第8話 父の最後のメモ
父親の名前が書かれた段ボールは、前に見たときより少し小さくなったように思えた。
もちろん、箱が縮んだわけではない。
二週間ほど前に来たときには、物置の奥にあるというだけで妙に存在感があったのに、今日はほかの荷物を片づけたせいか、床にぽつんと置き忘れられたように見える。
四月二十九日、水曜日。
祝日を利用して実家を訪れた畑中豪は、二階の物置でしゃがみ込み、段ボールの側面に手を添えた。
窓から差し込む午前の日差しは思ったより強く、締め切っていた部屋には乾いた紙と古い木材の匂いがこもっている。箱の表面を撫でると薄く積もった埃が指先に移り、窓の外から聞こえる鳥の声だけが、妙にはっきり耳に届いた。
「豪、持てそう?」
階段の下から母親の声がした。
「大丈夫。そんなに重くないよ」
返事をしてから、豪は箱の底に両手を差し込んだ。
持ち上げる。
思ったとおり、前に運んだ本の箱よりずっと軽かった。
中身が動く音もしない。
豪は箱を抱え、階段へ向かった。
一段下りるたびに箱の角が腹へ当たり、腕の中で古い段ボールがかすかに軋む。いつもなら何も考えずに運ぶところだが、今日は途中で手を滑らせないよう、少し慎重になっていた。
父親のものだからだろうか。
いや、単純に古い箱だからかもしれない。
底が抜けでもしたら面倒だ。
豪はそう考え直し、残りの階段を下りた。
「そこ、新聞紙の上に置いてちょうだい」
居間では貴美子が片づけの準備をしていた。
食卓の上には古い封筒を入れるための紙袋が三つ置かれ、床には新聞紙が広げられている。
「今日、これ全部見るの?」
豪が尋ねる。
「全部は無理でしょうね。とりあえず何があるか確かめたいの」
「ずっと取ってあったんだ」
「そうね」
貴美子は箱の側面に書かれた文字を見た。
畑中昌彦・事務所。
油性ペンで書かれたその文字を、指先で一度だけなぞる。
「引き取ったときは、必要なものとそうでないものを分けるだけで精一杯だったから」
豪は母親を見た。
貴美子は何でもないことのように言ったが、箱へ伸ばした手が途中で止まったのを見逃さなかった。
「別に急いで捨てなくてもいいんじゃない?」
「そういうわけにもいかないでしょう。いつまでも置いておいたって」
「場所ならあるじゃん」
「あるから残してきたのよ」
貴美子は小さく笑った。
「でも、そろそろ整理しないとね」
豪は頷き、箱の上に貼られたガムテープへ手を伸ばした。
茶色いテープは年月のせいで少し硬くなっていた。
端を爪で起こそうとしても、すぐにちぎれてしまう。
「カッターある?」
「そこの引き出し」
豪は文房具用の小さなカッターを取り出した。
刃を少しだけ出し、箱の継ぎ目へ当てる。
テープが裂ける音は、思ったより乾いていた。
一本目を切る。
続いて二本目。
蓋の端に指をかけ、ゆっくり開いた。
中には、クリアファイルと封筒、それから薄い手帳が何冊か入っていた。
使いかけの付箋や古い名刺入れもある。
「何か、普通だね」
豪が言うと、貴美子が顔を上げた。
「何が?」
「もっと難しそうなものが入ってるかと思った」
「お父さんだって、普段は普通のものを使ってたわよ」
「そりゃそうだけど」
豪は青いボールペンを手に取った。
軸に細かな傷がついている。
試しに紙へ線を引くと、インクが少しかすれたあと、まだ書けることが分かった。
「これ、父さんの?」
「たぶんね」
「ペンまで取っておく必要あったのかな」
「しまったときは、何も考えられなかったのよ」
貴美子の声が、ほんの少し低くなった。
豪はペンを置いた。
「そっか」
それ以上、何も言わなかった。
窓の外を車が通り過ぎる。
近所の家で庭仕事をしているらしく、枝を切る小さな音が断続的に聞こえていた。
豪は次のファイルを取り出した。
薄い水色の表紙。
中には、地域の法律相談会で配られた案内や、当日の進行表が挟まれている。
「これ、俺も行ったことあるかも」
「そう?」
「小学生のころ。父さんが仕事してる横で、お菓子もらった記憶がある」
「公民館の相談会じゃない?」
「ああ、それかも」
「毎年行ってたものね」
貴美子は少しだけ懐かしそうな顔をした。
豪は案内の紙を一枚ずつめくった。
法律相談。
生活上の困りごと。
相続や金銭に関する相談。
父親の名前は、弁護士の欄に印刷されている。
その下には別の弁護士たちの名前も並んでいた。
特別扱いされていたわけではない。
そこに書かれているのは、ただの仕事の予定だった。
豪はその紙を見つめた。
子どものころ、父親は忙しい人だった。
それでも休みの日には遊びに連れていってくれたし、豪の友人が家へ来れば、名前を覚えて声をかけてくれた。
誰かが困っていると聞けば、自分の仕事とは関係がなくても相談に乗っていた。
そのせいで夕食に遅れることもあった。
母親はよく文句を言っていたが、父親が帰ってくると結局は笑って迎えていた。
そんなことを思い出していると、貴美子が横から声をかけた。
「それは残しておきましょうか」
「うん」
豪は紙を元のファイルへ戻した。
次に出てきたのは、古い写真だった。
事務所の前で撮影されたものらしい。
父親が数人の男性と並んで立っている。
豪が覚えているより少し若い顔だった。
「これ、いつの?」
貴美子は写真を覗き込んだ。
「ああ、事務所を広くしたころかしら」
「広くした?」
「最初は小さな部屋だったでしょう。相談に来る人が増えて、少し大きなところへ移ったのよ」
豪は写真を裏返した。
日付が書かれていた。
二〇一一年。
父親が亡くなった年だった。
「そうだったっけ」
「あなた、中学生だったから。あまり覚えてないかもしれないわね」
「うん。何か忙しそうだったのは覚えてる」
貴美子は頷いた。
「そうね。あのころは本当に忙しかった」
豪は写真をもう一度見た。
父親の隣には、知らない男性が二人立っていた。
一人はスーツ姿で、もう一人は作業着らしい服を着ている。
誰なのかは分からない。
豪が尋ねる前に、貴美子が言った。
「引っ越しを手伝ってくれた人たちね。事務所の近くの業者さんだったと思う」
「へえ」
豪は写真を封筒へ戻した。
父親に関係するものなら、何でも意味があるように見えてしまう。
しかし実際には、ただの事務所の引っ越し写真なのだろう。
箱の中には、そんなものがいくつも残っていた。
使い終わった卓上カレンダー。
古い電卓。
相談会で配られた記念品。
仕事で訪れた場所のパンフレット。
豪は一つずつ取り出し、母親と相談しながら残すものを分けていった。
昼が近づくころには、箱の底が見え始めていた。
「お茶でも入れようか」
貴美子が立ち上がる。
「いいよ、俺がやる」
「場所分かる?」
「さすがに分かるって」
「急須は新しい方を使ってね。古いの、少し欠けてるから」
豪は笑った。
「そういうの、早く捨てればいいのに」
「まだ使えるのよ」
「母さん、そればっかり」
台所へ向かい、湯を沸かす。
冷蔵庫の扉には、近所のスーパーのチラシが磁石で留められていた。
その横に、母親の仕事用の予定表がある。
今週も何日か外出の予定が書き込まれていた。
司法書士の仕事を続けている貴美子は、豪が思っているほど暇ではないらしい。
湯が沸くまでの間、豪は窓の外を眺めた。
庭の隅に植えられた木が、風に揺れている。
父親が生きていたころから、あの木はあそこにあった。
昔は豪の背丈より少し高いくらいだったのに、今では二階の窓へ届きそうになっている。
木が大きくなったことには、何度も気づいていた。
それなのに、父親がいなくなってからの年月を、あまり考えたことがない。
豪は急須へ茶葉を入れた。
湯を注ぐと、乾いた茶葉がゆっくり広がっていく。
透明だった湯に少しずつ色がつき、湯気とともに青い香りが立ち上った。
湯飲みを二つ持って居間へ戻ると、貴美子が床に座っていた。
箱の中から取り出した手帳を、膝の上で開いている。
「母さん?」
声をかけると、貴美子は顔を上げた。
「ああ、ありがとう」
豪は湯飲みをテーブルへ置いた。
「何見てるの?」
「お父さんの昔の手帳」
「予定表?」
「そうね。仕事のことが多いみたい」
貴美子は手帳を閉じ、箱へ戻そうとした。
だが、豪はその表紙に見覚えがあった。
黒に近い深緑色の小さな手帳。
角が擦れて白くなっている。
父親は昔、そんな手帳をよく胸ポケットへ入れていた。
電話がかかってくると取り出し、何かを書き込んでいた。
「ちょっと見てもいい?」
貴美子は手帳を見た。
「仕事の秘密が書いてあるかもしれないから、外へ持ち出したりはしないでね」
「分かってる」
「私も必要なところだけ確認するつもりだから」
豪は頷いた。
貴美子から手帳を受け取り、表紙を開く。
最初の数ページには、電話番号や予定らしい数字が書かれていた。
名前もいくつかある。
しかし、知らない人物ばかりだった。
豪は紙をめくった。
ページの端は少し黄ばんでいる。
父親の字は、思っていたより細かった。
小学生のころはもっと大きくて力強い文字を書く人だったような気がするが、もしかすると自分が子どもだったから、そう見えただけかもしれない。
二〇一一年八月。
九月。
豪は指を止めた。
その月には、予定がいくつも書き込まれていた。
事務所の移転に関するものが多い。
業者との打ち合わせ。
備品の搬入。
旧事務所の片づけ。
豪は何となく、日付を追った。
九月の半ば。
あるページの端に、少し濃い筆圧で書かれた文字があった。
『津森氏 預かり品返却』
豪は首を傾げた。
津森。
知らない名前だった。
その下には、さらに短い書き込みが続いていた。
『旧居訪問』
『管理 小牧氏』
『夜間騒音・複数名』
『転居済。連絡取次ぎ』
豪はページをめくろうとして、指を止めた。
何となく、書き方が気になった。
通常の予定なら、時間と場所が書いてある。
しかしこの部分は、何かを聞き取ってから急いで書き足したように見えた。
字の大きさが揃っていない。
最初の二行は丁寧なのに、最後の方は小さく詰まっている。
「母さん」
貴美子が顔を上げた。
「何?」
「津森って人、知ってる?」
その瞬間、貴美子の表情が変わった。
本当にわずかな変化だった。
湯飲みへ伸ばしていた手が止まり、視線が豪の指先へ移る。
「津森?」
「うん。津森さんって書いてある」
貴美子は手帳を受け取った。
老眼鏡をかけ、ページへ顔を近づける。
しばらく文字を追っていた。
「津森利明さん、かしら」
「知ってるの?」
「ええ」
貴美子は手帳を閉じなかった。
そのまま、しばらくページを見つめている。
豪は隣へ座り直した。
「父さんの知り合い?」
「知り合いというか、仕事で関わった人ね」
「相談に来た人?」
「お父さんが弁護した人よ」
豪は頷いた。
父親は弁護士だったのだから、そういう人物が手帳に書かれていても不思議ではない。
ただ、貴美子は思いのほか名前をよく覚えているようだった。
「有名な人だったの?」
豪が尋ねる。
貴美子は首を振った。
「本人が有名だったわけじゃないわ」
「じゃあ、何で覚えてるの?」
少し間があった。
貴美子は老眼鏡を外し、食卓の上へ置いた。
「裁判が、少し話題になったから」
「どんな?」
「公園で、人が大怪我をした事件よ。若い男性が、別の男性を殴ってしまったの」
豪は手帳へ視線を落とした。
「それで父さんが弁護したんだ」
「ええ」
「どうなったの?」
貴美子は湯飲みを持ち上げた。
少し冷めた茶を口に含み、ゆっくり飲み込む。
「無罪になったわ」
豪は顔を上げた。
「無罪?」
「そう。正当防衛が争われた裁判だったの。お父さんも、ずいぶん準備していたと思う」
「へえ」
豪は記憶を探った。
父親が裁判で無罪を勝ち取った。
そんな話を、昔聞いたことがある気がした。
当時、家に新聞が何部も置かれていた。
電話もよく鳴っていた。
父親が誰かに呼ばれ、週末に出かけていくことも増えていた。
「何か、テレビにも出てなかった?」
貴美子は少し笑った。
「テレビというほどじゃないわ。地元のニュースで取り上げられたり、取材を受けたりはしたけど」
「そうだったんだ」
「お父さん、ああいうのは苦手だったから」
豪は小さく笑った。
確かに、父親は人前で話すのが特別得意な人ではなかった。
親しい相手にはよく笑ったが、大勢の前では言葉を選びながら話すことが多かった。
それでも困っている人を助ける仕事は、好きだったのだと思う。
「その津森さんって人、何でここに書いてあるの?」
豪は手帳を指さした。
貴美子はもう一度ページを見た。
「預かり品を返すって書いてあるわね」
「裁判のあとも付き合いがあったのかな」
「どうかしら。何かを預かったままだったんでしょう。事務所を移るときに見つかったのかもしれないわね」
「わざわざ家まで返しに行くもの?」
「本来なら連絡して取りに来てもらってもいいんでしょうけど。お父さんなら、近くへ行く用事があれば届けようとしたかもしれないわ」
貴美子はそこまで言うと、手帳の下の方へ目を移した。
「でも、もう引っ越してたのね」
「うん。小牧さんって人に話を聞いたみたい」
「管理人さんかしら」
「多分」
豪は手帳を覗き込んだ。
夜間騒音。
複数名。
津森という男が住んでいたアパートでは、何か問題があったらしい。
だが、それだけなら弁護士の仕事とは関係がない。
父親は、どうしてそんなことまで書き残したのだろう。
「それにしても、細かいこと書いてあるね」
豪が言うと、貴美子は少し笑った。
「そういう人だったのよ。仕事に関係ないようなことでも、気になると書き留めておくの」
「忘れっぽかったの?」
「逆ね。忘れないために書くって言ってたわ」
貴美子は手帳を豪へ戻した。
「あとで私も確認したいから、そこに置いておいて」
「うん」
豪はページをもう一度見た。
そのとき、下の端に小さな文字があることに気づいた。
『本人より折返し』
さらに、その下。
『勤務先にて受取希望』
豪は目を細めた。
「母さん、この人、父さんに連絡してきたみたいだよ」
「そうね」
「勤務先に持ってきてほしいって」
貴美子は頷いた。
「そう書いてあるわね」
豪は指先で日付を確かめた。
九月。
父親が亡くなった月だった。
いや。
豪はもう一度見た。
日付は、もっと具体的に書かれている。
手帳の欄には、九月十四日とあった。
豪は紙から目を離し、母親を見た。
「母さん」
「何?」
「父さんが亡くなったのって、九月十四日だったよね」
貴美子の手が止まった。
開けかけていた封筒が、指の間で少し曲がる。
「ええ」
短い返事だった。
豪は手帳へ視線を戻した。
九月十四日。
津森氏。
旧居訪問。
連絡取次ぎ。
勤務先にて受取希望。
それぞれは、ごく普通の仕事の記録に見える。
依頼人の忘れ物を返すため、以前住んでいた場所へ行く。
引っ越していたから、管理人を通じて連絡を取る。
本人から折り返しがあり、勤務先で受け取ることになった。
何も不思議なことはない。
少なくとも、そこまでなら。
「父さん、この日に津森さんに会ったの?」
豪が尋ねた。
貴美子は答えなかった。
豪は顔を上げる。
母親は手帳を見つめていた。
「母さん?」
「分からないわ」
「分からない?」
「お父さんがその日に誰と会ったのか、全部知っているわけじゃないもの」
貴美子は老眼鏡をケースへしまった。
少し乱れた新聞紙の端を揃える。
「ただ、あの日、仕事の用事で出かけたことは覚えてる」
豪は手帳を持ったまま、動けなかった。
父親が亡くなった日。
あの日のことは、今でも断片的に覚えている。
学校から帰宅すると、家の中が妙に静かだった。
母親が電話で誰かと話していた。
玄関には知らない大人の靴が並び、居間では何人もの人が低い声で話していた。
豪が何があったのか尋ねても、すぐには誰も答えてくれなかった。
その日の夕方、父親は帰ってこなかった。
そして二度と、家へ戻ることはなかった。
「父さん、その人に会いに行ってたの?」
豪はもう一度尋ねた。
貴美子は小さく息を吐いた。
「少なくとも、会うつもりではいたんでしょうね」
「でも、父さんが亡くなったのって」
豪は途中で言葉を止めた。
雑居ビルからの転落。
自殺ではないかという報道。
仕事で何か問題があったのではないかという噂。
当時は、周囲の大人たちが何を話しているのかよく分からなかった。
ただ、母親が新聞を読むのをやめたことだけは覚えている。
ある日から、家に新聞が届かなくなった。
それまで父親が毎朝広げていたものだった。
「母さんは、あのとき何て聞いてたの?」
貴美子は豪を見た。
「何について?」
「父さんが、どうしてあのビルにいたのか」
貴美子の顔から、少しずつ表情が消えていった。
豪は自分の聞き方が悪かったかもしれないと思った。
だが、もう口に出してしまった言葉は戻せない。
貴美子はしばらく黙っていた。
窓の外で風が吹き、庭木の葉が細かく揺れた。
その影が畳の上を移動し、母親の足元まで伸びてくる。
「仕事の用事だったんだろうって」
やがて貴美子が答えた。
「そう聞いていたわ」
「誰から?」
「警察の人からも、そういう話はあったと思う。でも、詳しいことは分からなかったのよ」
豪は手帳を見た。
父親は津森という男と、仕事の用事で会う予定だった。
そして、その日に亡くなった。
「その津森さんって人は、何か聞かれてないの?」
貴美子は首を横に振った。
「私は知らないわ。警察が誰に何を聞いたのか、全部教えてもらえたわけじゃないもの」
「そっか」
豪は頷いた。
頭の中で何かを整理しようとしたが、うまくまとまらなかった。
偶然かもしれない。
むしろ、偶然だと考える方が自然だった。
弁護士だった父親が、仕事の関係者へ連絡することは珍しくない。
その日に別の場所で亡くなったからといって、二つの出来事が関係しているとは限らない。
そう考えれば済む話だった。
それでも、手帳から目が離せなかった。
「豪」
母親が呼んだ。
「何?」
「その手帳は、私が預かっておくわね」
豪は顔を上げた。
「うん」
貴美子は手帳へ手を伸ばした。
豪が渡すと、母親は閉じようとして、途中で動きを止めた。
九月十四日のページ。
そこを見つめている。
「こんなこと、書いてあったのね」
貴美子が小さく言った。
豪は何も答えなかった。
「十五年近く、気づかなかったわ」
その声に責めるような響きはなかった。
ただ、何かを確かめるような言い方だった。
豪は母親の横顔を見た。
貴美子は、もう泣いていなかった。
父親が亡くなってしばらくの間、母親はよく一人で泣いていた。
豪が廊下を通ると、居間の扉の向こうから鼻をすする音が聞こえたこともある。
今は、そんなことはほとんどない。
その代わり、父親の話になると、ときどきこういう顔をする。
何か遠くのものを見ているようで、でも目の前にあるものから視線を外せないような顔だった。
「母さん」
豪は静かに声をかけた。
「別に、今すぐ何かしようってわけじゃないから」
貴美子は顔を上げた。
「分かってるわよ」
「ちょっと気になっただけ」
「ええ」
貴美子は手帳を閉じ、封筒の上へ置いた。
「でも、気をつけてね」
豪は首を傾げた。
「何を?」
「昔のことよ」
「昔のこと?」
「何でもかんでも、知らなくていいことまで知ろうとしなくていいの」
貴美子はそう言うと、空になった湯飲みを片づけ始めた。
豪はその後ろ姿を眺めた。
母親は何かを知っているのだろうか。
そう考えかけて、すぐに首を振った。
違う。
父親の死について、母親が今でも思い出したくないだけなのだろう。
それは当然だった。
父親が亡くなってから、この家は大きく変わった。
母親も変わった。
豪自身も、あのころから何かが変わってしまった。
それでも今は、それなりに普通の生活ができている。
わざわざ昔のことを掘り返す必要はない。
そう思った。
本当に、そう思った。
午後二時を過ぎたころ、片づけは終わった。
貴美子は古い資料のうち、仕事に関係するものを別に保管し直すことにした。
豪は空になった段ボールを畳み、玄関脇へ運んだ。
今日は思ったより早く終わった。
「助かったわ。ありがとう」
貴美子が言った。
「どういたしまして」
「これで少しすっきりしたわね」
「そうだね」
豪は居間を見回した。
確かに、以前よりも部屋が広く感じられる。
床に積まれていた箱がなくなり、古い書類も片づけられた。
しかし、何となく落ち着かなかった。
箱の中身を整理しただけなのに、別のものが増えてしまったような気がする。
「お母さん、買い物に行こうかしら」
貴美子が立ち上がった。
「何かいるものある?」
「いや、大丈夫」
「夕飯、食べていかない?」
「今日は帰るよ。明日仕事だし」
「そう」
貴美子は少し残念そうにしたが、無理には引き止めなかった。
玄関まで見送りに出てきた母親に、豪は手を振った。
「また来るよ」
「ええ。無理しないでね」
「母さんもね」
靴を履いて外へ出る。
午後の空気は朝より暖かくなっていた。
近所の家から洗濯物の柔軟剤の匂いが漂い、道路の向こうでは子どもたちが自転車で走っている。街路樹の葉が日差しを受けて透け、地面には細かな影がいくつも重なっていた。
豪は駅へ向かって歩き出した。
途中でスマートフォンを取り出す。
何となく検索画面を開いた。
入力欄に、父親の名前を打ち込む。
畑中昌彦。
検索結果には、同姓同名の人物や、古い法律相談会の案内などが並んだ。
少し下へ進むと、かつてのニュース記事を引用したページが見つかった。
十五年前、弁護士が死亡したという記事だった。
豪は画面を開いた。
そこには、父親の名前が書かれていた。
当時四十五歳。
市内の雑居ビルで死亡。
警察が詳しい経緯を調べている、という内容だった。
短い記事だった。
何度も見た記憶のある言葉が、画面の中に並んでいる。
豪は指を止めた。
記事の下には、父親の仕事についての簡単な説明があった。
地元で法律相談に取り組み、前年には傷害事件の被告人を弁護して無罪判決を得ていた、とある。
前年。
二〇一〇年。
豪はそこで、母親の言葉を思い出した。
津森利明。
公園での傷害事件。
無罪判決。
豪は検索欄へ名前を入力した。
今度は、古い裁判の記事がいくつか表示された。
画面を開くと、事件の概要が短く書かれている。
公園で男性が殴られ、頭部に重傷を負った。
被告人は正当防衛を主張。
裁判所は無罪を言い渡した。
豪は記事を最後まで読んだ。
父親の名前が、そこにも載っていた。
弁護人として。
当時、ニュースで何度も取り上げられた裁判だったらしい。
豪はその記事を見つめながら、子どものころの父親を思い出した。
帰宅すると、母親が少し嬉しそうにしていた日。
父親が珍しく早く帰ってきて、家族三人で食事をした日。
自分が父親へ「すごいね」と言うと、父親は笑って首を振った。
「お父さんだけの力じゃないよ」
そんなふうに言っていた気がする。
豪はスマートフォンを下ろした。
いい仕事だったのだろう。
無実の人間を助けることができた。
父親はきっと、そう思っていたはずだ。
だからこそ、裁判が終わってからも、その人の忘れ物を返そうとしたのかもしれない。
それなら、何もおかしなことはない。
豪は歩き出した。
だが、数歩進んだところで足を止めた。
頭の中に、手帳の文字が浮かんでいる。
九月十四日。
津森氏。
勤務先にて受取希望。
父親が亡くなった日だ。
どうして今まで、そんなことを知らなかったのだろう。
いや、知る必要がなかっただけかもしれない。
父親の死について考えない方が、普通に暮らせる。
母親も、そう望んでいた。
豪自身も、その方がいいと思っていた。
それなのに、今になって気になって仕方がない。
豪は再びスマートフォンを開いた。
父親の記事へ戻る。
短い文章の中に書かれた、死亡したビルの所在地を確認する。
そして、津森の名前をもう一度見た。
何かがつながっているのかもしれない。
そう考えてしまった瞬間、豪は少しだけ嫌な気がした。
自分は今、余計なことをしようとしている。
誰かに頼まれたわけでもない。
母親からは、昔のことを掘り返さなくていいと言われたばかりだ。
それでも。
豪はスマートフォンを握り直した。
父親が最後に会おうとしていた人間。
その男は、今どこで何をしているのだろう。
そして父親は、なぜその男の勤務先へ向かったのだろう。
ただ、忘れ物を返すためだけに。
豪は立ち止まったまま、しばらく画面を見つめていた。
やがて検索欄を開き、古い手帳に書かれていた名前を入力した。
津森利明。
その文字を打ち終えてから、豪は少し考えた。
父親の死について、十五年近く知ろうとしなかったことがある。
今さら知ったところで、何かが変わるわけではない。
父親が戻ってくることもない。
それでも、もし。
あの日、父親が何をしようとしていたのか分かるのなら。
豪は検索ボタンを押した。
画面が切り替わる。
古い記事や、同姓同名の人物に関する情報が並び始める。
豪はゆっくり指を動かし、一つずつ確認していった。
春の午後の日差しが、背後から長い影を伸ばしている。
通り過ぎる人たちは、誰も豪を気に留めなかった。
ありふれた休日の午後。
二十八歳の会社員が、亡くなった父親の昔の依頼人について調べている。
ただ、それだけのことだった。
豪は自分が今何を始めようとしているのか、まだ分かっていなかった。
ましてや、その行動がこれまで守ってきた日常を大きく変えることになるなど、考えもしなかった。
ただ一つ、気になることがあった。
父親は、あの日。
本当に忘れ物を返すためだけに、津森利明という男へ会いに行ったのだろうか。




