第14話 黙っていた少女
「私、あの日、煙草を吸ってたの」
戸高史絵はそう言って、テーブルの上で両手を組んだ。
豪は少し驚いた。
煙草。
昨日の公園の話を聞くつもりで来たのに、最初に出てきたのがその言葉だったからだ。
五月十七日、日曜日。
午前十一時を少し過ぎた喫茶店には、まだ空席が多かった。
駅から少し離れた住宅街にある小さな店で、窓際には観葉植物が並び、奥のカウンターでは店主がゆっくりコーヒーを淹れている。挽いた豆の苦い匂いに焼きたてのトーストの香りが混じり、開け放した小窓からは初夏に近い暖かな風が入ってきた。
史絵の隣には鉄平が座っていた。
普段なら誰よりも先にしゃべり始める男だが、今日はずっと黙っている。
豪も何も言わなかった。
史絵はテーブルの端へ視線を落とした。
「十八歳だったから、本当は吸っちゃいけなかったんだけどね」
小さく笑おうとして、やめる。
「高校を卒業したばかりで、変に大人になったつもりだったんだと思う。友達から一本もらって、たまに隠れて吸ってたの」
豪は頷いた。
「それが、あの公園で?」
「うん」
史絵は顔を上げた。
「清水中央公園。あの写真、間違いないと思う」
豪はスマートフォンを取り出した。
昨日送った画像を開き、テーブルへ置く。
史絵はすぐに手を伸ばさなかった。
ただ、そこに写っているベンチを見つめている。
「この木、覚えてる」
指先が画面の少し上で止まった。
「昔はもっと細かったけど、途中で幹が二つに分かれてた。ここにベンチがあって、こっち側に低いフェンスがあったの」
豪は画面を見た。
写真と同じだった。
「昨日もそこに行ってきたんです。今はベンチが変わってました」
「そうなんだ」
史絵は小さく頷いた。
それから、しばらく黙った。
鉄平が隣で声をかける。
「史絵、無理すんなよ」
「うん」
「昨日の夜も、ほとんど寝てねえだろ」
「寝たよ。少しは」
「少しって」
史絵は鉄平を見た。
「大丈夫。自分で話そうって決めたから」
鉄平は口を閉じた。
史絵はもう一度、豪へ向き直った。
「二〇一〇年の四月。夜だったのは確か。何日だったかまでは覚えてなかったけど、豪くんが教えてくれた日付を見て、たぶんあの日だと思った」
豪は何も言わなかった。
史絵はゆっくり話し始めた。
◇
その夜、史絵は一人で公園へ入った。
家へ帰る前に、少しだけ煙草を吸うつもりだった。
駅前で友人と別れたあと、すぐに帰宅する気にはなれなかった。
何があったのか、今でははっきり覚えていない。
親と口論したのかもしれないし、就職先のことで何か言われたのかもしれない。
とにかく、家へ帰るまでの時間を少し延ばしたかった。
公園の中は、思っていたより暗かった。
入口近くの街灯はついていたが、木の枝が光を遮っている場所も多かった。雨上がりの土は湿っており、遊歩道の端には細かな落ち葉が張りついていた。春の夜風にはまだ冷たさが残り、フェンスの向こうを走る車の音が、木々の間から途切れ途切れに聞こえていた。
史絵は公園の奥へ向かった。
ベンチの裏側に、少し人目につきにくい場所があった。
そこで煙草を吸うつもりだった。
バッグから小さな箱を取り出す。
一本抜いて口へくわえ、ライターをつけた。
風で火が揺れた。
もう一度、指を動かす。
橙色の火が立ち上がり、煙草の先端へ近づく。
そのときだった。
男の声が聞こえた。
「おい、待てよ!」
史絵は顔を上げた。
公園の入口とは反対側から、数人の男が歩いてきていた。
最初は、酔った人たちが騒いでいるだけだと思った。
夜の公園には、時々そういう人間がいる。
関わらなければいい。
史絵は煙草に火をつけ、木の陰へ少し下がった。
男たちは五人いた。
少なくとも、史絵が見たときには五人だった。
一人が少し前を歩き、残る四人がその後ろから近づいていく。
何かを言い合っている。
声は大きかったが、内容まではよく聞こえなかった。
史絵は煙を吐いた。
早く通り過ぎてくれればいい。
そう思った。
しかし、男たちは立ち止まった。
ベンチの近くだった。
一人が振り返り、後ろから来た男へ何か言う。
相手が一歩近づく。
腕が動いた。
史絵は最初、誰かが相手の肩を押したのだと思った。
だが、その直後に鈍い音がした。
「えっ」
小さな声が漏れた。
男がよろめく。
別の男が近づき、腕を振り上げる。
史絵は煙草を持ったまま動けなかった。
喧嘩だ。
そう気づいたころには、もう一人の男も手を出していた。
四人が一人を囲んでいる。
前から。
横から。
逃げようとした先にも別の男がいた。
史絵は木の陰へ身を寄せた。
心臓が速く動き始める。
見つかったらどうしよう。
そんなことを考えた。
相手は大人の男たちだ。
しかも四人いる。
自分が何か言ったところで、止められるはずがない。
史絵は煙草の火を消そうとした。
しかし、指がうまく動かなかった。
手の中で灰が崩れ、指先に熱が伝わる。
慌てて地面へ落とす。
靴底で踏みつけると、湿った土に小さな黒い跡が残った。
その間にも、男たちの声が聞こえていた。
「やめろよ!」
誰かが叫んだ。
それが殴られている男の声だったのか、ほかの男の声だったのかは分からない。
史絵は顔を上げた。
一人が、相手の胸元をつかんでいた。
別の男が腕を振る。
殴られた男の身体が傾く。
反撃しようとしたのか、腕を伸ばした。
しかし、その手が何かに触れる前に、横から別の男が近づいた。
史絵は息を止めた。
どうして誰も止めないのだろう。
四人もいるのに。
一人くらい、もうやめろと言ってもいいはずなのに。
けれど、史絵が見ている間、男たちは一人を囲むように動き続けていた。
殴っている者。
身体を押さえつける者。
逃げようとする方向へ回り込む者。
暗くて顔まではよく見えなかったが、少なくとも四人が一人に対して暴力を振るっていることは分かった。
史絵は後ろへ下がろうとした。
そのとき、乾いた音がした。
今までとは少し違う音だった。
男の一人が、大きく腕を振っていた。
その正面にいた男の顔が横へ向く。
身体が後ろへ傾いた。
史絵には、その動きだけが妙にゆっくり見えた。
倒れる男の足が、一歩だけ地面を探る。
靴底が滑る。
肩が下がり、後頭部がベンチの方へ向かっていく。
史絵は口を開いた。
声は出なかった。
鈍い音が響いた。
木を叩いたような、短く重い音だった。
男の身体が地面へ落ちる。
一度、腕が動いた。
それから、動かなくなった。
史絵は木の幹をつかんだ。
指先にざらついた樹皮が食い込む。
男たちの声が急に変わった。
さっきまで怒鳴っていた声が途切れ、別の言葉が飛び交い始める。
一人が倒れた男へ近づく。
肩を揺するような動きをした。
別の男は少し離れ、周囲を見回している。
史絵は身体を低くした。
見つかる。
そう思った。
今ここで、自分が見ていたことを知られたら。
相手が何をするか分からない。
史絵は後ろへ下がった。
枯れ枝を踏んだ。
小さな音がした。
男の一人が顔を上げたように見えた。
史絵は身体を硬くした。
息が止まる。
数秒だったのか、それより長かったのかは分からない。
やがて男は、倒れた人間の方へ向き直った。
史絵はゆっくり後ずさりした。
もう一歩。
さらに一歩。
木の陰から離れ、フェンス沿いの暗い道へ入る。
そこから先は走った。
公園を出るまで、一度も振り返らなかった。
◇
「翌日、新聞を見たの」
史絵はそこで言葉を切った。
豪は顔を上げた。
目の前のコーヒーには、まだほとんど手をつけていなかった。
史絵も同じだった。
カップの取っ手に指をかけたまま、冷めていく飲み物を見つめている。
「公園で男の人が大怪我をしたって書いてあった」
史絵はゆっくり続けた。
「場所も合ってた。時間も、たぶん同じだった」
鉄平が隣で口を開いた。
「じゃあ、すぐ分かったんだな」
史絵は頷いた。
「うん」
「だったら、何で」
鉄平はそこまで言って口を閉じた。
史絵が顔を上げる。
「何で警察に言わなかったのか、でしょ」
鉄平は何も答えなかった。
史絵は小さく笑った。
「最初は、怖かった」
豪は黙って聞いていた。
「相手の顔ははっきり見てない。でも、四人が一人を殴ってたことは覚えてる。言えば、きっといろいろ聞かれると思った」
史絵はテーブルの端へ視線を落とした。
「煙草を吸ってたことも、親にばれる。何であんな時間に公園にいたのかって聞かれる。男たちに見られてたらどうしようって、そればっかり考えてた」
鉄平の手が、テーブルの上でゆっくり動いた。
史絵は続けた。
「でも、今考えたら、そんなの理由にならないよね」
豪は何も言わなかった。
史絵は少しだけ声を低くした。
「人が倒れてたのに」
彼女はそこで言葉を止めた。
喫茶店の奥から、食器を洗う音が聞こえてきた。
水が流れる音。
皿が重なる音。
誰かが注文を伝える声。
史絵は両手を組み直した。
「救急車を呼ぶことだってできたはずなのに、私は逃げたの」
鉄平が史絵を見た。
「そのあと、誰かが通報したんだろ」
「うん。そうみたい」
「だったら」
「でも、私が何もしなかったことは変わらないよ」
鉄平は口を閉じた。
史絵は続ける。
「新聞には、男の人はまだ意識が戻ってないって書いてあった。何日たっても、ずっと」
豪は小さく頷いた。
記事には、同じことが書かれていた。
春日井道隆。
当時二十二歳。
重い脳の損傷。
意識不明。
史絵は指先でカップの縁をなぞった。
「それから何度か、警察に話した方がいいんじゃないかって思った」
豪は顔を上げた。
「でも、行かなかったんですね」
「うん」
史絵は頷いた。
「一週間たったら、今さらって思うようになった。一か月たったら、何で今まで黙ってたんだって怒られそうで」
少し笑った。
「半年もしたら、もう何も言わない方がいい気がしてきた」
豪は彼女を見ていた。
史絵は目を伏せたままだった。
「裁判の記事も読んだよ」
その言葉に、豪の背筋が伸びた。
「無罪判決の?」
「うん」
史絵は頷いた。
「新聞には、殴られた人が先に手を出したって書いてあった。現場にいた人たちも、そう証言したって」
豪は手元のノートを開いた。
自分で書き写した文章が並んでいる。
被害者の知人三人。
津森とは初対面。
被害者が先に手を出した。
三人は止めようとした。
豪は史絵へ目を向けた。
「史絵さん」
「うん」
「そのとき、最初から見ていたんですか?」
史絵は首を横に振った。
「ううん。男の人たちが公園へ入ってくるところは見たけど、揉め始めた理由までは分からない」
「誰が先に殴ったのかも?」
「最初の一発は見てないと思う。私がちゃんと見たときには、もう取っ組み合いになってたから」
豪は頷いた。
「じゃあ、春日井さんが先に手を出した可能性はあるんですね」
史絵は少し考えた。
「あると思う」
その返事は、豪が予想していたよりはっきりしていた。
「そこは分からない。私は見てないから」
史絵は続ける。
「でも、私が見たとき、四人が一人を殴ってたのは覚えてる」
豪はペンを持った。
「四人、ですか」
「うん」
「間違いないですか?」
史絵は少しだけ眉を寄せた。
「顔は分からないよ。服装も全部覚えてるわけじゃない。でも、一人の男の人を囲んで、四人が手を出してた」
「三人じゃなくて?」
「四人」
史絵は頷いた。
「そこは覚えてる」
豪はノートへ書き込んだ。
四人。
ペン先が紙へ強く当たり、最後の一画が少し太くなった。
「誰か、止めようとしている人はいました?」
史絵はすぐには答えなかった。
少し目を閉じ、あの夜の景色を思い出そうとしているようだった。
「私が見ている間は、いなかったと思う」
「思う?」
「うん。全部の動きを見てたわけじゃないし、暗かったから。でも、男の人が倒れるまでは、誰かが止めに入ったようには見えなかった」
豪は頷いた。
慎重な答えだった。
史絵は覚えていることと、覚えていないことを分けている。
それが、かえって豪には重く感じられた。
「倒れたあと、一人が近づいていったのは覚えてる。何かしようとしてたと思うけど、そこから先は怖くて逃げちゃったから」
「救急車を呼んだのが誰かは?」
「分からない」
史絵は首を横に振った。
「携帯を持ってた人がいたような気はする。でも、それが倒れたあとだったのか、前だったのかも自信がない」
豪はそこには何も書かなかった。
あやふやな記憶まで、確かな事実として残したくなかった。
鉄平が腕を組み直した。
「つまり、新聞に書いてあるのと違うってことか」
豪は顔を上げた。
「そうかもしれません」
「かもしれない?」
鉄平は眉を寄せた。
「四人が一人を殴ってたんだろ。それで三人が止めようとしたって、変じゃねえか」
「変です。でも、史絵さんが見ていなかった部分もありますし、そもそも裁判で証言した三人と、史絵さんが見た三人が同じ人たちだったかも、まだ分からないので」
鉄平は口を閉じた。
しばらくして頷く。
「そうか」
豪はノートへ視線を戻した。
自分でも、こんなふうに話すとは思っていなかった。
父親の事件を調べているうちに、何か一つ分かれば全部つながるような気がしていた。
しかし、実際には違う。
一つ分かると、分からないことが増える。
史絵は確かに四人が一人を殴っている場面を見た。
だが、最初のきっかけは知らない。
男たちの顔も識別できない。
裁判で証言した三人がその場にいたのかどうかさえ、史絵には分からない。
それでも。
豪は記事の一文を見つめた。
三人は、被害者が先に暴行したと証言。
そして、争いを止めようとした。
もし史絵の記憶が正しければ、その説明だけでは納得できない場面があったことになる。
「史絵さん」
豪が顔を上げる。
「今日、話してくれてありがとうございます」
史絵は小さく首を振った。
「今さらだよ」
「そんなことないです」
「十六年もたってるんだよ」
史絵は少し笑った。
「もっと早く話せばよかった」
豪は返事に迷った。
もっと早く話していれば、何かが変わったかもしれない。
しかし、そのことを今ここで口にしても、史絵が黙っていた年月を取り戻せるわけではない。
それに、変わったかどうかも分からない。
彼女の証言だけで津森の有罪が証明されたとは限らない。
父親の死についても、まだ何も分かっていない。
豪はコーヒーカップへ手を伸ばした。
もう冷めていた。
一口飲むと、苦みが舌に残った。
「史絵さんが見たこと、ちゃんと記録に残した方がいいと思います」
豪が言う。
史絵は顔を上げた。
「警察に?」
「はい。ただ、俺が勝手に何かするのは違うと思うので。史絵さんが話せるなら、相談してみませんか」
鉄平が頷いた。
「俺も一緒に行く」
史絵は二人を見た。
それから、少しだけ息を吐いた。
「うん」
彼女は頷いた。
「今度は、ちゃんと話す」
鉄平が隣で手を伸ばした。
史絵の手の上へ、自分の手を重ねる。
大きな手だった。
普段は荒っぽいことばかり言う男が、そのときは何も言わなかった。
史絵はその手を見つめたあと、小さく握り返した。
豪は二人から視線を外した。
窓の外では、道を歩く人たちが少しずつ増え始めていた。
買い物帰りの夫婦。
子どもを連れた父親。
犬を抱いた女性。
誰も、十五年以上前に公園で何が起きたのかなど知らない。
それでも、その夜のことを忘れられずにいる人間が、ここにいる。
豪はノートを閉じた。
史絵が黙っていたことには、確かに責任があるのかもしれない。
でも、話したからといって、その責任が消えるわけではない。
豪はそこで、自分の考えを止めた。
なぜそんなことを考えたのか、少し分かっていたからだ。
良いことをしたら、悪いことをする。
悪いことをしたら、良いことをする。
自分はいつも、そうやって釣り合わせてきた。
けれど史絵は、十六年前に何も言わなかったことを、今でも覚えている。
今日こうして話しても、あのとき逃げた自分を忘れられるわけではない。
豪は彼女を見た。
史絵は鉄平と小さな声で何か話している。
その姿を見ていると、リコーダーを桑野の机へ入れた日のことが浮かんだ。
あれはもう、自分の中では終わったことだった。
圭太を助けた。
桑野を困らせた。
釣り合いは取れている。
そう思ってきた。
だが、桑野も同じように考えているかどうかは、知らない。
豪はテーブルの下で指を組んだ。
少し力を入れると、爪が手のひらへ当たった。
「豪くん」
史絵が呼んだ。
豪は顔を上げた。
「はい」
「一つ、聞いてもいい?」
「もちろん」
史絵は少し迷ったあと、尋ねた。
「お父さんは、あの事件のあとに亡くなったんだよね」
「はい。一年半くらいあとです」
「それって、事件と関係あるの?」
豪はすぐには答えなかった。
鉄平もこちらを見ている。
豪はゆっくり首を振った。
「分かりません」
史絵は黙っていた。
「父が亡くなる日に、津森っていう被告人だった人と会おうとしてたことは分かってます。でも、本当に会えたのかも、何を話したのかも分からないので」
史絵は頷いた。
「そうなんだ」
「ただ、父が裁判のあとで何かを気にしていたのかもしれないとは思ってます」
豪はノートを開いた。
三人の証人。
津森とは初対面。
被害者が先に殴った。
その横へ、新しい言葉を書き足す。
史絵の目撃。
四人が一人を暴行。
最初のきっかけは不明。
顔の識別不可。
豪は最後の行を書き終えると、ペンを置いた。
この二つの記録が食い違っているのか。
それとも、同じ事件の違う場面を見ているだけなのか。
まだ答えは出せない。
ただ、父親が亡くなる前に気にしていた人間関係と、史絵が見た四人の男たち。
その間には、何か確かめなければならないことがあるように思えた。
「豪くん」
史絵がもう一度呼んだ。
「はい」
「私、あの夜のことを全部覚えてるわけじゃない。勘違いしてるところもあるかもしれない」
豪は頷いた。
「はい」
「でも、一つだけ、ずっと忘れられないことがあるの」
史絵は窓の外へ目を向けた。
風がカーテンを少しだけ動かした。
「男の人が倒れたあと、四人のうちの誰かが、倒れた人のそばへ行ったんだよね」
豪は黙って聞いていた。
「それまで殴ってたのに、急に静かになって。何か声をかけてたみたいだった」
「何て言ってたんですか?」
「分からない。遠かったから」
史絵はゆっくり首を振った。
「でも、倒れた人は動かなかった」
豪は唇を結んだ。
史絵は続けた。
「そのとき初めて、あの人たちも、自分たちが何をしたのか分かったんじゃないかなって」
鉄平が史絵を見た。
彼女は少し笑った。
「もちろん、それも私の勝手な想像なんだけど」
豪はノートへ目を落とした。
記事では、津森が一人で春日井を殴ったことになっている。
三人は止めようとしたと証言している。
しかし史絵は、少なくとも自分が見ていた間、四人が一人に暴力を振るっていたと話した。
豪はゆっくりページをめくった。
その三人は、事件当日まで津森と知り合いではなかったと説明している。
父親は、その関係を気にしていたかもしれない。
そして、あの日に亡くなった。
豪はペンを握った。
何かを書こうとして、手を止める。
まだ、結論を出してはいけない。
証言を一つ聞いたからといって、全部が分かったわけではない。
父親なら、きっとそう言うだろう。
豪はノートを閉じた。
その表紙の上へ、史絵がそっと手を置いた。
「豪くん」
「はい」
「私が見たことが、本当だったら」
史絵は少しだけ言葉を探した。
「裁判で話した人たちの中に、嘘をついた人がいたかもしれないってことだよね」
豪は彼女を見た。
すぐには答えなかった。
喫茶店の奥で、新しい客が入ってくる音がした。
扉についた小さな鈴が鳴る。
店主が挨拶をする。
それから、また普段どおりの静かな空気が戻ってきた。
豪は頷いた。
「その可能性は、あります」
史絵は目を伏せた。
豪は続けた。
「だから、確かめたいんです。三人が実際に何を話したのか」
史絵はゆっくり頷いた。
「うん」
豪はノートへ手を伸ばした。
十五年前、父親は無罪を勝ち取った。
その裁判で何が語られ、何が語られなかったのか。
まずはそこから確かめるしかない。
ただ一つ、以前とは違うことがあった。
今までは新聞に書かれた出来事を調べていただけだった。
しかし今日は、その夜を実際に見た人間が、目の前に座っている。
豪は史絵を見た。
彼女は冷めたコーヒーをようやく一口飲み、苦そうに眉を寄せた。
鉄平がそれを見て、少し笑った。
「新しいの頼むか?」
「いいよ。もったいない」
「今日くらい、いいだろ」
「じゃあ、今度は紅茶にしようかな」
二人は小さく笑った。
豪も少しだけ笑った。
窓の外では、日差しがゆっくり移動していた。
十六年前の夜。
四人の男が、一人の男を殴っていた。
そのうち三人が、法廷では暴行を止めようとしたと証言していたのだとしたら。
父親が守ったのは、いったい誰だったのだろう。
豪はその疑問を胸の中へしまい、もう一度ノートを開いた。
今度は、父親の死ではなく、春日井道隆の名前を最初に書いた。
まだ会ったこともない男だった。
その人の人生を変えた夜について、自分たちはあまりにも知らなさすぎる。
豪はペン先を紙へ当てた。
三人の証人。
その下に、短く書き足す。
『証言内容の確認』
それが、次にすべきことだった。




