↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キャリブレーション  作者: asnt2026


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/16

第1話 良いことをしてしまった

畑中豪は、人に親切にした日の帰り道が嫌いだった。

感謝されるのが嫌なわけではない。困っている人がいれば、できることはしてあげたいし、実際に喜ばれれば自分まで嬉しくなる。営業という仕事にも、そういう性格はそれなりに役立っていた。

問題は、そのあとだった。

四月最初の月曜日。午前十時を少し回ったころ、豪は取引先のビルで、また余計なことをしてしまった。

打ち合わせを終えてエレベーターを待っていると、先ほどまで一緒にいた担当者が、胸元から社員証を落としたのである。

黒いストラップがジャケットの袖に引っかかったらしく、男が腕を動かした拍子に金具が外れた。透明なケースは床へ落ちると一度だけ跳ね、エレベーターの扉へ向かって滑っていく。

「あっ」

男が気づくより先に、豪の身体が動いていた。

右足を踏み出し、靴底でケースを軽く止める。もう少し勢いがあれば扉の隙間に入り込んでいたかもしれないが、そこまでは考えていない。ただ目の前で落ちたものを、反射的に拾っただけだった。

「佐田さん、これ」

「あれっ、うわ、危なかった。ありがとうございます!」

担当者の佐田は慌てて胸元を押さえたあと、豪の手から社員証を受け取った。

「これ、なくすと面倒なんですよ。再発行に申請がいるし、今日は午後から別棟にも行かなきゃいけなくて」

「そうなんですか。間に合ってよかったです」

「いやあ、本当に助かりました。畑中さん、よく気づきましたね」

「たまたま目に入っただけですよ」

豪は笑って答えた。

佐田が社員証をつけ直すのを見届け、ちょうど到着したエレベーターへ乗り込む。扉が閉じかけたところで、佐田がもう一度こちらへ頭を下げた。

「ありがとうございました。また来週、お願いします!」

豪も会釈を返した。

エレベーターが動き出す。天井の換気口から流れてくる冷たい空気に、清掃したばかりの床の匂いが混じっていた。磨かれたステンレスの壁には、ネクタイを少し緩めた自分の姿が映っている。

悪くない打ち合わせだった。先方の反応もよく、来週には新しい案件の具体的な話ができそうだったし、最後に社員証まで拾ってあげたのだから、佐田からの印象も少しはよくなっただろう。

そこまで考えたところで、豪は壁に映る自分を見た。

また、やってしまった。

頼まれたわけでもないのに社員証を拾い、しかも相手は三回も礼を言った。

ただ落とし物を返しただけだが、佐田の困り方を見るかぎり、そこそこの親切だったらしい。

豪はスーツのポケットへ手を入れ、昼食に何を食べようかと考えた。今日は少し値の張る定食にしようと思っていたのだが、その前に別の用事を済ませなければならない。

何をすれば、ちょうどいいだろう。

こういう日は仕事よりも面倒だった。

会社へ戻る道は、春にしては少し暑かった。

昼前の商店街には新入社員らしい集団がちらほらいて、慣れない革靴で歩いているせいか、みんな足元を気にしていた。街路樹にはまだ若い葉がつき始めたばかりで、通り抜ける風が枝を揺らすたびに、小さな影が歩道の上を移動する。

豪はコンビニの前で足を止めた。

自動ドアから出てきた女性が、買い物袋を片手に財布をしまおうとしている。袋の持ち手が片方だけ伸びきっており、どう見ても危なっかしい。

豪は一歩近づきかけたが、すぐに歩く方向を変えた。

今は、あまり親切にしない方がいい。

それでも数歩進むと、後ろからビニールの破れる音が聞こえた。

振り返れば、女性の足元にペットボトルが二本転がっている。

豪は反射的に戻りかけ、途中で足を止めた。

ちょうど近くにいた学生が一本を拾い、女性へ手渡していた。もう一本も女性自身が拾い上げる。

よかった。

いろいろな意味で、よかった。

豪は胸をなで下ろし、今度こそ会社へ戻った。

午後一時を少し過ぎた営業部は、食事を終えた社員が戻り始める時間だった。

複合機から紙が吐き出される音と、誰かが電話口で謝っている声が重なる。窓際の机には春の日差しが斜めに差し込み、ブラインドの隙間から伸びた白い筋が床の上に並んでいた。

豪が自分の席へ戻ると、斜め向かいに座る木戸が、何やら小さな箱を眺めていた。

「木戸さん、何ですか、それ」

「姉貴の京都土産。週末に実家へ来たときにもらったんだけどさ」

箱には薄い焼き菓子が入っていたらしい。

「もう一枚しかないんですね」

「そう。家で食べようと思って取っといたんだけど、朝からずっと忙しくてさ。三時のお楽しみ」

木戸は最後の一枚を小袋ごと机の端へ置き、電話を取るために席を離れた。

豪はそれを目で追った。

小袋は透明で、中には薄い焼き菓子が一枚入っている。値段は知らないが、京都の土産物ならそれなりにするのだろう。

しかも最後の一枚だ。

豪は椅子の背にもたれ、少し考えた。

木戸はきっと怒る。

とはいえ本気で喧嘩になるほどの話でもない。謝って新しい菓子を買えば済むし、木戸とは普段から軽口を言い合う仲だった。

ちょうどいいかもしれない。

豪は立ち上がり、木戸の机へ近づいた。

手を伸ばす直前、もう一度だけ考える。

さすがに人のお菓子を勝手に食べるのはどうかと思う。

自分が取っておいた最後の一枚を食べられたら、普通に嫌だ。

だが、だからこそ意味がある。

豪は小袋をつまみ上げた。

指先に触れる包装は想像以上に薄く、端を引っ張ると乾いた音を立てて裂けた。中の焼き菓子には細かな砂糖がまぶしてあり、持ち上げた拍子に白い粒が二つ三つ机へ落ちる。

口へ運ぶ。

バターの香りが広がり、軽く噛んだだけで生地がほろほろと崩れた。

うまい。

思わず、もう一口食べてしまった。

「あっ!」

背後から声が飛んできた。

振り返ると、電話を終えた木戸が立っている。

木戸は豪の顔を見て、次に手元の小袋を見た。

「お前、何食ってんの?」

「すみません、木戸さん」

「いや、ちょっと待て。それ俺のじゃん」

「はい」

「はいじゃなくて。さっき話しただろ。最後の一枚だって」

「そうでしたね」

「そうでしたね、じゃねえよ!」

木戸が声を上げたので、近くの社員がこちらを向いた。

豪は残った焼き菓子を口へ入れ、空になった小袋を見下ろした。

「おい、なんで全部食うんだよ!」

「もう開けちゃったんで」

「そういう問題か?」

笑い声が起きた。

木戸は呆れたように額へ手を当て、豪の肩を小突いた。

「お前、たまに本当に意味分かんねえな」

「明日、何か買ってきますから」

「当たり前だろ。できれば京都まで行って買ってこい」

「新幹線代が高いですね」

「俺の菓子は安くないんだよ!」

周囲からまた笑い声が上がった。

豪も笑っていた。

木戸はまだぶつぶつ言っていたが、本気で怒っている様子ではない。豪は空き袋を捨て、手についた細かな砂糖を払った。

ようやく、胸の奥が静かになった。

朝からずっと気になっていた小さな引っかかりが消えている。

佐田に社員証を返して、木戸の楽しみにしていた菓子を勝手に食べた。

釣り合った。

それだけのことなのだが、豪にはこの感覚が何より大切だった。

席に戻ると、午前中に送った見積書について先方から返事が届いていた。

豪はすぐに仕事へ取りかかった。

数字を確認し、問い合わせの内容をまとめ、必要な箇所を修正する。午後三時には上司へ報告を終え、別の取引先からの電話にも対応した。

ごく普通の月曜日だった。

木戸からは何度か菓子泥棒と呼ばれたが、そのたびに豪は適当な返事をして笑った。

仕事を終えたころには、そんなこともほとんど気にならなくなっていた。

ただ、帰り支度をしていると、木戸が通りがかりに言った。

「明日、本当に忘れんなよ」

「分かってますって」

「できれば今日のより高いやつな」

「要求が増えてません?」

「当然だろ。俺の楽しみ奪ったんだから」

豪は笑いながら頷いた。

木戸が離れていくのを見送ったところで、ふと考える。

明日、菓子を返す。

同じものでは申し訳ないから、少しいいものを買う。

木戸はたぶん喜ぶだろう。

それはそれで、困る。

豪は椅子の背にかけたジャケットを持ったまま、しばらく動かなかった。

弁償するだけなら、悪いことを元に戻す行為として考えられる。

しかし、それ以上のものを渡して喜ばれたら。

余分な親切になってしまう。

「畑中、まだいたの?」

同じ部署の女性社員が声をかけてきた。

「いや、今帰るところです」

「今日の佐田さんとの打ち合わせ、うまくいったんだって? さっき課長が褒めてたよ」

「まだ具体的にはこれからですけどね」

「でも、畑中ってやっぱり人当たりいいよね。ほんと良いやつだと思う」

豪は顔を上げた。

「そんなことないですよ」

「いやいや、みんな言ってるから。今日だって木戸さんとあれだけ笑ってたし、誰とでも仲いいじゃん」

「お菓子盗んで怒られたんですけど」

「それは普通にだめでしょ」

女性は笑いながら手を振り、エレベーターの方へ歩いていった。

豪も少し遅れて会社を出た。

外はすでに暗くなり始めていた。昼間の熱が建物の間に残っている一方で、駅へ向かう風にはまだ春の冷たさがある。歩道に並ぶ街灯が一つずつ明るくなり、帰宅を急ぐ人たちの靴音が背後から追い越していった。

良いやつ。

そんなふうに言われたのは、何も今日が初めてではない。

豪はそれほど悪い人間ではないと思う。仕事はきちんとするし、友人もいる。人を助けることもあれば、ちょっとした悪戯をすることもある。

誰だって、良いところと悪いところの両方を持っているはずだ。

そのくらいがちょうどいい。

駅の改札を通り、ホームへ下りる。

電車を待ちながら、豪はスマートフォンの予定表を開き、今日の日付を確認した。

四月六日。

そこへ小さな丸をつける。

いつものことだった。

ただ、先ほど言われた言葉がまだ耳に残っている。

良いやつ。

昔、同じことを言われていた人がいた。

人の頼みを断れず、困っている相手を見過ごせなくて、誰かが助かったと聞くたびに自分のことのように喜ぶ人だった。

あの人のことを思い出すと、いつも途中で考えるのをやめたくなる。

豪はスマートフォンを伏せ、近づいてくる電車の明かりを見つめた。

良い人だった。

優しい人だった。

立派な人だった。

みんな、そんなふうに言っていた。

その人はもう、どこにもいない。

だから豪は、良いやつになんてなりたくなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。