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キトラ婆の《認バー》にて 『はじめましての、おかわり』

長く生きていると

初めてのことも、初めてではないことも

いろいろある。


覚えていること、忘れてしまったこと。

忘れたつもりで、どこかに残っていること。


賑やかなお婆たちには、静かな日もあります。


「ママ、あたしのこと、忘れてちょうだい」


 開店早々、厄介なことを言う客が来た。


「ご予約は?」

「してないわ」

「じゃあ、忘れてないわ

憶えた憶えもないし」


 女は一瞬ぽかんとして、それから笑った。

 よし。座れる。


 笑えないくらい疲れているひとと

前屈みの人には

カウンターの高い椅子は勧めない。


背もたれがないのに

有ると勘違いしてひっくり返る客も居る。


そこまでじゃないにしろ

ずり落ちても困るし

脊柱管狭窄症かなんかだと

障るといけないし。


奥のソファへ案内する

座ったつもりで

毎回床までずり落ちる客を

あたしは三人憶えてる。


 いや、二人だったかもしれない。

四人だったかも。


 ひとりはあたしだ。


「お荷物、こちらへどうぞ」


 女は膝の上のペーパーバッグを両手で押さえた。

「これは、ここでいいの」


 そう言うひとの荷物は、預からない。

預かると、返すのを忘れるから。


 あたしは軋本キトラ。百歳。

 銀座で認バーのマダムをしている。


 認バーというのは、認知症バーの略だ。

昔の名前がそのまま残った。


 うちの母なんかは、

「あんた、忘れっぽいのが商売になって

よかったねー」と言う。


あたしが昔から忘れっぽいってことを

ずっと憶えてるつもりらしい。

早く忘れろって言いたい。


 カウンセラーの資格を取る時

何度落ちたかなんてことも

忘れてくれない。

あたしが忘れてるのに。


そんなのは忘れるのに

バラモン、クシャトリア、バイシャ、スードラ

なんてのは、何故か忘れない私だ。


「ここ、嫌なことを忘れさせてくれるんでしょう」


パッチを急ぐことはない。

充分に吐き出させてあげるのが仕事だし。

牛みたいに反芻させてあげてからでも

遅くない。


「まず、お話を伺うの。パッチはそれから」


「話したら、あなたは憶えてるじゃない」


どうかしら?

憶えててマズイかどうかは

聞いてからじゃないとわからないし。

意外と憶えてて欲しかったりしない?


「そこも含めてのお代よ」


 女は、料金表を見直した。

目を離して、また見直して。また見直して。

価格に異論はなさそうだけど

覚悟と躊躇の間で

眼球が微細に揺れてる。

 

「お迷いでしたらごゆっくり」


 こういうところで笑わないひとは

人として信用できる。 


と言うかちゃんと話を聞きたくなる。


女は料金表を脇へずらして



「娘がね。生まれ変わったの」

 女は水を半分飲んでから言った。


「まあ」

「見つかった時は、嬉しくて。

こんなことが本当にあるんだわって。

毎日、写真を見てたわ。

向こうのご両親も、よくしてくださって」



女がペーパーバッグの中に手を入れて

箱の蓋を触ると

細いリボンが

チラッと覗いて見えた。

 薄い黄色。


「今、おいくつ?」

「六つ。明日、お遊戯会なの」


 あたしはグラスの下のコースターを替えた。

 まだ濡れていなかったけど

続きを急がせたくなかった。


コースターを替えたのを

合図だと反応した茶坊主アンディが

カート・コバーンのビーンズを歌いながら

豆の入ったカゴを運んで来たので

トレーごと受け取ってテーブルの脇に置き

アンディの肘にタッチして戻らせた。



「来ていいって、招待状をくれたの。

本人が。字、まだ下手なのよ。

昔はとても綺麗な字を書く子だったのに」


 女は笑った。

 あたしも少し笑った。


「六つじゃね」

「そうなの。六つなのよね」


 それから、長いこと膝の上の紙袋に

目を落としていた。


「お名前は?」

「千帆」

「今のお名前」

「ああ」


 リボンの先が、女の指に巻きついた。


「すずちゃん」


 急に、よその子を呼ぶ声になった。


「すずちゃん、明日は何をするの」

「鳥ですって」

「何の鳥?」

「わからないわ。鳥に詳しい子じゃなかったもの」


 言ってしまってから、女は唇を押さえた。


 あたしは棚から、小さい皿を出してきた。


「豆、召し上がる?」


「今、怒るところじゃないの?」

「豆を出すところよ」


     


 千帆という娘は、四十三歳で亡くなった。

 すずちゃんは六歳で、トマトが嫌いだという。


「千帆は好きだったの。

だから、細かくすれば食べられるわよって。

向こうのお母さんに」


「うん」

「ピアノもね。習わせたらどうかしらって。

あの子、ずっと弾いてたから。

きっと思い出すと思って」



「うん」

「こないだ、その子に言われたの」


 女は水の残りを飲んだ。


「『それ、まえにやったから、もういい』って」


 あたしは豆の皿を、もう少し近くへ寄せた。


「それでも、また会いたいって

言ってくれるのよ。

私のことやうちのこと、憶えてるの。

台所の窓が開きにくかったことや

開いたら開いたで閉まりにくくて

閉まったら閉まったで指を挟むしで

......

そんなこと、ほかの誰も知らないのに」


 声が嬉しそうになった。

 すぐに、困った声に戻った。


「なのに、わかってるのに

もうちがうのに

ついやらかしちゃうの。

今のお母さんが髪を結び直してる横から

そんなにきつくすると痛がって

あとで見てないとこで緩めるから

無駄よって

言っちゃった。

あの子、黙って下を向いてた」


 ペーパーバッグがくしゃっと鳴った。


「明日、人前で

千帆って呼んでしまうかもしれない。

あの子、きっと振り向く」

「うん」

「振り向いてくれるって、わかってるの」

「うん」


 あたしは口を開きかけて、やめた。



「だから、忘れたいの。娘だったことを。

そしたら、すずちゃんのお遊戯会を

見に行けるでしょう」


 女はようやく

ペーパーバッグから箱を取り出し


 薄黄色のリボンづたいに

中から小さな靴が顔を出した。


 ベルトにバックルボタンのついた

赤いメリージェーン。


「同じものを、作ってもらったの。

千帆が小さい時、気に入って履いてたのよ。

寝る時まで。

大人になってからも私が誰や彼やに話すから

ママそれ何千回も聞いたわよって」


 女は片方を取り出して、掌に載せた。

 傷ひとつないきれいなエナメル。


「寸法は?」

「聞いたわ。向こうのお母さんに」

「じゃあ、大きさは合うのね」

「ええ」


 あたしは頷いた。


「すずちゃん、赤が好き?」

「千帆はね」

女は顔をあげた。


「……知らない」



 店の奥で製氷機が鳴った。

 女は靴のバックルボタンを

外したり留めたりしていた。


「聞けばよかった」

「明日、聞けるわ」


「でも、せっかく作ったからって

履いてくれる子なのよ」


 それは千帆のことなのか

すずちゃんのことなのか。


 どっち?って聞き返せなかった。

わからなくていい。

 たぶん、このひとも。


「置いていこうかしら」

「ここに?」

「忘れ物ってことにして」


「困るわ。あたし、履けないもの」


 女は靴を見て、あたしの足元を見た。


「あら。案外、似合いそうよ」

「大きいのをお持ちいただけたら履きますわ」


 今度はふたりで笑った。


   


 パッチを出さないうちに一時間が過ぎた。


「私、忘れたくないんだわ」


 女は言った。


「ええ」

「忘れたいって言いに来たのよ」

「そういう日もあるでしょう」


「明日、あの子を見たら

また千帆を探すと思う」

「うん」


「笑い方とか戸惑う顔が同じだとか

ああいうところは違って当然よねとか。

きっと考えてしまうわ」


 あたしは何も言わなかった。

 やめられますよ、なんて、言えるものか。


「でも、鳥は初めてなの」


 女が言った。


「千帆、鳥の役はやったことないのよ」


 箱の中へ、赤い靴が戻された。


「明日は、それを見に行くわ」


     


 会計の時、女は次の予約を入れた。

 時間は、明日のお遊戯会のあと。


「今度は、使うかもしれない。パッチ」

「いまはお決めにならなくていいわ」


「今日の話、忘れてしまうんでしょう?」


「そうとも限らないけど

どちらがよろしくて?」


 あたしは、引継ぎ用の小さい画面を

客の方へ向けた。

 残す記録は

一緒に確かめることになっている。


バックアップは

茶坊主のアンディにも繋がっているから

あたしが忘れても心配ない。


 次回来店予定。

 処置なし。

 相談の続き。


「何か、書いておきたいことは?」

「明日、どうだった?って聞いてほしい」


「何が、ってあたしが聞いたら?」

「鳥よって言うわ」


 あたしは『鳥』とだけ打った。


 女はそれを眺めてから、ひとつ頷いた。


「靴のことは、書かないでね」

「書いてないわ」

「ほんとね。ああ、よかった」


 ペーパーバッグを持って立ち上がった時には

来た時より少し背が高く見えた。


明日はカウンターを勧めても良さそう。




 

 閉店後、娘のシカリから通信が入った。


「ママ、明日、お店の前、通るから。何かいる?」


「別に。あんた、仕事?」

「そう。撮影」

「ちゃんと食べてるの?」

「食べてるってば」

「あんた昔っから、忙しくなると食べなくなるから」

「それ、食べる暇ないくらい

仕事してた頃のことでしょ」


 あたしは、カウンターに肘をついた。


「……そうね。明日は何の撮影なの?」


 シカリはちょっと黙った。

 画面越しにあたしの顔を覗き込んだ。


「ママ、具合悪い?」

「なんでよ」

「人の話、聞こうとするから」


 七十五年も娘をやっていて、その言い草。

 誰に似たんだか。


     


 翌晩。


 開店して間もなく、女がひとり入ってきた。

 予約の名前を告げ、カウンターに座った。


 記録を開く。


 鳥。


 あたしは、一瞬だけ目を逸らした。

控えの画面にだけ「靴」と入っていたのを

見て見ぬ振りして。


「いかがでした?」


 女は、端末に一枚の写真を出した。

 黄色い衣装の子供たちが、両手を広げている。

 ひとりだけ、反対を向いていた。


「この子」


 女の指が、その子の手前で止まった。


「すずちゃんっていうの」


 その言い方が

なんだか嬉しそうだったので

あたしも写真を近くで見た。


「可愛い鳥ね」

「ひよこなんですって」

「あら、そう」


「ひよこは、あんまり飛ばないわよね

でもこの子、いちばん飛んでた」


 女は声を立てて笑った。

 膝の上に、荷物はなかった。


「あのね、ママ。

今日は、お酒だけでもいいかしら」


「もちろん」


 グラスを選ぼうと、あたしは棚を見上げた。


「何になさる?」

「昨日と同じの」


 振り向くと、女がいたずらっぽい顔をしていた。


 これは。

 どうやら、試されている。


「高いわよ」


「お水なのに?」


 あたしは一番いいグラスを、ふたつ出した。

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