第12話 転落した場所
父親が死んだ場所へ行くのに、十五年近くもかかった。
そのことに気づいたのは、駅の改札を抜けたときだった。
五月十三日、水曜日。畑中豪は定時より少し遅れて会社を出ると、いつもとは反対方向の電車に乗った。
取引先への訪問でもなく、友人との約束でもない。目的地の住所はスマートフォンに保存してあるが、何をするためにそこへ向かうのかと聞かれたら、うまく答えられそうになかった。
ただ、見ておきたかった。
父親が最後にいた場所を。
駅前は帰宅途中の会社員で混雑していた。
夕方の光がビルの窓を斜めに照らし、ガラスに反射した橙色が向かいの建物の壁を染めている。飲食店の換気口から油の匂いが流れ、信号待ちの人たちの間をバスの排気がゆっくり通り抜けていった。
豪は歩道の端へ寄り、地図を確かめた。
徒歩七分。
改札から大通りを進み、二つ目の交差点を右へ曲がる。
その先に、目当ての建物がある。
「案外、近いんだな」
つぶやいてから歩き始めた。
父親が亡くなった場所について、豪は当時から知っていた。
雑居ビル。
五階建て。
転落死。
新聞にはそう書かれていたし、母親からも説明を受けている。
けれど、その住所を実際に地図へ入力したことはなかった。
今まで必要がなかったのだ。
考えないようにしていたというより、考える理由をわざわざ作らなかった。
学校へ行き、大学へ進み、就職する。
そうして毎日を過ごしているうちに、父親の死は生活の中で触れなくても済むものになっていた。
豪は横断歩道を渡った。
青信号の点滅が始まり、後ろから来た男性が小走りで追い抜いていく。
自分も少し急ごうとして、やめた。
別に急ぐ必要はない。
目的地は逃げたりしない。
曲がり角を一つ過ぎたところで、豪は足を止めた。
正面に、五階建てのビルがあった。
灰色の外壁。
一階部分はガラス張りで、入口の脇には小さな花壇がある。
上の階にはいくつかの会社が入っているらしく、窓から蛍光灯の明かりが漏れていた。
建物の角には、銀色の文字が取りつけられている。
明峰ビル。
豪はスマートフォンを開いた。
住所を確認する。
番地は一致していた。
念のため、古い新聞記事も開いた。
『市内の明峰ビルで弁護士が転落死』
画面の中に、十五年前の言葉があった。
その下には、現在目の前にある建物とよく似た写真が載っている。
豪は写真を拡大した。
外壁の色が少し違う。
入口の庇も新しくなっているようだ。
しかし窓の配置と建物の形は変わっていない。
間違いなかった。
「ここか」
声に出すと、妙にあっけなかった。
もっと何か感じるものだと思っていた。
足が動かなくなるとか、胸の奥が苦しくなるとか。
そんなことを考えていたわけではないが、少なくとも今のように、取引先の建物を確かめるときと大して変わらない反応になるとは思わなかった。
豪はビルを見上げた。
五階の窓に、夕方の空が映っている。
父親は、ここから落ちた。
その事実だけが、ほかのものから少し浮いて見えた。
◇
入口には、現在の入居会社を示す案内板があった。
保険代理店。
印刷関連の会社。
小さな設計事務所。
どれも豪には聞き覚えのない名前だった。
当時と同じ会社が入っているかどうかは分からない。
豪は案内板を眺めた。
父親の手帳には、津森が勤務先で預かり品を受け取ることになったと書かれていた。
その勤務先が、このビルだったのかもしれない。
だが、そうだと確かめられるものは何もない。
豪は入口へ近づいた。
ガラス戸の向こうに、狭いロビーが見えた。
床は淡い色のタイルで、奥にエレベーターが一基ある。壁には現在の会社案内が貼られ、入口の脇には観葉植物が置かれていた。
入ろうと思えば入れそうだった。
しかし、豪は扉の前で足を止めた。
用事がない。
誰かに会う約束もしていない。
それなのに中へ入って、何をするのだろう。
十五年前に父親が歩いた床を踏んでみるのか。
エレベーターに乗って、五階まで上がるのか。
そこに父親の痕跡があるとは思えなかった。
「すみません」
不意に背後から声がした。
豪が振り返ると、段ボールを抱えた若い男性が立っていた。
「ちょっと通ってもいいですか」
「あ、すみません」
豪は慌てて横へ退いた。
男性は入口の扉を肩で押そうとしている。
両手がふさがっているのを見て、豪は反射的に取っ手へ手を伸ばした。
「開けますよ」
「あ、ありがとうございます」
豪が扉を押さえると、男性は軽く頭を下げて中へ入った。
段ボールの角が扉の枠へ触れそうになり、男性が身体を少しひねる。
豪はもう少し大きく扉を開いた。
「大丈夫ですか?」
「はい、助かります」
男性はロビーの奥へ歩いていった。
豪は扉から手を離した。
ゆっくり閉まるガラスの向こうで、男性がエレベーターのボタンを押している。
また、良いことをしてしまった。
そんな考えが浮かんだ。
もっとも、今のは大したことではない。
少し手伝っただけだ。
それでも、一度気になり始めると、妙なところに引っかかる。
豪は入口から離れた。
父親が死んだ場所へ来てまで、見知らぬ人間の荷物運びを助けている。
あの人なら、たぶん同じことをしただろう。
そう思った瞬間、少しだけ口元が歪んだ。
似なくてもいいところばかり、似てしまう。
豪はジャケットのポケットに手を入れ、建物の脇へ回った。
そこには細い通路があった。
隣のビルとの間にわずかな隙間があり、室外機がいくつも並んでいる。
地面はきれいに舗装され、壁の低いところには新しい配管が取りつけられていた。
豪は通路の入口から奥を眺めた。
父親が落ちた場所が、どこだったのかは分からない。
新聞に載っていたのは建物の住所と、ごく簡単な状況だけだった。
ここかもしれない。
反対側かもしれない。
あるいは、豪が今立っている場所からは見えないところだったのかもしれない。
豪は顔を上げた。
建物の上階に、夕方の光が当たっている。
十五年前も、こんな時間だったのだろうか。
父親が亡くなったのは九月十四日。
まだ暑さが残っていたころだ。
その日に何を食べたのか、豪は覚えていない。
学校で誰と話したのかも分からない。
けれど、家へ帰ったときの玄関だけは覚えていた。
知らない革靴が三足。
母親の声。
開けたままになっていた居間の扉。
その隙間から見えた大人の背中。
豪はポケットの中で手を握った。
何もない。
握ったところで、何かが変わるわけではない。
「何かお探しですか?」
声がした。
振り向くと、ビルの入口から年配の男性が出てきたところだった。
白いシャツに紺色の作業上着を着て、手には鍵の束を持っている。
清掃か設備管理の人だろうか。
「いえ、ちょっと昔のことを調べてまして」
豪は曖昧に笑った。
男性は建物を見上げた。
「昔の?」
「このビルで、以前事故があったと思うんです」
男性の表情が少し変わった。
「事故?」
「十五年くらい前に、弁護士が亡くなったことがあって」
男性は豪を見た。
それから、ゆっくり首を振った。
「すみません。私はここに来てまだ数年なので」
「ああ、そうですよね」
豪は頭を下げた。
「突然、変なこと聞いてすみません」
「いえ」
男性は少し考えてから言った。
「昔のことなら、管理会社にも記録はあるかもしれませんが、こちらではお答えできないと思いますよ」
「そうですよね」
「今の建物とは、入ってる会社も随分変わってますし」
豪は顔を上げた。
「そうなんですか」
「ええ。ここ数年でも何社か入れ替わってますから」
男性は鍵を揺らしながら、申し訳なさそうに笑った。
「お役に立てなくて」
「いえ、ありがとうございました」
豪は会釈をした。
男性はそのまま建物の裏手へ歩いていった。
豪はもう一度、入口の案内板を見た。
今ここにある会社の名前を調べても、十五年前のことは分からないかもしれない。
当時の入居会社を知るには、別の資料が必要だ。
しかし、それを調べて何になるのだろう。
津森がここで働いていたことが分かったとしても、父親の死の原因まで明らかになるわけではない。
豪はスマートフォンを取り出した。
母親へ電話をかけようとして、指を止める。
今ここにいることを話せば、また心配されるだろう。
仕事が終わってから、父親が亡くなったビルを見に来た。
母親は、それを普通のことだとは思わないかもしれない。
豪は画面を閉じた。
代わりに古い記事を開いた。
そこには、父親の死について、警察が当時の状況を詳しく調べていると書かれていた。
転落に至った経緯は明らかになっていない。
事件の可能性も調べられたが、少なくとも豪が読める記事からは、その結論までは分からなかった。
当時、自殺ではないかという話もあった。
父親に仕事上の悩みがあったのではないかと書かれたこともある。
だが、母親はいつも言っていた。
お父さんが自分から死ぬなんて、私は思わない。
豪はその言葉を信じたかった。
けれど、何を根拠にそう言えるのかと尋ねられれば、答えられなかった。
父親は優しい人だった。
真面目だった。
家族を大切にしていた。
だから自殺するはずがない。
そんなふうに考えるのは、父親が嫌っていた決めつけと同じなのかもしれない。
豪は画面を暗くした。
父親が自分から死んだとは、今でも思いたくない。
ただ、思いたくないことと、実際に何があったかは別だ。
十五年近く避けてきたその違いが、目の前のビルを見ているうちに、少しずつ重くなってきた。
◇
駅へ戻る途中、豪は小さな喫茶店へ入った。
窓際の席に座り、アイスコーヒーを注文する。
店内には低い音量で古い洋楽が流れていた。木製のテーブルには細かな傷が残り、カウンターの奥からはコーヒー豆を挽く音が聞こえてくる。
豪はノートを開いた。
五月十日に図書館で調べたこと。
春日井道隆。
津森利明。
三人の証人。
そして今日、確かめたこと。
明峰ビルは、現在も同じ場所にある。
ただし当時の入居会社は不明。
津森の勤務先だったかどうかも分からない。
豪はペンを止めた。
こうして並べると、調べたことより分からないことの方が多い。
父親はどうしてここへ来たのか。
津森とは会えたのか。
会って、何を話したのか。
最後に何が起きたのか。
豪はノートの端へ小さく線を引いた。
取引先の商談なら、もう少し簡単だっただろう。
相手の話を聞き、必要な資料を集め、条件を整理する。
分からないことがあれば本人へ尋ねればいい。
しかし今回、いちばん話を聞きたい相手はもういない。
父親だ。
豪は氷の入ったグラスへ手を伸ばした。
表面についた水滴が指に触れ、少し冷たかった。
そのとき、スマートフォンに通知が届いた。
矢作圭太からだった。
『今週末、また手伝ってもらえたりする?』
豪は少し考えた。
土曜日には、亜紀から食事に誘われている。
鉄平と史絵も来るらしい。
午前中なら空いているが、最近は休日に何かと予定が入っていた。
『今週はちょっと用事ある。また次で頼む』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『了解! 無理しないでな』
豪は小さく笑った。
無理しないで。
最近、誰に会っても同じことを言われている気がする。
母親。
圭太。
そして鉄平にも、以前そんなことを言われた。
自分はそんなに無理をしているように見えるのだろうか。
豪はノートを閉じかけ、もう一度開いた。
三人の証人。
被害者の知人。
津森とは事件当日が初対面。
父親は、その関係を気にしていたかもしれない。
ならば、まず裁判が行われる原因となった場所を知る必要がある。
豪は古い新聞の画像を開いた。
公園の写真が載っている。
事件直後に撮影されたものらしく、規制線の向こうにベンチと遊歩道が見えていた。
背景には低いフェンスがある。
画面の端には、公園名を示す小さな案内板が写っていた。
豪は拡大した。
文字は少し潰れているが、読めないほどではない。
清水中央公園。
豪はその名前を検索した。
地図に、公園の位置が表示される。
明峰ビルからは離れていた。
父親が亡くなった場所と、津森が裁判にかけられた事件の場所。
豪は二つの地点を交互に見た。
点と点の間には、何もない。
関係があるのかどうかさえ分からない。
それでも、次はそこへ行こうと思った。
父親が最後に見ていたものは分からなかった。
ならば、父親が弁護した事件の始まりを、自分の目で確かめてみたい。
豪はコーヒーを飲み干した。
グラスの底で、氷が小さくぶつかった。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
明峰ビルの上階にも、まだいくつか明かりがついている。
父親があの日、誰かに会いに来たのなら。
その相手は、父親が亡くなったことを知って、何を思ったのだろう。
豪は代金を支払い、店を出た。
駅へ向かう途中でもう一度ビルを振り返ったが、そこには仕事を終える人たちが出入りする、ごく普通の建物があるだけだった。




