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3/16

第3話 善人と悪人の友達

土曜日の朝、豪は駅前のコンビニで缶コーヒーを二本買った。

一本は自分用。もう一本は、これから会う友人の分だった。

会計を済ませて店の外へ出ると、四月の風が頬を撫でた。平日ならスーツ姿の会社員が行き交う駅前も、休日の朝はどこかのんびりしている。バス停には買い物袋を持った年配の女性が二人並び、近くのパン屋からは焼き上がったばかりの生地の匂いが漂っていた。

豪はスマートフォンで時間を確認する。

午前九時二十七分。

約束までは、あと三分。

「ごーう!」

背後から声がした。

振り返ると、矢作圭太が片手を上げながら近づいてくる。

同い年の幼馴染で、中学を卒業してからも付き合いが続いている数少ない友人だった。

圭太はいつも動きやすい服を着ている。今日も薄い紺色のパーカーにチノパンという格好で、肩には使い込んだ大きな鞄を下げていた。

「おはよう。早いな」

「圭太こそ。どうせ十五分くらい前からいたんだろ」

「いや、十分くらい」

「変わんないじゃん」

豪が缶コーヒーを差し出すと、圭太は嬉しそうに受け取った。

「えっ、いいの?」

「いつもお世話になってるんで」

「やめろよ、そういう言い方。こっちが頼んで来てもらってるんだから」

「じゃあ百五十円」

「金取るのかよ!」

二人は笑いながら歩き出した。

圭太と会うと、豪は昔から少しだけ気持ちが軽くなった。

会話に余計な探り合いがない。

相手が何を考えているのか、おおよその見当がつく。

困っている人がいれば助ける。頼まれれば断らない。少しくらい損をしても気にしない。

圭太はそういう人間だった。

豪とは違う。

もっとも、本人にそんなことを言えば、きっと困った顔をするだろう。

「今日は何するんだっけ?」

「一人暮らしの高齢者さんの買い物支援。初めて行くお宅が一軒あるんだ」

「俺、荷物持ち?」

「荷物持ち兼、話し相手かな。お年寄りって、意外と誰かとしゃべる時間が少ないからさ」

「圭太がしゃべればいいじゃん。得意だろ」

「俺はしゃべりすぎるって言われるから」

「自覚あったんだ」

「最近ちょっとだけね」

圭太は笑ったが、その声には本当に気にしているような響きがあった。

豪は缶コーヒーを飲みながら、横目で友人を見る。

昔の圭太なら、たぶんそんなことも言わなかった。

誰かのためになると信じたことを、疑わずに続ける人間だった。

今も基本的には変わらない。

ただ、人間というものは、少しずつ変わっていくのかもしれない。

豪は自分のことを考えかけたが、やめた。

休日の朝から、わざわざ面倒なことを考える必要もない。

目的の住宅地へ着いたのは、十時を少し回ったころだった。

大通りから一本入ったところに古い一戸建てが並び、庭先には鉢植えや自転車、使わなくなった植木鉢などが置かれている。どこかの家で洗濯物を干しているらしく、風に乗って柔軟剤の甘い匂いが漂ってきた。

圭太が一軒の家の前で立ち止まる。

木製の門扉には、小さな表札がついていた。

山科。

「ここだよ」

圭太が呼び鈴を押した。

少しして、家の中から足音が近づいてくる。

ゆっくりした足取りだった。

玄関の鍵が開き、引き戸が横へ動く。

現れたのは、白髪を短く刈り込んだ老人だった。

痩せているが背筋は思ったより伸びており、薄手のカーディガンの下には襟つきのシャツを着ている。

「おう、来たか」

「山科さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」

「そんな大げさに言わんでも、買い物くらい自分で行けるんだがな」

「でも、荷物が重いと大変でしょう」

「大変かどうかは、持ってみんと分からん」

圭太は少し困った顔をした。

豪は横から頭を下げる。

「初めまして。畑中豪です。今日は荷物持ちとして雇われました」

老人は豪を見た。

「給料はいくらだ」

「まだ交渉してません」

「だったら安く使われとるぞ。こいつには気をつけろ」

老人が圭太を指さす。

「えっ、僕ですか?」

「そうだ。先週なんぞ、頼んでもいないのに冷蔵庫の中を整理しようとした」

「賞味期限が切れてるものが多かったからですよ」

「俺の冷蔵庫だ。好きにさせろ」

「でも、体に悪いですし」

「八十近い人間に、今さら体に悪いも何もあるか」

豪は思わず笑った。

圭太はまだ何か言いたそうだったが、豪が軽く肩を叩くと口を閉じた。

「とりあえず買い物、行きましょうか」

老人は豪を見て、少しだけ口元を緩めた。

「お前は話が早いな」

「営業なんで」

「なるほど。口だけは達者なわけだ」

「そこまで見抜かれると、仕事しづらいですね」

老人は声を出して笑った。

山科徳蔵、七十九歳。

妻には数年前に先立たれ、現在は一人暮らしをしているという。

近所には顔見知りがいるものの、子どもたちは遠方に住んでおり、日常のちょっとした用事を頼める相手が少ないらしい。

もっとも、徳蔵本人はそうした事情を詳しく話そうとはしなかった。

「頼めば何でもやってもらえると思われても困るからな」

そう言って笑う姿を見ていると、豪にはむしろ、誰かに頼ることを好まない人なのだろうと感じられた。

三人は近くのスーパーへ向かった。

徳蔵は買い物かごを自分で持ち、野菜を一つずつ手に取って確かめる。

圭太はその横で、健康にいい食品や宅配サービスについて説明していた。

「山科さん、重いお米なんかは配送してもらった方がいいですよ。最近はネットでも注文できますし」

「電話一本で済むなら考える」

「スマホからできますよ。今度一緒に登録しましょうか」

「面倒だな」

「覚えたら簡単ですって」

「それは覚えた人間の言い分だろ」

豪は隣で笑いをこらえた。

圭太は本当に親切だ。

本人に悪気はない。

それでも、親切というものは相手が望んだ形でなければ、時々ひどくやっかいになる。

「圭太、ちょっと」

豪が小声で呼ぶ。

「何?」

「山科さん、今日は買い物したいだけじゃない?」

圭太は徳蔵の背中を見た。

老人はトマトを二つ手に取り、どちらがよいか真剣に悩んでいる。

「そうかな」

「たぶんね。今は好きに選んでもらおうよ」

圭太は少し考えたあと、頷いた。

「そっか。そうだよな」

その顔があまりに素直だったので、豪は思わず笑ってしまった。

相手のためになることを考えすぎて、相手自身が何をしたいのか忘れてしまう。

圭太には、そういうところがある。

だが、その熱心さのおかげで助けられている人も多い。

善意というものは、なかなか扱いが難しいらしい。

買い物を終えると、徳蔵は自分で荷物を持とうとした。

圭太がすぐに手を伸ばしかけたので、豪は横から言った。

「山科さん、重い方だけ俺にください。軽い方はお願いします」

徳蔵は二つの袋を見比べた。

一方には米や調味料が入っている。

もう一方には野菜とパン、牛乳が一本。

「じゃあ、こっちを頼む」

「了解です」

豪は重い方を受け取った。

徳蔵は軽い袋を自分で持ち、先に歩き始める。

隣で圭太が小さく息を吐いた。

「豪、うまいな」

「何が?」

「俺、つい全部やってあげようとするんだよね」

「悪いことじゃないと思うけど」

「でも、山科さん嫌がるから」

「次から半分だけ持てば?」

圭太は笑った。

「そうする」

帰宅した徳蔵は、二人に茶を出そうとした。

圭太が遠慮すると、老人は不満そうに眉を寄せる。

「人の家に来て、茶も飲まずに帰る気か」

「いや、次の予定もあるので」

「一杯くらい飲めるだろ」

豪は圭太を見る。

「一杯だけ、いただこうか」

徳蔵は満足そうに頷いた。

居間には古い木製の家具が並び、磨かれた卓上には細かな傷が残っていた。畳には日差しで色の薄くなった部分があり、窓から入る風がレースのカーテンをわずかに膨らませている。急須から立ち上る湯気には茶葉の青い香りが混じり、部屋の奥では振り子時計が静かに時を刻んでいた。

徳蔵は茶碗を置くと、豪へ尋ねた。

「お前、結婚は?」

「してないです」

「相手は?」

「そっちもいません」

「仕事は?」

「営業です」

「そんなに口が達者なのに、女には弱いのか」

「営業成績と恋愛は別なんで」

徳蔵が笑う。

圭太も笑った。

豪は茶を口へ運びながら、この老人とは案外気が合いそうだと思った。

ただ、帰り道では別のことが頭をよぎった。

今日は結構、良いことをしてしまった。

重い荷物を持ち、徳蔵の話し相手になり、圭太と老人の間を取り持った。

どれもたいした行為ではない。

しかし、全部合わせると少し気になる。

豪は自分の指先を見る。

米袋の持ち手が食い込んだ跡が、まだ薄く赤く残っていた。

まあ、いいか。

急いで何かをするほどではない。

小さなことなら、多少は後回しにできる。

「また来週も来られる?」

圭太が尋ねた。

「仕事次第かな」

「山科さん、豪のこと気に入ってたよ」

「そう?」

「うん。俺なんかより話しやすそうだった」

豪は笑った。

「圭太が話しすぎるからだろ」

「やっぱそうかなあ」

「でも、頼りにはされてると思うよ」

「だといいけど」

圭太は少し照れたように笑った。

豪はその顔を見ながら、昔から変わらないなと思った。

誰かに認められたときの圭太は、いつもこんな表情をする。

自分より先に相手のことを考え、時々それで失敗する。

それでも、また誰かを助けようとする。

豪には少し、真似できない生き方だった。

夕方、豪は駅近くの焼き鳥屋へ入った。

扉を開けると、炭の匂いと甘辛いタレの香りが一度に押し寄せてきた。換気扇の低い音に、客たちの笑い声と食器の触れ合う音が重なる。外はまだ明るかったが、店内には赤い提灯の光が落ち、早くも夜になったような空気が漂っていた。

「おう、豪!」

奥の席から太い声が飛んできた。

西浦鉄平が片手を上げている。

短く刈った髪。がっしりした肩。少し鋭い目つき。

初対面なら、できれば近くに座りたくないと思う人もいるだろう。

本人もそれは自覚しているらしいが、特に直すつもりはないようだった。

「遅かったな」

「約束の五分前ですけど」

「俺が先に来てんだから、お前が遅いんだよ」

「すごい理屈ですね」

「社会ってそういうもんだ」

鉄平は真顔で言い、すぐに笑った。

豪も向かいに座る。

「今日、休みだったんですか?」

「午前だけ仕事。午後は暇だったからな」

「だったらもっと遅い時間でもよかったのに」

「お前が早い方がいいって言ったんだろ」

「そうでしたっけ」

「都合悪いことだけ忘れんの、やめろ」

鉄平は店員を呼び、豪の飲み物を注文してくれた。

言葉遣いは荒いが、気が利く。

見た目に反して、細かなところをよく見ている人間だった。

豪が鉄平と知り合ったのは、会社へ入った年のことだった。

そのころ、ある出来事をきっかけに世話になり、以来こうして時々飲むようになった。

豪と鉄平は性格が違う。

交友関係も違うし、育ってきた環境も違う。

それでも、不思議と話が合った。

「最近どうよ、仕事」

鉄平が串を手に取る。

「普通ですよ」

「お前、いっつもそれだな」

「実際そうなんで」

「給料は?」

「普通です」

「彼女は?」

「いません」

「普通以下じゃねえか」

「そこは放っといてください」

鉄平は声を出して笑った。

「お前、顔は悪くねえのにな。もっと積極的に行けよ」

「そういう鉄平さんは?」

「俺はもう相手いるだろ」

「知ってますよ」

「なら聞くな」

店員が焼き鳥を運んできた。

鉄平は皿を豪の方へ寄せ、先に食べろと言うように顎をしゃくった。

こういうところも、少し不思議だった。

豪は鉄平を、どちらかといえば悪い側の人間だと思っている。

若いころには喧嘩もしていたらしいし、今でも初対面の相手には少し威圧的なところがある。

だが、誰かを困らせるために何かをする姿は、あまり見たことがない。

むしろ逆だ。

困っている人を見ると、本人が気づかないうちに助けている。

「おい、兄ちゃん」

突然、鉄平が声を上げた。

豪が顔を上げると、少し離れたカウンターで酔った男が店員に絡んでいた。

男は三十代後半くらいで、顔が赤い。

「だから、さっき頼んだやつまだ来てねえって言ってんだよ!」

店員は若い女性で、何度も頭を下げている。

「申し訳ありません。すぐ確認しますので」

「何回確認すんだよ。さっきから同じこと言ってんだろ!」

男がカウンターを叩いた。

店内の会話が少し静かになる。

鉄平は串を皿へ戻し、立ち上がった。

豪はその動きを目で追う。

まずいかもしれない。

鉄平は見た目が見た目だ。

酔った相手と口論になれば、周囲も巻き込んで面倒なことになる。

「鉄平さん、ちょっと」

豪が声をかけるより先に、鉄平は男へ近づいた。

「兄ちゃん、どうした?」

声は低い。

男が振り向く。

「あ? 何だよ、お前」

「注文来ねえの?」

「そうだよ。ずっと待ってんだよ」

「じゃあ、今確認してもらってんだから、待っとけよ」

男は鉄平を睨んだ。

鉄平も相手を見ている。

二人の間に、妙な沈黙が生まれた。

店員が小さく息を呑む。

豪は椅子から腰を浮かせかけた。

しかし鉄平は、相手を威嚇するようなことはしなかった。

ただ少し声を落とす。

「兄ちゃん、もう結構飲んでんだろ。俺も腹減ってるときに注文忘れられたら腹立つけどさ、店員さんに怒鳴っても飯が早くなるわけじゃねえから」

男は何か言おうとしたが、口を閉じた。

鉄平は店員へ向き直る。

「すみません。この人の注文、確認してもらっていいですか」

「はい、すぐに」

「よろしくお願いします」

それだけ言うと、鉄平は席へ戻ってきた。

豪はしばらく、何も言えなかった。

「何だよ」

鉄平が尋ねる。

「いや、もっと揉めるかと思って」

「俺が?」

「はい」

「何でだよ」

「見た目的に」

「お前、失礼すぎんだろ」

鉄平は呆れたように笑った。

「若いころならともかく、今さら酔っぱらいと喧嘩して何が楽しいんだよ」

「昔は楽しかったんですか?」

「そこ拾うな」

豪は笑った。

鉄平も笑いながら、冷めかけた焼き鳥を口へ運ぶ。

しばらくして、先ほどの男が店員へ小さく頭を下げる姿が見えた。

豪はそれを眺めながら考える。

圭太は、親切のつもりで徳蔵を困らせていた。

鉄平は、喧嘩でも始めそうな顔をして人を助けていた。

少し、ややこしい。

人間を簡単に分類しようとすると、どうもこういうことが起きる。

それでも豪にとって、圭太と鉄平の二人は大切な友人だった。

片方は、誰かを助けることをいつも考えている。

もう片方は、乱暴そうに見えるが意外と義理堅い。

豪はその両方と付き合いながら、自分がどちらか一方へ偏らないようにしているつもりだった。

もちろん、圭太や鉄平が何をしたところで、それが豪自身の善悪に加わるわけではない。

そこは別の話だ。

今日、徳蔵を助けたのは豪だ。

そして今のところ、それに見合う悪いことはしていない。

鉄平が店員を助けたからといって、自分の帳尻まで合うはずもない。

そう考えると、少しだけ面倒だった。

「何、難しい顔してんの?」

鉄平が尋ねた。

「別に。今日ちょっと良いことしちゃったんで」

「は?」

「いや、何でもないです」

「良いことしたならいいじゃねえか。何が困るんだよ」

豪は笑った。

「まあ、そうですよね」

鉄平は首を傾げた。

「お前、たまに本当に変だよな」

それから、何でもないことのように続ける。

「もっと普通に生きろよ」

豪はグラスを持ち上げた。

普通に生きるために、結構頑張っているんだけどな。

そう思ったが、口にはしなかった。

午後七時半を過ぎたころ、二人は店を出た。

鉄平はもう一軒行こうと誘ったが、豪は明日も少し用事があるからと断った。

本当は特別な予定などない。

ただ、今日はこれ以上余計なことをしたくなかった。

駅へ向かう道は、昼間よりずっと冷えていた。

焼き鳥屋の煙の匂いがまだジャケットに残っている。歩道の向こうでは信号が赤から青へ変わり、車の列がゆっくり動き始めた。街路樹の葉が風に擦れ、遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。

豪はポケットからスマートフォンを取り出した。

着信が一件。

母親からだった。

珍しい。

普段は短いメッセージで済ませることが多く、電話がかかってくるのは何か用事があるときくらいだった。

豪は画面を見たまま少し考え、折り返した。

呼び出し音が三回鳴る。

「もしもし、豪?」

畑中貴美子の声だった。

「母さん、どうしたの?」

「今、大丈夫?」

「うん。ちょうど帰るところ」

「そう。ご飯は食べた?」

「食べたよ」

「ちゃんとしたもの?」

「焼き鳥」

「野菜も食べなさいよ」

「食べたって。キャベツ」

「それだけ?」

豪は苦笑した。

母親は昔からこうだった。

食事のことになると、何歳になっても子ども扱いしてくる。

しばらく仕事のことや体調のことを尋ねられたあと、貴美子がようやく本題を切り出した。

「実はね、家に置いてある古い荷物を少し整理しようと思ってるの」

「荷物?」

「お父さんの仕事のもの。事務所から引き取った箱が、まだいくつか残ってるでしょう」

豪は足を緩めた。

「ああ、あれ」

「いつまでも置いておくわけにもいかないし、倉庫の方も片づけたいの。来週あたり、一度手伝いに来られない?」

「別にいいけど。量、多い?」

「そんなにはないと思う。ただ、私一人だと重くて」

豪は駅へ向かう人の流れから少し外れ、建物の壁際へ寄った。

父親の仕事の荷物。

その言葉を聞いたのは、久しぶりだった。

家には今も父親の写真がある。

事務所で使っていた本棚や机も、いくつか残っている。

ただ豪自身は、そこに置かれたものをあまり見ようとはしなかった。

見れば、父親がもういないことを思い知らされる。

それだけの話だった。

「分かった。来週行くよ」

「ありがとう。助かるわ」

「うん」

そこで電話が終わるかと思ったが、貴美子は何かを言いかけて、少し黙った。

「母さん?」

「ううん。何でもない」

「何?」

「お父さんが亡くなる前に使っていた資料も、まだあるみたいなのよ」

豪は顔を上げた。

道路の向こうで、歩行者用の信号が点滅し始めている。

「最後のころの?」

「ええ。事務所を移る準備をしていたときのものだと思うんだけど、私も全部は確認してなくて」

豪は返事をしなかった。

父親が亡くなったのは、十五年近く前のことだった。

ある日突然、もう帰ってこなくなった。

警察から説明を受け、母親が何度も同じことを尋ね、知らない人間が家の近くまで来るようになった。

あのころのことは、今でもよく覚えている。

ただ、父親がその日どこへ行き、誰と会おうとしていたのか。

そういう細かいことについては、ほとんど知らなかった。

当時の豪はまだ十三歳で、周囲の大人たちは必要以上のことを話そうとしなかった。

豪自身も、それ以上知ろうとはしなかった。

「豪、聞いてる?」

母親の声で、意識が戻った。

「うん。聞いてる」

「急がなくていいからね。来週、時間があるときで」

「分かった」

「じゃあ、気をつけて帰りなさい」

「母さんも、無理しないでよ」

「分かってるわよ」

電話が切れた。

豪はしばらくスマートフォンを見つめていた。

画面が暗くなると、街灯の光と自分の顔がぼんやり映った。

父親のことを、今さら何か知りたいと思ったことはなかった。

少なくとも、自分ではそう思っていた。

あの日から時間は十分に過ぎている。

大学へ進み、会社へ入り、普通に働き、友人と食事をする。母親ともそれなりに付き合い、必要なときには顔を見せる。

特別なことなど何もない人生だった。

父親の死について考えなくなったのも、そんな生活が続いていたからだろう。

だが、電話を切った今も、胸のどこかに小さなものが引っかかっている。

お父さんが亡くなる前に使っていた資料。

豪はその言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。

父親が最後に何の仕事をしていたのか。

考えてみれば、一度も母親に尋ねたことがない。

豪はスマートフォンをポケットへしまい、駅へ向かって歩き出した。

その日は人助けをした分の悪行を、まだ済ませていなかった。

普段なら少し気になるところだったが、今夜はそれよりも、母親の最後の言葉の方が妙に耳に残っていた。

あの人が最後に持っていた仕事の荷物もね。

父親の死について、豪には知らないことがある。

それだけは、どうやら間違いなさそうだった。

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