男心と春の空
新井さんとヨシが数分後に駆けつけてきた。歩美はこっぴどく雷を落とされ、キラに謝罪すると、肩を落としてすごすごと自室へ引き下がっていった。今日のレッスンはお流れだ。キラはヨシと莉奈子に見送りの挨拶を交わし、使用人の案内で客間へと向かった。ようやく一息つける。もう予期せぬトラブルが起きないことを祈るばかりだ。
部屋は東棟に位置する純和風の和室だった。畳の中央にはすでに敷布団が整えられ、その傍らには庭を望む座卓と二つの丸座布団が置かれている。スーツケースは部屋の隅にすっきりと収められていた。キラは重い体を引きずって荷物を押し入れに片付け、着替えを手にする。寝室のすぐ隣には脱衣所を挟んで専用の客用温泉が備わっていた。中の石風呂は見事で、提灯の柔らかな橙色の灯りに照らされた竹林の中庭へと続いている。今夜はこの湯を堪能できないのが何とも惜しい。キラは夢のような景色をスマホに収め、手短にシャワーを浴びた。散々口答えしたものの、ヨシの言うことは概ね正しいと認めざるを得ない。少なくとも、今のところは。
キラは木綿の浴衣に袖を通し、庭を見渡す縁側へと足を踏み出した。まだ夜の七時半。こんな素晴らしい空間にいながら早くから眠りにつくのはもったいない。提灯の灯りに照らされた夜の日本庭園は、まるで極楽のようだ。縁側の周りには手入れの行き届いた盆栽が並び、その横では紅葉の枝が池へと葉を垂らしている。底の方では、丸々と太った巨大な錦鯉が数匹、半分眠っているような様子でゆったりと泳いでいた。この立派な鯉たちは一匹一千万円から二千万円もするのだ。先日ネットで価格を調べた時は腰を抜かしそうになった。池の隅では、竹筒が一滴ずつ水を溜めている。水が満ちるたびに傾き、石の蹲をカタンと叩いて跳ね上がった。
「これ、何ていう仕掛けなんだろう。見てて飽きないな」
竹筒をしばらく眺めながら、彼女は呟いた。
「鹿威し(ししおどし)、と言うんですよ」
背後から突然響いた声に、キラは小さく悲鳴を上げて後ろへ跳び退き、両手を掲げて身構える姿勢を取った。
頭が状況を把握すると、縁側に立つスーツ姿の男性を驚きとともに見つめた。ショルダーバッグを肩にかけ、黒縁の眼鏡をかけている。
もう、寿命が縮むかと思った。
男性は上品に会釈した。
「驚かせてしまいましたね。失礼しました。父のお客様ですね?」
キラは少し警戒を解かないまま、ゆっくりと構えを下ろした。
「あ……はい。アユミちゃんの新しい英語の家庭教師のキラです。今日の午後にお伺いしました。そちら様は……?」
「この家の末息子の、新井涼介と申します」彼は穏やかな笑みを浮かべ、眼鏡を外してレンズを軽く拭いた。「涼介と呼んでください。お会いできて光栄です、キラさん」
「こちらこそ」キラは彼の目の下の隈に視線を走らせた。「お仕事帰りですか?」彼は若い頃の新井さんに生き写しの顔立ちをしていた。
涼介は疲れたように苦笑した。「ええ、病院での仕事が少し長引いてしまいまして」
キラは驚いて目を丸くした。「病院? お医者様なんですか?」
「眼科医なんですよ」彼は柔らかく答えた。「先ほど歩美が大変失礼な真似をしたと聞きました。家族を代表して心よりお詫び申し上げます。あの子は昔からお転婆でして。護身用に剣道を習わせているのですが、見境なく竹刀を振り回す癖がありましてね。どうか許してやってください」
「いえ……本当に気にしていないですから」ヨシが言っていた道場が剣道場だったとは。キラも少し体験してみたくなった。歩美に一緒に稽古しようと持ちかけてみようか。コテンパンに叩きのめされそうだが。それにしても、ヨシはこの家の娘たちは淑やかでおとなしい令嬢揃いだと言っていなかったか。
「一日中のお仕事でお疲れでしょう。どうぞごゆっくりお休みになってください。私はもう少し庭の風に当たってから戻ります」
涼介は少し意外そうな表情を浮かべた。
「ありがとうございます。では、これで失礼します。良い夜を、キラさん」
「おやすみなさい、涼介さん」
彼女は木造の縁側の向こうへ消えていく彼の背中を見送り、ほっと息をついた。正直なところ、お行儀よく振る舞い続けるのは骨が折れる。キラは一人でくすくす笑った。「ヨシさん。部屋に泊めていただき、運転手からお守り役まで務めてくださり心より感謝申し上げます。主任のおかげで、私もすっかり品のある上流階級の淑女に生まれ変わりました。感謝の印として、このお辞儀をお受け取りくださいまし」キラは時代劇の貴婦人のような大袈裟な所作を真似て喋り、そのまま縁側で腹を抱えて笑い転げた。
もしヨシがこれを聞いたら、一体どんな反応をするだろう。考えてみれば、昨日の歌舞伎町の件以来、彼に一度も礼を言っていなかった。それどころか口答えばかり。自分は何をやっているのだろう。無神経な態度に腹を立てているのだろうか。元気で過ごしていることや、温泉に入っていないことをメッセージで送るべきだろうか。
キラは木の柱に背を預けた。夜空を見上げ、視線をスマホへと落とす。
『こんばんは。歩美“お嬢様”の熱烈な歓迎を無事に生き延びました。お部屋も素敵で、温泉にはちゃんと浸かっていません。今日は色々とありがとうございました……昨日の歌舞伎町の件も』
いや、これは酷い。メッセージを消去し、再び考え込む。
『キラ:ヨシ、もう家に着いた?』
こう尋ねるほうがずっと自然だ。キラは撮ったばかりの写真をスクロールし、再び画面を確認した。ヨシは無事に帰宅しただろうか。五分が経過しても返信は届かない。キラはチャット画面の前で親指を動かし、唇をぎゅっと結んで一瞬ためらった。そして、先ほど撮影した温泉の写真を送信した。
『キラ:新井さんのお屋敷の温泉、すごく綺麗。今日は入れないのが残念だけど』
何を口走っているのだろう。全然スマートじゃない。送信を取り消すべきか? キラが画面に指を触れた瞬間、ハッとして身を起こした。既読。ヨシがメッセージを開いたのだ。キラは立ち上がり、庭を行ったり来たりした。読んだのに、返信を寄こさない。意図的に無視しているのだろうか。もう、もどかしい。本当にじれったい!
「既読つけたのに何で返信くれないの?」って追いメッセージを送るべきか……いや、絶対にダメ。そんなことをしたら、彼の返信を首を長くして待っていたみたいに見えてしまう。
キラは髪をかきむしり、もどかしさのあまり縁側の座布団へ突っ伏した。それとも……
『キラ:お久しぶり! ヒデ、文化研究の質問をしてもいい?』
『ヒデ:文化研究?』
ヒデからは一瞬で返信が届いた。こうでなくっちゃ。
『キラ:ヒデと同年代の男性が、誰かをとても手厚く助けたり面倒を見たりするのって、単なるビジネスマナーや礼儀なの? 日本人って根が親切だからこんなに気が利くのかな?』
『ヒデ:人による。全員が親切なわけじゃない』
『キラ:じゃあ、異性に対してはどう?』
『ヒデ:上司の話か? それとも他の誰か?』
キラは固まり、心臓が跳ねた。
『キラ:あ、ううん。友達の上司。その上司の性格が私のところと似てて、気になっただけ』
『ヒデ:日本だと上司と部下の間には一定の距離感があるのが普通だ。上司は誰だって忙しい。本気で気にかけている相手でもなければ、そこまで世話を焼く時間はないと思う』
『キラ:本当に? じゃあ、優しく気遣ってくれた直後に冷たい態度を取るのはどうして? メッセージを既読スルーするとか』
『ヒデ:単に忙しいだけじゃないか?』
『キラ:こんな夜遅くに何の用事で忙しいの?』
『ヒデ:上司が部下にこんな夜遅く連絡したら、ハラスメント扱いされる恐れもある』
『キラ:えええええっ???』
考えてみれば、ヒデの言う通りだ。先週、休日に連絡してきた上司を心の中で罵っていたのは自分だ。今度は自分が夜遅くに彼を煩わせているのだろうか……本当に迷惑がられている?
『キラ:じゃあ、私がこうしてヒデに連絡するのもハラスメントになる?』
『ヒデ:君がそう感じるか?』
『キラ:うーん……ヒデって職場では厳しい上司なの?』
『ヒデ:厳しさの定義による』
『キラ:うわぁ。その言い方、すでに相当厳しそう』
『キラ:もし女性の部下からこんな時間にメッセージが来たら、ヒデなら返信する?』
『ヒデ:内容による。仕事の用件なら普通に返す』
『キラ:仕事じゃなくて、ただの近況確認だったら?』
『ヒデ:好意もない相手にこんな時間から他愛のない連絡をしたら、誤解を招きやすいとは思わないか?』
そんな見方もあるのか。キラは顔がカッと熱くなり、返答に詰まった。
『キラ:ヒデってそういうの結構敏感なんだね』
ヒデからの返事は途絶えた。聞くべきではなかったのかもしれない。
『キラ:ヒデ、ありがとう。夜分に邪魔してごめんね。ゆっくり休んで』
『キラ:おやすみ』
『ヒデ:おやすみ』
キラはすごすごと部屋へ戻り、ノートパソコンを開いて作業に取り掛かった。予定表によると、明日は千葉県神崎町の文化観光ツアーのPR撮影で、地元のテレビ局とロケを行うことになっている。キラの任務は同行して現場の流れを学び、ダイキのメイキング撮影を手伝ってSNS用のショート動画を作成することだ。彼女は企画書を小声で読み上げた。タケノコ掘り。日本酒造り。山菜料理の調理と甘酒の試飲。読んでいるだけでワクワクしてくる。ゲストには有名料理系YouTuberのデニズ・カヤ、そして……女性ゲストは誰だったっけ? 藤宮美月。元アイドルグループ『ココアパレード』のメンバー。観光文化学科卒業。関東ローカルのゴールデン帯で旅・グルメ番組のメイン司会を務める。東北観光大使を二期連続で歴任。まさに輝かしい経歴だ。ダイキの話では、ヨシの昔からの友人でもあるらしい。ヨシ……ああ、もう。ヨシ。頭がおかしくなりそうだ!
キラは布団に潜り込み、高鳴る鼓動を数えながらコールの音を聞いた。十回目のコールの後、ようやく通話が繋がった。
「キラ? 何かあったか?」
ヨシの声には驚きが混じっていた。こんな時間に電話がかかってきて心底驚いているのだろう。
「あ、あの……無事に家に着いた?」
「少し前にな。シャワーから上がったところだ。そっちの部屋は問題ないか?」
「お部屋、すごく素敵。温泉も綺麗だった。今日は入れなくて残念だけど」
……
二人の間に短い沈黙が流れた。
「どうした?」ヨシの声が柔らかくなる。
「あ……うん」キラは口ごもった。「その、昨日は泊めてくれてありがとう。朝ごはんも。新井さんの屋敷のことも色々と……それから……」
キラは布団に顔を押し当て、言葉を選んだ。
「さっき車の中で言いすぎたことがあったら、ごめんなさい」
キラは目を強く閉じながら話した。恥ずかしさのあまり漏れる呻き声が受話器越しに届かないか気が気でない。今週に入って、わけのわからない理由で彼に頭を下げるのは二度目だ。勇気を振り絞って電話したのに、どうして彼は黙り込んでいるのだろう。
「ヨシ? まだいる?」
「ああ……いるよ。電話してくるとは思わなかったからな。また怒られるのかと思った」
キラの顔が一気に真っ赤になり、制御できない羞恥で燃え上がった。
「私って……そんなに酷い?」キラは小さく呟いた。
「まあ……大体合ってる」ヨシはフォローすらしない。恥ずかしすぎる。
「とにかく早く寝なさい。明日は集合が早い。新井家の皆さんとの朝食もあるんだから、寝坊するなよ」
「まだ八時だよ? どうやって寝ろって言うの」キラはパソコンの時計を見やり、癖で言い返した。
「もっと仕事を増やしてやろうか?」ヨシは抑揚のない声で返した。からかわれているのだろうか。
「結構です、主任。お茶を飲んで、大人しく早く寝ますから」
「明日の朝、起こしてやろうか?」
「怒るの、もうやめたの?」
「最初から怒っていないと言ったはずだ。余計な勘繰りはやめなさい」
「あ……うん。なら良かった。明日のアラームは自分でセットするから大丈夫。お手を煩わせないよ」キラは安堵の息を長く吐き出した。
「もしもし?」なぜ急にヨシが黙ったのだろう。
「寝なさい。切るぞ」
そう告げると、ヨシは一方的に通話を切ってしまった。キラは何が起きたのか理解できず、ぽかんと座り込んだ。
本当に怒ってないの……???
❀




