第1話 良いことをしてしまった
畑中豪は、人に親切にした日の帰り道が嫌いだった。
感謝されるのが嫌なわけではない。困っている人がいれば、できることはしてあげたいし、実際に喜ばれれば自分まで嬉しくなる。営業という仕事にも、そういう性格はそれなりに役立っていた。
問題は、そのあとだった。
四月最初の月曜日。午前十時を少し回ったころ、豪は取引先のビルで、また余計なことをしてしまった。
打ち合わせを終えてエレベーターを待っていると、先ほどまで一緒にいた担当者が、胸元から社員証を落としたのである。
黒いストラップがジャケットの袖に引っかかったらしく、男が腕を動かした拍子に金具が外れた。透明なケースは床へ落ちると一度だけ跳ね、エレベーターの扉へ向かって滑っていく。
「あっ」
男が気づくより先に、豪の身体が動いていた。
右足を踏み出し、靴底でケースを軽く止める。もう少し勢いがあれば扉の隙間に入り込んでいたかもしれないが、そこまでは考えていない。ただ目の前で落ちたものを、反射的に拾っただけだった。
「佐田さん、これ」
「あれっ、うわ、危なかった。ありがとうございます!」
担当者の佐田は慌てて胸元を押さえたあと、豪の手から社員証を受け取った。
「これ、なくすと面倒なんですよ。再発行に申請がいるし、今日は午後から別棟にも行かなきゃいけなくて」
「そうなんですか。間に合ってよかったです」
「いやあ、本当に助かりました。畑中さん、よく気づきましたね」
「たまたま目に入っただけですよ」
豪は笑って答えた。
佐田が社員証をつけ直すのを見届け、ちょうど到着したエレベーターへ乗り込む。扉が閉じかけたところで、佐田がもう一度こちらへ頭を下げた。
「ありがとうございました。また来週、お願いします!」
豪も会釈を返した。
エレベーターが動き出す。天井の換気口から流れてくる冷たい空気に、清掃したばかりの床の匂いが混じっていた。磨かれたステンレスの壁には、ネクタイを少し緩めた自分の姿が映っている。
悪くない打ち合わせだった。先方の反応もよく、来週には新しい案件の具体的な話ができそうだったし、最後に社員証まで拾ってあげたのだから、佐田からの印象も少しはよくなっただろう。
そこまで考えたところで、豪は壁に映る自分を見た。
また、やってしまった。
頼まれたわけでもないのに社員証を拾い、しかも相手は三回も礼を言った。
ただ落とし物を返しただけだが、佐田の困り方を見るかぎり、そこそこの親切だったらしい。
豪はスーツのポケットへ手を入れ、昼食に何を食べようかと考えた。今日は少し値の張る定食にしようと思っていたのだが、その前に別の用事を済ませなければならない。
何をすれば、ちょうどいいだろう。
こういう日は仕事よりも面倒だった。
会社へ戻る道は、春にしては少し暑かった。
昼前の商店街には新入社員らしい集団がちらほらいて、慣れない革靴で歩いているせいか、みんな足元を気にしていた。街路樹にはまだ若い葉がつき始めたばかりで、通り抜ける風が枝を揺らすたびに、小さな影が歩道の上を移動する。
豪はコンビニの前で足を止めた。
自動ドアから出てきた女性が、買い物袋を片手に財布をしまおうとしている。袋の持ち手が片方だけ伸びきっており、どう見ても危なっかしい。
豪は一歩近づきかけたが、すぐに歩く方向を変えた。
今は、あまり親切にしない方がいい。
それでも数歩進むと、後ろからビニールの破れる音が聞こえた。
振り返れば、女性の足元にペットボトルが二本転がっている。
豪は反射的に戻りかけ、途中で足を止めた。
ちょうど近くにいた学生が一本を拾い、女性へ手渡していた。もう一本も女性自身が拾い上げる。
よかった。
いろいろな意味で、よかった。
豪は胸をなで下ろし、今度こそ会社へ戻った。
午後一時を少し過ぎた営業部は、食事を終えた社員が戻り始める時間だった。
複合機から紙が吐き出される音と、誰かが電話口で謝っている声が重なる。窓際の机には春の日差しが斜めに差し込み、ブラインドの隙間から伸びた白い筋が床の上に並んでいた。
豪が自分の席へ戻ると、斜め向かいに座る木戸が、何やら小さな箱を眺めていた。
「木戸さん、何ですか、それ」
「姉貴の京都土産。週末に実家へ来たときにもらったんだけどさ」
箱には薄い焼き菓子が入っていたらしい。
「もう一枚しかないんですね」
「そう。家で食べようと思って取っといたんだけど、朝からずっと忙しくてさ。三時のお楽しみ」
木戸は最後の一枚を小袋ごと机の端へ置き、電話を取るために席を離れた。
豪はそれを目で追った。
小袋は透明で、中には薄い焼き菓子が一枚入っている。値段は知らないが、京都の土産物ならそれなりにするのだろう。
しかも最後の一枚だ。
豪は椅子の背にもたれ、少し考えた。
木戸はきっと怒る。
とはいえ本気で喧嘩になるほどの話でもない。謝って新しい菓子を買えば済むし、木戸とは普段から軽口を言い合う仲だった。
ちょうどいいかもしれない。
豪は立ち上がり、木戸の机へ近づいた。
手を伸ばす直前、もう一度だけ考える。
さすがに人のお菓子を勝手に食べるのはどうかと思う。
自分が取っておいた最後の一枚を食べられたら、普通に嫌だ。
だが、だからこそ意味がある。
豪は小袋をつまみ上げた。
指先に触れる包装は想像以上に薄く、端を引っ張ると乾いた音を立てて裂けた。中の焼き菓子には細かな砂糖がまぶしてあり、持ち上げた拍子に白い粒が二つ三つ机へ落ちる。
口へ運ぶ。
バターの香りが広がり、軽く噛んだだけで生地がほろほろと崩れた。
うまい。
思わず、もう一口食べてしまった。
「あっ!」
背後から声が飛んできた。
振り返ると、電話を終えた木戸が立っている。
木戸は豪の顔を見て、次に手元の小袋を見た。
「お前、何食ってんの?」
「すみません、木戸さん」
「いや、ちょっと待て。それ俺のじゃん」
「はい」
「はいじゃなくて。さっき話しただろ。最後の一枚だって」
「そうでしたね」
「そうでしたね、じゃねえよ!」
木戸が声を上げたので、近くの社員がこちらを向いた。
豪は残った焼き菓子を口へ入れ、空になった小袋を見下ろした。
「おい、なんで全部食うんだよ!」
「もう開けちゃったんで」
「そういう問題か?」
笑い声が起きた。
木戸は呆れたように額へ手を当て、豪の肩を小突いた。
「お前、たまに本当に意味分かんねえな」
「明日、何か買ってきますから」
「当たり前だろ。できれば京都まで行って買ってこい」
「新幹線代が高いですね」
「俺の菓子は安くないんだよ!」
周囲からまた笑い声が上がった。
豪も笑っていた。
木戸はまだぶつぶつ言っていたが、本気で怒っている様子ではない。豪は空き袋を捨て、手についた細かな砂糖を払った。
ようやく、胸の奥が静かになった。
朝からずっと気になっていた小さな引っかかりが消えている。
佐田に社員証を返して、木戸の楽しみにしていた菓子を勝手に食べた。
釣り合った。
それだけのことなのだが、豪にはこの感覚が何より大切だった。
席に戻ると、午前中に送った見積書について先方から返事が届いていた。
豪はすぐに仕事へ取りかかった。
数字を確認し、問い合わせの内容をまとめ、必要な箇所を修正する。午後三時には上司へ報告を終え、別の取引先からの電話にも対応した。
ごく普通の月曜日だった。
木戸からは何度か菓子泥棒と呼ばれたが、そのたびに豪は適当な返事をして笑った。
仕事を終えたころには、そんなこともほとんど気にならなくなっていた。
ただ、帰り支度をしていると、木戸が通りがかりに言った。
「明日、本当に忘れんなよ」
「分かってますって」
「できれば今日のより高いやつな」
「要求が増えてません?」
「当然だろ。俺の楽しみ奪ったんだから」
豪は笑いながら頷いた。
木戸が離れていくのを見送ったところで、ふと考える。
明日、菓子を返す。
同じものでは申し訳ないから、少しいいものを買う。
木戸はたぶん喜ぶだろう。
それはそれで、困る。
豪は椅子の背にかけたジャケットを持ったまま、しばらく動かなかった。
弁償するだけなら、悪いことを元に戻す行為として考えられる。
しかし、それ以上のものを渡して喜ばれたら。
余分な親切になってしまう。
「畑中、まだいたの?」
同じ部署の女性社員が声をかけてきた。
「いや、今帰るところです」
「今日の佐田さんとの打ち合わせ、うまくいったんだって? さっき課長が褒めてたよ」
「まだ具体的にはこれからですけどね」
「でも、畑中ってやっぱり人当たりいいよね。ほんと良いやつだと思う」
豪は顔を上げた。
「そんなことないですよ」
「いやいや、みんな言ってるから。今日だって木戸さんとあれだけ笑ってたし、誰とでも仲いいじゃん」
「お菓子盗んで怒られたんですけど」
「それは普通にだめでしょ」
女性は笑いながら手を振り、エレベーターの方へ歩いていった。
豪も少し遅れて会社を出た。
外はすでに暗くなり始めていた。昼間の熱が建物の間に残っている一方で、駅へ向かう風にはまだ春の冷たさがある。歩道に並ぶ街灯が一つずつ明るくなり、帰宅を急ぐ人たちの靴音が背後から追い越していった。
良いやつ。
そんなふうに言われたのは、何も今日が初めてではない。
豪はそれほど悪い人間ではないと思う。仕事はきちんとするし、友人もいる。人を助けることもあれば、ちょっとした悪戯をすることもある。
誰だって、良いところと悪いところの両方を持っているはずだ。
そのくらいがちょうどいい。
駅の改札を通り、ホームへ下りる。
電車を待ちながら、豪はスマートフォンの予定表を開き、今日の日付を確認した。
四月六日。
そこへ小さな丸をつける。
いつものことだった。
ただ、先ほど言われた言葉がまだ耳に残っている。
良いやつ。
昔、同じことを言われていた人がいた。
人の頼みを断れず、困っている相手を見過ごせなくて、誰かが助かったと聞くたびに自分のことのように喜ぶ人だった。
あの人のことを思い出すと、いつも途中で考えるのをやめたくなる。
豪はスマートフォンを伏せ、近づいてくる電車の明かりを見つめた。
良い人だった。
優しい人だった。
立派な人だった。
みんな、そんなふうに言っていた。
その人はもう、どこにもいない。
だから豪は、良いやつになんてなりたくなかった。




