。


「もしもし、豪?」


「母さん、今大丈夫?」


「ええ。どうしたの?」


「父さんのことで、ちょっと聞きたいことがあって」


電話の向こうが静かになった。


豪はサンドイッチを皿へ戻した。


「昔の裁判のこと、覚えてる?」


「津森さんの?」


「うん」


貴美子は少し間を置いた。


「何か分かったの?」


「図書館で当時の新聞を読んできたんだ」


「図書館?」


母親の声が少し高くなった。


豪は慌てて続けた。


「別に変なことしてないよ。普通に新聞を調べただけ」


「それは分かってるけど」


「三人、証人がいたんだね」


貴美子は答えなかった。


豪は続ける。


「春日井っていう人の知り合いが三人。津森とは、その日に初めて会ったって」


「そうだったと思うわ」


「母さんも覚えてる?」


「裁判の話は、お父さんから少し聞いていたから」


貴美子はそこで言葉を切った。


豪は窓の外へ目を向けた。


車が一台、信号の前で止まる。


歩道では小さな子どもが母親の手を引っ張り、横断歩道を渡りたがっていた。


「父さんは、三人の証言を信じてたのかな」


豪が尋ねた。


貴美子はすぐには答えなかった。


しばらくして、低い声が返ってきた。


「お父さんは、依頼人の話をよく聞く人だったわ」


「うん」


「でも、何でも言われたとおりに信じる人じゃなかったと思う」


豪は黙った。


「証拠を確認して、それでもその人が有罪だとは言えないと思えば、きちんと弁護する。それが仕事でしょう」


「そうだね」


「無罪になったからといって、全部が分かったわけじゃない。お父さんも、そのくらいは分かっていたと思うわ」


豪はコーヒーカップへ目を落とした。


液面に窓の光が揺れている。


「父さん、判決が出たあと、嬉しそうだった?」


貴美子は少し笑った。


「どうだったかしらね」


「覚えてない?」


「ほっとしていたのは覚えてるわ。大きな裁判だったから」


豪は頷いた。


「そっか」


「でも、豪」


「何?」


「どうしてそこまで調べるの?」


母親の声は穏やかだった。


責められているわけではない。


それでも豪は、少し返事に困った。


「何となく」


「何となく?」


「父さんが亡くなった日のこと、今まであんまり知らなかったから」


貴美子は何も言わなかった。


豪は続けた。


「最後に会おうとしてた人が、どういう人だったのかくらい知っておきたくて」


「そう」


「それだけだよ」


電話の向こうで、貴美子が息を吐く音が聞こえた。


「豪」


「うん」


「お父さんは、仕事のことを何でも家族に話していたわけじゃないのよ」


「分かってる」


「あなたも、知らないことがたくさんあると思う」


豪は頷いた。


電話なので、母親には見えない。


「うん」


「だから、少し分からないことが出てきても、それが全部おかしなことにつながるとは限らないわ」


「そうだね」


貴美子は少しだけ声を和らげた。


「昔のことを知りたい気持ちは分かるけど、無理はしないで」


豪は笑った。


「母さん、そればっかりだね」


「だって、あなたは私の息子だもの」


その言葉に、豪は返事ができなかった。


電話の向こうで、食器の触れ合う音がした。


貴美子は昼食の片づけをしているらしい。


豪は急に、母親の家へ寄ればよかったと思った。


図書館から実家までは、それほど遠くない。


一緒に昼食を取るくらいなら、できたはずだ。


しかし、今から行くと言えば、母親はまた何か作り始めるだろう。


それも少し面倒だった。


「じゃあ、また連絡するよ」


豪が言う。


「ええ。ちゃんとご飯食べなさいね」


「今、食べてる」


「何を?」


「サンドイッチ」


「野菜は?」


「レタス」


電話の向こうで、母親が呆れたように笑った。


「あなた、本当に変わらないわね」


豪も笑った。


「またね」


電話を切る。


店内にはコーヒー豆を挽く音が響き、窓際の席へ午後の日差しがゆっくり移動してきていた。


豪は残っていたサンドイッチを口へ運んだ。


少し冷めていたが、味は悪くなかった。


     ◇


喫茶店を出る前に、豪はノートをもう一度開いた。


今日調べたことを、忘れないうちに整理しておきたかった。


最初のページには、事件の概要。


次のページには、裁判の経過。


さらにその下に、三人の証人について書き込んである。


被害者の知人。


津森とは事件当日が初対面。


被害者が先に手を出したと証言。


豪はそこを見つめた。


そして、ふと別のページを開いた。


先週、小牧多恵から聞いたことを書き留めたページだった。


二〇一〇年二月から夜間の苦情。


複数の男性が出入り。


空室の増加。


家賃半額。


豪はページを戻した。


裁判の記事。


もう一度、多恵の話。


指先でノートを行き来する。


最初は何も感じなかった。


しかし、三度目に同じ部分を読んだとき、豪は動きを止めた。


二〇一〇年二月。


傷害事件が起きたのは、その年の四月。


時期が近い。


それだけのことだった。


コーポ松原へ出入りしていた男性たちが、事件の証人だったという証拠はない。


津森が住んでいたアパートなのだから、事件の前から知人が出入りしていても不思議ではない。


それに、津森が知っていた人物と、被害者の知人だった三人が同じとは限らない。


豪はそう考えた。


だが、父親が多恵へ何度も尋ねたという言葉を思い出す。


その人たちは、津森さんがここへ住む前からの知り合いだったんでしょうか。


豪はノートの余白へ、その言葉を書いた。


続けて、裁判の記事からもう一行を書き写す。


三人は津森と事件当日初めて会った。


二つの文章が、隣同士に並んだ。


豪はペンを置いた。


何かが分かったわけではない。


ただ、父親があのアパートで知りたがっていたことと、裁判で三人が説明したことが、妙に近いところにある。


知り合いだったのか。


いつから知っていたのか。


そんなことが、無罪判決の出た事件とどう関係するのだろう。


豪はノートを閉じようとした。


しかし、すぐには手が動かなかった。


父親はあの日、津森の忘れ物を返すためにアパートを訪れた。


そこで、夜遅くまで出入りしていた男たちの話を聞いた。


そして、その男たちがいつから津森と知り合いだったのかを気にした。


もし父親の頭の中に、裁判で証言した三人の顔が浮かんでいたのだとしたら。


豪は顔を上げた。


窓の外では、先ほどの親子が横断歩道を渡っていた。


母親に手を引かれた子どもが、白い線だけを踏もうとするように小さく跳ねている。


何でもない日曜日だった。


豪はもう一度、ノートへ目を落とした。


父親が何を疑っていたのかは分からない。


そもそも、疑っていたのかどうかさえ確かではない。


ただ、もし。


あの三人が、裁判で話したとおりの関係ではなかったとしたら。


父親は無罪判決から九か月後に、何を知ったことになるのだろう。


豪はノートの最後に、短く書き加えた。


『三人は、本当に津森と初対面だったのか』


ペン先を離すと、文字の最後に小さなインクの点が残った。


豪はしばらくそれを見つめていた。


そして、もう一つ気づいた。


父親が亡くなったビル。


そこがどんな建物だったのか、自分はまだ詳しく知らない。


津森は父親へ、勤務先で預かり品を受け取りたいと連絡している。


父親が最後に向かった場所と、その勤務先は同じだったのだろうか。


豪はスマートフォンを取り出した。


古い死亡記事を開き、そこに書かれたビルの所在地を確認する。


何度も読んだはずの住所だった。


しかし今は、ただの地名と数字には見えなかった。


豪はノートの端へ住所を書き写し、ゆっくり閉じた。


外では、春の日差しが少しずつ傾き始めていた。


父親が無罪を信じた理由は、少しだけ分かった。


それでも父親が死ぬ直前、何を確かめようとしていたのかは、まだ分からない。


豪は代金を支払い、喫茶店を出た。


歩き出してから、ふと考えた。


三人が嘘をついていたとしても、父親が死ななければならない理由にはならない。


そんなことは、当たり前だった。


だから豪は、その考えをすぐに打ち消した。


まだ何も分かっていない。


次は、父親が最後に訪れたビルを確かめる。


それだけだ。


ただ、その建物がどこにあるのかを調べようとすると、自然と足が速くなった。


豪は自分でそのことに気づき、少しだけ歩く速度を落とした。

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