第16話 父は何を知ったのか
五月十九日、火曜日。
午後七時を少し回ったころ、豪は実家の玄関に立っていた。
チャイムを押す前から、家の中でテレビの音がしている。
玄関脇には母親が手入れしている鉢植えが三つ並び、雨上がりの土から湿った匂いが立ち上っていた。西の空にはまだ薄い明るさが残っているものの、軒下には夕方の冷たい空気が入り込んでいた。
豪はチャイムを押した。
少しして、廊下を歩く足音が近づいてくる。
「はいはい」
鍵が回った。
ドアを開けた貴美子は、豪の顔を見ると小さく笑った。
「いらっしゃい」
「ただいま、でいいのかな」
「どっちでもいいわよ。お腹は?」
「食べてないけど、何か買って帰るから大丈夫」
「もう作ってあるわよ」
「やっぱり」
豪が靴を脱ぐと、貴美子は先に廊下を歩き始めた。
「あなたが来るって言うから、少し多めに作ったの」
「そういうところ、変わらないね」
「母親なんてそんなものよ」
台所からは醤油と生姜の匂いが漂っていた。
食卓には煮魚とほうれん草のおひたし、味噌汁が並んでいる。
豪は椅子へ座った。
「豪が魚を食べるなんて珍しいでしょう」
「別に嫌いじゃないよ」
「自分では作らないじゃない」
「それは面倒だから」
貴美子は呆れたように笑い、ご飯をよそった茶碗を置いた。
豪は箸を取る。
久しぶりに食べる母親の煮魚は、少し甘かった。
昔から同じ味だった。
子どものころは甘すぎると思っていたのに、今はそのくらいがちょうどよく感じる。
「仕事はどう?」
貴美子が尋ねた。
「普通だよ。月曜日はちょっと忙しかったけど」
「体調は?」
「元気」
「ちゃんと寝てる?」
「母さん、病院の問診みたいになってる」
「質問に答えないからでしょう」
豪は笑った。
貴美子も口元を緩めた。
そのまま、しばらく食事を続ける。
テレビでは天気予報が流れていた。
週末はまた雨になるらしい。
豪は煮魚の小骨を皿の端へ寄せた。
話を切り出すなら、今だろう。
そう思いながら、なかなか口が開かなかった。
母親の家へ来るのは珍しいことではない。
しかし、父親の事件について尋ねるために訪ねるのは、これまでほとんどなかった。
「母さん」
「何?」
「父さんの裁判のこと、もう少し聞いてもいい?」
貴美子は箸を止めた。
「あの事件?」
「うん」
「また何か分かったの?」
「少しだけ」
豪は、日曜日に史絵から聞いたことを説明した。
十六年前、清水中央公園で四人の男が一人の男を暴行していたという目撃談。
倒れた男のそばから、四人が離れていったように見えたこと。
しかし、その四人が裁判に関わった人物と同じかどうかは確認できていないこと。
貴美子は途中で口を挟まなかった。
話が終わると、湯呑みを両手で持ち上げた。
「それで、豪はどう思ってるの?」
「分からない」
「そう」
「ただ、裁判で話されたことと違ってる可能性はあると思う」
貴美子は湯呑みを置いた。
「その人は、警察には話していないのね」
「うん。今まで誰にも言ってなかったみたい」
「そうなの」
母親はそれ以上、史絵について聞かなかった。
豪は味噌汁を一口飲んだ。
少しぬるくなっていた。
「父さんはさ」
「ええ」
「あの裁判で、津森が正当防衛だったって本当に思ってたのかな」
貴美子は豪を見た。
「どうして?」
「だって、実際には違ったかもしれないんでしょう」
「それは、今のあなたが知った話でしょう」
「うん」
「お父さんが当時何を知っていたかとは、分けて考えないと」
豪は黙った。
貴美子は箸を置いた。
「お父さんが裁判で何を確認していたのか、私も全部は知らないわ。でも、依頼人に都合のいいことだけ聞いて仕事をするような人じゃなかった」
「それは分かってる」
「だったら、あのときは証言や証拠を調べて、それでも津森さんが有罪だとは言えないと考えたんじゃないかしら」
豪は頷いた。
新聞の記事にも、同じようなことが書かれていた。
津森が正当防衛だった可能性を否定できない。
だから、有罪にはできなかった。
それが裁判所の判断だった。
「でもさ」
豪は顔を上げた。
「父さんが、そのあと三人の証言がおかしいって気づいたら、どう思ったんだろう」
貴美子の指が、湯呑みの縁で止まった。
「三人の証言がおかしいって、もう分かったの?」
「いや、まだ」
「だったら、そこも決めつけない方がいいわ」
「うん」
豪は箸を置いた。
「ただ、父さんがコーポ松原で聞いていたことが気になってる」
「コーポ松原?」
「津森が住んでいたアパート」
貴美子は思い出すように目を細めた。
「前に話していたところね」
「そう。父さんはそこの住人だった小牧さんに、夜遅く出入りしていた男たちのことを尋ねてたんだ」
「男たち?」
「その人たちが、津森といつから知り合いだったのかって」
貴美子は黙った。
豪は続けた。
「裁判では、三人の証人は津森と事件当日に初めて会ったって話してる」
「ええ」
「もし、その三人が事件より前から津森と知り合いだったら」
そこまで言って、豪は口を閉じた。
貴美子が続きを待っている。
「少なくとも、裁判で説明した関係とは違うことになる」
「そうね」
「父さんは、それを確かめようとしてたんじゃないかな」
貴美子はしばらく考えたあと、静かに頷いた。
「そういう可能性はあるわね」
豪は息を吐いた。
母親はすぐに否定しなかった。
しかし、肯定したわけでもない。
その違いは分かっていた。
◇
食事を終えると、豪は台所で食器を洗った。
貴美子は隣で布巾を持ち、洗い終えた皿を拭いている。
水道から流れる水は少し冷たく、洗剤の柑橘系の匂いが湯気の薄い台所へ広がっていた。天井の照明がステンレスの流し台に白く反射し、蛇口から落ちる水滴が細かな音を立てている。
「珍しいわね」
貴美子が言った。
「何が?」
「あなたが自分から洗い物するなんて」
「昔からやってたじゃん」
「言われればね」
「言われなくてもやるようになったんだよ」
「大人になったのね」
「もう二十八だよ」
貴美子が笑った。
豪は皿をすすいだ。
そのとき、ふと思い出した。
父親も、よくこの台所に立っていた。
仕事が遅くなった日でも、食事のあとに皿を洗うことがあった。
貴美子が疲れていると、何も言わずに流し台へ向かう。
豪が子どものころ、父親に一度だけ尋ねたことがある。
どうして仕事で疲れているのに、家のことまでやるのか。
父親は笑っていた。
たしか、こんなことを言った。
「母さんだって、仕事してるだろ」
それだけだった。
特別な教えとして聞いたわけではない。
ただ、父親が当たり前のようにそうしていた姿は覚えている。
豪は蛇口を閉めた。
「母さん」
「何?」
「父さんが無罪判決のあと、何か気にしてたことってなかった?」
貴美子は拭いていた皿を水切りかごへ戻した。
「気にしていたこと?」
「事件のことで」
「そうねえ」
貴美子は布巾を畳み直した。
しばらくして、口を開く。
「判決が出たころ、お父さんが一度だけ言っていたことは覚えてる」
豪は顔を向けた。
「何て?」
「無罪になっても、怪我をした人が元に戻るわけじゃないって」
豪は黙った。
貴美子は続ける。
「たしか、春日井さんという方だったでしょう」
「うん」
「ずっと意識が戻っていないと聞いて、お父さんも気にしていたのよ」
豪は流し台に手を置いた。
冷たい水が指先から手首へ流れ落ちる。
「それって、いつごろ?」
「判決が出たあとだったと思う」
「二〇一〇年の十二月?」
「そうね。年末だったかもしれない」
豪は頷いた。
新聞には、判決の時点でも春日井の意識が戻っていないと書かれていた。
父親は、そのことを知っていた。
当然だろう。
被害者がどれほど重い怪我を負ったのかは、裁判で重要な事実だったはずだ。
それでも、豪には少し意外だった。
父親が春日井のことを家で話していたなんて、知らなかった。
「父さん、津森が無罪になっても、すっきりしなかったのかな」
「どうかしら」
貴美子は首を傾げた。
「判決に納得していたことと、怪我をした人を気にしていたことは、別なんじゃない?」
豪は母親を見た。
「別?」
「ええ。津森さんを弁護したからって、春日井さんの怪我を軽く考える必要はないでしょう」
「そうだね」
「お父さんは、そういう人だったと思うわ」
貴美子は布巾を台へ置いた。
豪は残っていた水滴を拭き取った。
その間、二人とも何も話さなかった。
台所の時計が小さく音を立てている。
母親の言葉は、豪が想像していた父親の姿と少し違っていた。
これまで豪は、父親が津森の無罪を信じていたのか、それとも疑っていたのかという二つの考えの間を行き来していた。
しかし、父親は津森を弁護しながら、春日井のことも考えていたのかもしれない。
どちらか一方を選ぶ話ではなかった。
それは、豪にとって簡単には理解できないことだった。
誰かを助ければ、その分だけ誰かへ悪いことをしなければならない。
自分の中では、それが当たり前になっている。
けれど父親は、依頼人を助けたからといって、被害者の苦しみを無視する必要はないと考えていた。
そんなふうに、一つの行動の中に違うものを抱えて生きることができたのだろうか。
豪は濡れた手をタオルで拭いた。
◇
リビングへ戻ると、貴美子が棚の引き出しを開けていた。
「何か探してるの?」
「ちょっと待って」
引き出しの奥から薄い封筒を取り出す。
茶色く変色した紙の封筒だった。
貴美子はそれをテーブルへ置いた。
「これ、お父さんが亡くなったあとに取っておいたものなの」
豪は椅子へ座った。
「何?」
「新聞の切り抜きよ。仕事の書類じゃないから、私が持っていたの」
封筒を開けると、古い新聞記事が数枚出てきた。
父親の転落死を伝える小さな記事。
無罪判決について書かれた記事。
そして、事件直後の傷害事件の記事。
豪は一枚ずつ確かめた。
ほとんどが図書館で読んだものだった。
ただ、紙になった記事を手に取ると、画面で読むときとは違う重さがあった。
端が少し破れている。
折り目の部分では印刷が薄くなっていた。
「父さんが切り抜いてたの?」
豪が尋ねた。
「全部じゃないわ。私が取っておいたものもあるから」
「そっか」
「お父さんの仕事のこと、私も何か残しておきたかったのかもしれないわね」
貴美子はそう言って、豪の隣へ座った。
豪は無罪判決の記事を開いた。
津森利明の名前がある。
当時二十四歳。
春日井道隆は二十二歳。
二人とも、自分の今の年齢より若かった。
豪は写真のない記事を見つめた。
十六年前の二人が、どんな顔をしていたのか想像できない。
津森は公園で何を考えていたのだろう。
春日井は、どうしてそこにいたのだろう。
三人の証人は、二人を見ながら何をしていたのだろう。
そして、父親はどんな顔で裁判を見ていたのだろう。
豪は記事の一番下へ目を移した。
『男性は現在も意識不明の状態が続いている』
その一文を指でなぞった。
「母さん」
「何?」
「この人、そのあとどうなったんだろう」
貴美子は記事を覗き込んだ。
「春日井さん?」
「うん」
「分からないわ」
「父さんから、何か聞いたことない?」
貴美子は考えた。
「亡くなったという話は、私は聞いていないと思う。でも、そのあと意識が戻ったかどうかも知らないわ」
「そうだよね」
豪は記事を閉じた。
考えてみれば、おかしな話だった。
父親が亡くなった理由を調べようとして、津森のことばかり追いかけていた。
津森が誰と知り合いだったのか。
三人の証人が何を話したのか。
父親が何を疑っていたのか。
そのことばかり考えていた。
しかし、事件で最も大きな被害を受けた春日井道隆が、そのあとどうなったのかさえ知らない。
豪は新聞を重ねた。
「この切り抜き、少し借りてもいい?」
「ええ。なくさないでね」
「大丈夫」
封筒へ戻しながら、豪は一枚だけ手を止めた。
春日井が搬送された直後の記事だった。
記事の写真には、公園のベンチが写っている。
今はもう撤去されている古いベンチだ。
清水中央公園で見た場所と重なる。
そのすぐ近くで、春日井は倒れた。
史絵が目撃したとおりなら、四人の男がその場を離れていった。
そのあと、誰が救急車を呼んだのだろう。
誰が最初に倒れている春日井を見つけたのだろう。
豪は写真から目を離した。
貴美子が隣で立ち上がる。
「お茶、もう一杯飲む?」
「うん。ありがとう」
母親は台所へ向かった。
豪は新聞を封筒へ戻した。
父親が知っていたことを調べるつもりだった。
しかし、その前に知らなければならない人間がいるのかもしれない。
春日井道隆。
十六年前、二十二歳だった男性。
もし生きていれば、今は三十八歳になっている。
豪はその名前を心の中で繰り返した。
◇
午後九時半を過ぎたころ、豪は実家を出た。
玄関まで見送りに来た貴美子が、封筒を持つ豪を見る。
「豪」
「何?」
「昔のことを調べるのは、悪いことじゃないと思うわ」
「うん」
「でも、お父さんと同じことをしようとしなくていいのよ」
豪は母親を見た。
貴美子は続ける。
「あなたはあなたの生活をしていいんだから」
その言葉を聞いたとき、豪は仕事用の手帳を思い出した。
今日も何人かと話した。
頼まれた仕事を終わらせ、同僚の相談にも乗った。
誰かのために何かをするたび、あとで帳尻を合わせなければならないような気持ちになる。
それは父親の死と無関係ではない。
母親が、良いことも悪いこともせず平凡に生きてほしいと願っていたことも覚えている。
しかし、自分がいつからこんなふうになったのか、はっきり説明することはできなかった。
「分かってるよ」
豪は答えた。
貴美子は少し笑った。
「ならいいけど」
「また来る」
「今度は早めに連絡してね」
「分かった」
「野菜も食べなさいよ」
「今日、食べたじゃん」
「今日だけじゃ駄目なの」
豪は笑った。
ドアが閉まる。
夜の住宅街は静かだった。
遠くの幹線道路を車が走る音と、どこかの家から聞こえるテレビの声が、湿った空気の中で薄く混じっている。街灯の下では濡れたアスファルトが鈍く光り、植え込みから青い草の匂いが漂っていた。
豪は車へ向かって歩き始めた。
封筒は鞄の中に入れてある。
運転席へ座り、エンジンをかける。
フロントガラスの向こうに、実家の明かりが見えた。
母親は今ごろ食器を片づけているだろう。
豪はシートベルトを締めた。
エンジンの振動が、足元から伝わってくる。
父親が津森を弁護したことは、間違いではなかったのかもしれない。
少なくとも、当時の証拠をもとに無罪を主張することは、弁護士として当然の仕事だったのだろう。
しかし、その証拠に嘘が混じっていたとしたら。
父親は、自分が信じたものを調べ直そうとしたのかもしれない。
だからといって、誰が父親を死に追いやったのかは分からない。
そもそも、父親が誰かに殺されたという証拠もまだない。
豪はハンドルへ手を置いた。
そこまで考えて、ふと気づいた。
自分はずっと、父親が無罪にした津森という男のことを調べている。
だが、事件には春日井という被害者がいた。
その人が倒れたことで裁判が始まり、父親は津森の弁護を引き受けた。
そして、無罪判決から九か月ほど後に父親は亡くなった。
もし春日井があのとき倒れなかったら。
そんなことを考えても仕方がない。
それでも、豪はしばらく車を発進させられなかった。
春日井道隆は、父親の事件を解くための手がかりではない。
十六年前に人生を大きく変えられた、一人の人間だ。
その人が今どうしているのかも分からないまま、事件の真相だけを知ろうとしていた。
豪はスマートフォンのメモを開いた。
新しい項目を作る。
『春日井道隆のその後』
一度入力してから、少し考えた。
続けて、もう一行を加える。
『家族は、今も当時のことを知りたいと思っているのか』
豪は画面を消した。
会って話を聞けば何か分かるかもしれない。
ただ、十六年も前の出来事を突然持ち出されて、相手がどう感じるかは分からなかった。
父親について知りたいという自分の都合だけで、誰かの生活へ踏み込むことになる。
それでも、少なくとも春日井がその後どうなったのかは、確かめておきたかった。
豪は車を発進させた。
住宅街の角を曲がる。
バックミラーの中で実家の明かりが小さくなり、やがて別の家の屋根に隠れた。
父親は無罪判決のあと、何を知ったのだろう。
津森の嘘か。
三人の証言の矛盾か。
それとも、自分が無罪を勝ち取ったことで生じた、別の何かだったのか。
豪にはまだ分からない。
ただ、今まで一つの事件だと思っていたものが、少しずつ違う形を見せ始めていた。
津森の事件。
春日井の人生。
父親の死。
三つは重なっているようで、必ずしも同じものではない。
その違いを見失わずに、もう少し調べてみようと思った。
信号が赤へ変わった。
豪はブレーキを踏んだ。
目の前の横断歩道を、一人の老人がゆっくり渡っている。
老人の手から買い物袋が滑り落ちた。
中に入っていたペットボトルが転がり、横断歩道の白い線の上で止まる。
老人が腰を曲げようとした。
豪は車を停めたまま、その様子を見ていた。
窓を開ける。
道路の向こうで、後続車の運転手がドアを開けようとしている。
豪は自分のシートベルトへ手を伸ばした。
助けに行こう。
そう思った。
その瞬間、いつもの考えが頭をよぎる。
助けたら、その分をどうする。
豪の指が、シートベルトの金具に触れたまま止まった。
ほんの一秒か二秒。
その間に後続車から降りた男性がペットボトルを拾い、老人へ手渡した。
老人は何度も頭を下げている。
男性が手を振って車へ戻る。
信号が青になった。
豪はハンドルを握り直した。
助けようと思っただけなら、何も起きていない。
自分は何もしていない。
だから、何かで帳尻を合わせる必要もない。
いつもなら、それで済む話だった。
しかし、今夜は少し違った。
老人が道路を渡り終えるまで、豪は車を動かさなかった。
後ろから短くクラクションが鳴る。
豪は慌ててアクセルを踏んだ。
走り出した車の中で、右手の指先がわずかに冷えていた。
誰かを助けたかった。
それだけの気持ちを、どうして自分はすぐに手放してしまうのだろう。
赤信号を越え、車は夜の道路へ流れていく。
豪は前を見つめたまま、しばらくそのことを考えていた。




