第4話 普通の家庭
玄関の鍵を開けた瞬間、煮物の匂いがした。
日曜日の午前十時半。畑中豪は靴を脱ぎながら、廊下の奥へ声をかけた。
「母さん、来たよ」
「はあい。ちょっと待って」
台所の方で水道の音が止まり、しばらくして貴美子が顔を出した。
薄いグレーのカーディガンに黒いズボン。髪は後ろで簡単にまとめており、手にはまだ濡れた布巾を持っている。
「早かったわね」
「十時半って言ったじゃん」
「そうだったかしら。お昼前くらいかと思ってた」
「じゃあ、今から帰ろうかな」
「馬鹿なこと言ってないで、上がりなさい」
貴美子はそう言いながら笑った。
母親が笑うと、目尻に細かな皺が寄る。
以前より増えたような気がするが、それが年齢のせいなのか、会う機会が少ないせいなのかは分からない。
豪は靴を揃えて廊下へ上がった。
実家へ来るのは二か月ぶりだった。
壁紙も廊下の照明も、昔からほとんど変わっていない。玄関の隅には小さな鉢植えが置かれ、靴箱の上には季節外れの木彫りの人形が並んでいる。窓を少し開けているらしく、春の湿り気を含んだ風が廊下を抜け、台所からは醤油と椎茸の匂いがゆっくり流れてきた。
「何か作ってるの?」
「筑前煮。持って帰る?」
「まだ食べてないけど」
「余るから。どうせ外食ばっかりなんでしょう」
「自炊もしてるよ」
「何作ってるの?」
「パスタとか」
「それ以外は?」
「炒飯」
「野菜は?」
「ネギ」
貴美子は呆れたように首を振った。
「それ、自炊って言わないわよ」
「結構頑張ってるんだけど」
「頑張る方向が違うの」
こういう会話は、昔から変わらない。
貴美子は夫の死後、仕事以外のことにほとんど興味を示さなくなった時期があった。それでも豪が食べているものや、ちゃんと眠っているかどうかについては、今でも細かく尋ねてくる。
息子が二十八歳になっても、そこだけは変えるつもりがないらしい。
「荷物、どこ?」
豪が尋ねると、貴美子は廊下の奥を指さした。
「二階の物置。段ボールがいくつかあるから、とりあえず下へ運んでほしいの」
「中身は?」
「古い本とか書類とか。お父さんのものもあるけど、私の仕事のものも混じってると思う」
貴美子は司法書士の仕事を長く続けていた。
かつて父親は弁護士、母親は司法書士として、それぞれ別の事務所を構えていた。仕事内容は違っても互いに相談することがあり、夕食の席で法律の話が始まると、子どもの豪にはさっぱり分からない言葉が飛び交ったものだった。
もっとも、貴美子が今も仕事を続けていることを考えると、今回処分するのは昔の私物や、整理の済んだ古い用品が中心なのだろう。
豪は階段を上がった。
二階へ近づくにつれ、空気が少し温かくなる。
窓を閉め切っていたせいか、物置の前には乾いた紙と古い木材の匂いがこもっていた。廊下の突き当たりから差し込む日差しが床板を白く照らし、光の中を細かな埃がゆっくり漂っている。
物置の扉を開けると、壁際に段ボールが積まれていた。
「うわ、結構あるじゃん」
全部で十箱近くある。
大小ばらばらで、古い宅配便の箱を再利用したものもあれば、丈夫な事務用品の箱もあった。
表面には油性ペンで文字が書かれている。
本。
事務用品。
旧資料。
一番奥にある箱には、父親の名前が書かれていた。
畑中昌彦。
豪はその文字を見たまま、少し手を止めた。
文字を書いたのは母親だろう。
父親本人の字ではなかった。
「豪、聞こえる?」
階下から貴美子の声がした。
「聞こえるよ」
「無理して一度に持たないでね」
「分かってる」
豪は手前の箱を抱えた。
持ち上げた瞬間、底の方で何かがずれる音がする。思ったより重く、腕にかかる重さが左右で違った。
本だろうか。
一度床へ置き、抱え直す。
階段を下りる途中、箱の角が壁に触れそうになったので身体をひねった。昔からこの家の階段は少し狭く、子どものころには何とも思わなかった幅が、今では妙に窮屈に感じられる。
居間へ運ぶと、貴美子が新聞紙を広げていた。
「そこへ置いて」
「これ全部捨てるの?」
「中を見てから決めるわ。仕事の書類は勝手に処分できないものもあるし」
「じゃあ、俺は運ぶだけ?」
「そうしてくれると助かる。重いものばかりだから」
豪は再び階段へ向かった。
二箱、三箱と運ぶうちに背中が少し汗ばんできた。
四箱目を持ち上げたところで、段ボールの底に指が食い込む。
古い紙の端が手の甲を擦り、細い痛みが走った。
豪は箱を一度下ろし、息を吐いた。
どうして紙は、こんなに重いのだろう。
中身が鉄でも入っているみたいだった。
それから、仕事の資料というものは、本当に捨てられないものらしい。
父親が亡くなって十五年近くたつというのに、まだこんなに残っている。
豪は手の甲を軽く擦り、もう一度箱を持ち上げた。
五箱目を運び終えるころには、貴美子が居間で古い文房具を仕分け始めていた。
「これ、まだ使えるわね」
手にしているのは黒いボールペンだった。
キャップの端が少し欠けている。
「そんなの捨てて新しいの買えば?」
「書けるものを捨てることないでしょう」
「でも、インク古いんじゃない?」
貴美子は試し書きをした。
新聞紙の余白に、青黒い線が一本引かれる。
「ほら、使える」
「物持ちいいなあ」
「あなたのお父さんも、そうだったわよ」
豪は何も言わず、次の箱の蓋を開けた。
中から古い手帳と卓上カレンダー、記念品らしいマグカップが出てくる。
カップには小さな文字で、何かの法律相談会の名称が印刷されていた。
豪は持ち手に指をかけた。
重さのある白い陶器だった。
底の近くに茶色い汚れが残っている。
父親は家でもよくコーヒーを飲んでいた。
朝、新聞を読みながら。
夜、帰宅してから。
仕事が忙しくて遅くなった日には、豪が寝る前に居間を覗くと、父親がまだ机で資料を読んでいることもあった。
そのそばには、たいていコーヒーカップが置かれていた。
「それね」
貴美子が声をかける。
「お父さん、よく使ってたの」
「そうなんだ」
「持ち手が大きくて気に入ってたみたい。ほかにもいいカップがあったのに、いつもそればっかり」
豪はカップを見つめた。
持ち手には小さな欠けがあった。
指先で触れると、そこだけ釉薬が剥がれてざらついている。
「捨てる?」
豪が尋ねる。
貴美子はすぐには答えなかった。
「どうしようかしら」
「使わないなら、別に」
「そうね」
貴美子はカップを受け取り、新聞紙の上へ置いた。
捨てるものを集めている場所ではなかった。
豪はそれに気づいたが、何も言わなかった。
昼前になると、ほとんどの箱を一階へ運び終えた。
残っているのは、奥に置かれた丈夫な段ボール二箱だけだった。
一つには「法律相談会関係」と書かれ、もう一つには「昌彦・事務所」とある。
豪は後者へ手を伸ばした。
しかし持ち上げようとしたところで、階下から貴美子の声がした。
「豪、その奥の箱はいいわ」
「何で?」
「今日はそこまで見られないから。後日にしましょう」
「下へ持っていくだけなら」
「いいの。今日は手前のものだけで十分」
声は穏やかだった。
それでも、もう一度言えば面倒な顔をされそうな響きがある。
豪は箱から手を離した。
「分かった」
奥の二箱はそのままにして、物置の扉を閉める。
そこに何が入っているのか、豪は確かめなかった。
昼食は母親の作った筑前煮と、冷蔵庫に残っていた焼き魚だった。
居間の窓を開けると、庭から土の匂いを含んだ風が入ってきた。午前中より日差しが強くなり、食卓の上に置かれた湯飲みの影が、ゆっくり畳の方へ伸びている。
豪は久しぶりに実家の食事を口へ運んだ。
「うまい」
「そう?」
「うん。やっぱり自分で作るのとは違うね」
「だから、ちゃんと料理しなさいって言ってるでしょう」
「褒めたつもりだったんだけど」
「分かってるわよ」
貴美子は少し笑った。
食事中、仕事の話になった。
豪が最近の営業先について話していると、貴美子は箸を止めずに聞いていた。
「この前、課長から新しい案件を任されそうになってさ」
「そうなの」
「今までより少し規模が大きいやつ。先方との交渉も、俺が中心になってほしいって」
「断ったの?」
「いや、まだ返事してないけど」
貴美子は味噌汁のお椀を置いた。
「無理しない方がいいわよ」
「そんな大げさな話じゃないよ」
「仕事が増えれば責任も増えるでしょう。今のままで十分じゃない」
豪は箸を動かした。
「まあね」
「あなたは今の仕事をきちんと続けていけばいいの。目立つようなことをしなくても、普通に暮らせるんだから」
その言葉には聞き覚えがあった。
豪が小さいころから、何度となく聞かされてきたものだった。
普通に。
目立たずに。
余計なことをせずに。
豪自身、今の生活に不満はない。
給料は特別高くないが、一人暮らしには困らない。
会社ではそれなりに評価されているし、友人もいる。
誰かと争うことも、ひどく嫌われることもない。
母親の言う普通の生活を、自分なりに続けているつもりだった。
「心配しなくても大丈夫だって」
豪が言うと、貴美子は頷いた。
「そうね」
それから少し間を置き、付け加える。
「お父さんみたいに、何でも引き受けなくていいんだから」
豪は箸を止めた。
貴美子は何気なく言ったのだろう。
すぐに味噌汁へ手を伸ばし、普段どおり食事を続けている。
豪も何か返事をしようとした。
だが、うまい言葉が見つからなかった。
「母さん」
「何?」
「父さんって、そんなに何でも引き受けてた?」
貴美子は顔を上げた。
「そうねえ」
しばらく考えてから、小さく笑う。
「断るのが下手だったのよ。困っている人を見ると、何とかしてあげたくなる人だったから」
「仕事なんだから、断ることもあったでしょ」
「もちろんあったわよ。でも、一度話を聞いちゃうとね」
貴美子はそこで言葉を切った。
湯飲みを持ち上げる。
少し冷めた茶を飲み、食卓の端へ視線を移した。
「昔は、そういうところが好きだったんだけど」
豪は母親を見た。
貴美子はそれ以上、父親のことを話さなかった。
豪も続けて尋ねることができず、残っていた魚を箸でほぐした。
食事のあと、豪は洗い物を引き受けた。
母親は最初こそ断ったが、結局は台所を任せてくれた。
皿に残った油を水で流し、洗剤をつけたスポンジで擦る。窓から入る風が腕を冷やし、水道から落ちる水がステンレスの流し台に細かく跳ねた。
貴美子は隣の部屋で、古い書類の仕分けを続けている。
ときどき紙の擦れる音が聞こえ、何かを確認するような独り言が混じる。
豪が最後の皿を洗い終えたとき、その音が止まった。
振り返ると、貴美子が居間の椅子に腰を下ろしていた。
片手をテーブルにつき、少し俯いている。
「母さん?」
声をかけると、貴美子は顔を上げた。
「何?」
「大丈夫?」
「ええ。ちょっと疲れただけ」
「無理しないでよ」
「分かってるわよ。昔みたいには動けないわね」
貴美子は笑って立ち上がろうとしたが、豪が手を上げて止めた。
「もう座ってて。片づけは俺がやるから」
「でも」
「せっかく来たんだし」
貴美子は少し迷ってから、椅子へ座り直した。
「じゃあ、お願いしようかしら」
豪は頷き、居間の段ボールをまとめ始めた。
書類を確認しながら動いていると、昔の写真が何枚か出てきた。
その一枚に、若いころの父親が写っていた。
地域の法律相談会らしい場所で、数人の男性と並んで立っている。
父親は笑っていた。
普段から、こんな顔で笑う人だった。
豪が学校で何か賞をもらったときも、友人を家へ連れてきたときも、父親はよく笑った。
母親も、昔はよく笑っていた。
写真の中の父親と、今椅子に座っている母親。
その間に十五年近い時間がある。
豪は写真を見つめたあと、ほかの書類と一緒に封筒へ戻した。
午後三時を少し過ぎたころ、作業はひとまず終わった。
豪は残しておく箱を部屋の隅へ寄せ、処分するものを別にまとめた。
貴美子は玄関まで見送りに出てきた。
「今日はありがとう。助かったわ」
「どういたしまして」
「筑前煮、忘れないでね」
「忘れないって」
「冷蔵庫に入れたら、明日中には食べなさいよ」
「はいはい」
貴美子が小さな保存容器の入った袋を渡す。
豪が受け取ると、母親はその手を見た。
「怪我したの?」
「え?」
「そこ」
右手の甲に、薄い赤い筋が残っていた。
段ボールで擦ったところだ。
「ああ、箱の角で。たいしたことないよ」
「ちょっと待って。絆創膏あるから」
「いや、もう痛くないし」
貴美子はそれでも救急箱を取りに戻ろうとしたので、豪は笑って止めた。
「本当に大丈夫だから」
「そう?」
「うん。また今度来るよ。奥の箱、残ってるし」
貴美子は少しだけ黙った。
「そうね。またお願いするかもしれないわ」
「分かった」
豪は靴を履いた。
玄関の扉を開けると、午後の日差しが正面から差し込んできた。
春の暖かさが残る住宅街は静かで、どこかの庭から水を撒く音が聞こえている。
「豪」
背後から呼ばれた。
振り返ると、貴美子が扉の内側に立っていた。
「何?」
「仕事、無理しないでね」
「分かってるよ」
「人に頼まれたからって、何でも引き受けなくていいのよ」
豪は笑った。
「大丈夫。そんなに立派な人間じゃないから」
貴美子は一度だけ、何かを言いたそうな顔をした。
しかし結局、小さく頷いただけだった。
「気をつけて帰りなさい」
「うん」
豪は門を出て、駅へ向かって歩き始めた。
保存容器の入った袋が、歩くたびに膝へ軽く当たる。
母親の言葉が、まだ耳に残っていた。
そんなに立派な人間じゃない。
自分で言った言葉だった。
嘘ではないと思う。
豪は時々、人に意地悪をする。
親切もするし、嘘もつく。
誰かに感謝された日には、別の誰かを困らせることだってある。
父親とは違う。
父親のような人間には、ならない。
豪は道の途中で振り返った。
実家の屋根が、隣の家の向こうに少しだけ見えていた。
母親は今ごろ、また一人で片づけを始めているのだろうか。
無理しないようにと言ったばかりなのに、きっと何かしている。
そんなところも、昔から変わらなかった。
豪はもう一度前を向き、歩き出した。
今日も、少し良いことをしてしまった。
先週の徳蔵の買い物も、まだ十分に片づいていない。
別に急ぐほどのことではないが、あまりため込むのもよくない。
電車の時間を確かめながら、豪は夕方までに何か適当なことをしようかと考えた。
しかし、母親の手の甲に浮かんでいた細い血管や、食卓に残された父親のカップが頭から離れず、結局、何も思いつかなかった。
良いことも悪いこともしないで、普通に生きなさい。
あのころ、母親は何度もそう言っていた。
豪は今も、その言葉を守っているつもりだった。
少なくとも、自分では。




