エラ婆 前世Lee 『末の一文字』
忘れたことと、忘れられなかったこと。
何もなかったと思っていた時間にも、
それぞれの人生は続いていた。
これは、エラ婆がLeeだった頃のお話です。
軋本家の長老である
エラ婆の前世
『Lee』の物語
四十になろうという正月三日
二十年ぶりの同窓会で、入江と再会した。
中学で仲良くなった男友達だ。
本やレコードを貸し借りし
私が女子高へ進んでからも英語塾が一緒だった。
二十歳の春、一度だけ、二人で飲んで食べた。
それだけ。
何もなかった。
そのつもりで、二十年生きてきた。
二十年も経てば確かなことだと思うでしょう。
経過年数と正確さは、どうやら別会計だった。
「ご両親はご健在ですか?」
開口一番、それだった。
久しぶりに会って、まず親。
この人らしい。
「どうなんでしょうね?」
「え?」
「いえ、まだあの家に居るには居ますけど。
健在と言うには、ちょっとね。
ふたりとも癌で代わる代わる入院してる」
「そうなのか。
転居先不明で手紙が戻ってきたことあったから
てっきり引っ越されたと思ってた」
その手紙のことは、母から聞いたことがある。
読みたくなくて、返送しておいてと頼んだ。
転居先が不明だったのではない。
受取人の了見に問題があった。
そこは濁した。
「そちらのご両親は?」
「父を見送って、母が独り住まい。
同居しようって言うのに、ひとりがいいって。
それよりそっちだ。
名簿を見たけど、随分とまた遠方だね」
「義母が四十二歳で倒れて半身不随だから
なかなか帰る暇もなくて
自分の親は放ったらかし。今回は数年ぶり」
囚われの 心と身とが分かれ棲み
狼煙は霞み 花火は歪み
そんなに短く説明できる暮らしではなかった。
でも、この人に話して
理解されるとも思っていなかった。
省いたところを訊かれる前に、口を閉じた。
「そうか。昔からいつも何か背負ってるって言うか
そんなふうに見せてないって言うか」
こういうことを言われるのは
昔から嫌ではなかった。
ただ、私が知りたかったのは
背負い方についての講評ではない。
好きなのか。
違うのか。
そこだった。
この人は、はっきり言って
全然ハッキリしない人だった。
「そう言えば、十年くらい前に
ウチの会社のパンフレットを発注したんだけど」
入江は思い出したように言った。
「その時のイラストレーターが
Leeちゃんと同姓同名だった。
知ってる人かもしれないんですって頼んで
連絡先教えてもらおうとしたけどダメだった」
「もっと以前なら商業開発でイラスト描いたり
ポップ書いたり、コピーも書いてたけど。
十年前なら違う人だな。
古いのを使い回しでないならね」
少し間が空いた。
「探したんだ」
「え?」
「OBESASに行ったの?」
あれ。
知ってたっけ。
少し考えて、膝を叩いた。
「ああ! そっか。
OBESASから暑中見舞い書いたことあったわ。
帰ってから残暑見舞いが届いてるって
伯母から電話があって、転送してくれたわ。
『IUSOYのライブ盤買ったから
今度貸してアゲル』って」
「よくそんな昔のこと憶えてるな」
「どーでもいいことは憶えてるんです」
入江が少しムッとした。
「十年探したけど諦めた」
「また出まかせ言って。
本気で探してくれたら
すぐ見つかるとこにいたんだけどな」
「え? OIKOTに? いつ?」
「八一年の終わり頃から八四年まで。
丸三年は居たよ」
「何してたの?」
「スタイリストスクール行ったり、芸能事務所」
「スタイリストはなるほどだけど
なんで芸能事務所?」
そこは私も、最初は何でだと思った。
小中高とずっと仲の良かったキコの従兄が
俳優のケイエムさんだった。
そのケイエム&エイジェイ夫妻の
地元の後援会長をやらされていた。
やめると言っていたら、電話が来た。
「今ケイさんとふたりで、Leeちゃんイイよねって
言ってるとこなのよ。
事務所独立するから、新事務所においでよ」
OIKOTでも後援会長をさせるつもりなのか。
そう思っていたら、要するにスカウトだった。
その話をすると、入江は訊いた。
「どこに住んでたの?」
「IADUBOS」
「近いじゃない」
「割とね」
「なんで知らせてくれなかったの?」
「なんでって、それはまあ色々と」
オトコと住んでたからに決まってるでしょ。
言わないけど。
「八四年なら僕まだ居たのに」
今更そう言われてもね。
地図の上で近かったからといって
当時の二人が近かったことにはならない。
そう思っていた。
その時は。
「そういや二十年前、一回だけデートしたよね?」
さりげなく振ったつもりだった。
「僕はあなたから本をもらったよ」
「SAYSAWJOHよね。
あの頃、IHSAHARUKばっか読んでたから。
自分が好きなもの、知って欲しかったんだわ。
読んだばかりのを持って行ったの。
あげてからまた同じの買ったよ」
本をあげたのは、あれが初めてではなかった。
誕生日には詩やエッセイの本を贈った。
中学の頃にも、二、三度はあげたはずだ。
私は一度も、もらったことがない。
借りたことはある。
私にも誕生日ってもんがあるんですけどね。
毎年、一応。
好きな本を差し出して
自分の好きなものを知ってもらう。
そこから先へ、何かが動くと思っていた。
動かなかった。
最初で最後のデートも
駄目押しの再確認で終わった。
そういう整理だった。
「ああ、そうだ。その、デートっての
あれ以来、一度もしてないよ」
「うっそ、結構モテてたじゃない」
「ウソじゃないよ。奥サンにも言われる。
『アンタとデートしたことない』って」
「へえ、デートもしないで
どうやって結婚したの? お見合い?」
「三十の頃、転職して
配属部署に女性がひとりいたから。
結婚を前提に付き合ってくださいって言った」
付き合いもせず、結婚。
よりによって、この入江が。
七年も 射止めあぐねて諦めた
敵を二ヶ月で堕とすひと有り
私には好きとも何とも言わず
部署に一人いた女性には、いきなり結婚を前提に。
そんな明瞭な文章も使えたのか。
「結婚してから恋愛始まるひともいるから
良かったんじゃない? シアワセなら」
入江は黙った。
余計な条件をつけたらしい。
私は慌てて続けた。
「あらまあ、それじゃあ
危機的状況にならないようにね。
大事にしないとダメだよ。
こっちなんか、話せば話が通じないことが
わかるばっかりで、時間の問題」
しまった。
そっちへ逸らしてどうする。
幸い、前に何曲も入れておいたリクエストの
順番が回ってきた。
私たちは歌った。他の男子ともハモった。
同期生たちの騒ぎに紛れて
しばらくやり過ごした。
「あなたがそんなに歌上手いとは知らなかった」
「私、こう見えて音頭取りやってるの。
PTAもひと通りやったし、婦人会長も二期やったよ。
ウグイス嬢もやったし
次は市議もやれって言われてるから
逃げて帰ろうかと思ってる」
まただ。
最後の一言が余計なのだ。
入江は、水割りをぐいっと飲み干した。
「タクシーの中でキスしたの憶えてる」
「え? してないよ」
「した」
怒っている。
「ごめん、忘れてる」
否定したすぐあとに謝っていた。
自分でも、何に謝ったのかわからなかった。
あの日は、門限ぎりぎりに帰った。
門限を守って帰れるくらいの、二人だった。
まだ、中学の時の続きにしかいなかった。
「そんなとこまで近づいてなかったよ、私達」
「そんなことない」
ずっと気を持たせたまま
距離を取っていたのはそっちでしょう。
今になって間を詰められても困る。
手遅れだ。
それだけならまだしも
新たな問題にまで発展しかねない。
彼か私か、どちらかの記憶が違う。
どちらかが正しい。
どちらが正しくても、酷い話だった。
入江が嘘をついていないとしたら。
私の方が忘れているのだとしたら。
甘美なものが、どこからか溢れてきた。
悲しすぎるのに、温かい。
温かいから、なおさら足を取られた。
頭上からこんなものを落とされて
平気でいられる私だと思うのか。
象の耳で払い除け、象の脚で踏みつけてきたのは
いつもそっちだったじゃない。
酷いのは彼でしょう。
酷いのは。
もっと酷いのは、私なの?
まともな受け答えができないまま
同窓会はお開きになった。
話は終わらなかった。
会場の都合で終わっただけだった。
四十で 正月三日が七夕に
なるとは誰に教わりもせず
松の内が明けても、私は同じところにいた。
自分の誕生日が来た。
せっかくなので、自分の人生に
小さなモニュメントを建てようと思った。
四十。ここが折り返し地点かもしれない。
少なくとも、今いる場所には
印をつけておきたかった。
朝八時半。
家族を全員送り出してから
名刺の番号に電話をかけた。
若い女性が、社名と部署名と名前を名乗った。
「取締役の入江さんにお繋ぎ頂けますか?」
まだ出社していないという。
伝言を勧められたが
「急用でもないので、お時間のある時に」
とだけ伝えた。
三十分後、もう一度かけた。
今度は本人が出た。
「おはようございます。
お話があるので、ご都合を伺いたくて」
「そりゃ無理よ」
理由を訊かれることもなかった。
「わかりました。申し訳ございません。
失礼致しました」
切って、大きく息を吐いた。
モニュメント、着工前に不許可。
都合を訊いたのであって
人生を明け渡せと頼んだわけではない。
日時を指定してくれれば
迷惑のないように改めて連絡するつもりだった。
少なくとも、私にはそういうつもりしかなかった。
彼には気まずさもあったのだろう。
照れなのか、プライドなのか。
あの突っぱね方には、懐かしささえあった。
二十年経っても分からず屋。
それを個性と呼ぶには、私が疲れすぎていた。
飛び交わず 無げ返さずば朽つめかす
靴を隔てて痒きをば掻く
中学の頃、私は話のわかる女友達をやっていた。
本やレコードの話ならできた。
積極的にもなれた。
他の女子とは違うはず、別格のはずと
ひそかに思いたかった。
それをお首にも出さないくせに
そろそろ彼女として見てほしい。
言わないけど、そっちで気づいてほしい。
難しい注文だった。
注文していることさえ、相手に知らせていない。
思春期にはありがちなことだ。
問題は、大事なところで
どちらもその先へ踏み出せなかったことだった。
もっと早く悔やめていたら。
悔やんだ時に、動けていたら。
いま考えても、あの日のタクシーは戻ってこない。
電話は駄目だった。
次はメールしかない。
あの頃、何かを伝えるにも
返事を待つにも何日もかかった。
幼く拙いプライドは、その間にいくらでも育った。
手紙より先に意地が着いて、玄関を塞ぐ。
いまは、送ればすぐ届く。
そんな時代になってから
二十年前を持ち込まれても
思い出す方が追いつかない。
私は、記憶を片っ端から引っぱり出した。
何があったのか。
何もなかったと思っていた日に
本当は何があったのか。
映画やドラマで、記憶を失った主人公が
何かを思い出そうとして頭を抱える。
あんなに痛がらなくても、と思っていた。
本当に痛かった。
酷い頭痛が、丸三ヶ月続いた。
霧の中を行きつ戻りつしているうちに
ばらばらだったものが
同じテーブルへ並び始めた。
待ち合わせた店の名前。
遅れてきた彼の顔。
偶然店へ入ってきた同期生の、温かい眼差し。
二軒目まで相合傘で歩いたこと。
ボトルキープのホワイトホース。
ピザとサラダとオイルサーディン。
あと一品。
ポテトチップスだったか
ガーリックトーストだったか。
後ろのテーブルでは、カップルがキスをしていた。
私は門限を気にしていた。
割り勘にしようと言ったのに、彼が払ってくれた。
タクシーを呼んでもらった。
食べたものまで出てくるのに
肝心なところを
なぜ二十年も閉じ込めておけたのだろう。
幼い。
拙い。
あの時の自分を呼びつけて、座らせたい。
きっと、話が通じない。
入江の中に残っていたものを、私は忘れていた。
もう、涙も出なかった。
言い訳にも、償いにもならない。
それでも、書くしかなかった。
書けば長くなった。
三百字で五十ページくらい。
近況報告という分量ではない。
フィクションのようなノンフィクション。
こんなものを
そのまま届けられるわけがなかった。
誰かに読まれてもわからないように。
でも、入江には読み取れるように。
そうよ。短歌に。
カプセルに詰めるつもりで、偽装した。
誰かに読まれたら、すっとぼけて。
でも、あなたはちゃんと読んでね。
それ相応のオトナになっているなら。
また難しい注文をしている。
今度は、書いて送るだけ
昔よりましだと思うしかなかった。
あと三十分でエイプリルフール。
そんな時刻に、詰め込めるだけ詰め込んで
送信した。
名刺にあったアドレスへ。
忘却の 彼方に捨てた竪琴を
君は奏でる 指も触れずに
翌日、携帯に留守録が入っていた。
ガサガサという音ばかりだった。
声も、言葉も、何も聞き取れない。
でも、消せなかった。
入江からだと思った。
根拠より先に、そうわかった気がした。
繰り返し再生した。
読書百遍、意、自ずから通ず。
中学二年の現国の授業で教わったことだ。
四半世紀後、電話に向かって実践するとは
先生も思わなかっただろう。
五十回目。
不思議なほど明瞭に、声が聞こえてきた。
「Leeちゃん……入江です。
会社の女の子から伝言聞いたよ。
あの時、すぐ電話切ってゴメンね。
Leeちゃん……
僕は……
ずーっと……
満ち足りませんでした」
大きなため息。
それから、耳が痛いほどの音を立てて
電話が切れた。
携帯ではなかった。
こんな時代に、公衆電話。
わざわざ。
なによ。
こんな日に。
よりによって、エイプリルフールにしなくたって。
足元へ、何かが押し寄せた。
こらえようとする前に、取りまかれていた。
満ち足りませんでした。
その言葉を聞いて、私は満たされた。
そう書くと、なんて残酷なのだろう。
でも、ほかに言いようがない。
初めて、通じたのかもしれなかった。
理解。
理解。
理解。
もう戻れないという理解。
取り戻せないという理解。
何もできないという理解。
ようやく理解し合えたことが、これだった。
そうでなくちゃ。
ここまでして、また「気づいてほしい」で
済ませるわけにはいかない。
もう、いいオトナになって久しい。
前へ進むためだ。
戻るためではない。
誰に誓うにせよ、何に誓うにせよ。
情けない誓いだけれど。
これからも、何もない。
あの日から続いてきた「何もない」とは
違う意味で。
双六の 一回休みが二十年
賽は何処か 持ち駒もなく
祭りは終わった。
片づけも済んだ。
そう思ったあとで
いちばん始末に負えないものが出てきた。
二十年前、私はなぜ彼から遠ざかったのか。
両親の事業が傾きかけていた。
娘の付き合う相手に、迷惑をかけたくない。
娘にも、惨めな思いをさせたくない。
そういうことを、両親から言い聞かされていた。
若い私には、響きすぎた。
頭の中で、繰り返し鳴っていた。
両親のプライドを守らなくちゃいけない。
私も、惨めなところを見せたくない。
実際、どこまで深刻だったのか。
いまから確かめるには、遠すぎた。
ただ、当時の私を遠ざけるには、充分だった。
私は、それも書き始めた。
時間旅行で拾ってきたものを並べ
手紙のように綴った。
初めて伝えることのつもりで。
途中で、手が止まった。
これ、書いたことがある。
思い出しながら写していたのではない。
手紙を書いたことさえ忘れたまま
初めての説明として書いていた。
それなのに、一言一句違わないと思えるほど
昔の言葉が並んでいた。
二十年前。
私は、このことを入江に書いて送っていた。
ただし、最後のくくりが違った。
いまの私には書けない。
書き足しても、役に立たない。
無効の一行。
『待っていて下さい』
たしか、そう書いたと思う。
さようなら、ではなかった。
終わりにしたのでもなかった。
待っていて下さい。
だったら、彼は待つ。
私がいなくなったのは一時的なことだと。
いつか帰ってくるのだと。
そのつもりで、十年も。
私は、手紙を返送させていた。
母に頼んで。
読みたくないから。
さっきまで立っていた場所が、なくなった。
地下室に 鬼は心臓仕舞い込み
張り裂ける音 君に届かず
十年、何をしていたの。
私が結婚したと、風の噂で聞いたの。
何も聞こえず、見つけられず、諦めたの。
わからない。
でも、入江は言っていた。
笑いながら。
「今更嘘なんか言わない」
ナンチャッテは、なかった。
落ちもなかった。
想いを絶ったのは、私だった。
絶ったことを知らせなかったのも、私だった。
どうやら極悪人は、私らしい。
謝ればいいのか。
謝って、何が戻るのか。
既に罰は受けたような気もした。
そんなことを、自分で決めるなとも思った。
降り被る 火の粉払いにとどめ刺す
遂に我が身は バチ被るなり
伝えようとする努力だけなら
誰にも負けないつもりでいた。
その覚悟は、その後の人生でずいぶん役に立った。
いちばん役立てなければならない時に
使えなかった。
代わりに意地が、よく働いた。
いまなら、どうすればよかったか即答できる。
泣けばよかった。
行けばよかった。
彼のところへ。
本当は、さらけ出して愛されたかった。
でも、飛び込んでいけない理由があった。
そんなものを払い除けてでも
愛してもらえる自分になりたかった。
願っていなかったわけじゃない。
願っていた。
伝わっていると信じていた。
正反対の態度を示しておいて、なお
わかってもらえるつもりだった。
馬鹿タレ私。
阿保タレ。
強がりを、そのまま受け取らないで。
でも、言ったことは信じて。
遠ざかるけど、追ってきて。
手紙は読まないけど、諦めないで。
意地と無垢 臆病と呆けが喧嘩して
廊下に並び立つ 白日夢
自分でも、どれが本当の望みなのか
訊かれたら怒っただろう。
曖昧な態度で傷つけ、自分も傷ついて
相手は何も感じない冷たい人なのだと思い込んだ。
蓋をした。
乗り越えたことにした。
私には、終わっていた。
携帯もなかった時代
そんなすれ違いはいくらでもあっただろう。
でも、時代に全部かぶせるわけにはいかない。
私には、紙もペンもあった。
そして実際、伝えていた。
待っていて下さい、と。
肝心な言葉が伝わらなかったのではない。
伝わっていたのだ。
受け止めた彼は、待っていた。
私が忘れてしまった約束を、ひとりで持って。
なんということをしてしまったのだろう。
私は。
私より 愛せる人に逢えぬよう
かけた呪文が 我が身を縛り
それから数年経った。
英語塾で一緒だった男子のブログを
偶然見つけた。
バンドで活動していた彼は
北関東でライブハウスを経営し
店のことや日々のことを綴っていた。
私と顔が似ているとよく言われた人だった。
もしかしたら遠い親戚なのかと
考えたこともあった。
だから、よく憶えていた。
入江の親友でもあった。
懐かしくなって、コメントを入れた。
「同郷で、英語塾でご一緒でしたよ」
すぐに返事が来た。
「憶えてますよ。
入江の英語の辞書に
あなたの名前が書いてあったから」
そんなところに、いたのか。
私。
二、三度やり取りをした。
互いに仕事が忙しく、それきりになった。
私と入江の名前には
誰にもわからない暗号があった。
ずっとあとになって、気づいた。
気づいたのは、私だけだと思う。
入江に教えることもない。
あの人の辞書に私の名前があったことを
私は知らなかった。
私があの人の名前に見つけたものを
あの人は知らない。
今度は、知らないままにしておく。
君の名の末の一文字 我の名を
炙り出させる濃い蜃気楼
Leeの人生は
あの恋の後始末だけで終わったわけではない。
家族のことで頭を抱えながらも
伝統供養の音頭を取り、踊り
地域や学校の運営に走り回った。
曲を作り、作品を生み、服を仕立てた。
頼まれたことも、自分から始めたことも多かった。
大変だった。
それとは別だ。
生きるのが楽しかったことは。
エラ婆は、その人生をまるごと憶えている。
歌手になったのも
車椅子で踊り続けているのも
前の人生から持ち越した楽しみが
まだ尽きないからかもしれない。
入江が今、どこに生まれ変わっているかも
エラ婆は知っている。
会いには行かない。
連絡もしない。
想いが通じることと
二人でうまく生きていけることは
同じではなかった。
それを知るのに
前の人生でずいぶん時間を使った。
それを忘れて
今度こそ、と思うことはない。
それに今は
とても素敵な相方がいる。
この人と一緒にやりたいことが
まだまだあるのだ。
300年有っても足りないくらい。
昔の恋の再履修まで、時間割には入らない。




