第15話 四対一
五月十七日、日曜日。
午後四時を少し過ぎた喫茶店には、昼間の賑わいがまだ残っていた。
窓から差し込む西日がテーブルの端を照らし、史絵の前に置かれたグラスの水面を細く光らせている。店内には挽きたてのコーヒー豆の匂いが漂い、冷房の風が天井近くでゆっくり回っていた。
豪はノートを開いたまま、しばらくペンを動かせずにいた。
向かいの史絵は両手でグラスを包んでいる。
隣に座る鉄平は何も言わず、彼女の横顔を見ていた。
十六年前。
清水中央公園。
四人の男が一人の男を暴行していた。
史絵が話した内容と、豪が新聞で調べた事件には重なる部分が多かった。
しかし、それだけで同じ出来事だと決めるわけにはいかない。
「史絵さん。一つだけ確認してもいいですか」
豪が口を開くと、史絵はグラスから手を離した。
「うん」
「その四人は、全員で男の人を殴っていたんですか?」
史絵はすぐには答えなかった。
視線をテーブルへ落とし、何かを確かめるように指先を動かす。
「全員が殴っていたかどうかは、分からない」
「分からない?」
「私が見たときには、もう揉めてたから」
史絵はグラスの向こうに目を向けた。
「一人が殴っていたのは覚えてる。別の男も近くにいて、倒れた人の腕をつかんでたと思う。あとの二人もすぐそばにいたけど、二人とも殴ったかまでは自信がない」
豪はペンを取った。
四人が一人を囲んでいた。
少なくとも一人が殴っていた。
別の一人が腕をつかんでいた可能性。
そう書いてから顔を上げる。
「腕をつかんでいた人は、止めようとしていたように見えました?」
史絵は眉を寄せた。
「止める?」
「喧嘩を止めようとしていた可能性はないですか?」
「そう言われると、どうだったんだろう」
史絵は小さく首を傾げた。
鉄平が横から口を挟む。
「何でそんなこと聞くんだよ」
「裁判では、現場にいた三人が喧嘩を止めようとしたって証言してるんだ」
「三人?」
「うん。被害者の知り合いだった三人」
鉄平は椅子の背にもたれた。
「ちょっと待てよ。そいつらは、やられた人間の知り合いなんだろ?」
「裁判ではそう説明してる」
「で、そいつらが止めようとしたって?」
「そう」
「史絵が見た四人とは別なんじゃねえの?」
豪は頷いた。
「その可能性もある」
「じゃあ、何人いたんだよ。その公園に」
「そこが分からないんだ」
鉄平は何か言いかけ、口を閉じた。
豪はノートへ目を戻した。
事件の新聞記事には、津森利明と春日井道隆、そして三人の証人について書かれている。
一方、史絵が目撃したのは四人の男と、暴行を受けていた一人の男だった。
人数だけを考えれば一致する。
しかし、史絵は当時の男たちの名前を知らない。
津森の顔を見たことがあるわけでもなく、三人の証人が誰だったのかも分からない。
事件の始まりも見ていない。
豪はペン先をノートへ押し当てたまま、考え込んだ。
似ている。
だが、似ていることと同じであることは違う。
その境目を越えてしまえば、父親が何を確かめようとしていたのか調べる前に、自分が勝手な答えを作ってしまう。
「豪くん」
史絵に呼ばれて顔を上げた。
「私が見たこと、役に立たない?」
「そんなことないです」
豪はすぐに答えた。
声が少し大きくなったため、隣の席へ目を向ける。幸い、こちらを気にしている客はいなかった。
「ただ、ちゃんと分けておきたいんです。史絵さんが見たことと、僕がそうだったんじゃないかって考えてることを」
「そうだよね」
史絵は頷いたものの、グラスには手を伸ばさなかった。
「もう少し、思い出してもいい?」
「もちろんです」
「でも、間違ってるかもしれないよ」
「間違ってるかもしれないところは、そのままにしておきます」
史絵は小さく息を吐いた。
窓の外で車が一台止まり、信号が変わるとゆっくり走り出した。
「倒れた人がいたでしょう」
「はい」
「その人、すぐには立ち上がらなかったの」
豪は黙って聞いた。
「ベンチの近くに倒れて、動かなかった。私、最初は気絶しただけだと思ったんだけど」
そこで史絵は言葉を切った。
鉄平が彼女の前へ紙ナプキンを一枚置く。
史絵は受け取らず、続けた。
「四人のうち一人が、その人を見てた」
「倒れた人を?」
「うん。たぶん、何か声をかけてた。でも何を言ってたかは聞こえなかった」
「ほかの三人は?」
「その人たちも近くにいたと思う。ただ、そこはもう曖昧なの」
豪は頷いた。
「そのあと、どうなりました?」
史絵は唇を軽く噛んだ。
「四人が離れていったの」
豪のペンが止まる。
「四人とも?」
「そう見えた。公園の出口の方へ」
「倒れた人を残して?」
「うん」
史絵はそこで顔を伏せた。
「だから、ずっと気になってたんだと思う」
鉄平が身体を少し彼女へ向けた。
「無理して話すなよ」
「大丈夫」
「大丈夫じゃねえだろ」
「鉄平」
名前を呼ばれ、鉄平は口を閉じた。
史絵は豪を見た。
「私、救急車も呼ばなかったんだよね」
声は思ったよりも平らだった。
「男の人たちが怖かったし、あのとき未成年で煙草も吸ってたから、警察に何か聞かれるのも嫌だった。そんなことばっかり考えてた」
豪は言葉を探した。
史絵はその間に続ける。
「家に帰ってからも、何度か思い出した。でも新聞で事件を見つけたときには、もう何日もたってたし、自分が見たことが本当にあの事件なのかも分からなくて」
「史絵さん」
「十六年も黙ってたら、今さら言っても仕方ないよね」
「そんなことないです」
豪はノートを閉じた。
「僕だって、父親が亡くなったことを十五年近く調べようとしなかったんです。史絵さんに、もっと早く何かするべきだったなんて言えません」
史絵は豪を見つめた。
鉄平が横で小さく鼻を鳴らす。
「お前、たまにはまともなこと言うな」
「たまにはって何だよ」
「普段から言えよってこと」
史絵が少し笑った。
その笑い方を見て、鉄平はようやく背もたれに身体を預けた。
豪も口元を緩めたが、頭の中では別のことを考えていた。
四人が公園を離れた。
裁判では、三人が争いを止めようとしたと証言している。
両方が事実である可能性もある。
喧嘩を止めようとして失敗し、その場を離れたのかもしれない。
史絵の見た四人が、そもそも裁判の四人とは別の人間だった可能性も残る。
だが、もし同じ四人だったら。
倒れた春日井を残し、津森と三人の証人が一緒に公園を出たことになる。
豪はその考えをノートの余白に書こうとして、やめた。
まだ早い。
今は、史絵が話してくれたことだけを残しておこう。
◇
翌十八日、月曜日。
午前九時前の事務所は、週明けらしい慌ただしさに包まれていた。
窓の外は朝から晴れていたが、空調の効いた室内には昨夜の湿気がわずかに残っている。コピー機が温まると紙と機械油の匂いが漂い、出社した社員たちの声に電話の呼び出し音が重なった。
豪はパソコンを立ち上げ、メールを確認していた。
受信箱には週末の間に届いた連絡が十数件ある。
急ぎの見積もり。
取引先からの問い合わせ。
社内会議の日程変更。
いつもと同じ月曜日だった。
「あの、畑中さん」
背後から声をかけられる。
振り向くと、後輩の男性社員が書類を持って立っていた。
「どうした?」
「金曜日の見積もりなんですけど、数字が合わなくて」
「どれ?」
書類を受け取る。
取引先へ提出する見積もりだった。
確認すると、一部の単価が古い資料のままになっている。
豪は時計を見た。
提出まで一時間もない。
「これ、単価の表が前のやつだな」
「えっ」
「ほら。こっちの資料」
画面を指すと、後輩の顔色が変わった。
「すみません。僕、気づかなくて」
「まだ間に合うよ。一緒に直そう」
豪は自分の仕事をいったん閉じた。
二人で数字を確認し、見積書を作り直す。
途中で計算式が崩れたため、豪が元のファイルを開いて修正した。
提出時刻の十分前。
新しい見積書が完成した。
後輩は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「次から最新版を使えば大丈夫だから」
「はい」
後輩が自席へ戻っていく。
豪は椅子に座り直した。
右のこめかみが、わずかに重い。
人を助けた。
仕事の範囲内だし、特別なことではない。
しかし、助けられた相手があんなふうに何度も礼を言うと、胸の奥に何かが残る。
豪は引き出しの中へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
そこには、仕事用の小さな手帳が入っている。
先週の分も、まだ整理していない。
今日は朝から一つ増えた。
豪は手を引っ込めた。
今は仕事中だ。
あとで考えよう。
そう思ってメールを開いたところで、社内共有の連絡先欄が目に入った。
先ほどの後輩が提出した見積書について、確認完了の報告が届いている。
宛先には上司も入っていた。
豪は返信を作成した。
『見積書の修正を確認しました。単価表は最新版を使用してください』
そこまで打ってから、少し考える。
本来なら個別に伝えれば済む内容だった。
後輩もミスを理解している。
わざわざ上司を含めた全員へ知らせる必要はない。
豪は宛先にある上司の名前を見た。
削除しようと思えば、すぐにできる。
マウスを動かす。
名前の右にある小さな印へカーソルを合わせた。
そのまま数秒。
豪は手を戻し、送信ボタンを押した。
画面の端に送信完了の表示が出る。
後輩が叱責されるほどの内容ではない。
事実を書いただけだ。
それでも、誰に伝えるかによって意味が変わることは分かっていた。
豪は椅子の背にもたれた。
さっきまで重かったこめかみが、少しだけ軽くなっている。
そのことが、妙に気に障った。
◇
昼休み。
豪は社員食堂の隅で、持参したノートを開いていた。
昨日、史絵から聞いたことを整理し直したかった。
机の上にはコンビニで買ったおにぎりとペットボトルのお茶が置かれている。
ノートの左側へ、新聞で確認した内容を書いた。
『二〇一〇年四月 清水中央公園』
『津森利明が春日井道隆を殴打』
『春日井が転倒し、頭部を負傷』
『被害者の知人三人が証言』
『春日井が先に暴行したと説明』
『三人は争いを止めようとした』
右側には、史絵の話を書く。
『四人の男が一人を囲んでいた』
『少なくとも一人が殴打』
『別の一人が腕をつかんでいた可能性』
『被害者がベンチ付近に倒れた』
『四人が現場を離れたように見えた』
豪は二つを見比べた。
左側は裁判について報じられた内容。
右側は十六年前の目撃者の記憶。
どちらも、そのまま事件の全体を表しているわけではない。
それでも、もし同じ出来事なら説明のつかない部分がある。
三人は争いを止めようとした。
史絵が見た男の一人は、被害者の腕をつかんでいた。
その行動は、止めようとしていたとも、動けないようにしていたとも受け取れる。
豪は箸を持ったまま考えた。
腕をつかむという同じ行為でも、誰のためにやったのかで意味が変わってしまう。
昨日までなら、三人が止めようとしたという記事を読んでも何とも思わなかっただろう。
むしろ、暴力を止めようとした人間がいたことに少し安心したかもしれない。
しかし今は、その文章が違って見える。
豪は手元のおにぎりを見た。
海苔が少し湿っている。
包装を開けたまま考え込んでいたせいだった。
「畑中君?」
顔を上げると、亜紀が立っていた。
手には昼食のトレーを持っている。
「こんなところで何してるの?」
「昼飯」
「それは見れば分かるけど」
亜紀は笑いながら向かいの椅子を引いた。
「座っていい?」
「どうぞ」
亜紀はトレーを置き、ノートへ目を向けた。
「また何か調べてるの?」
「うん。ちょっと」
「仕事?」
「いや、個人的なこと」
亜紀はそれ以上聞かなかった。
代わりに味噌汁の蓋を取り、湯気の向こうから豪を見る。
「今朝、後輩の見積もり直してあげてたでしょう」
「見てたの?」
「近くにいたから」
「大したことしてないよ」
「そうかな」
亜紀は箸を取った。
「助けてもらった方は、結構ありがたかったと思うよ」
豪は返事をしなかった。
つい先ほど、自分が送ったメールを思い出す。
後輩が見積もりを間違えたことは事実だった。
上司に知らせたことも、業務上は問題ない。
それなのに、送信するときに何を考えていたのかと聞かれたら、うまく説明できない。
「豪?」
「あ、ごめん。何?」
「午後の打ち合わせ、三時からだって」
「ああ、そうだった」
亜紀は小さく笑った。
「珍しいね。そんなに考え込んで」
「ちょっと寝不足かも」
「ちゃんと休みなよ」
その言い方が、母親に少し似ていた。
豪はおにぎりを口へ運んだ。
冷めた米が口の中でほどける。
亜紀はそれ以上何も聞かず、食事を始めた。
豪はノートを閉じた。
午後には打ち合わせがある。
夕方には取引先へ連絡しなければならない。
今は目の前の仕事をしよう。
そう決めたはずなのに、ノートの最後に書いた一行だけが頭から離れなかった。
『三人は、本当に争いを止めようとしたのか』
◇
その夜。
帰宅した豪は夕食を済ませ、ノートパソコンを開いた。
時計は午後九時を回っている。
窓の外には、近所のマンションの明かりがいくつか灯っていた。昼間の熱が残った部屋には少し湿った空気がこもり、窓を開けると雨の降り始めのような匂いが流れ込んでくる。
豪は保存していた新聞記事の情報を読み返した。
事件当日の記事。
無罪判決の記事。
判決後の父親のコメント。
何度読んでも、書かれていることは変わらない。
三人は被害者の知人。
津森とは事件当日が初対面。
春日井が先に殴りかかったと証言した。
しかし、豪が今知りたいのは、記事に書かれていない部分だった。
三人は事件当日、どこから公園へ来たのか。
津森と春日井は、なぜ口論になったのか。
誰が最初に手を出したのか。
そして、三人は具体的にどうやって争いを止めようとしたのか。
裁判では、そこまで説明されていたはずだ。
だが、新聞の短い記事には載っていない。
豪は裁判記録について調べ始めた。
古い事件の記録を確認するには、保管状況や閲覧できる範囲を確かめる必要があるらしい。
一般に公開されている新聞記事とは事情が違う。
問い合わせれば必ず読めるというものでもない。
豪は裁判所の連絡先を控えた。
明日、仕事の合間に問い合わせてみよう。
スマートフォンを置いたところで、史絵の言葉を思い出した。
四人が離れていった。
あれが同じ事件だったとして、どうして四人は倒れた男を残して立ち去ったのだろう。
恐ろしくなって逃げた。
自分たちが巻き込まれることを避けた。
あるいは、倒れた男のことなど最初から気にしていなかった。
考えられる理由はいくらでもある。
豪はパソコンを閉じかけ、手を止めた。
もう一度、新聞の記事を開く。
『被害者と面識のあった三人は、男性が被告人へ先に手を出したと証言した』
その下に続く文章。
『三人は争いを止めようとしたと説明している』
豪は画面へ顔を近づけた。
記事には、それ以上のことは書かれていない。
誰が誰の腕をつかんだのか。
誰を押さえようとしたのか。
倒れたあと、誰が何をしたのか。
そこまでは分からない。
豪はノートを開き、新しいページに一行を書いた。
『止めようとした相手は、誰だったのか』
書き終えてから、その文章を眺めた。
喧嘩を止めようとする。
そう聞けば、普通は両者の間へ入る姿を想像する。
だが、仮に春日井の腕をつかんで動けなくした人間がいたとして、その人物が自分の行為を「止めようとした」と説明したらどうなるのだろう。
豪はペンを置いた。
その可能性を考えただけで、何かが証明されたわけではない。
史絵の記憶にある四人と、裁判に登場した四人が同じかどうかも分かっていない。
それでも、父親が無罪を勝ち取るために調べた事件は、豪が最初に想像したよりずっと複雑だった。
机の端には、まだ片づけていない仕事用の手帳がある。
豪は何気なくそれを開いた。
今日の日付の欄は空白だった。
後輩を助けたこと。
そのあと、必要のない相手にミスを知らせたこと。
二つを書こうとして、手が止まる。
豪はペンを握り直した。
同じ事実でも、何をするために使ったのかで意味が変わる。
昼間、自分が送ったメールもそうだった。
書かれた内容は正しい。
それでも、自分が善意で送ったわけではないことを、豪自身が一番よく知っている。
豪は手帳を閉じた。
新聞の記事へ目を戻す。
三人の証言も、同じだったら。
一つ一つは事実であっても、語られなかった部分によって意味が変わっていたとしたら。
父親は、何を信じていたのだろう。
そして、何を知ったことで、その信じていたものを疑い始めたのだろう。
豪は、翌日の予定表に短く書き込んだ。
『裁判記録について確認』
その下に、もう一行。
『父さんが調べ直した理由』
窓の外で、遠くを走る救急車のサイレンが聞こえた。
豪はしばらく、その音が小さくなっていくのを聞いていた。




