第5話 返しただけ
「これ、懐かしくない?」
矢作圭太が持ち上げたのは、白い体操着だった。
胸のあたりに紺色の校章が入っている。
豪は手元の段ボールを畳みながら顔を上げた。
「ああ、俺たちの中学のやつじゃん」
「そうそう。まだ同じデザインなんだな」
「変える理由もないんじゃない? 体操着なんて」
「でも、俺たちのころからもう十五年くらいたってるだろ」
「それ言うと急に年取った気がするから、やめて」
圭太は笑いながら体操着を広げた。
四月最後の土曜日。
二人は地域のボランティア団体が行っている衣類の整理を手伝っていた。
近隣の家庭から寄付された制服や体操着を仕分け、必要としている家庭へ譲る活動らしい。
作業場となっている公民館の一室には、折り畳み机が四つ並び、その上に段ボールや衣類が積まれている。窓を開け放っているため外からは草を刈る機械の音が聞こえ、洗濯済みの布の匂いに、畳の乾いた香りが混じっていた。
天井の蛍光灯は消され、窓から差し込む春の日差しだけで十分に明るい。
「豪、こっちの学校の制服も分かる?」
圭太が尋ねた。
「いや、そこまでは。俺、母校の体操着だって言われなきゃ気づかなかったし」
「そっか。じゃあサイズ別に分ける方、お願いしていい?」
「了解」
豪は段ボールからシャツを取り出し、タグを確かめていく。
百五十センチ。
百六十センチ。
百七十センチ。
子ども用の服は、思ったよりも小さかった。
中学生のころは自分もこれを着ていたはずなのに、今となっては腕を通すことすら難しそうだった。
圭太は手にした体操着を眺めたまま、ふと口を開いた。
「そういえば、豪に体操着探してもらったことあったよな」
豪の指が止まった。
「え?」
「中学のとき。覚えてない?」
「体操着?」
「そう。俺のやつ、なくなったことあったじゃん」
豪は視線を落とした。
手に持っていたシャツの袖が、膝の上に垂れている。
覚えている。
もちろん、覚えている。
ただ、こうして何気なく話題にされるとは思わなかった。
「あったね、そんなこと」
「だろ。あのとき、本当に助かったんだよな」
「大げさだって。返しただけじゃん」
「豪はそう言うけどさ」
圭太は少し笑い、体操着を丁寧に畳み始めた。
「俺、あの日、結構きつかったんだよ」
豪は返事をしなかった。
白い布が圭太の手の中で二つに折られる。
袖を揃え、裾を伸ばす。
その何でもない動作を見ているうちに、豪の頭の中へ別の教室の匂いが戻ってきた。
ワックスの剥がれた床。
湿った体育館シューズ。
窓から入ってくる冷たい風。
そして、誰かの笑い声。
あれは、父親が亡くなって間もないころだった。
中学二年の秋。
十一月に入り、朝の空気が急に冷たくなり始めた時期だった。
教室の窓はまだ半分ほど開いていて、廊下から吹き込む風がカーテンを揺らしている。昼休みが終わりかけた教室には弁当箱を片づける音や椅子を引く音が重なり、窓際では数人の男子がふざけながら消しゴムを投げ合っていた。
畑中豪は自分の席で、次の授業の準備をしていた。
五時間目は体育だった。
机の横に掛けておいた体操着袋を取り、ファスナーを確かめる。
そのとき、教室の後ろから声が聞こえた。
「おい、矢作。今日も忘れ物?」
桑野琢磨だった。
桑野はクラスでも声の大きい男子で、運動はそれなりにできたが、気に入らない相手をからかう癖があった。
特に圭太には、何かにつけて絡んでいた。
圭太は教室の後ろで、自分の鞄を探っている。
「いや、朝はあったんだけど」
「じゃあ、どっかやったんだろ」
「そんなはずないんだけどな」
「ちゃんと探せよ。お前、いつも抜けてんだから」
桑野の隣にいた男子が笑った。
圭太は笑わなかった。
鞄の中身を一つずつ机へ出し、教科書をどけ、もう一度奥まで手を入れる。
しかし、体操着は出てこない。
豪はその様子を見ていた。
なくしたのではない。
昼休みの初めごろ、桑野が圭太の机から体操着袋を持ち出すところを見ていた。
桑野は廊下で友人と何か話したあと、袋を背中へ隠すようにして教室を出ていった。
豪はそのとき、気づかないふりをした。
どうせ、すぐに返すのだろうと思った。
それ以上、関わりたくなかったというのもある。
「先生に言えば?」
誰かが圭太に言った。
「また忘れ物したって怒られるぞ」
「だから、忘れたんじゃないって」
圭太は珍しく強い声を出した。
その声が自分でも意外だったのか、すぐに口を閉じてしまう。
桑野は机に腰をかけたまま、面白そうに眺めていた。
豪は体操着袋を持ち上げた。
自分のものは、ちゃんとここにある。
それを確かめてから、ゆっくり席を立った。
「圭太」
声をかける。
圭太が顔を上げた。
「俺、ちょっと見てくるわ」
「え?」
「どっかに落ちてるかもしれないし」
桑野が振り向いた。
「畑中、何すんの?」
「探すだけ」
「お前、相変わらず親切だな」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
豪は何も答えず、教室を出た。
廊下は教室より寒かった。
磨かれた床に窓の光が白く反射し、外の運動場からは笛の音が聞こえてくる。階段の近くには雨で湿った傘立てがあり、濡れた布と古い木材の匂いが混じっていた。
豪は廊下の先へ向かった。
桑野が袋を持って歩いていった方向だった。
途中、階段の陰を覗く。
何もない。
用具室の前。
そこにもない。
体育館へつながる渡り廊下を進むと、風が急に強くなった。
校舎の陰から吹き込む冷たい空気に、豪は制服の襟を少し立てる。
体育館裏には使われなくなった用具が置かれていた。
古いマット、壊れたカラーコーン、片脚の曲がった椅子。
その奥に、見覚えのある紺色の袋が引っかかっている。
豪は足を止めた。
圭太の名前が書かれた袋だった。
口の部分が開きかけていて、中から白い袖が覗いている。
桑野たちは、わざと見つかりにくいところへ押し込んだらしい。
豪はしゃがみ込んだ。
袋へ手を伸ばす。
指先が触れる直前、少しだけ迷った。
これを持って帰れば、圭太は助かる。
そのことは分かっていた。
けれど、何となく気が進まない。
人のために何かをすることが、以前ほど簡単ではなくなっていた。
父親が亡くなってから、そういう場面が増えた。
誰かが困っている。
自分なら助けられる。
でも、助けたあとに何が起こるのか分からない。
昔の豪なら、たぶん何も考えずに袋を拾っていただろう。
それこそ、桑野に文句の一つくらい言ったかもしれない。
小学生のころの豪は、もっと気軽に人の輪へ入っていける子どもだった。
誰とでも話し、喧嘩になりそうな友人を止め、教室で何かを決めるときには自然と意見をまとめる側に回っていた。
今では、それも少し遠いことのように思える。
豪は紺色の袋を見下ろした。
白い袖には土がついている。
それを見ていると、急に嫌な感じがした。
圭太は、何も悪いことをしていない。
少なくとも、体操着を隠されるようなことはしていない。
なのに、あいつらは笑っている。
豪は袋を引っ張った。
古い椅子の脚に引っかかっていた紐が外れ、袋が手前へ滑ってくる。
勢いで中の体操着が少し飛び出した。
豪は慌てて拾い上げ、土を払った。
白い布には細かな汚れが残ったが、破れてはいない。
袋へ戻し、ファスナーを閉める。
たったそれだけのことだった。
教室へ戻ると、圭太はまだ鞄の中を探していた。
周囲の男子たちは体育館へ移動し始めている。
桑野の姿はなかった。
「圭太」
呼びかけると、圭太が振り向いた。
豪は紺色の袋を差し出す。
「これでしょ?」
圭太の目が大きくなった。
「えっ」
袋を受け取る。
名前を確かめる。
ファスナーを開け、中の白い布を取り出す。
その一つ一つの動作が、やけにゆっくり見えた。
「どこにあったの?」
「体育館の裏」
「何でそんなところに?」
「さあ。誰かが持っていったんじゃない?」
豪はそれ以上、何も言わなかった。
圭太は体操着を胸の前で抱えた。
「ありがとう」
声が少し震えていた。
豪は笑った。
「いいって。早く着替えないと遅れるよ」
「うん」
圭太は頷いたが、すぐには動かなかった。
俯いたまま、体操着の袖を指でつまんでいる。
その指先が、小さく震えていた。
豪は圭太の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「いや、何でもない」
圭太は顔を上げようとした。
しかし途中で目を伏せた。
「本当に、ありがとう」
目元が赤くなっている。
圭太は慌てて袖で顔を擦った。
豪は一瞬、何を言えばいいのか分からなくなった。
泣くほどのことではないと思った。
体操着を拾って返しただけなのだから。
けれど、圭太にとってはそれだけの話ではなかったのかもしれない。
何日も続いていたからかい。
机の中へ入れられた紙くず。
誰かが笑うたびに、自分のことを笑っているのではないかと振り返る癖。
豪はそうしたことを、全部見ていたわけではない。
見ていても、気づかないふりをしたことがあった。
そのことを思い出すと、急に喉の奥が乾いた。
「ほら、行こうぜ」
豪は圭太の肩を軽く叩いた。
圭太は何度も頷き、ようやく着替えを取りに行った。
豪はその背中を見送った。
自分は、良いことをした。
そう思った。
そして、その瞬間から胸の奥が落ち着かなくなった。
体育の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
校庭では冷たい風が吹いていた。
教師が何か説明している。
周囲の生徒が頷き、列を作り始める。
豪も同じように動いたが、圭太の顔が何度も浮かんできた。
ありがとう。
本当に、ありがとう。
あんなに感謝されるとは思わなかった。
ただ体操着を拾って返しただけなのに。
豪は足元の白線を見つめた。
どうして、こんなに気になるのだろう。
昔なら、誰かに感謝されることは嬉しいだけだった。
父親だって、そういう人だった。
困っている人を助けて、礼を言われれば笑っていた。
それが自分の仕事だから、と。
けれど父親はもういない。
豪は奥歯を軽く噛んだ。
風が吹き、体育着の袖が腕に張りついた。
寒い。
そう思ったのに、背中の内側だけ妙に熱かった。
放課後、豪は一人で帰宅した。
玄関を開けると、家の中は静まり返っていた。
以前なら、父親が仕事から戻っている日は居間からテレビの音が聞こえた。母親と何か話している声がすることもあった。
今は、そんな音がほとんどしない。
豪は靴を脱ぎ、廊下へ上がった。
台所には明かりがついている。
母親が夕食の支度をしていた。
「ただいま」
「おかえり」
貴美子は鍋の中を見たまま答えた。
「今日は学校、どうだった?」
「普通」
「そう」
豪は鞄を床へ置いた。
いつもなら、そのまま二階へ上がる。
しかし、その日は少しだけ誰かに話したかった。
「母さん」
「何?」
「今日さ、友達の体操着がなくなって」
貴美子の手が止まった。
「それで?」
「探したら見つかったから、返したんだ」
「そう」
「すごい喜んでてさ」
豪は笑おうとした。
だが、母親は振り返らなかった。
鍋の蓋を持ち上げ、煮立ち具合を確かめている。
しばらくして、貴美子が口を開いた。
「余計なことには関わらない方がいいわよ」
豪は母親の背中を見た。
「余計なこと?」
「学校で何かあったとしても、あなたが全部何とかしなくていいの」
「でも、体操着を拾っただけだよ」
「分かってるわよ」
貴美子は小さく息を吐いた。
「ただ、目立つようなことはしなくていいって言ってるの」
豪は黙った。
貴美子は鍋の火を弱め、ようやく振り返った。
「豪は普通に学校へ行って、普通に友達と過ごしていればいいの。それで十分なんだから」
その声は決して荒くなかった。
むしろ、何かを頼むような響きがあった。
豪は頷いた。
「うん」
「良いことをしようとして、変に巻き込まれる必要なんてないのよ」
貴美子はそこまで言って、口を閉じた。
自分が何を言ったのか、少し考えたようだった。
「ご飯、もう少ししたらできるから」
「分かった」
豪は鞄を持ち、二階へ上がった。
階段の途中で振り返ったが、母親はもう台所へ戻っていた。
自分の部屋へ入る。
机の上には教科書が積まれ、窓際には以前から使っている小さな時計が置かれていた。夕方の光がカーテンの隙間から斜めに差し込み、床へ落ちた影が少しずつ長くなっている。
豪は椅子に座った。
鞄を開ける。
教科書を取り出す。
宿題を始めようとしたが、問題文を読んでも頭に入ってこなかった。
圭太の顔が浮かぶ。
ありがとう。
何度も礼を言われた。
泣きそうになりながら。
あれは、確かに良いことだった。
でも、良いことばかりしていたら。
豪は顔を上げた。
机の向こうの壁には、昔、父親と一緒に出かけたときの写真が貼ってあった。
父親は笑っている。
豪も笑っている。
二人とも、何も知らない顔をしていた。
良いことをしても、悪いことをしても、結局は同じなのではないか。
そんな考えが浮かんだのは、ずいぶん唐突だった。
良いことだけをするから、目立つ。
誰かに感謝されるから、特別な人間になってしまう。
だったら。
豪は机の上の消しゴムを手に取った。
角が丸くなり、表面に黒い汚れがついている。
指で押すと、少しだけ形が変わる。
良いことをした分だけ、悪いこともすればいい。
そうすれば、どちらにも偏らない。
父親のように立派な人間にもならないし、誰かに嫌われるような悪人にもならずに済む。
ちょうど真ん中。
普通の人間でいられる。
豪は消しゴムを机へ戻した。
その考えが正しいのかどうかは、分からなかった。
ただ、それまで胸の中で絡まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
では、どんな悪いことをすればいいのだろう。
圭太は、あれほど喜んでいた。
同じくらい誰かを困らせる必要がある。
豪は机の上に置いた教科書を見つめた。
そのとき、教室で笑っていた桑野の顔が浮かんだ。
体操着が見つからずに困っている圭太を、面白そうに眺めていた顔。
あいつは、誰かが困っているのを見るのが好きなのだろうか。
なら、少しくらい自分が困る側になってもいいのではないか。
豪はそんなことを考えた。
まだ、何をするかは決めていなかった。
けれど、頭の中で初めて、良いことと悪いことが一つの線でつながった。
それから十五年近くが過ぎた。
公民館の窓際で、豪は手にした体操着を段ボールへしまった。
圭太は隣で別の衣類を畳んでいる。
「豪?」
「ん?」
「どうした? 急に黙ったから」
「ああ、ちょっと昔のこと思い出してた」
圭太は笑った。
「やっぱ覚えてるじゃん」
「そりゃ、まあ」
「俺、あのとき豪が見つけてくれなかったら、どうなってたんだろうな」
豪は顔を上げた。
圭太は何気なく言ったのだろう。
すでに次の服を手に取り、サイズを確かめている。
「別に、大したことにはならなかったんじゃない?」
「そうかな」
「体操着だし」
「まあ、そうなんだけどさ」
圭太は少し考えてから、豪を見た。
「俺、あのころ結構しんどかったから。誰かが自分のために動いてくれたってだけで、何か救われた気がしたんだよね」
豪は笑った。
「そんな大げさな」
「大げさかもしれないけど、本当だよ」
圭太の声は穏やかだった。
昔と変わらない。
何かを信じるとき、少しも疑わない声だった。
豪は視線を落とした。
あのころ、圭太を助けたのは確かに自分だ。
そのあとに何があったのかも、よく覚えている。
少なくとも、忘れたことはなかった。
「あれはもう、昔の話だろ」
豪が言う。
圭太は頷いた。
「そうだな」
「今は元気なんだから、それでいいじゃん」
「うん。そうだよな」
圭太は笑って、次の段ボールを開けた。
豪も作業へ戻った。
しばらくして、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
取り出すと、西浦亜紀からメッセージが届いている。
会社では顔を合わせているが、休日に連絡が来るのは珍しかった。
『豪、ちょっと聞きたいことがあるんだけど』
豪は画面を眺めた。
すぐに返事を打とうとしたところで、続けてもう一件届いた。
『中学のときの桑野琢磨って、覚えてる?』
豪の指が止まった。
窓の外では、春の風が木々の葉を揺らしていた。
公民館の中では圭太が誰かに呼ばれ、返事をしながら立ち上がっている。
白い体操着は、もう段ボールの中にしまわれていた。
豪はスマートフォンを握り直した。
桑野琢磨。
もちろん覚えている。
あのとき圭太の体操着を隠した男子だ。
そして、豪にとってはもう一つ、忘れられない出来事に関わっている。
豪は返信欄へ指を置いた。
しばらく考えてから、短く打ち込む。
『覚えてるよ。どうしたの?』
送信すると、すぐに既読がついた。
だが、返事はなかなか来なかった。
豪は画面を伏せ、畳みかけの衣類へ手を伸ばした。
あのときのことは、とっくに終わっている。
そう思っていた。
少なくとも、自分の中では。




