女子トーク 「お母さまは2名さま」
母親になったからといって
何もかもが変わるわけではない。
変わったことも、変わらなかったことも。
誰かに訊かれて初めて気づくこともある。
今日は、久しぶりにふたりでランチ。
「本日は、お母さま方だけで?」
店の人がそう言ったので
私は後ろを振り返った。
誰もいない。
「私たちよ」
イデが言った。
「あ、そうか」
母親になってから、もう何ヶ月も経っているのに。
お母さま方、と言われると
シカリやキトラ婆がぞろぞろ来る気がする。
私が言うと、イデも笑った。
「お婆さま方って言われて振り返る日も来るのよ」
「まだいい」
「そんなこと言って。
子供は黙って作るのが
家訓みたいになってるじゃない」
ぐうの音も出ない。
お腹は鳴ってるけど。
久しぶりに、イデと二人で昼ごはんを食べに来た。
いつもの『Gold Gourd』だ。
ほかの店でもよかったんだけど
考えるのが面倒だった。
イデのカンは、ダンナが見ている。
うちのレオナとハルは、江田が見ている。
「そっち、三人で何してるの」
「寝てると思う」
「三人とも?」
「たぶん」
江田には、私の父親としてより
子供たちを抱いている姿の方に
先に馴染んでしまった。
いまだに、パパとは呼べない。
呼んだら向こうも困りそうだし。
お品書きを開いたイデが、顔をしかめた。
「母乳育児応援膳だって」
「へえ。何が出るの」
「知らない。普通のにする」
「なんで」
「ごはんにまで応援されたくない」
私は笑いながら、普通の昼膳を二つ頼んだ。
「この前の取材、どうだった?」
訊くと、イデはお茶を飲んだ。
「断った」
「何の?」
「全部」
この人は時々、話が早すぎる。
「赤ちゃんの一日を撮りたいっていうから
最初は少しくらいならと思ったの。
でも最後に
お母さまの葛藤を聞かせてくださいって」
「葛藤」
「ないわけじゃないわよ。あるわよ。いくらでも。
朝、顔洗うか、このままもうちょっと寝るか」
「寝るでしょ」
「寝たわ」
おしぼりで手を拭きながら、イデは続けた。
「健常者の子を持つ母親として、って言われてもね。
私、障害のある子を育てたことないもの。
比べようがないじゃない」
「私も、この子たちしか知らないし」
「そうよ。なのに
ずっと覚悟のほどを訊いてくるの。あんたも?」
「訊かれる。でも適当に答えてる」
覚悟。
生育を始めた時、私はイデの話を聞いて、
急に自分も欲しくなったのだ。
その翌週には手続きをした。
そのへんを正直に言うと、
たぶん番組が一本終わってしまう。
そう言うのは端折られてもいい気持ちしない。
「欲しかったから、でいいと思うんだけど」
「よくないらしいわよ」
「誰に?」
「番組に」
昼膳が運ばれてきたので
話は中断して
さっきの
母乳育児応援膳って何が出るのか
一応、聞いてみたら
母乳がよく出るのだそうだ。
月見草のサラダが付いて
お味噌汁は『鯉こく』って
鯉は丸揚げがいいけどな。
昼膳は魚、私の好きな根菜尽くし。
蓋を取ると、湯気が上がった。
温かいうちに食べられるシアワセ。
私たちは少し黙った。
こういう時には
だいたい二人とも同じことを考えている。
「今、泣かないでね、って思ったでしょ」
「思った」
家で寝てるのに。
イデは魚をほぐしながら言った。
「うちのダンナね
この頃、お義母さんに似てきたの」
「顔?」
「言うこと。赤ちゃんの靴下は、とか
ちょっと部屋が寒いんじゃない、とか」
「本人、寒いんじゃない?」
「そう。だから、あなたが一枚着なさいって言った」
私はむせた。
「女になったら、わかってくれることも増えた?」
「ブラジャーが乾かないこと」
「ほかには」
「いま考えてるから、待って」
私は先に食べた。
「でも、夜中に代わってくれるのは助かる」
「うん」
「ただ、代わる前に、起こしてくれる?
って言うのよね」
「そこから自分でやってほしいね」
「そうなのよ。私が起きたら、私がやるじゃない」
イデはそこで少し笑った。
「でもね、私も悪いの。任せて寝ればいいのに
隣で違う違うって言っちゃう。
せっかく抱いたのに、取り上げたり」
「怖いから?」
「遅いから」
即答だった。
「私だったらもう終わってるのにって。
あれは嫌だと思うわ。
私だって言われたくないもの」
「言われたの?」
「自分の母親に」
「ああ」
どこの家も、よく回っている。
同じものが。
「で、あんたの方は?」
来た。
魚を食べ終わる頃には来ると思ってた。
「何が」
「あの彼女」
私は蓮根を裏返した。
裏返しても穴が開いていた。
「連絡は、たまに」
「会った?」
「まだ」
「子供の写真は?」
「送ってない」
「なんで」
「頼まれてないから」
イデが箸を置いた。
こういう置き方をする時は、少し長くなる。
「見たいけど言えない、ってこともあるんじゃない」
「見たくないけど、見たいって
言ってくれるかもしれないじゃん」
イデはしばらく考えてから、箸を持ち直した。
「それもそうね」
私はほっとした。
送ってあげなさいよ、なんて言われたら困る。
自分でも、何度か送ろうとしたからだ。
写真を選んでいるうちに、思ってしまう。
可愛いね、と返してほしいのかな。
よかったね、と言ってほしいのかな。
私の方が。
「私ね、あの時は、子供のために女に戻るって
すごくはっきり思ってたの」
「うん」
「その前は、あの人のために男でいたり
女になろうとしたり。
それも、自分では納得してたんだけど」
イデは待っていた。
口の中のものを、ゆっくり飲み込んで。
「なんか、私がちゃんと考えて決めたことって
誰かのためって言うと
相手が何も言えなくなるんだね」
「言われたの? 彼女に」
「ううん。言われなかった」
あの人は、わかってくれた。
そのことばかり、私は話していた気がする。
何を言わないでいてくれたのか。
今は訊けない。
「会いたい?」
イデが訊いた。
「会いたい」
「そっか」
「でも、会ってどうしたいのかは、わかんない」
「そこ、決めてからじゃないと
会っちゃいけないの?」
「知らない」
「私も」
二人ともわからないまま、お茶を飲んだ。
お婆たちなら
このへんで自分の恋愛の話を始める。
四、五人ぶんくらい遡る。
私たちには、そこまでの蓄えがない。
イデが端末を取り出した。
「写真、見る?」
「カンの?」
「そう」
そこには、いつもと同じ顔があった。
もちろん可愛い。
でも、昨日も見た。
「昨日と違う?」
「違うわよ。こっちは一昨日」
もっと前だった。
「この顔見て。誰かに似てない?」
カンは眉間を寄せて、口をへの字にしていた。
私はすぐわかった。
「ミケラ婆」
「そうなのよ」
言った途端に二人で笑ってしまった。
「百二十五歳と何ヶ月が同じ顔してるの」
「やめて、もうそれにしか見えない」
イデが拡大するので、余計にいけなかった。
店の人がお茶を足しに来て、画面を見てしまった。
「あら。ミケラ様によく似ていらして」
私たちはもう一度、笑い直した。
その顔なら健常者には見えない、なんて
昔の私なら、うっかり言ったかもしれない。
言わなくてよかった。
言う前に気づくことが、この頃は少し増えた。
代わりに、うちの二人の写真を出した。
レオナが、ハルの耳を握っている。
「止めなさいよ」
「止めたよ。撮ってから」
「先に止めなさいよ」
イデは言いながら
写真を自分の端末にも欲しがった。
「ねえ。あんた、病院で言ってたじゃない」
私は訊いた。
「生きてるといろんな障害が起こるから
そのうち何かある、って」
「ああ」
「あの時、すごいなって思ったんだ。
みんなが騒いでるのに、イデだけニコニコしてて」
イデは、小鉢の底に残った胡麻を箸の先で集めた。
「私も騒いだら、誰が黙るのよ」
そう言って、胡麻を食べた。
「じゃあ、ほんとは心配だった?」
「そりゃあね」
私はイデの顔を見た。
いつもと変わらない顔だった。
「でも、抱っこしてると、よくわかんなくなるの。
心配はあるんだけど
それとは別に、あったかいし。重いし。
手、痺れるし」
「痺れる」
「あんた二人だもんね」
「それとさ」
「うん」
「そのうち何かある、とは言ったけど
本当に何か起きてほしいわけじゃないのよ」
「うん」
「ないままで、ちゃんと暮らせればいいんだけど」
私は頷いた。
イデは、空になった小鉢を置いた。
「あの時、レリが来てくれて、ちょっと安心したの」
「私?」
「だって、いてくれるじゃない。目の前に。
最初は何もなかった子が、育ったやつ」
「これ見て安心したの?」
私は自分を指した。
「まあ、いろいろやらかすけど、生きてるなって」
ひどい評価だ。
でも、たぶん、褒められている。
江田から通信が来た。
二人とも寝た、という短い報告と、写真が一枚。
レオナとハルは、同じ方を向いて眠っていた。
イデの端末にも、ほとんど同時に連絡が入った。
「そっちは?」
「寝たって」
「じゃあ」
「うん」
私たちは、お品書きをもう一度開いた。
甘味は別だ。
何が別なのかは知らないけど。
「お持ち帰りもできますよ」
店の人が言ったので、私は首を振った。
「ここで食べます」
イデも、うんうんと頷いた。
「温かいのを、温かいうちに」
「冷たいものは、冷たいうちに」
「お二つずつ?」
「一つずつ」
「違うのを頼んで、半分ずつにしよう」
「それ、あんた多い方取るじゃない」
「今日は取らない」
イデは私を見た。
あまり信用していない。
「前から思ってたんだけど
あんた、男やってる時も女やってる時も
そういうとこ全然変わんないね」
「そこまで変えたら、誰だかわかんなくなるでしょ」
イデが笑って、お品書きを畳んだ。
子供たちが起きるまで、もう少し。
起きたら起きたで、見てくれている人がいる。
それでも端末は伏せられなくて
二人とも、画面が見えるところへ置いた。
甘味が来た。
ティラミスとブリュレ
どちらも思ったより大きかった。
半分にしづらくて交互にひとくちずつ。
イデの方が、ひとくちが大きかった
少しだけ。




