レリと伊月『そのあとも』
「今日は、これで終わりですね」
伊月が言った。
レリは、最後の記録を閉じた。
珍しく、予定していたところまで
予定していた時間に終わった。
足りない映像も見つかった。
確認したかった選手の話も聞けた。
まだ分からないことは残っているが
今日、出来ることは済んでいた。
「終わったね」
「ええ」
伊月が、荷物をまとめた。
レリも、まとめた。
二人とも立ち上がらなかった。
「何か、忘れてる?」
レリが訊いた。
伊月は、机の上を見た。
「いえ」
「そう」
レリも、机の上を見た。
何も忘れていなかった。
*****
「少し歩きませんか」
伊月が言った。
レリは顔を上げた。
「どこへ?」
「まだ、決めていません」
「何を見に?」
「何かあれば」
「報告書に書く?」
「今日は、書かなくていいと思います」
レリは笑った。
「じゃあ、行こう」
外へ出ると
ずっと座っていたことが分かった。
歩き始めてから
レリは、ゆっくり肩を回した。
伊月も、少し首を動かした。
「そっちも?」
「ええ」
「調査する人の調子も
記録しておいた方がいいかもしれない」
「肩が凝っている時の報告書と
凝っていない時の報告書ですか」
「違いが出るかも」
「今日は、もう書かないはずでは」
「あ、そうだった」
*****
二人は、公園のベンチに腰掛けた。
伊月は、ベージュの
ヘンリーネックのスウェットを着ていた。
レリも、黒の長袖だった。
仕事の時と同じ顔が
仕事をしていない。
それだけのことが
レリには、少し面白かった。
伊月は、何も説明していなかった。
レリも、何も訊いていなかった。
人が通る。
少し離れたところで
誰かが笑っている。
風が吹くと
頭の上の葉が、かすかに擦れた。
「何か話さなくていいの?」
レリが訊いた。
伊月は、少し考えた。
「話したいことがあれば」
「ないの?」
「ありますよ」
「あるんだ」
「でも、今すぐでなくても」
レリは頷いた。
その返事で
もう少し、黙っていられた。
*****
伊月の目線が、ふと動いた。
レリの顔ではなく
道の向こうへ。
口元が、少しだけ変わった。
「知り合い?」
「ええ」
レリがそちらを見ると
向こうにいた男が
わざわざ立ち止まったところだった。
伊月に向かって片手を上げる。
それからレリに気づき
上げた手を、ゆっくり下ろした。
帰るのかと思ったら
指先を口元に当て
こちらへ投げるような仕草をした。
伊月は、目線だけを戻した。
「仲のいい人ね」
「そうでもありません」
「今ので、仲が悪くなったの?」
「少し」
レリは、ぽかっと口を開けて笑った。
向こうの男は
今度は両手を上げ
邪魔はしない、とでも言うように振った。
ずいぶん邪魔をしてから
歩いていった。
「明日、何か訊かれるわね」
「でしょうね」
「何て答えるの?」
伊月はレリを見た。
「まだ、考えていません」
レリは、少しだけ笑うのをやめた。
伊月の声は
いつもと同じだった。
いつもと同じなので
冗談にして聞き流すには
少し、近かった。
*****
伊月といると、落ち着いた。
レリが話を途中でやめても
続きを取り上げられることがなかった。
言い直しても
さっきと違うとは責められなかった。
考えが変わったことを
一緒に面白がってもらえた。
それは仕事の時だけのことだと
思っていた。
仕事をしていなくても
そうだった。
「あなた、私が黙ってても平気ね」
レリが言った。
「何か考えているんだろうと思いますから」
「何も考えてない時もあるけど」
「それなら、休めていますね」
レリは笑った。
「何か考えなさいって言われなくてよかった」
「今日は、ずいぶん考えましたから」
「あなたといると、仕事が捗る」
「僕もです」
そこで話が終わるかと思ったら
伊月が続けた。
「仕事がなくても
会いたいとは思っています」
レリは、膝の上の自分の手を見た。
伊月は、そのまま待っていた。
説明を足さなかった。
レリが答えを探している時の
いつもの待ち方だった。
「今日、帰らなくてよかった」
レリは言った。
伊月は、ゆっくり笑った。
*****
「このあと、何か食べますか」
伊月が訊いた。
レリは、顔を向けた。
「今の話の続き?」
「お腹が空きました」
「そうね。私も」
立ち上がった伊月が
レリに手を差し出した。
レリは、一度その手を見た。
立つのに、必要な手ではなかった。
けれど、取ってもいい手だった。
手を重ねると
伊月の指が、自然に添った。
立ち上がってからも
すぐには離れなかった。
二人とも、大人だった。
自分の暮らしも
仕事も、引き受けているものもあった。
それなのに
手を離すまでの短い時間を
どう扱えばいいのか
急に、分からなくなることがある。
レリは、そんな自分が可笑しかった。
伊月も、少し困ったように笑っていた。
*****
その後、会う約束をする時に
仕事の話から始めなくてもよくなった。
食事だけの日もあった。
少し歩いて
それぞれ帰る日もあった。
帰るつもりで歩いていたのに
また腰掛けてしまう日もあった。
次の約束が決まると
その日までの暮らしの中に
話したいことが、一つずつ増えていった。
ある晩、別れ際に
伊月が、レリの頬に触れた。
レリは、顔を上げた。
仕事の話を聞く時とも
冗談を言う時とも
少し違う目をしていた。
その顔を近くで見ることは
嫌ではなかった。
むしろ、もう少し見ていたかった。
伊月が近づいた時
レリは目を閉じた。
触れた唇は、温かかった。
離れてから
二人は、少し黙った。
いつもの沈黙とは違っていたが
気まずくはなかった。
レリが笑うと
伊月も、ほっとしたように笑った。
その顔を見て
レリも嬉しくなった。
*****
部屋へ戻ってからも
レリは、しばらく上着を片づけなかった。
鞄を置いて
その隣に座った。
伊月に会いたかった。
さっき別れたばかりなのに
もう、次に会うことを考えていた。
手に触れられたことも
口づけを交わしたことも
思い返すと、頬が緩んだ。
何も、嫌ではなかった。
その先を望まれていることも
分かっていた。
分かっていて
レリも、自分から近づいたのだった。
けれど
このまま進めばいいのだと思おうとすると
心のどこかが、少し遅れた。
伊月といる場面なら
いくらでも浮かぶ。
話している。
歩いている。
何かを見て、一緒に笑っている。
どれも、そこにいたかった。
その時間に
恋人同士という名前をつけた途端
なぜ、立ち止まりたくなるのだろう。
通信が届いた。
『今日はありがとう。
次は、もう少し早い時間から会えますか』
レリは、すぐに返事を書いた。
『会える。私もそう思ってた』
それは、本当だった。




