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『声の届かないところまで』届かせるのはミケラ婆

母の仕事を書く欄があった。


 歌手、と書いた翌週には

母は絵を描いていた。


 画家に直そうと思ったら

人の服を縫っていた。


「おかァ、仕事ひとつにしてくれない?」


「その紙、そんなに小さいの?」


 紙の問題じゃない。


 友達のお母さんは

何をしているひとなのか

だいたい一行で済んだ。


 うちは、欄外まで母だった。


 先生に相談したら

「おうちのことをしてらっしゃるなら

家事でもいいですよ」

と言われた。


 家事もしていた。

 ただ、鍋をかき混ぜながら歌って

突然火を止め、曲を書きに行く。


 そのまま帰ってこないことがあるので

あたしも鍋を見に行く。


 これを家事と書いたら

あたしの職業にもなってしまう。


 結局、母に書いてもらった。


『制作』


 何を。


 聞いたら、あたしを指した。


 提出しにくいことを書くな。


*****


 普通のお母さんならよかったのにと

思ったことはある。


 参観日に

廊下を通っているだけで

先生が迎えに出てこないお母さん。


 母のイヤリングが鳴っているのを

隣のクラスの楽器の音じゃないの?って

しらばっくれなくていいお母さん。


 迎えに来た車から

知らないひとが降りてきて

「お母様、まだ録音中なので」

と言わなくていいお母さん。


 でも、帰るとケーキが焼いてあった。


 母がいなくても、あった。


 切って食べろと書いてある横に

クチュリエで使う大きな鋏が

置いてあることもあったが

それで切れという意味ではなかった。


 たぶん。


 服も作ってくれた。

 髪飾りも、図書館バッグも

卒業式の保護者代表謝辞の歌までも。


 あたしが好きだと言った色を

母はよく憶えていた。


 憶えすぎていて

もうその色は卒業したと言う機会を失い

三年間、紫だった。


「嫌なら言えばいいのに」


「喜んで作ってるからさー」


「着るのはあんたでしょう」


 母はそう言って

裁ちかけの紫の布を自分に当てた。


「じゃ、あたしのにする」


 たいして傷ついていなかった。


 こっちは三年、気を遣ったのに。


*****


 男の子と喧嘩して帰った日

母は、あたしの顔より先に袖を見た。


「破れたの?」


「そこから訊く?」


「顔は勝手に治ることもあるけど

袖は縫わないと治らないもの」


 それから顔も見た。


「どっちから?」


「向こう」


「なんで?」


「嫌なこと言った」


「手は?」


「あたし」


 母は鋏を置いた。


 その音で

あ、これはちゃんと話さなきゃ

いけないんだと思った。


「何て言ったの」


「おかァがいつも変な格好してるって」


「変でしょう」


「そうだけど!」


 そこを認められると

あたしの拳の行き場がない。


 もう使ったあとだったけど。


 母は少し考えた。


「困ったわね。変な格好、やめる予定ないのよ」


「やめなくていいよ」


「じゃあ、これからも言われるかもしれない」


「そのたび殴る」


「それじゃ解決にならない」


母は破れた袖を裏返した。


「その子、服を直せる?」


「直せんと思う」


「あたしは直せる。それで充分よ」


「嫌だ、大声で泣き叫ぶ」


「それならボイトレしなくちゃ。セリフの練習も」


 母は、針に糸を通した。


「拳より、あんたの声の方が届くでしょう」


 それはそうだった。


 翌日、先生に

昨日のことを説明していたら

隣の教室の先生まで飛んで来た。


 母ゆずりだった。


*****


 恋の相談をした時も

母は仕事の手を止めた。


 その日は、親友のナホと

同じ男の子を好きになった話だった。


 ナホは、あたしが好きなのを知っていた。

 あたしも、ナホが好きなのを知っていた。


 当の本人だけが

何も知らないって顔をしていた。


「あいつが一番悪いと思う」


「何かしたの?」


「何も」


「何もしなくても悪いのね。たいへんね」


 母はケーキを三つに切った。

 今日は二人しかいない。


「ひとつ、明日の分?」


「明日、誰かは連れてくるでしょ

とっとかないと」


「ナホは来ない、または来れない

ふたつにひとつだから」


「話が長くなるなら食べちゃえばいいわ」


 長くなった。


 母は、自分が若かった頃の話をした。

 途中から、もっと若かった頃になり

そのうち、生まれる前になった。


「おかァ、いまのその話、何歳?」


「二十歳くらい」


「どっちの人生?」


「前の」


 ややこしい母だった。


「それで、そのひと、好きって言ったの?」


「言わなかった気がする」


「おかァは?」


「わかると思ってた」


「わかったの?」


「あとでね」


「どのくらいあと?」


「二十年」


 あたしはフォークを置いた。


「参考にならんやん」


「なるわよ。二十年かけないで済むでしょう」


 母は、三つ目のケーキをこちらへ寄せた。


「ナホちゃんと喧嘩する前に

その子に訊くことがあるんじゃない?」


「何を」


「あんたたち、二人で

その子の気持ちまで決めてない?」


 決めていた。


 あたしかナホか。

 二つしか席を用意していなかった。


 そもそも座る気があるか

どっちもまだ訊いていなかった。


 翌日、訊いた。


 別の子が好きだった。


 ナホと二人で帰った。

 いつもより仲よく帰れたのが

ちょっと腹立たしかった。


 ナホの髪には

母が作った髪飾りがついていた。


 色違いのを、あたしもつけていた。


「おばさん、今日いる?」


「いると思う」


「行っていい?」


「昨日のケーキ、もうないよ」


「顔見たいだけ」


 そう言われて

ちょっと嬉しかった。


 あたしも、早く母の顔を見たかった。


*****


 母を守れるくらい

強くなりたかった。


 その頃、母は一人であたしを育てていた。


 一人で平気そうだった。

 平気そうだから

誰も手伝わなくていいと思っているのが

あたしには気に入らなかった。


 母自身も

そう思われるようなことばかり言った。


「大丈夫よ」

「こっちは済んだ」

「それも、やっといた」


 済んでいないことが

仕事場の床から天井まで積まれていた。


 だからあたしは、武道を始めた。


「その積んである箱を運んでくれた方が助かるけど」


 母は言った。


 それも運んだ。

 武道もやった。


 相撲以外は

だいたい一度は手を出した。


 相撲をやらなかった理由を

今でも時々訊かれるが

そこまで全部やっていたら

宿題をする日がなくなる。


 あたしは、もともと丈夫ではなかった。


 病院には、いくつも名前のついた病気があった。

 どれもあたしのものだと言われた。


 ひとつくらい

病院に置いて帰れないものかと思った。


 調子のいい日は、動いた。

 悪い日は、腹を立てた。


 腹を立てても動けない日は

本を読んだ。


 そこで憶えた技を

次に動ける日に試そうとして怒られた。


「読んだだけでやるな」


 もっともだった。


 やっていない時間が長いと

やれる自分ばかり頭の中で育つ。


 頭の中のあたしは

相当強かった。


 実物は、時々学校を休んだ。


*****


 休んでも

学校に自分の居場所があるように。


 そんな気持ちも、あったのかもしれない。


 生徒会長になった。

 体育部長もやった。


 人を集めて

何かを始めるのは楽しかった。


 なかなか決まらない話をまとめて

みんなが一斉に動き出すと

自分の身体まで軽くなった。


 声は、よく出た。


 拡声器の電池が切れた時

先生は修理を頼まず

あたしを呼んだ。


 体育館の隅から

校庭の隅まで届いた。


 響かせて届かせただけじゃない。

みんなの声も受け留めた。


 ただ、自分の身体の言い分には

あまり耳を貸さなかった。


 あと少し。

 これだけ。

 ここが終わるまで。


 人には休憩を入れていた。

 自分の分は、進行表に書き忘れた。


 母が弁当を持ってきた時

あたしは昼休みも何かを仕切っていた。


「食べなさい」


「あとで」


「その『あと』、何時?」


「終わったら」

 

 母は自分の車椅子をあたしの机に寄せ

あたしの弁当を開けて食べようとした。


「おかァ、それあたしのやないん?」


「あんたはあとで食べるんでしょう。

ここいま空いてるから」


 慌てて座った。


 あのひとは

たいてい、話し合いの前に実行する。


*****


 病気は

あたしが忙しいことを考慮してくれなかった。


 少しずつ

できる日と、できない日の幅が広がった。


 車椅子を使うようになり

やがて、続けていた武道もやめた。


 決めるまでは長かった。


 決めてしまうと

稽古のない曜日が、急に広くなった。


 決めたことなのに

その時間になると、落ち着かなかった。


 母は

空いた時間に何か始めろとは言わなかった。


 仕事場の隅へ

あたしの椅子を入れる場所を空けただけだった。


 あたしはそこで

何もしない練習をした。


 たいへん難しかった。


「何か手伝おうか」


「そこにいて」


「いるだけ?」


「好きなだけ」


 好きなことを見つけろとさえ言わなかった。


 母が曲を聴き直していた。


 何度も同じところへ戻すので

つい言った。


「そこ、さっきの方がよかった」


「そう?」


「うん」


 母は、前の録音を出した。


 あたしは、その日

何もしなかったことにはならなくなった。


少し、情けなくもあった。

少し、嬉しい気もした。


 好きなだけ、飽きるまで、そこにいるだけじゃなく

何か母の役に立った証拠を

持って帰りたかったのだ。


*****


 武道をやめたあとも

後輩たちが相談に来た。


 試合になると

練習でできていたことができない。


 負かされた相手を見ると

次も負けるような気がする。


 先生に期待されるほど

身体が固くなる。


 技を教えてくれるひとはいた。

 みんな戦い方は学んでいた。

 

 だが、その手前で起こっていることを

 なんとかする手立てが欲しかった。


 あたしにも憶えがあった。


 頭の中で勝ちすぎることも。

 始まる前から負けていることも。


 事情はひとりひとり違ったけど

 誰にも共通することがあった。


 言うだけじゃなく、聞いてほしいのだ。

 

 話を聞いてから

一緒に練習の組み立てを考えた。


 自分の経験だけでは足りなくなって

勉強もした。


 やがて、車椅子バスケのチームから

声がかかった。


 最初は、試合前の気持ちの整え方を

手伝ってほしいという話だった。


 競技のことは

選手やほかのコーチに教わった。


 知らないことを訊くのは

案外、気持ちがよかった。


 生徒会長をしていた頃は

訊かれる方でいなくちゃいけないと思っていた。


 今度は

知らないまま大声を出したら

すぐにバレる。


 もっとも、声量だけは

初日から即戦力だった。


*****


 個人指導を任された選手がいた。


 名前は、サミ。


 速かった。

 判断もよかった。


 ボールを持っていない時に

何を見ているかが、特によかった。


 ただ、いつでも

「大丈夫です」

と言った。


 疲れていないかと訊いても。

 説明がわかったかと訊いても。

 予定を詰めすぎていないかと訊いても。


「それ、何に対して大丈夫なの」


 あたしが訊くと、笑った。


「だいたい全部です」


 便利な返事だった。


 あたしも昔、よく使った。


 家族が、試合を見に来ていた。


 サミが活躍すると

お母さんが泣いた。


 泣くなと言えることではない。

 嬉しいのだろう。


 サミも、その顔を見ると笑った。


 プレーと同じくらい、笑顔も速攻だった。


 ベンチへ戻る前に。

 自分の息が整う前に。


*****


 指導を始めてから

サミの成績は上がった。


 考えすぎるところを減らし

試合で使える手順を作った。


 本人も熱心だった。

 記録をつけ、質問をし

言われたことを次までに試してきた。


 教え甲斐があった。


 あたしは、それを

口に出して褒めた。


「頼もしいねー、あんた」


 サミは笑った。


 その顔を

あたしは、いい顔だと思った。


 ある日の練習後

チームの広報用の撮影が入った。


 サミは中心選手として

取材も受けることになっていた。


 練習が長引いて

少し疲れているようだったので

あたしは訊いた。


「撮影、短くしてもらう?」


「大丈夫です」


 そのまま、任せた。


 写真には、いい顔が写った。


 その夜

サミから通信が来た。


『明日の個人練習、休ませてください』


 理由はなかった。


 あたしは

『了解。次はいつにする?』

と返した。


 返事が来なかった。


*****


 三日後

サミは体育館へ来た。


 練習着ではなかった。


 あたしは端末を閉じた。


「体調?」


「それも、少し」


「ほかには?」


 サミは

自分の車輪を見ていた。


「期待されるのが嫌になった?」


 言ってから

急ぎすぎたと思った。


「嫌じゃないです」


「うん」


「勝ちたいです」


「うん」


「代表にも入りたい」


「うん」


 サミは顔を上げた。


「でも、コーチの前でも

強くしとらんといけんの?」


 あたしは、すぐには返せなかった。


 強くなくていい。


 そう言えば

話が済むような気がした。


 でも、あたしは

強くなるために呼ばれたコーチだった。


 強くなったサミを

嬉しそうに褒めてきた。


 弱いところも見せていいと

言ったことはあった。


 見せた時に、どうしていた。


 直そうとしていた。

 立ち直らせようとしていた。


 次はいつにする、と

すぐ訊いていた。


「お母さんがね」


 サミが言った。


「私がバスケ始めてから

よく笑うようになったんです」


 あたしは頷いた。


「だから、好きでよかったって思う。

私、バスケ好きだから」


「うん」


「でも、好きなのと

今日もできるのは、別でしょう」


 あたしは

閉じた端末を、もう一度開こうとしていた。


 何かを書いておかなくちゃ。

 次の予定を変えなくちゃ。


 手を止めた。


「別だね」


「それ、わかっててほしかった」


 体育館の向こうで

ボールが弾んでいた。


 今なら、端から端まで

あたしの声は届く。


 目の前の一人に

届く言葉が見つからなかった。


*****


 母のところへ行った。


 あたしの顔を見るなり

母は言った。


「何か食べる?」


「話がある」


「食べながら話せる?」


「おかァ」


「わかったわよ」


 手を止めた。


 昔と同じだった。


 あたしは、サミのことを話した。

 母は途中で口を挟まなかった。


 それが少し怖かったので

余計な説明までした。


 ちゃんと休ませるつもりだったこと。

 無理をさせたいわけではなかったこと。

 本人が大丈夫だと言ったこと。


「本人が言ったら、そうなの?」


 母が訊いた。


 あたしは黙った。


「昔、あんたも言ってたわね」


「おかァもね」


「そうね」


 そこは、すぐ認めた。


「……あたしが強くなったの

嬉しかった?」


「嬉しかったわよ」


「役に立った?」


「箱を運んでくれた」


「そういうことじゃなくて」


「知ってる」


 母は、少し車椅子を寄せた。


「あんたが、あたしを守ろうとしてたのも」


「知ってた?」


「殴って帰ってきたでしょう」


 あたしは笑った。

 母も笑った。


「頼もしかったわよ。

でも、それであんたが

具合悪いのを言わなくなるのは

困った」


「言ったって、忙しかったじゃん」


「忙しかったわね」


 母は目を逸らさなかった。


「聞き損ねたことも、あったと思う」


 それを言われるとは思っていなかった。


 あたしは、母を許しに来たわけではない。

 母に許してもらいに来たつもりもなかった。


 でも、肩から何かが少し下りた。


「おかァみたいな母親になろうと思ってたんだよ」


「そうなの?」


「うん」


「全部はやめてね。失敗も多いから」


 知っている。

 二十年かかったやつも聞いた。


 母は立ち上がり

ケーキを切った。


 今度は二つに、だった。


*****


 サミに会って

あたしは言った。


「あんたの大丈夫を

便利に使った。ごめん」


 サミは、すぐには頷かなかった。


「休むって言ったら

次の予定を訊かれたから」


「うん」


「休み終わる日まで

決めてから休まんといけんのかと思った」


「そう聞こえるね」


 あたしは、その日は

次の予定を訊かなかった。


 その代わり

これからどう相談するかを話した。


 体調のこと。

 練習のこと。

 試合に出たい気持ちは早っても

今日できるかどうか、明日できるかどうか

それは別々のこと。


だから、相談の仕方も枠にはめてしまわない。


 あたし一人で決めず

ほかのコーチや担当のスタッフとも話す。


 取材や家族への説明を

サミが全部引き受けなくていいようにする。


「お母さんには、自分で言います」


 サミが言った。


「一緒にいてほしい時は、呼んで」


「はい」


 それから、付け足した。


「今日は、帰ります」


「うん」


 あたしは見送った。


 声をかけたいことが

あと三つくらいあった。


 全部、飲み込んだ。


 水が欲しくなった。


*****


 次に来た時

サミは、お母さんと少し喧嘩したと言った。


「何て?」


「笑っててほしいのも頑張ってる理由だけど

私が休むたびに心配そうな顔せんでって」


「うん」


「そしたら、心配くらいさせてって」


 もっともだった。


 二人で笑った。


「うまく言えんかった」


「一回じゃねー」


「コーチも?」


「あたしなんか、母親と百年以上やってる」


「まだ?」


「まだ」


 サミは

少し安心したようだった。


 その日、練習の途中で

自分から休憩を申し出た。


 あたしは頷いた。


 偉いね、と言いかけてやめた。


 休むことまで

褒められるためにやらせたくなかった。


 

今日はいつもより水を飲む。


*****


 大会の日

母が見に来た。


 マローデイも一緒だった。


 差し入れの箱が大きかったので

なんでか訊いたら

選手とスタッフの分のほかに

「その辺のひと」の分だと言った。


 母らしかった。


 サミは、いい顔をしていた。


 笑っているという意味ではない。

 緊張していたし

嫌そうに顔をしかめる時もあった。


 何でも大丈夫な顔を

していなかった。


 試合は競った。


 サミはよく動いた。

 仲間も動いた。


 終盤

相手の守備がサミへ寄った。


 前なら

そのまま自分で何とかしようとしたかもしれない。


 あたしには、反対側が見えた。

 空いている味方がいた。


 声を出しかけた。


 サミの顔が、そちらへ向いた。


 あたしは待った。


 ボールが渡った。


 受けた選手が打った。


 外れた。


 あー。


 そんなに都合よくは決まらない。


 でも、別の選手が拾った。

 もう一度、外へ出した。


 サミは

自分に返せとは言わなかった。


 空いている場所へ動いた。


 あたしは、その動きを見ていた。


 最後まで、見ていた。


*****


 試合には勝った。


 あの一本で決まったわけではない。

 その前にも、そのあとにも

いろんなことがあった。


 あたしも

最後まで黙っていたわけではない。


 判定に納得がいかないところで

思わず立ち上がりそうな勢いで

立ち上がれはしないので

つい声を出して

それが度肝をぬくほどだったようで

隣のコーチに袖を引かれた。


 あとで母に言われた。


「あんたが黙ってたのは

いいところなんだと思ったのに」


「いいところだったよ」


「そのあと全部、あんたの声」


 マローデイが頷いていた。


 音の消えゆく様にまでうるさいという男に

頷かれると妙な感じだ。

母と並んでる。

反論出来ないし、降参もしなくていい。


母と一緒に見てて聞いててくれるなら

なんでもいい。


*****


 片づけが始まってから

サミが来た。


「最後、パス見えてました?」


「見えてたよ」


「何も言わんかったですね」


「見えてる顔だったから」


 サミは、ちょっと笑った。


「外れましたけど」


「外れたねー」


「でも、あれでよかったと思う」


「うん」


 サミは、客席の方を見た。

 お母さんが、荷物をまとめていた。


「今日は、先に帰って寝ます。

みんなとごはんは行かんけど

大丈夫ですよね?」


「大丈夫」


「次の練習は、明日連絡していいですか」


「いいよ」


 サミは、一礼して帰っていった。


*****


 母の差し入れが

ひとつ残っていた。


 紫のリボンがかかっていた。


「まだ、その色かー」


「嫌なら言いなさいよ」


「嫌じゃないよ」


 今日は、それがいい。


 開けると

ケーキが二切れ入っていた。


「ひとつ、おかァの分?」


「あんたと食べようと思って」


 母は、隣へ来た。


 体育館は

急に広くなっていた。


 車輪の音が

床を渡って、遠くで消えた。


 あたしは

今日のサミの話をした。


 母はケーキを食べながら聞いていた。


「ねぇ、おかあ

もしかして、ひとつはサミの分だった?」


 あたしは訊いた。


「お母さんと一緒に帰れたんでしょう」


「うん」


「じゃあ、今日はそれでいいんじゃない」


 あたしは頷いた。


 その時

出口の方から声がした。


「コーチ!」


 サミだった。


「また来ます!」


 あたしは、手を上げた。


 声も出た。


「おー! 気をつけて帰れよー!」


 母が、隣で片耳を塞いだ。


「音量半分で充分届くのに」


 わかってる。


 でも、全力で届けたかった。

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