第13話 見覚えのある公園
公園のベンチが一つなくなっていた。
豪がそれに気づいたのは、入口から五十メートルほど歩いたところだった。
五月十六日、土曜日。
午後一時を少し過ぎた清水中央公園では、小さな子どもたちが遊具の周りを走り回っていた。
木々の葉はすっかり濃くなり、枝の隙間から落ちる日差しが舗装された遊歩道にまだらな模様を作っている。芝生には朝露の名残がわずかに残り、風が吹くたびに草と土の匂いが混じった。近くの広場からボールを蹴る音が響き、その向こうでは犬を連れた老人がゆっくり歩いていた。
豪はスマートフォンを開いた。
画面には、二〇一〇年四月の新聞記事から保存した写真がある。
夜に撮影されたものだった。
規制線。
公園の入口。
その奥にある木製のベンチ。
写真の右端には、低いフェンスが写っている。
豪は顔を上げた。
同じ場所に立っているはずなのに、目の前の風景はずいぶん違っていた。
フェンスは新しくなり、古い砂利道は舗装されている。
写真の中央にあったベンチは撤去され、少し離れたところに別のベンチが設置されていた。
「十六年もたてば、そりゃ変わるか」
豪はつぶやいた。
今まで何度か公園の近くを通ったことはあったが、中へ入った記憶はない。
特別大きな公園でもなかった。
住宅街と商店街の間にある、どこにでもありそうな場所だ。
遊具がいくつかあり、散歩をする人がいて、昼休みには近くの会社員がベンチへ座る。
そんな公園で、一人の男性が重傷を負った。
豪は画面を見下ろした。
当時二十二歳だった春日井道隆。
今、生きていれば三十八歳だ。
あの日から一度も意識が戻らなかったのか、それとも回復したのか。
豪が読んだ記事からは分からなかった。
何度か名前を検索したが、それらしい情報も見つからない。
だから豪は、春日井が現在どうしているのかも知らなかった。
豪はゆっくり歩いた。
写真に写っている木を探す。
ベンチの背後に、幹の途中から大きく二つに分かれた木があった。
今は枝が伸び、写真より随分立派になっている。
しかし、形は似ていた。
豪は立ち止まり、スマートフォンを目の高さまで持ち上げた。
画面の中の写真と、目の前の景色を重ねる。
木の位置。
フェンスの角度。
遊歩道の曲がり方。
完全には一致しない。
それでも、あの写真が撮影された場所は、このあたりだったのだろう。
豪は少し横へ移動した。
靴の下で、小さな砂利が音を立てる。
ここで、男たちが揉めた。
津森利明と春日井道隆。
そして、その場に居合わせた三人の男性。
新聞に書かれているとおりなら、春日井が先に手を出した。
津森は自分を守ろうとして殴り返した。
春日井は転倒し、ベンチ付近で頭を打った。
それだけの話なのかもしれない。
豪は写真の中のベンチを見た。
低い背もたれ。
木製の座面。
後ろには木が一本立っている。
目の前にはもう同じベンチがない。
しかし、この場所で人が倒れたという事実だけは変わらない。
豪はスマートフォンを下ろした。
実際に立ってみると、不思議なものだった。
新聞の記事を読んでいるときには、もっと遠い出来事のように感じていた。
だが、ここには普通に人がいる。
ベンチへ座り、誰かを待ち、子どもが遊んでいるのを眺める人たち。
春日井も、あの日はこんな場所で誰かと会っていたのだろう。
次の日もいつもどおり仕事へ行き、友人と食事をし、何でもない日々を過ごすつもりだったのかもしれない。
その人の人生が、ここで途切れるように変わってしまった。
豪は自分の右手を見た。
六年前の夜。
亜紀を助けようとして男を殴ったとき、拳には思ったより硬い感触が残った。
相手は地面へ倒れたが、すぐに動いていた。
それでも、もし。
相手がもっと大きく転んでいたら。
頭を地面へ打ちつけていたら。
自分も津森と同じように、傷害事件の被告人になっていたかもしれない。
豪は右手を握った。
あのとき、亜紀を助けたいと思ったことに嘘はない。
殴ろうとしたわけではないが、結果として相手を傷つけたことも事実だった。
あれは、良いことだったのか。
それとも悪いことだったのか。
豪は小さく息を吐いた。
今考えても、あの夜のことは簡単ではない。
しかし、自分の中ではもう整理した。
あのあとで必要なこともした。
だから、今さら考え直す必要はないはずだった。
「お兄ちゃん!」
突然、近くから声がした。
顔を上げると、小学生くらいの男の子がこちらへ走ってくる。
豪の足元に、青いボールが転がっていた。
「あ、これ?」
「うん!」
豪はしゃがみ込み、ボールを拾った。
表面には細かな傷がつき、少し湿った土がついている。
「はい」
男の子が両手を伸ばす。
豪はその手へボールを渡した。
「ありがとう!」
男の子は元気よく頭を下げると、友達のところへ走っていった。
豪はその背中を見送った。
また、つい拾ってしまった。
そんなことを思ってから、自分でも少しおかしくなった。
今日の善行は、いったい何個になるのだろう。
豪はスマートフォンをポケットへしまった。
こんなところに長くいても、何も分からない。
写真を一枚撮って帰ろう。
そう考え、新聞の写真に近い角度から公園を撮影した。
画面には、新しいベンチと大きくなった木が収まった。
昔の写真と見比べると、時間が過ぎたことだけがよく分かった。
◇
夕方六時半。
豪は駅近くの居酒屋で、亜紀たちと合流した。
「豪、こっち!」
奥の席から亜紀が手を振る。
隣には鉄平、その向かいには史絵が座っていた。
「すみません。遅くなりました?」
「いや、俺たちが早かっただけだ」
鉄平が言った。
「お前が一番最後だから、とりあえず飲み物頼め」
「それ、遅刻した人への対応じゃないですか」
「細けえこと言うな」
「鉄平、まだ豪くん座ってもいないでしょ」
史絵が横から言った。
鉄平は一度だけ口を閉じたあと、豪へメニューを差し出した。
「ほら」
豪は笑った。
「ありがとうございます」
店内には焼いた魚と醤油の匂いが漂い、カウンターの向こうから油のはねる音が聞こえていた。壁には古い映画のポスターが貼られ、天井から吊るされた照明がテーブルの上を温かく照らしている。
史絵は落ち着いた色のブラウスを着ていた。
髪を後ろで緩くまとめ、耳元には小さな銀色のピアスが光っている。
「久しぶり、豪くん」
「お久しぶりです。史絵さんも元気でした?」
「うん。仕事がちょっと忙しいけどね」
「こいつ、最近帰ってくるとすぐ寝るんだよ」
鉄平が横から言う。
史絵は眉を上げた。
「帰ってきてすぐ寝られる日は、ありがたいくらいなんだけど」
「いや、飯食ってから寝ればいいだろ」
「それ、作ってくれた人が言うなら分かるけどね」
「俺だって買ってきたりしてんじゃん」
「コンビニでしょ」
豪と亜紀は顔を見合わせた。
「鉄平さん、相変わらずですね」
豪が言うと、鉄平は肩をすくめた。
「お前まで史絵の味方かよ」
「だって、史絵さんの言ってることの方が正しいもん」
亜紀が笑う。
鉄平は何か言い返そうとしたが、結局グラスを持ち上げた。
「はいはい。じゃあ乾杯するぞ」
四人のグラスが軽く触れ合った。
それからしばらくは、仕事の話や近況の話が続いた。
亜紀は会社で起きた小さな失敗を面白おかしく話し、鉄平は最近の仕事で知り合った人物のことを話した。
史絵はときどき二人の話へ口を挟み、豪が聞き役に回りすぎると自然に話を振ってくる。
六年前に初めて会ったころから、史絵はこういう人だった。
誰かが話しすぎても遮らない。
かといって、黙っている人間を放っておくわけでもない。
鉄平と付き合っている理由が、何となく分かる気がした。
「そういえば豪」
鉄平が串を皿へ戻した。
「お前、最近何か調べてんだって?」
豪は顔を上げた。
「何の話です?」
「亜紀が言ってたぞ。親父さんのことで、いろいろ調べてるって」
豪は亜紀を見た。
亜紀は少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめん。そんな詳しく話してないよ。お父さんの昔の資料を整理してるって言っただけ」
「別にいいけど」
豪はグラスを置いた。
鉄平は真面目な顔になった。
「親父さん、弁護士だったんだろ」
「はい」
「亡くなってるのも聞いてる」
「そうですね。もう十五年近くになります」
鉄平は頷いた。
「それで、何調べてんだ?」
豪は少し迷った。
ここで全部話す必要があるのだろうか。
父親の手帳。
津森利明。
三人の証人。
アパートの騒音。
そんな話をしても、三人を困らせるだけかもしれない。
しかし、鉄平は待っていた。
いつものように大きな声で催促するでもなく、豪が話し始めるのを待っている。
史絵もこちらを見ていた。
「父が亡くなった日のことなんですけど」
豪は口を開いた。
「古い手帳が出てきて、最後に会おうとしてた人のことが書いてあったんです」
「最後に?」
亜紀が尋ねる。
「うん。父さんが死んだ日」
亜紀の表情が少し変わった。
鉄平は何も言わなかった。
豪は続けた。
「昔、父が弁護した人らしくて。傷害事件で無罪になった人だったんですけど」
「その人に会おうとしてたのか」
「そうみたいです」
史絵が小さく尋ねた。
「お父さん、その人のところへ行ったの?」
「たぶん。手帳には勤務先で会うことになったって書いてありました。でも、実際に会えたかどうかは分からなくて」
豪は自分のグラスへ目を落とした。
「それで、当時の事件も少し調べてみたんです」
鉄平は腕を組んだ。
「何か分かったのか?」
「まだ、あんまり」
豪は笑った。
「昔の新聞を読んだり、現場へ行ってみたりしてるくらいです」
「現場?」
「今日も行ってきたんですよ。事件があった公園」
「へえ」
亜紀が身を乗り出した。
「どこの公園?」
「清水中央公園ってところ」
その名前を口にした瞬間だった。
史絵が箸を置いた。
小さな音だった。
木製の箸が皿の端に触れ、乾いた音を立てる。
豪は気づかなかった。
亜紀が続けたからだ。
「清水中央公園? 名前は聞いたことあるな」
「駅から少し離れたところ。昔、傷害事件があったらしいんだけど」
「どんな事件?」
「男の人が殴られて、頭を打って重体になったんだって」
豪はスマートフォンを取り出した。
「昔の新聞の写真があるんだけど」
画面を開き、保存していた画像を表示する。
公園の入口。
規制線。
奥にあるベンチ。
それを亜紀へ見せた。
「ここ」
亜紀は画面を覗き込んだ。
「へえ。何か普通の公園だね」
「そうなんだよ。今日行ってきたけど、子どもたちが普通に遊んでた」
豪は画面を指で動かした。
「今はベンチが変わってるけど、木とかは残ってて」
「見せて」
史絵の声がした。
豪は顔を上げた。
史絵はテーブルの向こうから手を伸ばしていた。
「この写真、もう一回見せてもらっていい?」
「はい、もちろん」
豪はスマートフォンを渡した。
史絵は画面を見た。
最初は何気なく眺めているようだった。
しかし、次の瞬間、指の動きが止まった。
画面を拡大する。
ベンチ。
その後ろの木。
そして、左端に写る低いフェンス。
史絵の顔から、少しずつ表情が消えていった。
「史絵?」
鉄平が呼んだ。
史絵は答えなかった。
画面を見つめたまま、写真の端を指でなぞっている。
「どうした?」
もう一度呼ばれて、ようやく顔を上げた。
「あ、ごめん」
史絵は笑おうとした。
しかし、口元がうまく動かなかった。
「ちょっと、見覚えがあって」
豪は身を乗り出した。
「この公園ですか?」
「うん」
史絵は画面へ視線を戻した。
「昔、何度か通ったことがあるの」
「近くに住んでたんですか?」
「住んではなかったけど、高校生のころ、このあたりに用事があって」
鉄平が眉を寄せた。
「お前、そんなところ行ってたっけ?」
「鉄平と知り合うずっと前の話だよ」
「そりゃそうか」
史絵は小さく頷いた。
しかし、スマートフォンを返そうとはしなかった。
豪はしばらく待った。
史絵の右手の親指が、画面の端で動いている。
写真を閉じようとして、やめる。
もう一度拡大する。
そんな動作を何度か繰り返していた。
「史絵さん?」
豪が声をかけた。
彼女は顔を上げた。
「これ、いつの写真?」
「二〇一〇年の四月です」
史絵の目がわずかに動いた。
「四月?」
「はい。事件が起きた直後の新聞に載ってたものなんです」
史絵は唇を結んだ。
豪は続けた。
「夜に男の人が殴られて、重傷になった事件で」
史絵が視線を落とす。
「夜……」
声が、ほとんど聞こえないくらい小さくなった。
鉄平が隣から彼女を覗き込んだ。
「おい、大丈夫か?」
史絵は頷いた。
「うん。大丈夫」
「顔色悪いぞ」
「ちょっと思い出しただけ」
「何を?」
史絵は答えなかった。
豪はスマートフォンを受け取ろうと手を伸ばした。
しかし史絵は、もう一度画面を確認した。
「豪くん」
「はい」
「この写真、送ってもらってもいい?」
豪は少し驚いた。
「もちろんいいですけど」
「ありがとう」
史絵はようやくスマートフォンを返した。
その指先が、少し冷たかった。
豪は画面から写真を送信する。
史絵は自分のスマートフォンを開き、届いた画像を確認した。
それから、静かに画面を伏せた。
「史絵さん、何か知ってるんですか?」
豪が尋ねた。
史絵はすぐには答えなかった。
鉄平も、亜紀も黙っている。
店内では別の客が笑い声を上げていた。
焼き物の匂いが流れ、奥の席でグラスの割れるような音がした。
それでも四人のテーブルだけ、少し静かになった。
やがて史絵が口を開いた。
「まだ、はっきりしないの」
「はい」
「でも、その公園で昔、変なものを見たことがあって」
豪は背筋を伸ばした。
「変なもの?」
史絵は画面をもう一度見た。
「人が揉めてるところ」
鉄平の表情が変わった。
「いつ?」
「ずっと前。高校を卒業するころだったと思う」
豪は指先でスマートフォンを握り直した。
二〇一〇年。
史絵は当時十八歳だったはずだ。
時期が重なる。
しかし、そんな偶然があるのだろうか。
「史絵さん」
豪はゆっくり尋ねた。
「それって、何月ごろでした?」
史絵は顔を上げた。
答えようとして、少し唇を開く。
しかし、声が出なかった。
鉄平がその肩へ手を置いた。
「無理して話さなくていいぞ」
史絵は頷いた。
それから豪を見た。
「豪くん、ごめん。今日は少し考えさせて」
「もちろんです」
豪はすぐに答えた。
「無理に聞くつもりはないです」
史絵は小さく頭を下げた。
会話はそこで途切れた。
鉄平が別の話題を出し、亜紀もそれに合わせた。
豪も笑っていた。
けれど、史絵はそのあとほとんど料理へ手を伸ばさなかった。
ときどきスマートフォンを開き、何かを確かめるように画面を見つめている。
豪はそれに気づきながら、声をかけなかった。
◇
帰宅したのは午後十時を少し過ぎたころだった。
豪はジャケットを脱ぎ、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
グラスへ注ぎ、一口飲む。
冷たさが喉を通り抜ける。
居酒屋ではそれなりに楽しく過ごしたはずなのに、帰り道からずっと史絵の顔が頭を離れなかった。
あの写真を見たときの顔。
日付を聞いたときの目。
あれは、単に昔の公園を懐かしんでいた表情ではなかった。
豪はスマートフォンを開いた。
史絵から、メッセージが届いていた。
『今日は急に変なこと言ってごめんね』
豪は返信する。
『気にしないでください。写真、何か思い出すきっかけになりました?』
送信してから、グラスを洗った。
水を止めたところで、スマートフォンが震えた。
史絵からだった。
『あの公園で事件があったのは、四月の何日だった?』
豪は保存していた記事を開いた。
日付を確かめ、返信する。
しばらくして、既読がついた。
しかし、返事は来なかった。
豪は椅子へ座った。
十分ほど過ぎたころ、もう一度スマートフォンが震えた。
今度は短い文章だった。
『明日、少し時間もらえるかな』
豪はすぐに答えた。
『大丈夫です。何時でも』
返事はすぐに届いた。
『午前十一時。鉄平も一緒でいい?』
豪は少し首を傾げた。
『もちろんです』
送信すると、数秒後に新しいメッセージが表示された。
『ありがとう。ちゃんと話した方がいいと思うから』
豪は画面を見つめた。
ちゃんと話した方がいい。
その言葉が、妙に気になった。
史絵はあの公園で何を見たのだろう。
人が揉めているところ。
それは、どんな場面だったのか。
そして本当に、父親が弁護した傷害事件と関係があるのだろうか。
豪はスマートフォンを置いた。
考えすぎかもしれない。
昔の公園で喧嘩を見たことがある人など、探せばほかにもいるだろう。
それが同じ事件だったとは限らない。
だが、史絵があの写真を見たときの顔が、どうしても頭から離れなかった。
豪は部屋の明かりを落とした。
窓の外では、遠くの交差点を車が通り過ぎていく。
ふと、史絵の最後の言葉を思い出した。
ちゃんと話した方がいい。
豪はベッドへ横になった。
明日、何を聞くことになるのだろう。
分からないまま目を閉じたが、眠りに落ちるまでには少し時間がかかった。




