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『ドクター・カンタイランのオワラン診察』

カンタイランクリニックは

キトラ婆の店からそう遠くないところにあった。

少なくとも、普段なら

途中で何度も立ち止まるような距離ではない。


ところが、その日は違った。

キトラ婆は歩行器を押しながら、ふいに足を止めた。


「……レリ」


孫の顔が浮かんだ。

あの子は大丈夫だろうか。

自分は何か

とんでもないことをしてしまったのではないか。

いや、まだ何もしていない。

何もしていないはずだ。


「……ああ、どうしましょう」


歩行器の持ち手をぎゅっと握る。

そのまましばらく立ち尽くしていたが

突然、顔を上げた。


「あら?」


目の前には、見慣れたカフェスタンドがあった。


「あらまあ。今日は空いてるじゃないの」


さっきまでの心配は、どこへやら。

キトラ婆は歩行器をくるりと方向転換させた。


「イチョウ葉の、いつものをちょうだい」


飲み物を受け取ると、ひと口。


「ああ、おいしい!」


もうひと口。


「これ好きなのよねえ。アタマすっきり、物覚えよく!」


ご機嫌で飲み終えると、容器を返却口へ置いた。


「さてと」


歩行器を押して歩き出す。

数歩進んだところで、また止まった。


「…………」


何かを思い出しかけた。

シカリ。

レリ。

それから、もう一つ。


「……あら、やだ」


胸がざわついた。


「そうよ、そうだったのよ……!」


歩行器を握る手に力が入る。


「どうしましょう。あの子たち……」


しかし、そこまでだった。


「…………あら?」


キトラ婆は首を傾げた。


「何だったかしら」


しばらく考えてから、ふっと表情が明るくなった。


「ああ、そうだわ。

カンタイランのところへ行くんだった!」


顔を上げると

クリニックの看板がすぐそこにあった。


「まあ、近いこと!」


キトラ婆は嬉しそうに歩行器を押した。


ところが、入口の前まで来たところで

また足が止まった。


「……あたし、何しに来たんだったかしら」


看板を見上げた。


カンタイランクリニック。


「…………」


しばらくして、キトラ婆は深く頷いた。


「そうよ。先生に診てもらうんだった」


自動扉が開いた。


「……何を?」


扉が閉まった。

キトラ婆はもう一度、自動扉の前に立った。

扉が開いた。


「まあいいわ。先生に聞けばわかるでしょ」


ようやく中へ入った。

診察室の扉が開いた。


「先生、あたし、どうも具合が悪いのよ」


ドクター・カンタイランは、机に向かったまま答えた。


「それは珍しい。キミが具合の悪さを自覚するとは」

「失礼ね。自覚くらいするわよ」

「それで?」

「忘れるの」

「年相応だな」

「思い出すの」

「それも年相応だ」

「忘れたことを思い出すのよ!」

「結構じゃないか」

「思い出したことを忘れるの!」

「……忙しいな」


キトラ婆は椅子に腰を下ろした。


「そうなのよ。忙しくてたまらないの。

頭の中で誰かが引っ越ししてるみたい」

「荷物は?」

「知らないわよ!」

「では、いつからだ?」

「昨日……だったかしら。

いや、もっと前だったような……

あら、違う。さっきよ。さっき何かを思い出したの」

「何を?」

「それが思い出せないのよ!」


カンタイランはようやく顔を上げた。


「ほう」

「何よ、その顔」

「いや、少し興味深い」

「患者を面白がらないでちょうだい」

「面白がってはいない。興味深いと言ったんだ」

「同じじゃないの」

「医学的には違う」

「便利な言葉ね、医学的って」


カンタイランは診察記録を開いた。


「まず、思い出すときの状態を説明してくれ」

「突然なの。

何でもないときに、ぱっと頭の中が明るくなって

ああ、そうだった! ってなるの」

「なるほど」

「それで、胸がどきどきして

息が詰まりそうになって……」

「ほう、ほう」

「何よ。嬉しそうね」

「続けてくれ」

「そのあと、すうっと消えるのよ。思い出したことが」

「消える?」

「そう。で、楽になるの」

カンタイランの手が止まった。

「……楽になる?」

「ええ。今だって、あなたと話しているうちに

なんだかすっかり治ったみたい」


キトラ婆は立ち上がった。


「じゃ、帰るわね」

「待て!」

「何よ!」

「まだ診察が終わっていない!」

「治ったんだから終わりでしょ」

「いや、そうはいかん。今の話は非常に興味深い。

想起と忘却が短時間に反復し

そのたびに強い情動反応が……」

「先生?」

「既知の健忘症候群とは少し違うかもしれん。

経過を詳しく記録すれば、新しい症例として……」

「先生!」

「論文にできる可能性がある!」


キトラ婆はしばらく黙っていた。


「……あんた、あたしの病気で出世する気?」

「そういう言い方をするな」

「昔からそういうところがあったわよね」

「どういうところだ」

「人が転ぶと、助ける前に転び方を観察するところよ」

「それは研究者として……」

「幼稚園のときもそうだったわ!」

「何の話だ?」

「あたしが木から落ちたとき

あんた、落ちるまでの時間を数えてたじゃない!」

「……あれは貴重な観察だった」

「ほら!」

「とにかく座れ。もう少し話を聞かせてくれ」

「嫌よ。もう治ったんだから」

「頼む。あと少しでいい」

「……え?」

「もう少し、ここにいてくれ」


キトラ婆はカンタイランをじっと見た。


「……あんた」

「何だ?」

「もしかして、あたしに気があるの?」

「は?」

「だったらもっと早く言いなさいよ!」

「何を言ってる!」

「遅すぎるわよ! 今さらそんなこと言われたって!」

「誰がそんなことを言った!」

「もう少しここにいてくれ、って言ったじゃない!」

「診察室にだ!」

「場所の問題じゃないでしょう!」

「場所の問題だ!」

「まったく

男ってのはどうしてこう、肝心なときに……」

「キトラ!」

「何よ!」

「キミの記憶の話をしているんだ!」

「だから何よ!

あたしの記憶に残るようなことを

あんたが一つでもしたっていうの!」

「……今、していると思う」

「何ですって!」


カンタイランは深く息を吐いた。

そして、端末に手を伸ばした。


「シカリに来てもらおう」

「……誰に?」

「シカリだ。お前を落ち着かせるのに

少し手を貸してもらう」


キトラ婆の顔から、すっと表情が消えた。


「……シカリ?」

「そうだ」

「どうして、シカリなの」

「お前もよく知っているだろう」


キトラ婆は椅子に座り直した。


「……先生」

「何だ?」

「あたし、さっき何か喋った?」

「ずいぶん喋ったぞ」

「何を?」

「だから、それを確認したいんだ」

「……あら、そう」


キトラ婆は膝の上で両手を組んだ。

カンタイランは端末でシカリに連絡を取った。


「すまないが、少し来てもらえないか。

キトラのことで相談がある」


しばらくして、診察室の扉が開いた。


「先生、ママがどうかしたんですって?」


シカリだった。

その姿を見た瞬間、キトラ婆の背筋が伸びた。

口が、わずかに開いた。

そして、閉じた。

カンタイランはすかさず身を乗り出した。


「どうした、キトラ。何か思い出したのか?」

「…………」

「今、何を思い出した?」

「…………」

「さっきと同じ発作か?」

「…………」


シカリが心配そうに近づいた。


「ママ?」

「…………」

「大丈夫?」


キトラ婆は小さく頷いた。


「先生、何があったんですか?」

「それが、思い出したり忘れたりするらしいんだ。

ところが本人が詳しいことを話そうとすると

症状が消えてしまう」

「……はあ」

「今は君を見た途端に、また何かを思い出したようだ」


シカリは母親の顔を見た。


「私を?」


キトラ婆は目を逸らした。

カンタイランが記録を取り始めた。


「興味深い。特定の人物の出現が

想起の引き金になる可能性がある」

「先生」

「何だ?」

「私、何かしたんでしょうか?」

「それを今から調べる」

「えっ?」


キトラ婆が突然立ち上がると

毎度おなじみの歩行器が倒れたが

三人ともそれどころではない。


「調べなくていいわよ!」

「おお、喋った!」

「喋るわよ!」

「今、何を思い出した?」

「何も!」

「では、なぜ黙っていた?」

「喋りたくなかったからよ!」

「それは症状か?」

「性格よ!」

「……なるほど」

「なるほどじゃないわよ!」


シカリは二人を交互に見た。


「……あの、私、帰った方がいいですか?」

「帰らないでくれ!」とカンタイラン。

「帰ってちょうだい!」とキトラ婆。


二人の声が重なった。

シカリは扉の前で立ち止まった。


「…………どっちなんですか?」

「君がいると症状が出るかもしれない!」

とカンタイラン。

「この子がいると症状が出るんだから

帰ってもらわなくちゃ!」

とキトラ婆。


「……じゃあ、帰ります」

「待ってくれ!」

「帰って!」

「キトラ、落ち着け!」

「先生が落ち着きなさいよ!」


シカリは、開けかけた扉をそっと閉めた。


「……とりあえず、座っていいですか?」


二人は同時に振り向いた。


「もちろんだ!」とカンタイラン。

「駄目よ!」とキトラ婆。


シカリは椅子を見た。

それから二人を見た。


「……立ってます」


カンタイランは端末に何かを書き込んだ。

キトラ婆が目を凝らした。


「先生。今、何て書いたの」

「診察記録だ」

「見せなさい」

「医師の記録だぞ」

「見せなさいったら!」


カンタイランは端末を胸に抱えた。


「駄目だ。これは重要な記録なんだ」

「……あんた、まさか」

「何だ?」

「まだ、あたしを帰す気がないのね?」

「当然だ」

「しつこい男ねえ!」

「医学的にだ!」

「だから遅すぎるって言ってるでしょう!」


シカリは天井を見上げた。

そして、誰にともなく呟いた。


「……私、何をしに来たんでしょう」


カンタイランは即答した。


「重要な役割を果たしている」

「何の?」

「まだわからん」


キトラ婆が叫んだ。


「わからないなら帰しなさいよーーーっ!!」



診察記録:患者の症状は診察中に軽快。

ただし診察は終了できず。

付き添いとして呼ばれた人物の困惑が増大。

ドクター・カンタイラン、論文の題名を考え始める。


幕。

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