第7話 覚えていた女
「おはよう。豪」
月曜日の朝、西浦亜紀は何事もなかったように声をかけてきた。
豪が席へ向かう途中、給湯室から出てきたところだった。
片手にはマグカップ。もう片方には小さな菓子の袋を持っている。
「おはよう。朝からお菓子?」
「まだ食べてないよ。午後の分」
「なるほど」
「何、その顔。取らないでよ」
「俺、人のものを何でも食べると思われてる?」
「木戸さんのお菓子、勝手に食べたでしょ」
「ちゃんと弁償したじゃん」
「あれ、木戸さんすごい喜んでたよね。また豪に盗まれたら高級なお菓子がもらえるとか言ってた」
「それは困るな」
「困るのは木戸さんのお菓子でしょ」
亜紀は笑った。
いつもの亜紀だった。
会社に入ってから、二人はこうした軽口をよく交わしている。
同じ中学校へ通っていたとはいえ、当時は特別親しかったわけではない。それが同じ年に同じ会社へ入り、入社時の研修から顔を合わせるようになって、今では気軽に話せる同期の一人になっていた。
「そういえばさ」
亜紀が声を落とした。
豪は足を止める。
「土曜日のメッセージ、何だったの?」
先に尋ねたのは豪だった。
亜紀は少しだけ目を伏せた。
「ごめん。急に変なこと聞いちゃったね」
「別にいいけど」
「この前、中学の同級生と会ってさ。昔の話になったんだ」
「桑野の?」
「うん。あのころのこと、いろいろ」
亜紀はマグカップを持ち直した。
「私さ、昔のことって、もうほとんど忘れたつもりだったんだよね」
「十五年も前だしな」
「そう。でも、名前聞くと急に思い出すことってあるじゃん」
豪は頷いた。
亜紀は何か言いかけたが、廊下の向こうから同僚が呼ぶ声がした。
「西浦さん、昨日の資料ちょっと確認してもらえる?」
「あ、はーい!」
亜紀はそちらへ返事をしてから、豪へ向き直った。
「またあとでね」
「うん」
彼女は足早に歩いていった。
豪はその背中を見送ったあと、自分の席へ向かった。
朝の営業部には、まだ人の少ない時間特有の静けさが残っている。エアコンから流れる空気は少し冷たく、窓際には曇り空を通した柔らかな光が落ちていた。給湯室から漂うコーヒーの匂いが、パソコンの起動音や椅子を動かす音の間をゆっくり流れている。
豪は鞄を机の下へ置いた。
昔のこと。
その言葉を聞くと、どうしてもあの歓迎会を思い出す。
今の会社へ入ったばかりのころだった。
あの日も、亜紀はこんなふうに何かを言いかけていた。
六年前の四月。
入社して間もないころ、会社では新入社員十人の歓迎会が開かれた。
会場は駅近くの居酒屋だった。
二階にある座敷席をほとんど貸し切りにして、営業部や総務部の社員たちが集まっていた。
豪は上司の話に相槌を打ちながら、隣の同期と適当に冗談を言っていた。
学生のころから初対面の人間と話すことには困らなかったし、相手が何を聞いてほしがっているのかも、ある程度は分かる。
営業職に配属されたのは、自分でもそれほど意外ではなかった。
「畑中、お前は営業向いてそうだな」
課長が笑いながら言った。
「そうですか?」
「うん。話しやすいし、ちゃんと人の顔見て話せるし」
「ありがとうございます」
「ただ、最初から飛ばしすぎるなよ。長く続ける方が大事だから」
豪は頷いた。
その言葉には、素直に賛成できた。
ほどほどに働き、ほどほどに評価される。
特別な成功も失敗もなく、普通に会社へ通って給料をもらう。
それで十分だった。
一次会が終わるころには、すっかり周囲と打ち解けていた。
「畑中くんって、どこの中学だったの?」
隣へ移ってきた女性社員が尋ねた。
豪が学校名を答えると、少し離れたところにいた亜紀が顔を上げた。
「えっ、そこ?」
「そうだけど」
「私も!」
豪は亜紀を見た。
名前は聞いていた。
西浦亜紀。
入社式のときに顔を見た瞬間、どこかで会ったことがあると思ったが、まさか同じ中学校だったとは。
「もしかして、畑中豪?」
亜紀が尋ねる。
「そうだけど」
「やっぱり! 私のこと覚えてない?」
豪は少し考えた。
肩にかかる髪。
明るい目元。
笑うと頬が少し上がるところ。
「あっ、西浦?」
「そう!」
亜紀は嬉しそうに笑った。
「ひどいなあ。もっと早く気づいてよ」
「いや、何年ぶりだと思ってんの」
「確かに。豪、ちょっと雰囲気変わったね」
「亜紀もね」
「どの辺?」
「大人っぽくなった」
「それ、適当に言ってるでしょ」
豪は笑った。
ほかの同期たちも、中学時代の知り合いが偶然同じ会社へ入ったことを面白がった。
しかし、豪の方は少しだけ別のことが気になっていた。
西浦亜紀。
その名前には、覚えている出来事があった。
できれば、思い出さずに済ませたいことだった。
歓迎会が二次会へ移り、人数が半分ほどになったころ、豪は店の外へ出た。
酔いを醒まそうと思ったわけではない。
単純に、店内の空気が少し暑かった。
四月の夜は思ったより冷えていた。
店の入口にある小さな看板が風に揺れ、通りには雨上がりのアスファルトの匂いが残っている。街灯の光を受けた歩道がところどころ濡れていて、通り過ぎる車のタイヤが水を踏むたびに細かな音を立てた。
豪は自動販売機で水を買った。
ペットボトルの蓋を開けたところで、背後から声をかけられた。
「豪」
亜紀だった。
「何、帰るの?」
「ううん。ちょっと外の空気吸いに」
「そっか」
亜紀は隣へ立った。
しばらく二人で通りを眺める。
店内からは、まだ誰かの大きな笑い声が聞こえていた。
「懐かしいね、中学」
亜紀が言った。
「そうだね」
「豪って、昔もっと目立ってなかった?」
「そう?」
「うん。小学校のころから知ってる子も多かったし、誰とでも仲よかったじゃん」
豪は水を飲んだ。
「今もそんなに変わってないと思うけど」
「そうかな」
亜紀は少し首を傾げた。
「でも、変わってないところもあるか」
「どこ?」
「笑い方とか」
豪はペットボトルを下ろした。
亜紀は店の看板を見上げている。
酔っているようには見えなかった。
ただ、何かを言おうか迷っているようだった。
「ねえ、豪」
「何?」
「中学のときのリコーダーの事件って、覚えてる?」
豪は亜紀を見た。
風が吹き、店の入口に掛かっていた暖簾が少し持ち上がった。
「桑野の?」
「うん」
「あったね」
「私のリコーダーだったんだけど」
「そうだったね」
亜紀は豪の顔を見た。
その目は、さっきまでと違って笑っていなかった。
「私さ、あのとき見てたんだ」
豪の手の中で、ペットボトルがわずかにへこんだ。
「何を?」
亜紀は少しだけ唇を結んだ。
それから、ゆっくり言った。
「豪が、桑野の机に入れるところ」
通りの向こうで信号が変わった。
車が一台、二台と走り出す。
豪は返事をしなかった。
亜紀も黙っていた。
しばらくして、豪はようやく口を開いた。
「見てたんだ」
「うん」
「何で、言わなかったの?」
亜紀は視線を落とした。
「桑野のこと、嫌いだったから」
あまりにも率直な答えだった。
豪は少し驚いた。
亜紀は苦笑する。
「私にもいろいろ言ってきたし、圭太くんにもひどいことしてたでしょ。だから、ざまあみろって思っちゃったんだよね」
「そうなんだ」
「うん」
亜紀は両手をポケットへ入れた。
「でも、豪がやったのは知ってた。桑野はたぶん、本当に何も知らなかったんだと思う」
豪はペットボトルのラベルを親指で擦った。
透明なフィルムの端が少しめくれた。
「それ、今でも誰かに言ってる?」
「言ってないよ」
「そっか」
「何で?」
「いや、別に」
亜紀はしばらく豪を見ていたが、やがて小さく笑った。
「豪ってさ、昔からよく分かんないことするよね」
豪も笑った。
「そうかな」
「うん。でも、たぶん悪い人じゃないんだろうなって思ってた」
その言葉が、妙に引っかかった。
豪は何も言わなかった。
亜紀は店の方へ振り返る。
「戻ろっか」
「うん」
二人は並んで店内へ戻った。
豪は歩きながら考えていた。
見られていた。
あのとき、誰かの気配がしたのは気のせいではなかった。
しかも、その相手が亜紀だったとは。
不思議なことに、強い焦りは湧いてこなかった。
亜紀は十五年近く黙っていた。
今も誰かに話すつもりはないらしい。
それに、豪自身にとってはもう終わった出来事だった。
圭太を助けた。
桑野を困らせた。
良いことと悪いことの釣り合いは取れている。
ただ、亜紀が自分の行動を覚えていたという事実だけが、少し気になった。
二次会が終わったのは、午後十一時を過ぎたころだった。
豪は駅へ向かって歩き始めた。
亜紀も同じ方向へ帰るらしい。
しかし、二人が並んで歩いているところをほかの社員に見られれば、翌日から余計な噂が立つかもしれない。
豪は亜紀より少し遅れて店を出た。
五十メートルほど先を、亜紀が歩いている。
スマートフォンを見ながら、時々立ち止まっては周囲を見回していた。
豪は反対側の歩道をゆっくり歩いた。
駅へ続く大通りはまだ明るかったが、一本横へ入ると急に人通りが少なくなる。
古い公園の横を通る道には、街灯が等間隔に立っていた。湿った土と草の匂いが風に混じり、木々の奥から虫の声が聞こえてくる。遊具の金属部分には雨粒が残っているらしく、ときどき車の光を受けて鈍く光った。
そのときだった。
前方で、亜紀の足が止まった。
豪は顔を上げた。
公園の入口付近に、男が二人立っている。
一人は背が高く、もう一人は肩幅が広い。
二人とも酒を飲んでいるのか、足元が少しふらついているように見えた。
亜紀は男たちを避けて通ろうとした。
しかし、背の高い男が横へ動いた。
何か話しかけている。
亜紀は首を振った。
豪は歩く速度を緩めた。
遠くからでは、会話の内容までは聞こえない。
ただ、亜紀が相手と話したがっていないことは分かった。
背の高い男が、さらに一歩近づく。
亜紀は後ろへ下がった。
もう一人の男が横から回り込む。
その瞬間、亜紀の腕が強く引かれた。
「やめて!」
声が響いた。
豪の足が止まった。
亜紀は男の手を振りほどこうとしていた。
だが、男は離さない。
もう一人が亜紀の背中へ手を回し、公園の方へ押そうとしている。
豪は駆け出した。
考えるより先に身体が動いていた。
「ちょっと!」
男たちが振り向く。
「何してるんですか」
豪は声を張った。
亜紀がこちらを見た。
「豪!」
男の一人が舌打ちをした。
「何だよ、お前」
「嫌がってるじゃないですか。離してあげてください」
「関係ねえだろ」
男は亜紀の腕をつかんだままだった。
豪は一歩近づいた。
「知り合いなんで」
「だったら何だよ」
男の声が荒くなる。
豪は亜紀を見た。
彼女の顔色は悪く、何度も首を振っている。
「亜紀、こっち来て」
豪が手を伸ばす。
亜紀がこちらへ動こうとした。
その瞬間、背の高い男が豪の肩を強く押した。
豪は後ろへよろめいた。
「邪魔すんなって言ってんだろ!」
男の腕が振り上がる。
顔へ向かってくる拳が見えた。
豪は反射的に身を引いた。
拳が頬の横を通り過ぎる。
次の瞬間、豪の右手が前へ出ていた。
男の顔に拳が当たる。
鈍い感触だった。
男の頭が横へ振れ、足元が崩れる。
男は一歩、二歩と後ろへ下がったあと、地面へ倒れ込んだ。
豪自身も驚いていた。
殴るつもりで構えていたわけではない。
ただ、目の前へ迫ってきたものを避けようとして、身体が勝手に動いた。
「お前!」
もう一人の男が叫んだ。
豪は振り向こうとした。
そのとき、視界の端で黒いものが動いた。
頭の横へ、硬い衝撃が走った。
何かが割れたような音がした。
足元の感覚が急に遠のく。
豪は倒れないように踏ん張ったが、膝が思うように動かなかった。
視界が大きく傾く。
公園の街灯が、妙に長い光の線になって見えた。
「豪!」
亜紀の声が聞こえた。
豪は手を伸ばした。
しかし、何もつかめなかった。
地面へ片膝をつく。
濡れた土の匂いが近づいた。
頭の奥がじんじんと熱く、耳の中で低い音が鳴っている。
何かを考えようとしても、うまくまとまらない。
ただ、亜紀がまだ男につかまっていることだけは分かっていた。
立ち上がらなければ。
そう思って地面へ手をついた。
そのとき、車のブレーキ音が響いた。
「亜紀!」
低い声だった。
豪は顔を上げた。
公園の入口へ、一人の男が駆け込んでくる。
大柄な男だった。
黒い上着を着て、髪を短く刈っている。
その男は亜紀の腕をつかんでいた相手へ近づき、間に割って入った。
「離せ!」
怒鳴り声が響く。
男は亜紀を自分の後ろへ下がらせた。
相手が何か言い返す。
だが、大柄な男は手を出さなかった。
ただ、相手の動きを見ながら、低い声で言った。
「もう警察呼んでる。逃げんなよ」
少し離れたところから女性が駆け寄ってきた。
「亜紀、大丈夫?」
「史絵さん!」
亜紀がその女性へしがみついた。
豪はぼんやりした頭で、その光景を眺めていた。
そうか。
誰か、迎えに来たのか。
亜紀が店を出てから何度もスマートフォンを見ていた理由が、ようやく分かった。
だが、そこまで考えたところで視界が揺れた。
「おい、兄ちゃん!」
大柄な男がこちらへ近づいてくる。
「大丈夫か?」
豪は返事をしようとした。
「たぶん」
口から出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
男は豪の顔を覗き込んだ。
「たぶんじゃねえだろ。頭やられてんじゃねえか」
「ちょっと、殴られたみたいで」
「見りゃ分かるよ!」
男が近くの女性へ声をかける。
「史絵、救急車も頼む!」
「もう呼んだ!」
女性はスマートフォンを持ったまま答えた。
亜紀は豪のそばへしゃがみ込んだ。
「豪、しっかりして。大丈夫?」
「うん」
「ごめん、私のせいで」
「いや」
豪は首を振ろうとしたが、すぐにやめた。
動かすと、頭の奥が重く響く。
「亜紀が、無事なら」
亜紀は唇を噛んだ。
何か言おうとしていたが、声にならなかった。
やがて遠くからサイレンが聞こえてきた。
その音が近づくにつれ、豪は少しずつ目を閉じたくなった。
しかし、大柄な男が何度も声をかけてくる。
「おい、寝るなよ。名前は?」
「畑中、豪です」
「畑中な。俺は西浦鉄平。亜紀の兄貴だ」
豪は薄く目を開けた。
「お兄さん?」
「そうだよ。妹が世話になったな」
鉄平は豪の肩へ手を置いた。
大きくて、少しごつごつした手だった。
「ありがとな。お前が止めてくれなかったら、危なかった」
豪は何か返事をしようとした。
しかし、うまく言葉が出てこなかった。
ありがとう。
その言葉だけが、耳の奥に残った。
病院で診察を受けた結果、豪は頭部を強く打っていたものの、緊急の手術を要するような損傷は確認されなかった。
医師からは、しばらく安静にすることと、頭痛や吐き気などの症状が強まった場合にはすぐ受診するよう説明された。
病院の待合室には、亜紀と鉄平、それから史絵が残っていた。
「本当にすみませんでした」
亜紀が頭を下げる。
豪は慌てて手を振った。
「いや、もういいって。亜紀は何も悪くないんだから」
「でも、豪が来てくれなかったら」
「たまたま通りかかっただけだよ」
「たまたまじゃないでしょ。助けに来てくれたんじゃん」
豪は少し笑った。
鉄平が隣から口を挟む。
「お前、思ったより度胸あるな」
「そうですかね」
「普通、あんなところに突っ込んでいかねえぞ」
「でも、亜紀が」
「そこは妹が悪いとは言わねえけど、無茶はすんなよ。お前まで大怪我したら意味ねえんだから」
豪は頷いた。
鉄平の言い方は荒いが、言っていることはもっともだった。
隣に座っていた史絵が、静かに声をかけた。
「痛み、まだある?」
「少し。でも、だいぶ落ち着きました」
「無理しないでね。鉄平、こういうときすぐ大きな声出すから、余計に頭痛くなりそう」
「俺のせいかよ」
「ちょっと声大きい」
史絵がそう言うと、鉄平は口を閉じた。
亜紀が小さく笑った。
豪もつられて笑う。
鉄平は不満そうな顔をしたが、すぐに自分でも笑い始めた。
史絵は鉄平より年上なのだと、あとになって聞いた。
五歳上らしい。
落ち着いた話し方をする女性で、鉄平が少し熱くなったときには、自然とその場を和らげる。
二人はずいぶん違うタイプに見えたが、並んでいると妙にしっくりきた。
豪はその夜、鉄平と連絡先を交換した。
後日改めて礼を伝えるつもりだったが、むしろ鉄平の方から食事に誘われるようになり、やがて何度も顔を合わせる仲になった。
ただ、帰宅してからの豪には、もう一つ大きな問題が残っていた。
亜紀を助けた。
自分が先に手を出したわけではないとはいえ、男を殴った。
そして、その後で鉄平たちに助けられた。
何をどう考えれば、釣り合うのだろう。
豪はベッドに横になったまま、しばらく天井を見つめていた。
亜紀を助けたのは間違いなく良いことだ。
しかし、相手を殴ったことはどうだろう。
自分を守るための行動だったとしても、人を傷つけたことには変わりない。
けれど、殴らなければ亜紀を助けられなかったかもしれない。
悪いことなのか。
良いことなのか。
両方なのか。
頭の痛みとは別の理由で、眠れなくなりそうだった。
翌日、豪は結局、あの夜のことを一つの大きな善行として考えることにした。
自分がしたことは、少なくとも亜紀を守ろうとした行為だったからだ。
それに釣り合う悪行を、どこかで考えなければならない。
だが、相手を怪我させるようなことはしたくなかった。
豪はしばらく、いつもより重いものを抱えているような気分で過ごした。
それでも数日後には、自分なりの方法で小さな悪行を重ね、ようやく胸の奥を落ち着かせた。
鉄平と会うようになったのも、その少し後だった。
現在へ戻ると、豪は会社の休憩スペースにいた。
昼休み。
窓際の席で、亜紀が紙コップのコーヒーを飲んでいる。
豪は向かいへ座った。
「さっきの話だけどさ」
亜紀が顔を上げる。
「桑野の?」
「うん。何かあったの?」
亜紀は紙コップをテーブルへ置いた。
「別に大きなことじゃないんだけど、同級生から桑野の近況を聞いたんだ」
「へえ」
「今も地元にいるみたい」
「そうなんだ」
豪は曖昧に頷いた。
亜紀は窓の外へ視線を向けた。
「私さ、昔あのリコーダーのこと黙ってたの、ちょっとずるかったなって思うことがあるんだよね」
豪は彼女を見た。
亜紀は笑っていなかった。
「桑野が嫌いだったのは本当だし、あのときは困ればいいと思ってた。でも、やってないことで疑われたんだよね」
「まあ、そうだけど」
「豪は、あのことどう思ってる?」
豪は少し考えた。
リコーダーを隠した。
桑野が疑われた。
圭太を助けたことと、桑野を困らせたこと。
あのころの自分にとっては、どちらも必要な行為だった。
だが、それをそのまま説明したところで、亜紀が理解できるとは思えない。
「悪いことしたとは思ってるよ」
豪は答えた。
亜紀は頷いた。
「そっか」
「でも、昔のことだし」
「うん」
亜紀はそれ以上、何も言わなかった。
豪は少し気になった。
「亜紀は、まだ怒ってる?」
「私が?」
「うん」
亜紀はしばらく考えた。
「怒ってるっていうのとは違うかな」
「じゃあ、何?」
「分かんない」
亜紀は苦笑した。
「でもさ、豪って昔から、良いことも悪いことも普通の顔でするよね」
豪は笑った。
「普通の顔って、どんな顔?」
「今みたいな顔」
「ひどいな」
「褒めてないもん」
亜紀はそう言って笑った。
それから、少しだけ真面目な声になる。
「ただ、あの夜に助けてくれたことは、今でも感謝してるよ」
豪は一瞬、返事に困った。
「ああ、うん」
「本当に。あのとき豪が来てくれなかったら、どうなってたか分からないし」
「鉄平さんたちも来たじゃん」
「でも、最初に来てくれたのは豪だったから」
亜紀はそう言ってコーヒーを飲んだ。
豪は窓の外へ目を向けた。
雲の切れ間から差し込んだ光が、道路の向こうの建物を白く照らしている。
亜紀は、自分のした悪いことを知っている。
そして、良いことをした姿も知っている。
同じ人間が両方のことをするのを見て、それでもこうして普通に話してくれている。
豪には、それが少し不思議だった。
もっとも、考えてみれば特別なことでもない。
誰だって良いところと悪いところの両方を持っている。
豪はその割合を、少し気にしすぎるだけなのだろう。
「豪」
亜紀が呼んだ。
「何?」
「また今度、鉄平たちとご飯行こうよ」
「いいね」
「史絵さんも呼んでさ」
「久しぶりだね」
「兄貴、豪のこと気に入ってるから。たまには付き合ってあげてよ」
「鉄平さん、いつも声でかいからなあ」
「それ、本人に言って」
二人は笑った。
昼休みが終わり、豪は自分の席へ戻った。
午後の仕事を始めようとしたところで、スマートフォンが震えた。
母親からのメッセージだった。
『この前、奥に残した箱のことなんだけど』
豪は画面を開いた。
続けて、もう一件届く。
『やっぱり、今度来たときに下ろしてもらえる?』
豪はすぐに返事を打った。
『いいよ。今週でも大丈夫』
しばらくして、貴美子から返信が届いた。
『ありがとう。お父さんの仕事のものだから、念のため一緒に確認したくて』
豪はスマートフォンを伏せた。
父親の仕事のもの。
実家の二階に残っていた、あの段ボールだ。
今さら何かが出てくるとも思えない。
ただ、母親が自分から整理しようと言い出したことは、少し気になった。
豪はパソコンの画面へ目を戻した。
仕事はまだ残っている。
午後には取引先へ電話もしなければならない。
それでも、ふとした拍子に父親の名前が頭へ浮かんだ。
畑中昌彦。
生前、何人もの人を助けたと聞いている。
そして、ある日突然いなくなった。
豪はその理由を、もう知ろうとは思っていなかった。
少なくとも、今朝までは。




