第6話 机の中
亜紀から返事が届いたのは、公民館の片づけが終わる少し前だった。
『この前、中学の同級生と会ったときに名前が出たんだ。ちょっと懐かしくなって』
豪は画面を見つめた。
続けて、もう一件。
『あのリコーダーのこと、覚えてる?』
窓の外では、午後の日差しが道路の向こう側へ移り始めていた。
公民館の一室には畳んだ段ボールが壁際に積み上げられ、寄付された衣類を詰めた袋が整然と並んでいる。開け放した窓から草の匂いを含んだ風が入り、作業で少し汗ばんだ首筋を冷やした。
「豪、そっち終わった?」
圭太が声をかけてきた。
「うん。あとはこれだけ」
豪はスマートフォンを伏せ、最後の段ボールへガムテープを貼った。
粘着面を指で押さえると、乾いた紙の表面に小さな皺が寄った。
「今日も助かったよ。ありがとな」
「その台詞、さっきも聞いたけど」
「何回言ってもいいだろ。減るもんじゃないし」
豪は笑った。
圭太は本当にそう思っているのだろう。
感謝することに遠慮がない。
誰かを助けることにも、助けられることにも、それほど難しい理由を求めない。
豪には少し真似できなかった。
「じゃあ俺、これ運んでくるわ」
圭太が段ボールを抱えて出ていく。
豪は改めてスマートフォンを手に取った。
リコーダー。
たった五文字なのに、ほかの言葉よりずいぶん目立って見えた。
『覚えてるよ』
そこまで入力して指を止める。
別に嘘をつく必要はない。
あの出来事を忘れている方が、かえって不自然だろう。
豪は続けた。
『急にどうしたの?』
送信してから画面を消す。
胸元へスマートフォンをしまおうとして、もう一度だけ開いた。
既読はついていない。
豪は小さく息を吐いた。
十五年近く前の話だ。
何を今さら。
そう思う一方で、もう随分長いこと触れていなかった記憶が、皮膚の下でゆっくり動き始めたような気がした。
あのころ、教室にはいつも誰かの声があった。
笑っている声。
ふざけて騒ぐ声。
そして、ときどき、笑われている人間の声。
父親が亡くなった年の十一月。
矢作圭太の体操着を見つけて返した日、豪は自分の部屋で一つの考えにたどり着いた。
良いことをしたのなら、同じくらい悪いことをすればいい。
そうすれば、特別な善人にも悪人にもならずに済む。
あまりにも単純な思いつきだったが、当時の豪には、それ以外の方法が思いつかなかった。
ただ、問題があった。
どれくらいの悪いことをすれば、圭太が泣くほど喜んだ出来事と釣り合うのだろう。
筆箱を隠す。
上履きに小石を入れる。
教科書へ落書きする。
考えてみたが、どれも違う気がした。
誰かに軽く嫌な思いをさせるだけでは、あのとき圭太が流した涙と釣り合わない。
それなら、もう少し大きなことをすればいい。
豪は机に頬杖をつき、誰が困ればちょうどいいのかを考えた。
最初に浮かんだのは、桑野琢磨だった。
桑野は圭太の体操着を隠した本人だ。
いつも大きな声で笑い、人の失敗を面白がる。教師が見ていないところで友人の持ち物を動かしたり、気に入らない相手に妙なあだ名をつけたりすることもあった。
豪も以前は、桑野と普通に話していた。
小学校では学級委員を任されることが多く、誰とでも気軽に付き合っていた豪にとって、少しくらい乱暴な男子も特別な存在ではなかった。
しかし、父親が亡くなってからは、そういう付き合いが面倒になっていた。
桑野のような人間と距離を置いても、別に困らない。
そう思っていた。
翌日の昼休み、豪は教室の後ろで桑野の声を聞いた。
「西浦、昨日の音楽どうだった?」
窓際にいた亜紀が顔を上げる。
「何が?」
「リコーダー。変な音出してなかった?」
桑野の隣にいた男子が笑った。
「お前、人の演奏聞いてんじゃねえよ」
「いや、隣の列まで聞こえたんだって」
「聞こえたなら耳塞いどけば?」
亜紀はそう返して、机へ向き直った。
桑野が何か言い返そうとしたが、亜紀は相手にしない。
しばらくして、桑野たちは別の話題へ移った。
豪はそのやり取りを近くで聞いていた。
西浦亜紀は、クラスでも目立つ女子だった。
明るく、顔立ちも整っていて、男子にも女子にも友人が多い。気の強いところもあるが、それが嫌味に見えないため、多少きついことを言っても周囲が笑ってくれる。
桑野は以前から、そんな亜紀に絡むことがあった。
好きだからなのか、単に反応を楽しんでいるのか、豪には分からなかった。
もっとも、亜紀は大抵の場合、桑野より上手に言い返していた。
昼休みが終わり、午後の授業が始まる。
豪は教科書を開いた。
視線は文字を追っているのに、頭の中では別のことを考えていた。
桑野が困ること。
できれば、しばらく忘れられないくらいのこと。
しかし怪我をさせたり、取り返しのつかない物を壊したりするのは違う。
そういうことをすれば、自分まで大変な目に遭うかもしれない。
ちょうどいい悪いこと。
豪はその言葉を何度も頭の中で転がした。
授業の終わりを知らせるチャイムが鳴ったとき、ようやく思いついたことがあった。
翌日の放課後。
教室には、まだ十人ほど生徒が残っていた。
部活動へ向かう者、友人と話し込んでいる者、宿題を写させてもらおうと隣の席へ移動する者。
窓から差し込む夕方の光は黄色みを帯び、黒板の端に残ったチョークの粉まで浮かび上がらせていた。廊下では運動部の生徒が走る音が響き、教室には消しゴムのかすと乾いた紙、それから暖房をつけ始めたころ特有の埃っぽい匂いが残っていた。
豪は自分の席で、鞄の中身を確かめているふりをしていた。
亜紀は少し前に友人と教室を出ている。
桑野も、部活へ行くと言って出ていった。
ほかの生徒たちは教室の後ろに集まり、何かの話で笑っている。
豪はゆっくり立ち上がった。
亜紀の机へ目を向ける。
机の横には、まだ学校で使うものを入れた袋が掛かっていた。
その中に、紺色のリコーダーケースがある。
午前中、亜紀が音楽の授業で使っていたものだった。
豪は誰かがこちらを見ていないか確かめた。
生徒たちの笑い声が大きくなる。
窓の向こうでは、運動場を走る男子の列が校舎から遠ざかっていった。
豪はケースを取り出した。
細長い袋の表面には、亜紀の名前が小さく書かれている。
布越しに、硬いリコーダーの形が分かった。
豪はそれを持ち、桑野の机へ向かった。
足元で床板がわずかに鳴る。
豪は立ち止まった。
誰もこちらを見ない。
桑野の机は、教室の後ろ寄りにある。
豪はその前へ立つと、一度だけ唇を舐めた。
乾いていた。
引き出しの中には教科書とノートが乱雑に押し込まれていた。
その奥へ、亜紀のリコーダーケースを置く。
黒い布が教科書の背表紙に触れ、少し曲がった。
もう少し奥へ押す。
名前の書かれた部分だけが、わずかに見えていた。
豪は手を離した。
これでいい。
思ったより、簡単だった。
机から離れる。
自分の席へ戻る。
何気ない顔で鞄を持ち、教室を出る。
その間、誰かに呼び止められることはなかった。
廊下へ出た豪は、一度だけ振り返った。
教室の入口近くに、誰かがいたような気がした。
しかし、ちょうど部活動へ向かう生徒たちが通りかかり、その向こうはすぐに見えなくなった。
豪は階段を下りた。
心臓が少し速く動いていた。
別に、誰かに見つかったわけではない。
悪いことをした。
ただそれだけだった。
翌朝、桑野の机からリコーダーが見つかった。
最初に声を上げたのは桑野自身だった。
「何だよ、これ」
豪が顔を上げると、桑野が机の引き出しから紺色のケースを引っ張り出していた。
周囲にいた男子が覗き込む。
「リコーダー?」
「お前の?」
「違うって。何で俺の机にあんだよ」
桑野はケースを振った。
中で硬いものがぶつかる音がする。
近くの男子が、ケースの端に書かれた名前へ顔を寄せた。
「これ、西浦のじゃね?」
その声に、周囲の空気が少し変わった。
亜紀は少し離れた席で友人と話していたが、自分の名前を呼ばれて振り向いた。
「何?」
「西浦、お前のリコーダー、桑野の机に入ってたぞ」
亜紀の目が、ケースへ向いた。
次に桑野を見る。
「え?」
桑野は慌てて首を振った。
「違うって。俺、知らねえよ」
「でも、お前の机にあったんだろ?」
「だから、俺が入れたんじゃねえって!」
笑い声が起きた。
最初は数人だった。
しかし、誰かが何かを言うたびに笑い声が広がり、あっという間に教室の後ろが騒がしくなった。
「桑野、女子のリコーダー集めてんの?」
「やばくね?」
「しかも西浦の?」
「違うっつってんだろ!」
桑野の声が裏返った。
顔が赤くなっている。
普段は人をからかって笑っている桑野が、今は必死に言い返していた。
それが余計に周囲を面白がらせた。
豪は席に座ったまま、その様子を見ていた。
桑野が何度も否定する。
周りは信じない。
亜紀はまだ何も言っていない。
紺色のケースを見つめ、口元を固くしている。
豪はその顔を見た。
少し、嫌な気がした。
亜紀まで傷つけるつもりはなかった。
ただ、桑野が困ればいいと思った。
しかし、亜紀は自分のリコーダーを勝手に持ち出され、今は教室中の視線を集めている。
豪が考えていたより、ずっと多くの人がこの出来事に巻き込まれていた。
「おい、何やってる!」
教室へ入ってきた教師が声を上げた。
生徒たちが一斉に振り返る。
桑野は救われたような顔をして、教師へ駆け寄った。
「先生、俺やってない! 誰かが勝手に入れたんだって!」
「分かったから、落ち着け。何があった」
桑野は早口で説明し始めた。
教師は途中で何度か質問し、ケースの名前を確かめたあと、亜紀を呼んだ。
「西浦、これはお前のか?」
「はい」
「いつからなかった?」
「昨日の放課後には、まだあったと思います」
「そうか」
教師は教室を見回した。
「誰か、何か見てないか?」
豪は顔を上げた。
心臓が、胸の奥で強く一度だけ打った。
教師は生徒たちを見ている。
豪の方へ視線が向いた。
ほんの一瞬だった。
豪は何も言わなかった。
教師はそれ以上問い詰めず、事情を確認するため桑野と亜紀を職員室へ連れていった。
教室には、また小さな声が戻ってきた。
「絶対桑野だろ」
「前から西浦にちょっかい出してたもんな」
「でも、本人が入れるか? 自分の机に」
「隠し場所なかったんじゃね?」
誰も本当のことを知らない。
それなのに、みんな思い思いの理由をつけて桑野を疑っている。
豪は教科書を開いた。
文字が少しも頭に入ってこなかった。
その日から、桑野へのからかいが始まった。
最初は一部の男子だけだった。
しかし、噂は別のクラスにも広がり、廊下ですれ違う生徒から妙な目で見られるようになった。
桑野は何度も否定した。
「俺じゃねえって」
そのたびに誰かが笑う。
やがて桑野は、人前であまり大きな声を出さなくなった。
圭太をからかうことも減った。
豪はそれを見て、少しだけ満足していた。
悪いことをした。
しかも、かなり大きな悪いことだった。
圭太が涙を流して喜んだ日のことを思い返しても、以前ほど胸がざわつかない。
少なくとも、自分の中では釣り合ったように感じられた。
あの日、学校から帰宅した豪は、いつもより足取りが軽かった。
玄関を開けると、母親が居間で洗濯物を畳んでいた。
「ただいま」
「おかえり」
貴美子は顔を上げた。
その日は珍しく、少し笑っていた。
「豪、今夜はシチューにしたの」
「そうなんだ」
「寒くなってきたからね。あなた、好きでしょう」
豪は頷いた。
「うん」
貴美子はまた洗濯物へ目を落とした。
穏やかな横顔だった。
昨日まで何かを我慢していたような表情が、少しだけ和らいでいる。
豪はその顔を眺めていた。
胸の奥が、妙に温かくなった。
別に、母親が笑ったことと自分のしたことに関係があるはずはない。
けれど、そのときの豪には、何かがうまく収まったように思えた。
良いことをした。
悪いこともした。
そして今日は、母親が笑っている。
それで十分だった。
十五年近くたった今でも、豪はその日の夕食を覚えている。
シチューに入っていた鶏肉が少し硬かったこと。
母親が珍しくテレビを見ながら笑ったこと。
食後、二人で食器を片づけたこと。
ただし、その夜に桑野がどんな気持ちで家へ帰ったのかは知らない。
考えようとしたことも、ほとんどなかった。
公民館の作業が終わり、豪は圭太と別れた。
外へ出ると、午後の光はずいぶん柔らかくなっていた。
道沿いの植え込みには小さな花が咲き、遠くから自転車のベルが聞こえてくる。
豪は歩きながらスマートフォンを取り出した。
亜紀から返事が届いていた。
『別に大したことじゃないんだけど』
続けて、もう一件。
『あのとき、桑野がすごい勢いで否定してたの覚えてる?』
豪は足を止めた。
画面に映る文字を読み返す。
否定していた。
当然だ。
桑野は何もしていなかったのだから。
豪は返信欄を開いた。
『覚えてる。結構騒ぎになったよね』
そこまで打ち込んで、指が止まった。
結構騒ぎになった。
まるで自分は関係なかったような書き方だ。
しかし、ほかにどう答えればいいのか分からない。
豪は一度文章を消し、別の言葉を打った。
『うん、覚えてるよ』
送信する。
しばらくして、亜紀から短い返事が届いた。
『そっか』
それきりだった。
豪は画面を閉じた。
亜紀が何を考えているのか、よく分からない。
十五年前の話を、なぜ今になって持ち出したのだろう。
それにしても。
桑野が否定していた声を思い出すと、今でも少し耳に残る。
俺じゃねえって。
知らねえよ。
豪はゆっくり歩き出した。
あのとき桑野が嘘をついていなかったことを、豪は誰よりもよく知っている。
だからこそ、あの出来事は自分の中ではとっくに終わっていた。
そうでなければ、困るのだった。




