シカリと江田《お勘定は別々で》
何もかも分かっているとは限らないし
何も分かっていないとも言えない。
知らなかったこと、知っていたつもりだったこと。
今さら訊けないままで。
でも少しだけ近くなる
久しぶりのふたり。
「あなた、よく平気な顔で来られたわね」
「知らなかったんだよ」
「何を」
「君が来ることを」
そうだった。
そこはさっき聞いた。
私は、お茶を飲んだ。
命名パーティーが終わって
お婆たちは先に帰った。
レリは奥の部屋で授乳している。
江田は、そのレリに
帰る前にもう少し話をしたいからと
引き止められていた。
私は頼まれてもいないのに、残っている。
江田五省は私の子の父親で
孫の前世の連れ合いで
もうすぐ生まれるもう一人の子の親でもある。
紹介するだけで料理が冷める。
だから今日は、知り合い、と言っておいた。
嘘ではない。
かなり省いたけど。
どうせお婆たちは帰りながらアレコレ詮索して
なんならもう一軒寄って喋り尽くしてるだろうし
次にこの店に集まる時には
90%くらいは言い当てに来るはずだから
放っといて構わない。
「あなたに似てるなんて、一度も思わなかったわ」
私が言うと、江田は少し笑った。
「僕は、今日、三度くらい思ったよ、僕似だって。
君にもよく似てる」
「どこが」
「あの子が君の話を聞いてる時の顔」
私は湯呑みを置いた。
平静を装いつつも、頬が緩むのを止められなくて
却ってこわばる。
「どうして知らせてこなかったの」
江田が訊いた。
来ると思っていた質問だった。
用意してあった返事も、いくつかあった。
「あなたに育ててほしかったわけじゃないもの」
「うん」
「国の保育もあったし、家族もいたし。
仕事も休まずに済んだし」
「うん」
「困らなかったのよ」
「それは、よかった」
江田は、お茶を飲んだ。
返事が足りない。
昔からそうだ。
こっちは三つも四つも説明しているのに
ひとつに片づけられてしまう。
「怒ってるの?」
「少しはね」
私は湯呑みに手を伸ばしかけて、やめた。
「そういうの、顔に出したら?」
「出してるつもりなんだけど」
「わかんないわよ」
「昔も言われたね」
懐かしんでいる場合ではない。
「いま父親の権利を
どうこう言いたいわけじゃないよ。
ただ、僕に子供がいたっていうことを
君は二十五年知ってて......」
「そうね」
「僕は、今日からだから」
私は、残っていた返事を使わずにしまった。
店の人が、忘れ物はございませんかと訊きに来た。
江田を指しそうになった。
やめた。
怒ってる人を指差せない。
代わりに
思いつきを言ってみた。
「この人の傘、ないかしら」
「今日は晴れてるよ」
「昔、ここに忘れたじゃない」
「いつの話?」
「あなた、あれ取りに来たの?」
店の人は、少し困った顔をした。
「いつ頃のお忘れ物でしょうか」
「二十五年くらい前」
江田が額に手を当てた。
「探していただかなくて結構です」
店の人が下がってから、江田は言った。
「あれ、君に貸したんだよ」
「そうだった?」
「帰りに雨が降って、君が持っていった」
「じゃあ、あるかも」
「どこに」
「うちの傘立て」
なぜか、急にその傘の柄を思い出した。
よく握るところだけ少し剥げている、黒い傘。
お婆たちの誰のものでもないから
誰も持って帰らない。
誰も借りて帰らない。
貸しもしない。
差しもしないけど捨てられずにいた。
「返すわ」
「まだ使えるなら、使って」
「開くのが怖いわよ、バラけそうで」
多少会話のテンポが早くなってる。
傘についてのひとしきりが終わると
また通常モードになる。
「あなた、あの頃から男の人の方が好きだったの?」
私は訊いた。
江田は、すぐには答えなかった。
今度は待った。
ちゃんと。
「自分でも、よくわかってなかった」
「私といるの、無理してた?」
「無理したことはある。でも、全部じゃない」
「じゃあ、どこまで」
「そんなふうには分けられないよ」
私は少し腹が立った。
分けてもらえれば、こちらも整理できるのに。
「君と別れた理由を
全部それにするのは違うと思う」
「ほかにもあるわけね」
「あるよ」
「言ってみなさいよ」
江田は私を見た。
「そういうところ」
私は思わず笑ってしまった。自嘲で口が捻れる。
江田も笑った。
つい口が滑ったと思ったような顔で。
良くも悪くも
笑えるようになったのが
二十五年後というのは
ずいぶん効率が悪い。
「だって、あなた何も言わないんだもの」
「言うと、解決しようとするから」
「したらいいじゃない」
「まだ困ってる途中なんだよ」
「……何よ、それ」
「僕もよくわからなくて
ちょっと話したいだけの時に
君は、じゃあこうすればって
もう立ち上がってる」
あ、その通りだけど。
そう言うことなのね。
私は椅子の背にもたれた。
背もたれが真後ろにあることを確かめてから。
「頼もしいとは思ってたよ」
「でも、嫌だったのね」
「頼んでないことまで
終わってる時があった」
それは、あったかもしれない。
私は仕事が早い。
そういう長所の話ではないらしい。
「私だって、嫌だったことあるわよ」
「うん」
「どこで食べるって訊いても、どこでもいい。
何食べるって訊いても、君の好きなもの。
それで店を決めたら、ここ苦手なんだよね
みたいな顔するの」
「ああ」
「ああ、じゃないわよ。言いなさいよ、その時に」
「言ったこともあるよ」
「いつ」
「ここの、川魚が苦手だって」
私は、江田を見た。
「あなた、あれ好きなんじゃなかったの」
「君が好きだったんだろ」
「そうよ、鯉の丸揚げ、ここのが最高だって
いつも言ってたじゃない。
お婆たちがここに絶対に来れない通院日を狙って
私が予約入れといたら
あなた嬉しそうだったから
だからいつもここにしたのに」
「君があれ一番好きだからだと思ってた」
二人で黙った。
ここで食事した回数を考えると
相当な数の魚が巻き込まれている。
「なんで食べたの」
「君が、ここのなら食べられるって言うから」
言った。
それは、言ったと思う。
「食べられたでしょ」
「食べられたよ」
「じゃあ」
「好きとは違うよ」
私は口を閉じた。
この話は
魚のうちに終わらせた方がいいかもしれない。
江田が、お茶のおかわりを頼んだ。
私の分は、私に訊いてから。
そういうところも
前より少し変わった気がする。
前もそうだったかもしれないけど。
こちらの記憶も
急に信用できなくなってきた。
「私、あなたのこと、いちばん好きだったのよ」
江田の手が止まった。
「だから、あなたの精子をもらったの」
江田は、しばらく私を見ていた。
「そうだったんだ」
「そうだったんだ、って。それだけ?」
「ほかに、何て言えばいいの」
「もっと驚くとか」
「今日はもう、ずっと驚いてる」
それもそうだった。
私は、少し笑った。
江田は笑わなかった。
「でも、知らせたら、あなたが何か言うと思ったの」
「何かは言っただろうね」
「そうよね」
そこでようやく、自分の用意していた説明が
どれも少しずつ違うことに気づいた。
困らないから知らせなかった。
育ててもらうつもりがないから知らせなかった。
それも本当だ。
でも、喜ばれなかったら。
どうして僕の、と言われたら。
そのあとの自分が、面倒だった。
「返事、聞きたくなかったのかもしれない」
江田は頷いた。
頷かれるのも、それはそれで落ち着かなかった。
「いまから言う?」
「今日はやめて」
「うん」
今度の「うん」は、ありがたかった。
*
「伊月さんとは、うまくいってた?」
訊いてから、少し早かったかと思った。
亡くなって、まだ日が浅い。
江田は湯呑みを両手で持った。
「喧嘩もしたよ」
「あなたが?」
「するよ」
「想像つかない」
「向こうは、僕が黙ってても、待ってたから」
私は、湯呑みの中を見た。
「それで、喧嘩になるの」
「待ってる間に
向こうも言いたいことが溜まって」
私は笑った。
江田も、少しだけ笑った。
「仲直りは?」
「ごはん食べる頃には
どっちかが台所に来る。
食べようか?って」
「食べるでしょうね」
「うん。食べた」
その先が続かなかった。
江田の指が、湯呑みの縁を一度撫でた。
私は何か言おうとして、やめた。
もう生まれ変わってるんだから
なんてことを言わずに済んで、よかった。
あの赤ん坊がいることと
この人の家に伊月さんがいないことは
同じ話ではないのだろう。
店の奥から、食器を重ねる音が聞こえた。
「うちの子、あなたのこと
何て呼べばいいのかしらね」
しばらくして、私が言うと
江田は顔を上げた。
「レリさん?」
「そう。うちの子」
「江田でいいよ。いままでどおり」
「いままでって、何日よ」
「その何日かの続きでいい」
私は頷いた。
「それは、あの子に決めさせましょう」
「うん」
今度は少しだけ、うまく話せた気がした。
そう思ってるのが私だけ
という可能性はあるけど。
奥からレリが戻ってきた。
腕の中のレオナは眠っていた。
「ごめん、待った?」
「二十五年ほどね」
私が言うと、江田がこちらを見た。
「それ僕の台詞じゃない?」
レリは私たちを見比べた。
「なに。仲良くなったの?」
「川魚の話をしてただけ」
「何それ」
「あなたには、まだ早いわ」
「子供二人いるんだけど」
「川魚は別よ」
レリは、川魚をスルーして
江田を方を向き直り
生育器の子の次の面会日を訊き始めた。
私はそのやり取りを見ながら、帰る支度をした。
レリが生まれた時、この人はいなかった。
私が知らせなかったからだ。
いまは、レリが自分で引き止めている。
私の知らないところで
話がここまで辿り着いて
ここからも続いて行くのは
少し妙な気分だった。
口を挟むことなら、いくらでもあった。
あったし、これからもあるけど
とりあえずバッグを閉じた。
帰り際、店の人に包みを二つ頼んだ。
夕食にするつもりで。
一つは私の分。
もう一つは、江田に持たせようと思った。
「いつものお魚でよろしいですか」
「ええ、いえ、待って」
言ってから、私は振り返った。
「あなた、何がいい?」
江田は、壁のお品書きを見た。
「卵焼き、まだ頼めるかな」
「だし巻きでございますね。ご用意できます」
私は、初めてその品があることに気づいた。
何十年も来ているのに。
「甘くないので、お願いします」
江田が言った。
そういう好みだったのか。
「代金は、僕が」
「いいわよ、これくらい」
「自分の夕飯だから」
昔なら、そこで私が払っていた。
今日も払えた。
でも、店の人が待っていたので、言った。
「じゃあ、お勘定は別々で」
江田は、自分の分を払った。
私は、自分の分を払った。
外に出ると、晴れていた。
「傘、今度持ってくるわ」
「急がなくていいよ」
「二十五年待ったんだものね」
「あれを貸したのは、二十七年前だよ」
私は江田を見た。
そこは憶えてるのか、この人。
「じゃあ、あと二年くらいいいわね」
「どういう計算?」
私は笑って、迎えの車に乗った。
家に帰ったら、まず傘立てを見ようと思った。




