第2話 お詫びの代償
翌朝、豪はいつもより一本早い電車に乗った。
会社の最寄り駅から少し離れたところに、焼き菓子を売る店がある。通勤途中に何度か前を通ったことはあったが、実際に入るのは初めてだった。
開店したばかりの店内には、焼きたての生地とコーヒーの匂いが漂っていた。ガラスケースの中には小さなタルトやフィナンシェがきれいに並び、奥からは包装紙を折る軽い音が聞こえている。
豪は木戸への詫びに、個包装の焼き菓子が三つ入った小箱を選んだ。
昨日食べたものより、明らかに高い。
店員が箱にリボンをかけている間、豪は少しだけ考え込んだ。
同じものを返せばよかったのだろうか。
いや、昨日は木戸が楽しみにしていた菓子を勝手に食べてしまったのだから、多少は上乗せした方がいい。社会人としても、そのくらいの気遣いは必要だ。
ただ、その上乗せが問題だった。
「贈り物ですか?」
店員が尋ねる。
「まあ、そんなところです」
「きっと喜ばれますよ」
豪は笑った。
それが、いちばん困るのだけれど。
会社へ着くと、木戸はすでに出勤していた。
「おはようございます」
「おう。今日はちゃんと持ってきたか?」
「まだ何も言ってないんですけど」
「顔に書いてある。昨日のこと反省してますって」
豪は鞄から小箱を取り出した。
「これ、お詫びです」
木戸は箱を受け取り、リボンを見て目を丸くする。
「え、何これ。ちゃんとしてるじゃん」
「木戸さんが京都まで買いに行けって言うんで、せめて近いところで」
「近すぎるだろ。でも、いいのか? これ結構高いやつじゃねえ?」
「昨日の分もありますから」
「そっか。いや、ありがとな。わざわざ悪かったよ」
その言葉に、豪の口元が一瞬だけ止まった。
礼を言われるとは思っていた。
だが、そんなに申し訳なさそうにされると困る。
木戸は箱を開け、三つの焼き菓子を机の上に並べると、豪に一つ差し出した。
「お前も食う?」
「いや、いいです」
「遠慮すんなよ。昨日のやつよりうまいかもしれないぞ」
「大丈夫です。木戸さんが食べてください」
「そっか。じゃあ遠慮なく」
木戸は機嫌よく菓子を口へ運んだ。
豪はそれを見届け、自分の席へ戻った。
昨日の悪行については、これで十分だろう。
問題は、今日の分だ。
あの小箱は弁償であると同時に、少し余計な親切でもあった。
木戸は想像以上に喜んでいた。
それに、朝からわざわざ店へ寄ったという事実もある。
豪はパソコンを起動しながら、胸のあたりに指を当てた。
昨日はちょうどよかった。
今朝は、少し余っている。
人間関係というのは、どうしてこう面倒なのだろう。
午前十時半を過ぎると、営業部の電話が増え始めた。
窓の外は昨日よりも曇っていて、薄い雲を通った光が机の表面を白く照らしている。複合機の周辺には温まった紙とトナーの匂いがこもり、誰かが淹れたコーヒーの香りがそこへ混じっていた。
豪は書類を取りに立ち上がった。
共有棚には、案件ごとに色分けされたファイルが並んでいる。
青い背表紙は営業案件、緑は社内報告、黄色は契約関係。大まかな分類は決まっているものの、忙しい時期には中身と違う場所へ置かれることも珍しくない。
棚の前で、豪は一冊のファイルへ目を留めた。
青い背表紙に、取引先の名前が書かれている。
寺尾が担当している案件だった。
寺尾は豪より三歳下の営業社員で、仕事には真面目だが、準備に時間をかけすぎるところがある。今日も午後から取引先との打ち合わせがあるらしく、朝から資料を確認していた。
豪は青いファイルを引き抜いた。
少し、探すだけなら。
寺尾は普段から整理整頓にうるさい。指定の棚にファイルがなければ、きっと困るだろう。
でも、会社の中から持ち出すわけではない。
隣の棚へ移せば、十分も探せば見つかる。
豪はファイルを抱え、二歩ほど横へ移動した。
緑の報告書が並ぶ棚。その奥に少しだけ空いた場所がある。
青い背表紙を横向きにして押し込むと、手前の厚い資料に隠れて見えなくなった。
指を離す。
たったそれだけだった。
自分でも、何をやっているんだろうとは思う。
大学を出て、会社に入って六年。営業の仕事にも慣れた男が、朝から他人のファイルを移し替えている。
しかも仕事が暇なわけではない。
今日中に片づける案件もある。
豪は軽く息を吐き、元の席へ戻った。
十数分後、寺尾が立ち上がった。
共有棚へ向かい、青いファイルが並ぶ場所を確認する。
一冊ずつ背表紙を見ていたが、途中で手が止まった。
豪はパソコンの画面を見つめたまま、視界の端でその動きを追った。
寺尾はもう一度、最初から確認している。
それから下の棚へしゃがみ込んだ。
少し首を傾げる。
立ち上がる。
机へ戻る。
何かを確認して、また棚へ向かう。
豪はキーボードを打ちながら、胸の奥がようやく落ち着き始めるのを感じていた。
少し困った。
ちょうどいい。
そう思った直後、寺尾が声を上げた。
「あれ、誰か青葉商事のファイル知りません?」
近くの社員が顔を上げる。
「青葉? いつもの青いやつ?」
「はい。ここに置いたはずなんですけど」
「昨日持って帰ったんじゃないの?」
「いや、昨日帰る前に戻しました」
寺尾は自分の机をひっくり返すように探し始めた。
豪は時計を見る。
午前十一時前。
午後の打ち合わせまで、まだ時間はある。
慌てるほどではない。
「寺尾、何やってる?」
課長の声がした。
「すみません。青葉商事の資料が見当たらなくて」
「今日の打ち合わせのやつか?」
「はい」
「先方の都合で時間が早まったって、さっき連絡来ただろ」
豪の指が止まった。
寺尾は顔を上げる。
「えっ」
「十一時半からオンラインに変更になった。メール見てないのか?」
寺尾は急いでパソコンへ戻った。
豪も反射的に自分の画面を確認する。
部署の共有メールに、先方からの時間変更が届いていた。
確かに十一時半と書かれている。
昨日の段階では午後二時だった。
豪は時計を見た。
あと三十分ほどしかない。
「資料がないと説明できないんです。契約条件の確認がそこにまとまってて」
寺尾の声が少し上ずっていた。
課長は眉を寄せる。
「大事な資料なら、ちゃんと管理しろよ。前にも準備が遅れたことあっただろ」
「すみません」
「謝るのはいいから、探して」
豪は椅子から立ち上がった。
「寺尾、俺も探すよ」
「あ、ありがとうございます。すみません、畑中さん」
寺尾は額にうっすら汗を浮かべていた。
豪は棚へ向かう。
青いファイルを移した場所は覚えている。
一歩、二歩。
緑の報告書の列。
指先で手前の資料を少し引くと、その奥に青い背表紙が見えた。
豪はそこで、一瞬だけ動きを止めた。
これを取り出せば寺尾は助かる。
でも、自分が原因だ。
もともと何もしていなければ、助ける必要などなかった。
そう考えている間にも、背後では寺尾が引き出しを開け閉めしている。少し離れた席から、課長が電話で先方と話す声も聞こえた。
豪はファイルを引き抜いた。
「寺尾、これじゃない?」
寺尾が振り返る。
「あっ、それです! どこにありました?」
「こっちの棚に混ざってた」
「うわ、助かった。ありがとうございます!」
寺尾はファイルを受け取ると、急いで会議用の席へ戻った。
豪もその後を追い、準備を手伝った。
資料の順番を整え、必要なページに付箋を貼り、パソコンとの接続を確認する。十一時半には何とか打ち合わせを始められたものの、寺尾は最初の説明で少し言葉を詰まらせた。
課長が横から補足する。
豪は少し離れた席で、自分の仕事を続けていた。
打ち合わせが終わると、寺尾は課長に呼ばれた。
声は聞こえなかったが、肩をすぼめて何度も頷いている姿は見えた。
寺尾が席へ戻ってきたのは、昼休みが始まる少し前だった。
「大丈夫?」
豪が尋ねると、寺尾は苦笑した。
「まあ、何とか。先方には迷惑かけなかったと思います」
「ならよかったじゃん」
「でも課長から、準備が甘いって。資料なくしたの初めてなんですけどね」
寺尾は笑おうとしていたが、頬がうまく上がっていなかった。
「この前も別件で言われてたんで、結構きついっす」
豪は返事を探した。
何か言ってやりたい。
普段の寺尾は真面目だし、今回だって本人のミスではない。
それを知っているのは、この場では豪だけだった。
「まあ、あんまり気にすんなよ。次は俺も手伝うから」
「ありがとうございます。畑中さん、ほんと優しいですね」
豪は曖昧に笑った。
その言葉を聞いても、今回は落ち着かなかった。
寺尾が昼食へ出ていったあと、豪はしばらく共有棚を見ていた。
自分がした悪いことは、ファイルを少し移しただけだ。
でも、寺尾は課長から叱られた。
おそらく、その印象はしばらく残る。
助けたことで打ち合わせには間に合った。
それでも、叱られた事実までは元に戻らない。
悪いことが大きくなりすぎたのなら、助けた分を引いてもまだ残っているのだろうか。
いや、そもそも助けることは良いことだ。
その分は、また別に考えなければならない。
豪は額を押さえた。
こんなつもりではなかった。
ただ、少しだけ困らせるつもりだった。
「豪」
背後から声がした。
振り返ると、西浦亜紀が立っていた。
同じ年に入社した同期で、中学時代にも同じ学校へ通っていた女性だった。
肩にかかる髪を片側だけ耳にかけ、手には紙コップを持っている。今日は薄いベージュのカーディガンを着ていて、いつもなら笑いながら話しかけてくるところだが、今は妙に静かだった。
「どうしたの?」
豪が尋ねる。
亜紀はすぐに答えず、共有棚へ目を向けた。
「あの青いファイル、あそこにあったんだよね?」
「そうみたいだね」
「ふうん」
亜紀は紙コップを両手で包んだ。
熱いのだろう。飲もうとはせず、指先だけをゆっくり動かしている。
「私、朝ここ通ったんだ」
「そうなんだ」
「そのとき、豪が棚の前にいたよね」
豪は亜紀を見た。
「資料取りに来てたからね」
「うん。知ってる」
亜紀は小さく頷いた。
窓の外で雲が切れ、白い日差しが急に床へ落ちた。彼女の影が少し長くなり、その先が豪の靴先まで伸びてくる。
「豪ってさ」
「何?」
「あの資料、わざと動かした?」
豪は一度だけ瞬きをした。
亜紀は怒っているようには見えない。
ただ、答えを待っている。
「何の話?」
豪は笑った。
いつもと同じように。
取引先にも、上司にも、友人にも見せる顔だった。
亜紀はその表情をしばらく眺めていた。
「私、別に見たわけじゃないよ。ファイルを動かすところまでは」
「じゃあ、違うんじゃない?」
「そうかもね」
亜紀は紙コップに口をつけた。
少しだけ飲み、熱そうに唇を離す。
「でも、なんか引っかかるんだよね」
豪は肩をすくめた。
「昔から考えすぎなんだって、亜紀は」
「そうかな」
「そうだよ」
亜紀は否定しなかった。
その代わり、豪の顔をもう一度見た。
「その顔、昔も見たことあるんだよね」
豪の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。
「いつ?」
「さあ。いつだったかな」
亜紀はそう言って、自分の席へ戻っていった。
豪はその後ろ姿を見送った。
廊下の向こうから誰かの笑い声が聞こえ、電話が鳴り、複合機がまた動き始める。
会社はいつもどおりだった。
豪は自分の席へ戻り、パソコンの画面に目を向けた。
だが、何をしようとしていたのか、すぐには思い出せなかった。
亜紀が昔のことを持ち出すのは珍しい。
中学を卒業してから、もう何年もたっている。
あのころの自分と今の自分は、多少なりとも違うはずだった。
少なくとも豪は、そう思っている。
ふと、ある教室の光景が頭に浮かんだ。
窓際の机。
開け放たれた引き出し。
集まってくる同級生たち。
豪はそこで考えるのをやめ、仕事のメールを開いた。
まさか。
あれのことを、まだ覚えているはずがない。




