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キャリブレーション  作者: asnt2026


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4/16

第4話 普通の家庭

玄関の鍵を開けた瞬間、煮物の匂いがした。

日曜日の午前十時半。畑中豪は靴を脱ぎながら、廊下の奥へ声をかけた。

「母さん、来たよ」

「はあい。ちょっと待って」

台所の方で水道の音が止まり、しばらくして貴美子が顔を出した。

薄いグレーのカーディガンに黒いズボン。髪は後ろで簡単にまとめており、手にはまだ濡れた布巾を持っている。

「早かったわね」

「十時半って言ったじゃん」

「そうだったかしら。お昼前くらいかと思ってた」

「じゃあ、今から帰ろうかな」

「馬鹿なこと言ってないで、上がりなさい」

貴美子はそう言いながら笑った。

母親が笑うと、目尻に細かな皺が寄る。

以前より増えたような気がするが、それが年齢のせいなのか、会う機会が少ないせいなのかは分からない。

豪は靴を揃えて廊下へ上がった。

実家へ来るのは二か月ぶりだった。

壁紙も廊下の照明も、昔からほとんど変わっていない。玄関の隅には小さな鉢植えが置かれ、靴箱の上には季節外れの木彫りの人形が並んでいる。窓を少し開けているらしく、春の湿り気を含んだ風が廊下を抜け、台所からは醤油と椎茸の匂いがゆっくり流れてきた。

「何か作ってるの?」

「筑前煮。持って帰る?」

「まだ食べてないけど」

「余るから。どうせ外食ばっかりなんでしょう」

「自炊もしてるよ」

「何作ってるの?」

「パスタとか」

「それ以外は?」

「炒飯」

「野菜は?」

「ネギ」

貴美子は呆れたように首を振った。

「それ、自炊って言わないわよ」

「結構頑張ってるんだけど」

「頑張る方向が違うの」

こういう会話は、昔から変わらない。

貴美子は夫の死後、仕事以外のことにほとんど興味を示さなくなった時期があった。それでも豪が食べているものや、ちゃんと眠っているかどうかについては、今でも細かく尋ねてくる。

息子が二十八歳になっても、そこだけは変えるつもりがないらしい。

「荷物、どこ?」

豪が尋ねると、貴美子は廊下の奥を指さした。

「二階の物置。段ボールがいくつかあるから、とりあえず下へ運んでほしいの」

「中身は?」

「古い本とか書類とか。お父さんのものもあるけど、私の仕事のものも混じってると思う」

貴美子は司法書士の仕事を長く続けていた。

かつて父親は弁護士、母親は司法書士として、それぞれ別の事務所を構えていた。仕事内容は違っても互いに相談することがあり、夕食の席で法律の話が始まると、子どもの豪にはさっぱり分からない言葉が飛び交ったものだった。

もっとも、貴美子が今も仕事を続けていることを考えると、今回処分するのは昔の私物や、整理の済んだ古い用品が中心なのだろう。

豪は階段を上がった。

二階へ近づくにつれ、空気が少し温かくなる。

窓を閉め切っていたせいか、物置の前には乾いた紙と古い木材の匂いがこもっていた。廊下の突き当たりから差し込む日差しが床板を白く照らし、光の中を細かな埃がゆっくり漂っている。

物置の扉を開けると、壁際に段ボールが積まれていた。

「うわ、結構あるじゃん」

全部で十箱近くある。

大小ばらばらで、古い宅配便の箱を再利用したものもあれば、丈夫な事務用品の箱もあった。

表面には油性ペンで文字が書かれている。

本。

事務用品。

旧資料。

一番奥にある箱には、父親の名前が書かれていた。

畑中昌彦。

豪はその文字を見たまま、少し手を止めた。

文字を書いたのは母親だろう。

父親本人の字ではなかった。

「豪、聞こえる?」

階下から貴美子の声がした。

「聞こえるよ」

「無理して一度に持たないでね」

「分かってる」

豪は手前の箱を抱えた。

持ち上げた瞬間、底の方で何かがずれる音がする。思ったより重く、腕にかかる重さが左右で違った。

本だろうか。

一度床へ置き、抱え直す。

階段を下りる途中、箱の角が壁に触れそうになったので身体をひねった。昔からこの家の階段は少し狭く、子どものころには何とも思わなかった幅が、今では妙に窮屈に感じられる。

居間へ運ぶと、貴美子が新聞紙を広げていた。

「そこへ置いて」

「これ全部捨てるの?」

「中を見てから決めるわ。仕事の書類は勝手に処分できないものもあるし」

「じゃあ、俺は運ぶだけ?」

「そうしてくれると助かる。重いものばかりだから」

豪は再び階段へ向かった。

二箱、三箱と運ぶうちに背中が少し汗ばんできた。

四箱目を持ち上げたところで、段ボールの底に指が食い込む。

古い紙の端が手の甲を擦り、細い痛みが走った。

豪は箱を一度下ろし、息を吐いた。

どうして紙は、こんなに重いのだろう。

中身が鉄でも入っているみたいだった。

それから、仕事の資料というものは、本当に捨てられないものらしい。

父親が亡くなって十五年近くたつというのに、まだこんなに残っている。

豪は手の甲を軽く擦り、もう一度箱を持ち上げた。

五箱目を運び終えるころには、貴美子が居間で古い文房具を仕分け始めていた。

「これ、まだ使えるわね」

手にしているのは黒いボールペンだった。

キャップの端が少し欠けている。

「そんなの捨てて新しいの買えば?」

「書けるものを捨てることないでしょう」

「でも、インク古いんじゃない?」

貴美子は試し書きをした。

新聞紙の余白に、青黒い線が一本引かれる。

「ほら、使える」

「物持ちいいなあ」

「あなたのお父さんも、そうだったわよ」

豪は何も言わず、次の箱の蓋を開けた。

中から古い手帳と卓上カレンダー、記念品らしいマグカップが出てくる。

カップには小さな文字で、何かの法律相談会の名称が印刷されていた。

豪は持ち手に指をかけた。

重さのある白い陶器だった。

底の近くに茶色い汚れが残っている。

父親は家でもよくコーヒーを飲んでいた。

朝、新聞を読みながら。

夜、帰宅してから。

仕事が忙しくて遅くなった日には、豪が寝る前に居間を覗くと、父親がまだ机で資料を読んでいることもあった。

そのそばには、たいていコーヒーカップが置かれていた。

「それね」

貴美子が声をかける。

「お父さん、よく使ってたの」

「そうなんだ」

「持ち手が大きくて気に入ってたみたい。ほかにもいいカップがあったのに、いつもそればっかり」

豪はカップを見つめた。

持ち手には小さな欠けがあった。

指先で触れると、そこだけ釉薬が剥がれてざらついている。

「捨てる?」

豪が尋ねる。

貴美子はすぐには答えなかった。

「どうしようかしら」

「使わないなら、別に」

「そうね」

貴美子はカップを受け取り、新聞紙の上へ置いた。

捨てるものを集めている場所ではなかった。

豪はそれに気づいたが、何も言わなかった。

昼前になると、ほとんどの箱を一階へ運び終えた。

残っているのは、奥に置かれた丈夫な段ボール二箱だけだった。

一つには「法律相談会関係」と書かれ、もう一つには「昌彦・事務所」とある。

豪は後者へ手を伸ばした。

しかし持ち上げようとしたところで、階下から貴美子の声がした。

「豪、その奥の箱はいいわ」

「何で?」

「今日はそこまで見られないから。後日にしましょう」

「下へ持っていくだけなら」

「いいの。今日は手前のものだけで十分」

声は穏やかだった。

それでも、もう一度言えば面倒な顔をされそうな響きがある。

豪は箱から手を離した。

「分かった」

奥の二箱はそのままにして、物置の扉を閉める。

そこに何が入っているのか、豪は確かめなかった。

昼食は母親の作った筑前煮と、冷蔵庫に残っていた焼き魚だった。

居間の窓を開けると、庭から土の匂いを含んだ風が入ってきた。午前中より日差しが強くなり、食卓の上に置かれた湯飲みの影が、ゆっくり畳の方へ伸びている。

豪は久しぶりに実家の食事を口へ運んだ。

「うまい」

「そう?」

「うん。やっぱり自分で作るのとは違うね」

「だから、ちゃんと料理しなさいって言ってるでしょう」

「褒めたつもりだったんだけど」

「分かってるわよ」

貴美子は少し笑った。

食事中、仕事の話になった。

豪が最近の営業先について話していると、貴美子は箸を止めずに聞いていた。

「この前、課長から新しい案件を任されそうになってさ」

「そうなの」

「今までより少し規模が大きいやつ。先方との交渉も、俺が中心になってほしいって」

「断ったの?」

「いや、まだ返事してないけど」

貴美子は味噌汁のお椀を置いた。

「無理しない方がいいわよ」

「そんな大げさな話じゃないよ」

「仕事が増えれば責任も増えるでしょう。今のままで十分じゃない」

豪は箸を動かした。

「まあね」

「あなたは今の仕事をきちんと続けていけばいいの。目立つようなことをしなくても、普通に暮らせるんだから」

その言葉には聞き覚えがあった。

豪が小さいころから、何度となく聞かされてきたものだった。

普通に。

目立たずに。

余計なことをせずに。

豪自身、今の生活に不満はない。

給料は特別高くないが、一人暮らしには困らない。

会社ではそれなりに評価されているし、友人もいる。

誰かと争うことも、ひどく嫌われることもない。

母親の言う普通の生活を、自分なりに続けているつもりだった。

「心配しなくても大丈夫だって」

豪が言うと、貴美子は頷いた。

「そうね」

それから少し間を置き、付け加える。

「お父さんみたいに、何でも引き受けなくていいんだから」

豪は箸を止めた。

貴美子は何気なく言ったのだろう。

すぐに味噌汁へ手を伸ばし、普段どおり食事を続けている。

豪も何か返事をしようとした。

だが、うまい言葉が見つからなかった。

「母さん」

「何?」

「父さんって、そんなに何でも引き受けてた?」

貴美子は顔を上げた。

「そうねえ」

しばらく考えてから、小さく笑う。

「断るのが下手だったのよ。困っている人を見ると、何とかしてあげたくなる人だったから」

「仕事なんだから、断ることもあったでしょ」

「もちろんあったわよ。でも、一度話を聞いちゃうとね」

貴美子はそこで言葉を切った。

湯飲みを持ち上げる。

少し冷めた茶を飲み、食卓の端へ視線を移した。

「昔は、そういうところが好きだったんだけど」

豪は母親を見た。

貴美子はそれ以上、父親のことを話さなかった。

豪も続けて尋ねることができず、残っていた魚を箸でほぐした。

食事のあと、豪は洗い物を引き受けた。

母親は最初こそ断ったが、結局は台所を任せてくれた。

皿に残った油を水で流し、洗剤をつけたスポンジで擦る。窓から入る風が腕を冷やし、水道から落ちる水がステンレスの流し台に細かく跳ねた。

貴美子は隣の部屋で、古い書類の仕分けを続けている。

ときどき紙の擦れる音が聞こえ、何かを確認するような独り言が混じる。

豪が最後の皿を洗い終えたとき、その音が止まった。

振り返ると、貴美子が居間の椅子に腰を下ろしていた。

片手をテーブルにつき、少し俯いている。

「母さん?」

声をかけると、貴美子は顔を上げた。

「何?」

「大丈夫?」

「ええ。ちょっと疲れただけ」

「無理しないでよ」

「分かってるわよ。昔みたいには動けないわね」

貴美子は笑って立ち上がろうとしたが、豪が手を上げて止めた。

「もう座ってて。片づけは俺がやるから」

「でも」

「せっかく来たんだし」

貴美子は少し迷ってから、椅子へ座り直した。

「じゃあ、お願いしようかしら」

豪は頷き、居間の段ボールをまとめ始めた。

書類を確認しながら動いていると、昔の写真が何枚か出てきた。

その一枚に、若いころの父親が写っていた。

地域の法律相談会らしい場所で、数人の男性と並んで立っている。

父親は笑っていた。

普段から、こんな顔で笑う人だった。

豪が学校で何か賞をもらったときも、友人を家へ連れてきたときも、父親はよく笑った。

母親も、昔はよく笑っていた。

写真の中の父親と、今椅子に座っている母親。

その間に十五年近い時間がある。

豪は写真を見つめたあと、ほかの書類と一緒に封筒へ戻した。

午後三時を少し過ぎたころ、作業はひとまず終わった。

豪は残しておく箱を部屋の隅へ寄せ、処分するものを別にまとめた。

貴美子は玄関まで見送りに出てきた。

「今日はありがとう。助かったわ」

「どういたしまして」

「筑前煮、忘れないでね」

「忘れないって」

「冷蔵庫に入れたら、明日中には食べなさいよ」

「はいはい」

貴美子が小さな保存容器の入った袋を渡す。

豪が受け取ると、母親はその手を見た。

「怪我したの?」

「え?」

「そこ」

右手の甲に、薄い赤い筋が残っていた。

段ボールで擦ったところだ。

「ああ、箱の角で。たいしたことないよ」

「ちょっと待って。絆創膏あるから」

「いや、もう痛くないし」

貴美子はそれでも救急箱を取りに戻ろうとしたので、豪は笑って止めた。

「本当に大丈夫だから」

「そう?」

「うん。また今度来るよ。奥の箱、残ってるし」

貴美子は少しだけ黙った。

「そうね。またお願いするかもしれないわ」

「分かった」

豪は靴を履いた。

玄関の扉を開けると、午後の日差しが正面から差し込んできた。

春の暖かさが残る住宅街は静かで、どこかの庭から水を撒く音が聞こえている。

「豪」

背後から呼ばれた。

振り返ると、貴美子が扉の内側に立っていた。

「何?」

「仕事、無理しないでね」

「分かってるよ」

「人に頼まれたからって、何でも引き受けなくていいのよ」

豪は笑った。

「大丈夫。そんなに立派な人間じゃないから」

貴美子は一度だけ、何かを言いたそうな顔をした。

しかし結局、小さく頷いただけだった。

「気をつけて帰りなさい」

「うん」

豪は門を出て、駅へ向かって歩き始めた。

保存容器の入った袋が、歩くたびに膝へ軽く当たる。

母親の言葉が、まだ耳に残っていた。

そんなに立派な人間じゃない。

自分で言った言葉だった。

嘘ではないと思う。

豪は時々、人に意地悪をする。

親切もするし、嘘もつく。

誰かに感謝された日には、別の誰かを困らせることだってある。

父親とは違う。

父親のような人間には、ならない。

豪は道の途中で振り返った。

実家の屋根が、隣の家の向こうに少しだけ見えていた。

母親は今ごろ、また一人で片づけを始めているのだろうか。

無理しないようにと言ったばかりなのに、きっと何かしている。

そんなところも、昔から変わらなかった。

豪はもう一度前を向き、歩き出した。

今日も、少し良いことをしてしまった。

先週の徳蔵の買い物も、まだ十分に片づいていない。

別に急ぐほどのことではないが、あまりため込むのもよくない。

電車の時間を確かめながら、豪は夕方までに何か適当なことをしようかと考えた。

しかし、母親の手の甲に浮かんでいた細い血管や、食卓に残された父親のカップが頭から離れず、結局、何も思いつかなかった。

良いことも悪いこともしないで、普通に生きなさい。

あのころ、母親は何度もそう言っていた。

豪は今も、その言葉を守っているつもりだった。

少なくとも、自分では。

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